霊夢と咲夜が蓬莱山輝夜を撃破した頃に、ちょうど八意永琳が息を切らした様子でやってきた。それに続くように魔理沙とアリス、妖夢と幽々子が永琳を追ってきていたから、おそらく俺たちが輝夜のもとに向かったことを察すると、すぐに勝負を投げ出して飛んできたのだろう。
輝夜と永琳の話を聞く限り、どうやら輝夜もまた、永琳がこちらにやってくることを察知して廊下をさらに長きものへと変えていたようだった。霊夢と咲夜を相手に敗北を喫してから永琳が駆けつけて来た辺り、輝夜はただ単に遊びたかっただけなのだろう。
月を歪にした犯人は八意永琳。そしてその理由とは、蓬莱山輝夜と鈴仙・優曇華院・イナバを月の使者から守るためだった。
永琳と輝夜の二人は元々、それこそ幻想郷が形作られる前から迷いの竹林に住んでいて、それでも今まで見つからなかったのは輝夜の『永遠と須臾を操る程度の能力』によって歴史の進行が止められていたからだ。数十年前に鈴仙をメンバーに加えることはあれど、永遠亭と呼ばれる彼女たちが住む建物に変化が訪れることはほとんどなく、平和に暮らしていたという。
しかし一か月前、月の兎である鈴仙の大きな耳が兎の波動を受信した。その内容は「近々地上人に全面戦争をしかける。お前の力を貸してほしい。次の満月の夜、迎えに行く」というもの。
永琳も輝夜もまた月の民に追われている身の上だったため、これには非常に困窮したが、永琳がふと閃いたという。
満月は地上と月を繋ぐ唯一の鍵。ならばこれを壊せば、偽物のそれをすり替えれば二つの場所は行き来ができなくなる。
こうして永琳は、月を入れ替えさせるという所業に出たようだ。異変の夜に幻想郷の空に浮かんでいた本物に限りなく近い別の月は、大昔の月の映像だったんだとか。
「って、こりゃずいぶんと集まったわね」
「ああ、こりゃまた言うまでもなくいつものことだな。まぁ、たまにはいいだろう、こういうのも」
「いつものことになのに、たまに、なんですか」
「細かいことは気にするな。それともなにか? レーツェルは霊夢の酒が飲めないって言うのか?」
「もー、神社のお酒を勝手に飲んで……」
満月が妖しく光る夜、博麗神社では宴会が行われ、魑魅魍魎が集っていた。その中にはつい先日の異変に関わった永琳や輝夜、鈴仙の姿もあり、妖夢が斬り払うことに失敗して逃がしてしまった妖怪兎もはしゃいでいる。
――輝夜との勝負が終わった後、今回の異変を起こした経緯を聞き、紫が「そもそも満月を隠す必要なんてないのに」と前置きをして幻想郷の現状について語り出した。すでに博麗大結界という巨大な結界が張られているから、外から望んで入ってくることは非常に難しい。たとえ私たちでは知り得ない未知の力と技術を携えた月の民であろうとも、それは変わらない、と。
月を入れ替える必要性がないことを知った永琳たちは快く満月を元に戻してくれた。元に……戻してくれたのだが、月の民の力に当てられたのか、どうにも輝夜と戦った永遠の世界で見た時と同じように狂気の光で彩られているように見える。今後、満月を直接見ることは避けるようにした方がいいだろう。人間はもちろんとして、感受性の高い妖獣等も直視しないよう注意した方が身のためだ。
かくして異変は平穏無事に収束し、こうして今回の異変に関わった者たちも含めた宴会を開催することができた。永琳と輝夜、鈴仙は人間と妖怪が入り混じって騒いでいるさまを見た当初は目を見開いて驚いていた様子だったが、今は結構楽しんでいる。
「うるさいわねぇ。もっと落ちついてお酒が飲めないのかしら?」
「まぁまぁ、いいじゃないですか。せっかくの宴会なんですから、騒がなきゃ損ですよ」
「そもそも静かに飲むんだったら宴会の場じゃなくてもいいぜ。アリスもたまには羽目を外したらどうだ?」
「
「十分じゃ足りないな。
ほれ飲め飲め、と魔理沙がアリスの盃に半ば無理矢理酒を注ぐ。ちょっと溢れて服にかかり、アリスに怒られていた。
霊夢がため息を吐いて、キョロキョロと辺りを見渡し始める。徳利を探していることに気づき、ちょうどそばにあったそれで霊夢に酌をした。「ありがと」、「どういたしまして」。
「――だから――――が必要で――」
「――――そう。それならうちの倉庫に――次は――」
少し離れたところでは、レミリアとパチュリーが熱心になにかを話し合っている。フランが興味深そうに耳を傾けていたり、妖夢と一緒に飲んでいる咲夜をたまに手招いていることもあり、なにやら企んでいそうな雰囲気だった。
とは言え、俺は紅魔館の住民であるために彼女たちがやろうとしていることの正体を知っている。レミリアは今回の異変で月の民と会い、何十年も前にはすでに外の人間は月に行っていたことを聞き、自分も行きたいと言い出したのだ。話し合いの内容は、実際に月に行ったという外の人間の魔法――ロケットを作るための構造の話で、材料にはなぜかコマや筒やら奇妙なものばかり挙げられる。それで本当に行けるのかと不安になるけれど、幻想郷は外の世界と違って神秘に溢れているので行けないとは言い切れない。もっとも、必要なものの数は合計で数千にものぼるという話なので、ロケットが完成するにしてもかなり後のことになるだろう。
それも当然と言えば当然だ。ロケットなんて代物、一日やそこらで作れるはずがない。
「それにしても気分が高揚します」
声の方に目を向ければ、紫の肩を揉んでいる藍の姿があった。すぐ隣では橙が盃に映った満月をじっと見つめている。
「藍のように人間味が少ない妖怪は、月に影響されやすいからね。お酒を飲んでうまく調整するといいわ」
「紫さまは平気なのですね。さすがですっ!」
妙に藍のテンションが高い。ほんの少し錯乱しているようにも見えるし、気分が高揚しているというのは本当のようだ。
自身の盃に入った酒の面を見据え、紫が「知ってる?」と俺たちの方に向いて口を開く。
「月見酒ってね、お酒に月が映るように持って、それから飲むの」
「月を飲むのよね」
霊夢がさも当たり前のように頷いているが、俺は初めて知ることだった。満月を力とする吸血鬼でありながら知らなかったことがちょっと恥ずかしい気が、しなくもない。
「それは知ってるしどうでもいいんだけど、あんたのこき使ってる式神の式神がバカみたいな目をしてるわよ。まぁ、こっちもどうでもいいけど」
「あら、本当。月の毒気にやられたのかしら」
「あ、橙! どうしたんだ? 具合が悪いのか?」
「おさけにうかんだ、まあるいつきをみてるとめがまわりますぅ」
「まぁ、目でも回しておいた方がよさそうね」
狼狽える藍と頭を揺らす橙、落ちついた様相で肩を竦める紫。確かに目でも回しておけば月の姿をハッキリと視認することはなくなるので、案外名案かもしれない。聞くとこによると橙は己に貼られた式神の札を剥がすと化け猫の姿に戻ってしまうというし、それほどに人間味が少ないのならば酒の水面に映った満月さえも見ないようにするのが賢明だ。
お月見で月を見ないようにするなんてのも、奇妙な話だけれど。
「月の毒気って、月を有毒ガスみたいに言うのね」
「あら、それは私が人間にそう言ったのよ?」
「え? そ、それは失礼しましたー」
不満げに呟いた鈴仙に輝夜が教え、鈴仙が慌てて謝罪をした。この辺りから永遠亭での鈴仙の立ち位置が窺える。
二人の様子に、永琳が小さく笑って「まぁ」と切り出す。
「姫もこうして外に出て遊ぶことができたし。よかったじゃないですか」
「って、閉じ込めていたのは永琳でしょ? もう」
「元々、引きこもってばっかでしたけど」
今回の異変を起こした三人は、これからは永遠亭の外とも関わるようにしていくらしい。永遠亭の付近にかけていた永遠の術を解くことで竹林の外との交流を始め、歴史を刻むことを許容する。永琳は近いうちに薬屋として開業するつもりのようで、彼女が持ち得る月の知識と『あらゆる薬を作る程度の能力』があれば、幻想郷に二人といない優秀な薬師になれるだろう。
紫も、これで病が流行っても人間も妖怪も数が減ることがないと喜んでいた。世間では今回の異変について、月の進行が止まり、その後しばらくしてそれが急に沈み出したことしかわかっていないし、幻想郷はすぐに永琳たちを受け入れて馴染ませてくれることだろう。
「それにしても、あの時はしてやられたわ。最初から私が囮だということに気づいていて、そこの人間や妖怪、あっちの亡霊や半分だけ幽霊の人を追わせたんでしょう?」
永琳が微笑みを浮かべて、俺の方に顔を向ける。質問というよりも確認に近く、しかし俺は「どうでしょう」と首を傾げておいた。
「偶然かもしれません。扉の封印が間に合ってなかったみたいですし、長い廊下の中で開いている襖があれば入ってしまいたくなるでしょう?」
「いや、あんたは私たちが来た時にこいつが囮だとか言ってたじゃないの。こっちは月が変なことにしか気づいてなかったのに、入れ替えられてるってところまで突き止めてたし」
「ちょっと霊夢、なんでバラすんですか」
へえ、と魔理沙が俺の隣に擦り寄ってきた。
「……なんですか?」
「つまり、最初から気がついていたわけだ。そしてその上で私やアリス、妖夢と幽々子を追わせた」
知っていたことを黙っていた。それは騙したとまでは言わなくとも、それなりに失礼な行為だと言える。
居心地が悪くなって、少しだけ俯いた。
「わ、悪かったとは思ってます。お詫びもします。その、私にできる範囲ならなんでも。一つなら、ですけど」
「そうかそうか、そりゃいいな。じゃあ早速いいか?」
「お姉さまにイタズラしてこいとか言われてもやりませんよ」
「いや、くすぐってこいとか言ったら喜んでやるだろ、お前。って、そうじゃなくてだな……うん、よし、耳を貸せ」
「え? いいですけど……」
その時、魔理沙がニヤリと笑ったように見えた。なんだか嫌な予感がしたが、お詫びをすると言った手前、逃げることはできない。
彼女は耳を貸せと言った割にはそのままの姿勢で、普段通りの声量で要件を告げる。
「猫になってくれないか?」
「え?」
「猫だよ、猫。猫そのものじゃなくて、橙みたいな感じでいい。ほら、前に香霖のところで霊夢を追ってきた妖怪を追っ払う時に使っただろ?」
「それくらいなら、別に構いませんけど」
猫の獣人化魔法を行使して、頭に猫耳、腰に尻尾を生やし、一時的に猫の潜在能力を手に入れる。と、そこまでやってから魔理沙の企みに気づいた。
ザッ、と即座に彼女の近くから離れると、予想通り魔理沙は獣人化した俺の猫耳を触ろうとしていたらしく、すっとその手が空を切る。また醜態をさらすわけにはいかない。
魔理沙は、やはり不満そうだった。しかしわずかに口の端が吊り上げっているところが妙に気になる。まるでなにか、確実に俺を貶める手があるみたいだ。
「おいおい、なんで避けるんだ」
「避けますよ。触られるのが慣れてなくて、苦手なこと、魔理沙が一番わかってますよね?」
「もちろんだぜ。だから触るんだ」
「だから触らせません。望み通り、ちゃんと獣人化魔法で猫になったじゃないですか。しばらくこのままでいてあげますから、これで終わりです」
「ほほう、そのままでいてくれるのか」
「……背後から忍び寄ろうとしてきたりしても気づきますから、無駄ですよ」
あいにくと五感が鋭くなっている。幽々子が近寄ってきていることを察知し、瞬時に立ち上がってその場を退く。さきほどまで俺が座っていた位置の少し上を、ガバァッ、と桃色の髪の亡霊が横切った。
これが俺を貶めるための作戦なのかと魔理沙の様子を確認してみるが、彼女の表情に変化はない。
「なぁレーツェル、悪魔は契約を守るんだよな。約束は自分からは破らないんだよな?」
「まぁ、そうですよ。だからこうして魔法を使ってあげたじゃないですか」
「だったらレーツェルは私に耳を貸さないといけないぜ。そう約束したからな」
「そんなのしてませんよ」
「いいや、言ったぜ。ほら、思い出してみろ。『いや、くすぐってこいとか言ったら喜んでやるだろ、お前。って、そうじゃなくてだな……うん、よし。耳を貸せ』」
「……え?」
「レーツェルはこう答えたよな。『え? いいですけど……』」
いや、ちょっと待って。確かに俺の耳に口を近づけてこなくて、耳を貸せってなんだったのって思ったりしたけど、待って。
「い、いや、でも、魔理沙はその後に猫になってくれって」
「そうだな、その後だ。最初の方が要求だったんだから、つまり猫になれって方は単なるお願いだったことになる」
「そんなの通りません」
「いやいや、普通は最初に言った方がお詫びの内容だと思うだろ? 都合のいい方を真実と捉えるのはよくないぜ」
「それは、その、そうですけど……でも会話の流れが卑怯というか」
「レーツェルが勘違いしたのが悪いんだぜ」
「そう……ですか。だったら、今すぐ魔法を解きます。普通に耳を触られるだけなら、耐えられますし」
「忘れてないか? しばらくはそのままでいるってお前から言ったんじゃないか」
言葉に詰まる。気づけば魔理沙も立ち上がっていて、ジリジリと俺に迫ってきていた。
「悪魔は約束を自分からは破らない。そうだろう?」
「……そう、ですけど……」
「レーツェルは私の『耳を貸せ』という
「……………………で、でも」
「問答無用だぜっ!」
今の今まで
飛びかかってくる魔理沙を前にして、一瞬だけ迷いが生まれた。
これを避けるということは、彼女の言う通り約束を破るということになるのではないか。俺だって吸血鬼として生まれた以上は悪魔としての矜持があるし、契約を違えたなんて言われたくない。いや、でも今回は魔理沙に半ば騙される形になったわけだから……それに宴会の最中に猫耳触られて喘ぐ方がマズいし、回避しよう。
窮地における吸血鬼の全力の思考能力を持ってすれば、ほんの十分の一秒にそれだけの考えを巡らせることも可能だった。しかし少しであろうと時間がかかることは間違いない。魔理沙の突撃を避けようとして、足首の予想以上の重さで動けなかった。
慌てて足元を確認すると、赤いリボンが特徴的な小さな金髪の人形が俺の脚を掴んでいた。俺の脚を抑えているのは彼女がいつも連れている、
どうにかして壊さないように――――そんな配慮、人形の存在に気づく際の思考の隙、思考そのものが生み出すごくわずかな時間。それらが組み合わさり、ふと気づいた時には、魔理沙の飛びかかりはすでに回避できるものではなくなっていた。
魔理沙が俺を押し倒し、頭に生えている猫耳に直接手で触れる。
「取った!」
「あっ」
すぐに魔法を解かなければ。そんな思案さえ、一歩遅かった。
あまりの気持ちよさとくすぐったさ、慣れない感覚が瞬時に猫耳を通して伝わってくる。頭が真っ白になりそう――というより、なった。ビクリと全身が震え、意図せずして息が漏れ、体温が上昇する。
「ひ、にゃ、ひゃうぅ、んん、みゃぁあああああっ!」
「ほれほれ、これならどうだ?」
「ひゃっ!? みゃ、みゃってっ! ひぅっ! みゃ、にゃめてぇっ!」
やめなさい、と咲夜の声が聞こえたような気がした。おぼろげな視界の中で、咲夜に首根っこを捕まれる魔理沙の姿が見えたような気がした。
聞こえる音の意味が理解できない、全身に力が入らない、ぼーっとする、息が荒い。それから、さすがに保てなくなった魔法が解けるのがわかった。
「しゃ、しゃくやぁ」
「はいはいレーツェルお嬢さま。私はここにいますよ」
温かいなにかに抱きかかえられる感覚があった。どこか安心して任せられそうな雰囲気があって、自然と衰弱した体を預けて、目を瞑ってしまう。
「まったく……魔理沙、やりすぎよ。覚悟しておいた方がいいわ。あなた、あとでレミリアお嬢さまと妹さまにボコボコにされるから」
「逃げるぜ」
「私が逃がさないわよ。それこそ時を止めてでも」
曖昧と恍惚、疲労に誘われて闇の中に意識が落ちる寸前、ただ一つだけ胸に抱いていた誓いがあった。
絶対にもう、獣人化魔法だけは魔理沙の前では使わない。なにがあっても。スペルカードでも。絶対、絶対、絶対。大事なことなので四回思った。
「ご冥福をお祈りしておくわね」
「なんだよ、お前も手伝ったじゃないか。アリス」
「うーん、冥福を祈られてもねぇ。こんな縁起の悪い幽霊はうちにはいらないわー」
「幽々子さま、どう考えてもこいつは地獄行きなので、冥界にはやってきませんよ」
――ちなみに後日の紅魔館では、洗濯物とともにボロボロな黒白の物体が干されていたというが、その正体がなんなのかはわかっていない。