「お母さま、大丈夫かな……」
「大丈夫よ。私の時もあなたの時も、ちゃんと産んでくれてるんだから」
レミリアが五歳、俺が三歳になってすぐに、母の中にいる赤ん坊の出産の時期がやってきた。
今日がその出産日なわけであるが、さすがに子どもは現場には居合わせてもらえないらしい。レミリアの部屋で二人して大人しくしていた。前世では学生のまま死んでしまい、出産に立ち会う機会などなかったのだから、俺の口から出る言葉が母への心配ばかりになってしまうのもしかたがないことだろう。
あいかわらず今世の姉はとても優しい。自分も不安だろうに、そわそわとする俺を励ましてくれる。
「……お母さま」
「レーツェルは心配しすぎだよ。お母さまだって吸血鬼なのよ? そんな顔しなくても平気に決まってる」
俺の頬に手を添えてのレミリアの一言。
いつもなら気分が高揚してレミリアの胸に飛び込みたい気持ちになるんだけど、さすがに今はそんな余裕はなかった。
確かに言う通り、母は人間とは違う妖怪の区分に入る生き物だ。出産でどんな不具合が起きようと、仮に帝王切開をすることになろうとも、万が一にでも危険な状態になることはない。
この世界での吸血鬼とは、肉体が頭一つでも残っていれば一晩で元通りになってしまうほどの回復力を持っているのだ。腹が斬り裂かれてもすぐに再生できる。
――だから、安全なのか?
胸騒ぎが収まらない。心の動揺が止められない。
「まったく……」
ガバッ、と。
気づけば俺はレミリアに頭を抱きかかえられていた。
「落ち着きなさい。気にやまなくていいの。あなたには私がついてる。なにも心配しなくても大丈夫だから」
「……うん」
言葉が心に染み込んでいく。いつも感じていた身近な匂いが鼻孔をくすぐり、次第に安心感に全身が満たされていく。
……いい匂いだな。
強張っていた体が弛緩する。不安の種が土ごと取り除かれたようだった。
「ちょ、ちょっとレーツェル」
少しばかり
甘い香りだ。俺の大好きな優しい匂いだ。
あ、やばい。平静を取り戻したせいか、今の状況になんかテンション上がってきた。
「レーツェルぅ!」
「い、いたぁ!」
頭がレミリアの両の拳に挟まれる。グリグリとされる中、心の中で「ギブッ! ギブッ!」と叫びながら姉の胸から顔を離す。
なんとか解放されたところで力が抜けてバタンッと上半身が後ろに倒れた。ベッドに並んで座っていたので、そのまま寝転がる形になった。
「はぁ。レーツェルはたまに変なことするよね」
「ごめんなさい……」
「そんなに落ち込まなくてもいいよ。怒ってるわけじゃないし」
そう言ってくれるなら幸いだ。
……でも、まぁ、ちょっと調子に乗りすぎたか。反省はしてる。後悔はしてないけど。
「でもね、レーツェル」
「うん、んぐ!?」
ニヤリとレミリアの口の端が吊り上がったかと思えば、彼女が俺の胸に飛び込んできていた。
さきほど俺がしていたように擦り寄られ――ついでとばかりに脇腹もくすぐられる。
「私にしたってことは、自分がされても文句は言えないよね」
「んむぅ! ひ、ひゃっへ! わ、わひ! わひはひゃめ!」
あいにくとこの体は脇辺りがひどく敏感で、ツンと突かれるだけでもビクッと震えてしまうくらいなのだ。
不意打ちのくすぐりに耐えられるはずもなく、ゴロゴロとベッドの上を転がった。
「逃がさないよ、レーツェル」
「みゃ、んう!」
声が抑えられない。馬乗りでガッチリと体を固定され、さきほどよりもこしょこしょの勢いが増す。
さ、酸素が。酸素が足りない。笑い声が小さくなるも、こそばゆい感覚が衰える様子はない。あいもかわらず体はピクピクと反応し続けている。
やばい、なんだか視界が定まらなくなってきた。段々と全身から力が抜ける。
「……あ、やりすぎちゃったかな?」
意識が遠のいてきた辺りでようやくレミリアの動きが止まり、ガクンと崩れて脱力した。
「レーツェル、大丈夫?」
返事をする気力も体力もない。ゼーハーと息を漏らし、火照った全身を冷ますように空気を目いっぱいに口から吸いこむ。
十数秒して、ある程度まで体力が回復したところで文句でも言おうかと口を開きかける。しかし、申しわけなさそうに俺の顔を覗き込んでくるレミリアを見てしまうと、文句なんて飲み込まざるを得なくなった。
可愛いは正義。つまりはそういうことだ。
返答は心配してくれる質問に対してのものにしようと思い、「大丈夫」と言葉に、
「だい、だ、だいじょ、だいじょう、ぶ」
「うん、大丈夫じゃないね。ほら、もうなにもしないから、もっと息を落ち着かせて」
思っていたよりもよほど脇をコチョコチョとされたことが堪えていたらしい。レミリアは俺の体を起こすと、背中をそっと擦ってくれた。
元々少しは回復していたこともあって息はすぐに整い終える。
「イタズラもほどほどにね。じゃないとまたくすぐるよ」
「うん……」
……『わからない程度の能力』で
一瞬そんな思考が浮かんだものの、さきほど受けた仕打ちを思い出してぶるりと震える。しばらくはあんな息苦しい思いはごめんだ。やるとしてもくすぐられた時の感覚を忘れてからにしよう。
最近は飛行訓練ばっかりだったし、久しぶりに能力の考察をしてみるのもいいかもしれない。
「お姉さ――」
『あ、ぅぁああああああああああああああああああああああああああああああああ!!』
レミリアに近いうちに能力の強化を手伝ってもらおうかとお願いしようとした矢先、それは起こった。
屋敷全体に響き渡る力の限りの甲高い女性の悲鳴。発した本人のすぐそばにいるのではないかと錯覚するほどの強烈な絶叫に、ぞわりと全身の鳥肌が立つ。
咄嗟にレミリアと視線を交わし、まったく同時に立ち上がると部屋を飛び出した。
「お母さま……!」
間違いなく今の叫び声は聞き慣れた母親のものだった。
なくなったはずの、収まったはずの胸騒ぎがドクンドクンと早鐘を鳴らす。
三歳と五歳児と言えど吸血鬼の走力は人間の比ではなく、十数秒のうちに母が出産を行っている部屋の前にたどりついた。
ノックもせずにバンッと扉を開け放つ。
「あ、ぅ、ぐぅ……」
「「お母さま!」」
それは目を疑うような光景だった。
シートの敷かれた台の上に寝転がる母の全身には血管が浮き上がり、目玉は浮き上がり血の涙を流している。口の端から垂れる赤の水滴と付近にできた同色の水たまりを見れば、大量の血を吐き出していたことが嫌でもわかった。
そしてなによりも注目すべきは、膨らんだお腹を貫いて――いや、透けて飛び出している異様な翼。
茶色の長翼膜張筋腱から七色の結晶を吊り下げただけの、翼膜も羽毛もない翼かも疑わしいモノ。
母の近くで目を見開いたまま呆然としている父と同じように、思考が止まり立ち竦んでしまう。
「レミ、リア……レー、ツェルも……です、か……?」
母の絶え絶えの呼びかけにハッとなり、再び「お母さま!」と叫びながら二人して母のもとに近寄った。
「よか、った……最期に、あなた、たちの、声が……聞けて」
間近で観察すると、その凄惨さがよくわかった。
目は完全に焦点が合っておらず、口から出る言葉も途切れ途切れだ。痙攣しているようで全身が時折ビクリと震える。人間であればとっくに死んでいるほどの重症だった。
「最、期? 最期って、なに。お母、さま……」
レミリアは呆けたように言葉を呟きながら、ゆっくりと母の顔へと手を伸ばす。
「ぎ、ぃぃいぁああああああ!!」
そうして触れる直前、金切り声とともに母の口からゴボッと血の塊が溢れ出る。
レミリアは、自らの母親の血がかかったその手を呆然と見つめていた。
「死、なないで……お、お母……さま……」
人間も吸血鬼もない。ただの五歳の少女が、両親の耐えがたい姿を容易に現実として認められるわけがなかった。
弱弱しく漏れる声に力はなく、その顔は悪い夢でも見ているかのように真っ青だ。
……なんだよ、これ。こんなの知らないぞ。原作の知識にない。こんなことになるなんて聞いてない。
精神的には前世と合わせれば成人年齢にまで届くにしても、俺だって目の前の事実をそう簡単には受け入れられない。
突如として違う存在へと生まれ変わり、友人関係も血縁関係もすべてがリセットされた。そんな中で、自分を愛してくれる両親という存在はかけがえのないものだ。なればこそ、その片割れが苦しむ様を、どうして冷静な目で見られようか。
「が、ふ……レミ……リア…………心配、しない……で。私が……私が、いなく……なっても、お父……さんが、います……」
「おい……おい! なにを勝手なことを言ってるんだ! 冗談でも最期の言葉なんて口にするもんじゃない!」
母が呼んだことでようやく正気に戻ったらしい父が、弱音を吐く彼女に詰め寄りながら、そう叫ぶ。
「お願い……します……ね、お父……さん。レミ、リアを……レー、ツェルを……それから…………これ、から産まれて、くる……お腹の……中の、子…………ふふっ、たぶん……女の子…………かな? ……みんな……みんな、守ってあげて……くだ、さい」
「やめろ! もうしゃべるな! 約束したじゃないか! ずっと幸せに、なにがあっても家族全員で仲良く暮らす! あの言葉は嘘だったのか!?」
「あら、あら……なんて、言ってるのか……もう、よく聞き取れ。ません……けど……そんなに、怒らないで……くだ、さい。レミリアも……レーツェルも…………フランも……怖がっちゃいます、よ……?」
明らかに無理をして作ったとわかる笑顔を張りつけて、母が俺とレミリアを見つめてくる。
――レミリア、あなたを十分に愛してあげられなくてごめんなさい。これからは長女として、私の代わりに二人を守ってくださいね。
――レーツェル、もう泣いてばかりじゃいけませんよ。今度はあなたがお姉さんになるんですから、きちんとフランの面倒を見てあげてください。
「逝かないで、逝かないで……お母さま……!」
「う、ぎぃ――」
レミリアの悲痛な呻きに呼応するように、母がわずかばかりの悲鳴を上げた。
そしてバタン、と彼女の全身から力が抜け、数瞬まったく動かなくなって。
「ア――――」
――パァン! と。この場に響き渡る破裂音。
まるで風船を爪楊枝で突っついた時のように、母の肉体は膨らんだ腹を中心に呆気なく爆散した。
簡単に。容易に。軽々と。
「おぎゃぁあああああああ!」
血飛沫と肉片、ちぎれた臓器が飛び散った部屋中に、無邪気な赤子の泣き声が木霊する。
頬を垂れる生温かい物質を指で掬ってみれば、それは白と赤が混ざり合った泥状の液体だった。
弾けた母の目玉だと気づくのに、少しの時間を費やしてしまう。
「お母、さま」
無意識のうちにこぼれ落ちた、懇願にも似た呼びかけ。
『答え』はない。
つい昨日まで感じていたはずの幸せの温もりは、そこら中を漂う異臭に紛れ、もう思い出すことは適わなかった。
――そうして三女フランドール・スカーレットは、自らの母親を身に宿る能力にて『破壊』することで生誕した。