月の進行が止まり幻想郷中が混乱した大異変、永夜異変から、すでに半月以上の時が経過していた。
すでに、とは言ったが、たった一五日程度の時間でも幻想郷の各地では結構な事件めいたことが起こっている。各地でプリズムリバー三姉妹――春雪異変の際に冥界へ繋がる扉の前で霊夢と魔理沙にボコボコにされた三人組の騒霊――による一週間連続ゲリラライブがあったり、紅魔館に酒を盗みに入った輩がいたり、迷いの竹林で火の手が上がって危うく大事になりかけたらしかったり、盆入りの翌日に幻想郷の上空を幽霊の大軍が規則正しく飛んでいたり。こうして毎日のごとく騒がしいせいで、幻想郷に来てからはどうにも時の流れが遅く感じる。外の世界にいた頃は何十年という時間さえ一瞬に過ぎ去ったような気がするのに。
「それで、そっちのお嬢ちゃんが私に会いたいって言ってた妖怪?」
いつの間にか瞑っていた目を開くと、そこに、一人の少女が片膝を抱えて座っていた。
「はい。危険がないことは私が保証しましょう」
「仮に危険でも、私には傷一つつけられやしないけどね。いや、傷をいくらつけても無駄って言った方が正しいか」
色素の薄い――否、色素がまったく感じられない、足元に届くだろうほどの長さを誇る白髪と、血管の色がそのまま浮き出た真っ赤な瞳。頭の後ろに赤のラインが入った白いリボンをつけ、それよりも小さいいくつかのリボンで毛先を縛っている。服は、上は白のワイシャツ、下はもんぺに似たズボンをサスペンダーで吊っているという奇妙な風貌だった。なぜかズボンにはところどころに護符が張りつけられていて、一種の魔除けにも見える。
隣に立っていた慧音は、そんな変な格好の少女の対面に座るように催促をしてきた。
誘われた通りに足を運び、けれど用意された座布団に座るより前に挨拶を交わすことにする。
「おはようございます。よい夜ですね」
「月は半分しか顔を見せてないし、雲で星々は隠れてるし、あんまりよい夜とは言えないと私は思うけどね」
「でも、雲の上に行けば満天の星空になりますよ」
「そりゃそうよ。雲の上でも曇ってたら、なんのために雲が光を遮っているのかわからない」
失礼します、と座布団の上に正座をした。前世ではすぐに足が痺れるので正座は苦手だったが、今世では意識して積極的に使うようにしていたから、もういつまでも座っていられる。
慧音が「お茶を持ってきます」と席を外し、その気配が完全になくなったところで、「それで」と対面の少女が緩そうに問いかけた。
「慧音を通してわざわざ私を名指しで呼ぶなんて、いったいなんの用かな。竹林での護衛を頼みたいって雰囲気じゃないみたいだけど。そもそも、妖怪がそんなことを頼むはずがない」
「大した用事ではありません。むしろ、大したことをしてほしくないという用事ですよ」
「してほしくない、ねぇ。少なくとも私は、今後大したことなんてやる用事はないんだけど」
そんなのは当然だ。なにせ、用事はこちら側が作るのだから。
「近々……具体的に言えば、次の満月の丑三つ時、あなたのもとに人間と人外の二人組が幾度か訪れると思います。私のお願いは、それを殺さないように十分注意して相手をし、無事に返してほしいのです」
「殺さないようにって、穏やかじゃないなぁ。それに言い分を聞く限りじゃ、その二人組ってのはそっち側の勢力でしょう? 攻めておきながら安全に返せなんて、ちょっと傲慢すぎないかな」
「それについては返す言葉はありません。ですが、その人たちは一人の月人によってたぶらかされて、あなたのもとに向かうのです。その名は蓬莱山輝夜……ここまで言えば、わかりますか?」
「……お嬢ちゃん、喧嘩売ってるの? それなら買うよ」
目を鋭く細める少女を、ただ臆せず見据える。
彼女もまた原作に登場するキャラクターだった。その名を藤原妹紅と言い、一〇〇〇年以上も前に蓬莱の薬を飲んだことで不老不死となった人間だ。彼女がまだ清き人間だった頃は蓬莱山輝夜が地上で自由奔放な生活をしており、その時にいろいろあったらしく妹紅は輝夜に人生を滅茶苦茶にされたとして極度の憎しみを抱いている。長い間会うことはなかったらしいのだが、こうして幻想郷で再開してからは互いに不老不死であることもあって、今では殺し合いを行うほどに仲がいいのだとか。
「あのさぁ、たぶらかされるのがわかってるんなら、お嬢ちゃんが注意喚起してくれればいいじゃないか。わざわざそれをスルーして私に頼みに来なくてもさぁ」
「私が言ったくらいじゃあの八人は止まりませんよ。というか、たぶらかされてるとわかっていても、暇だったり面白そうだったりすれば嬉々として乗るような困った人たちばかりですから」
「なによそれ、次の満月の夜は出歩くのやめようかなぁ……や、その前に輝夜をとっちめて来させないように言いくるめておく? いやいや、そんなことしたら余計に向かわせようとしそうだねぇ。輝夜のことだし」
そうして妹紅が難しい顔で唸っていると、襖の向こう側から足元が聞こえてきた。すー、と開いた襖からやってきたのは、お茶を持ってきますと部屋を出て行った上白沢慧音だ。彼女の手にはお盆、その上に急須と湯のみが置いてある。
慧音が俺と妹紅にお茶を配ってくれたのでそれぞれお礼を告げた。おかわりもあります、と小さく急須を掲げた慧音は俺たちから少し離れたところに座り、会話の邪魔をするつもりはないようで口を一文字に結んでいた。
妹紅が視線で「聞かれてもいい話?」と問いかけてきていたので、小さく首肯することで答える。
「……まぁ、どうせ私は死なないし、むやみに殺しをしたいわけでもないし、適当にあしらっておけばいいか。その依頼、受けてもいいわよ」
「ありがとうございます。報酬は言い値でどうです?」
言い値、なんて言葉を使う機会が来るとは思わなかった。というよりこうして口にしてみたかっただけで、本当に言い値で来られたら困る。あんまり高すぎると無駄遣いだと咲夜に怒られる。
やっぱり自作の魔道具で、と言い直そうとした俺よりも先に「いいよ」と妹紅が振り払うように手を横に動かした。
「報酬はいい。お嬢ちゃんから話が来なくても殺さなかったはずだから」
「人がいいんですね」
「どうも。お嬢ちゃんも、妖怪にしては妖怪がよすぎる」
「どうもです」
異変の後には大抵余震のような小さな事件が起こる。紅霧異変ではフランとの邂逅、春雪異変では藍や紫との遭遇、そして今回の永夜異変ではそれが藤原妹紅との接触だった。
妹紅がかなり安全な人物であることは最初からわかっていたが、それでも用心に越したことはない。こうして事前に会いに行き、保険の上に保険をさらに重ねておけば万が一、億が一ということもなくなる。
引き受けてくれたことに安堵のため息を吐いた俺に、「でも」と問い詰めるような声音で妹紅が口を開いた。
「お嬢ちゃんの用事、それだけじゃないんだろう?」
「……どうしてそう思うんです?」
「幻想郷にはスペルカードルールがあるわ。ここでは人間も妖怪も、数を減らしすぎてはいけない。そして慧音を通してわざわざ私を名指しで呼んだってことは、輝夜から聞いたか、もしくは私が竹林で迷った人間を人里に返してやってたりするのを知ってるってことになる。輝夜がほらを吹き込んだってこともあるけど……最初に私を見た時、お嬢さんの目には警戒の色がなかった。つまり私が比較的安全なことを知っていて、なおかつスペルカードルールがあるこの幻想郷で『殺してほしくない』なんてお願いをしに来たということだ。それだけで違和感ありまくりなのよ」
「私は無表情なのに、いい観察眼をお持ちです」
「あいにくと、だてに長生きしてないんでね」
保健に保険を重ねるという用事もあったが、妹紅の言う通り、それは確かにオマケにすぎない。真の要件は別にあり、そのためにわざわざ慧音にお願いしてまで妹紅に来てもらったのだ。
慧音が置いてくれたお茶を一口飲んで、一拍開けてから、俺の本当の目的を話す。
「私の望みは先の不殺生のことと、あとはただ一つ――――あなたの肝をください」
「ッ……!?」
その言葉に限界まで目を見開いて驚愕を露わにしたのは、なにも藤原妹紅だけではなかった。話を黙って聞いていた慧音も眉根を寄せ、訝しげに俺を見据え出す。
「……悪いけど、断らせてもらう」
「どうしてですか?」
「痛いからっていうのもそうだけど……お嬢ちゃん、私の肝を食べて不老不死になりたいんだろう? でも、それは無理だ。だってかつて私が飲んだ蓬莱の薬は、人間にしか効果がないんだ。妖怪がいくら飲食したところで意味はないわよ」
なんだ、そうだったのか。不老不死の薬はその人間の肝に溜まり、それを喰らうことでその者もまた不老不死になれる。そう聞いてわざわざこうして多少無理をして接触を図ったのに、くたびれもうけだ。
肩を竦める俺に対し、妹紅が「お嬢ちゃんは」と真剣な表情で見つめてくる。
「どうして不老不死になろうと思ったの? 妖怪ならただでさえ寿命は長いし、体も丈夫だから滅多なことじゃ死なないだろうに」
「誰だって憧れるものですよ、不死身の存在なんて」
「人間なら、そうね。私も愚かにも、一瞬そういう思いを抱いてしまったがためにこんなところにまで……ああ、今のは忘れて。とにかく、そういうのに焦がれるのなんて人間くらいのものだよ。お嬢ちゃんは、妖怪だ」
「いえいえ、妖怪だってそういう気持ちになったりしますよ」
「そうかもしれないわね。私は妖怪じゃないからその気持ちはわからないけど……でも、憧れてるって言うなら、どうして『なれない』って聞いた時に
ドクンッ、と心拍が一瞬だけ大きくなったような気がした。まるで嘘がバレた子どもの心理のごとく、喉の奥でなにかが詰まった。
違う。
頬に手を添えて、それが無表情であることを改めて確認して、反論のために口を開く。
「肩を竦めたのは、落胆したからですよ。せっかく不死になれると思ってきてみれば、こうして全然ダメだったんですから」
「お嬢ちゃんは無表情だからすごくわかりにくいけどさ、それが落胆とか失望じゃないことはすぐに理解できたよ。力の抜き具合、息を吐く度合い、目の開閉の程度……明らかに安心の意を表したものだった。たとえそうじゃなくても、それが落胆ではないことだけは自信を持って言える」
「……そんなの、知れるはずがないじゃないですか」
「私だって、普段じゃそんなのわからないわ。でも、その動作はあまりにも
お嬢ちゃんは不老不死になりたいわけじゃなかった、と妹紅が淡々と続ける。
「だから、どうしてなろうと思ったのかって聞いたのよ。なりたいと思ったのかじゃなくて、なろうと思ったのか。よければ、でいいんだけどさ」
「憧れですよ」
「嘘はやめてよ。なんなら、私が飲むことになった経緯も話すから」
慧音から聞いた限りでは、藤原妹紅という人間は自分のことをあまり言いたがらないのだという。それがここまで興味津々に問い詰めてくる辺り、自身の肝を欲した妖怪である俺によほどの関心があるらしい。
憧れ以外の理由? と思考を巡らせる。巡らせて、至った。それなら、あとは一つしかない。これ以外はもう、本当に思いつかない。
「……強くなるためです。誰も敵わないくらい、強く」
「強くなるって、なんのためによ。純粋にただ強くなりたいだけ?」
「大切なものをすべて守り通すためです」
脳裏に春雪異変の情景がよぎる、感覚が蘇る。あまりにも濃厚な死の気配を漂わせた妖力を発する、紫でさえどうにもできなかった災厄の妖怪桜、西行妖。それに意識を向けた時に感じ取った恐怖は今でも忘れられず俺の中にしこりを残している。
もしもあれが復活してしまっていたらどうなっていた?
少なくとも近くにいた霊夢と魔理沙、咲夜は確実に死ぬ。吸血鬼である俺を震わせた猛烈な死の力が解放されて、まともな対策をしていない人間が無事で済むはずがない。異変は無事に解決したけれど、それでも西行妖の封印が解けて復活してしまう可能性もゼロに等しいくらいではあるにしてもあったのだ。
不老不死を服用者に与えるという蓬莱の薬を摂取できれば俺の力が一段階レベルアップし、身体に負担がかかる魔法だっていくらでも扱えるようになる。そうなればあの時あの場所で霊夢たちを殺させないうちに西行妖を滅ぼすことだって、きっと。
「……永遠を生きるっていうのは、死っていう苦しみから逃れることじゃない。いずれ必ず孤独になるって確信からやってくる悲哀、罪の意識にさいなまれ続ける永すぎる現実……私だって飲んだ当初は、三〇〇年くらい後悔した。幾度となく死にたいと思って、何度も何度も自傷行為をした。お嬢ちゃんが考えてるほど、不老不死は甘くない。救いじゃない。強くなりたいとか、なにかを守りたいとか、そんな前向きな言葉もいずれはすべて悔恨に変わる。なんであの時あんなことを思ったんだ、どうしてあの時あんなことのために不死になったんだ、あの時の自分が憎い、あの時の自分を誰か殺してくれ……不老不死っていうのは、ならなきゃわからないくらいどうしようもなく辛いのよ」
「それがどうしたんですか?」
「なりたいから飲むっていうのはわかりやすいから、まだいい。まだ苦しみも後悔も最小限で済むだろうさ。でもなりたくもないのに、後悔することがわかっているのに、蓬莱の薬を服用するのだけは絶対にやめた方がいい。きっと私なんかよりずっとひどく……そう、たとえ気が狂いきっても死ねなくなる。気が狂って狂って狂って、生きてることそのものが苦痛になっても、自分が自分でなくなっても、心が腐り切っても、精神がなくなるくらい擦り減っても、意思が粉々に砕けても、その果てに白痴になっても、死ねない。消えられない。存在することをやめられない。それはきっと、この世のすべての生命が欠片も想像できないほどの究極の苦しみよ」
妹紅が語る『苦しみ』はどこまでも感情がこもっていた。不老不死の薬をその肝に宿し、永遠に生きる苦難を実体験で知っている彼女の言葉はなによりも重みがあり、近くに座っている慧音も息を飲む。
俺はただ、威圧さえ放っているように見える妹紅をまっすぐに見据えていた。
「どんな覚悟も、どんな心構えもなんの意味もなさない。飲むことで自分の過去のすべてが後悔へと変わる……って言ってもお嬢ちゃんには効かないんだけどね。私が言いたいのは、いくらそれが正しい目的のためでも手段は選ばなきゃいけないってことだ。その結果としてお嬢ちゃんの言う大切なものが守れなくなったとしても……永遠の時をかけて少しずつ自分の心を摩耗させるよりはよっぽどいい」
「……ご忠告、ありがとうございます。心に刻んでおきますよ」
もう用事は済んだ。「今日は突然お呼びして申しわけありませんでした」と告げて、立ち上がろうとする。
そんな俺を「待った」と妹紅は呼び止めた。「まだ、最後に一つだけ聞きたいことがある」。
「なんですか?」
「私はできる限り不老不死の恐怖を伝えたつもりだけど、もしも妖怪が不老不死になれる薬があったらお嬢ちゃんはどうする? もしも手に入れたら……」
「決まってますよ、そんなの」
「ふぅん。それは?」
「飲みます。迷いなく」
間髪入れずに言い放った回答に、妹紅の顔が疑惑や心配などいろいろなもので歪んだ。
「どうせ私なんて『
「……質問が増えた。お嬢ちゃんはどうしてそこまでして前に進もうとする? 大切なものを守るなんて言葉じゃ説明できないくらいあまりにも度がすぎてるよ」
「責任があるんです。罪を償わないといけない、罰で贖わねばならない……生きてる意味なんてない私でも、死んではいけない理由はあるんです」
俺の能力は現象を、事象を、意味を消すことはできるが、それでも決して存在自体を消すことはできない。この能力はまさしく、たとえ意味がなかろうとも存在し続けろと俺に告げているのだ。
これ以上話すことはないとばかりに立ち上がり、襖に近づいて、すーっとそれを開ける。「お邪魔しました」と一言吐いて向こう側に脚を踏み出し、後ろ手で閉じた。
不老不死は得られなかったけれど、しかたがない。元々、なれればラッキー程度にしか考えてなかったことだ。あまり期待していない。一応予備のプランはあるし、大した問題はないだろう。
そうして、一〇ほど歩いただろうか。不意に背後からバンッと勢いよく襖が引かれる音が耳に届いた。
「待って!」
振り返ると、妹紅がまっすぐに俺を見つめてきていた。
「なんですか?」
「名前、まだ聞いてないよ」
「そういえば、そうでしたね。非常に申し遅れました、レーツェル・スカーレットと申します。以後お見知りおきを」
「私は藤原妹紅。
こくりと頷き、今度こそ帰るために背を向けて歩き出す。妹紅が追ってくることはなく、しばらく背中に視線を感じたのちに、気配が部屋の中へと消えていった。俺との会話について話したりするのかもしれない。慧音には迷惑をかけちゃったから、今度お詫びをしなければならない。
玄関で靴を履いて、外に出る。半分しか光らぬ月は、来た当初は見えていたはずなのに、今は雲に隠れているせいでまったく窺えない。雲も濃くなってきていて、どうも一雨きそうだった。
吸血鬼は流水が苦手だ。雨なんてもってのほかだから、早く帰らないと。
妖力と魔力を通して『光の翼』を発動させ、秒速一〇〇メートル程度のスピードで空を駆ける。
その間に考えていたのは妹紅が口にしていた一つの言葉だった。
――自分の過去のすべてが後悔へと変わる。
「ふふっ」
口元に小さな作り笑いを浮かべ、翼のギアを上げた。予想以上に早く紅魔館にたどりつき、息を吐く。
雨は、俺が紅魔館に入ったと同時に降り始めた。
今話を以て「Kapitel 5.月夜の須臾を永遠へ」は終了となります。
永夜抄はそこそこサクッと終わらせられたと思います。次の異変からはちょっとずつアレンジを入れていければと思いますが、できるかはわかりません。
「Kapitel 6」は香霖堂の話をいくつかと、日常系を数話入れた後に花映塚へと移る予定です。話数があまったらもうちょっとだけ続きます。
あくまで予定なので狂う可能性は大きくありますが、次回からもどうぞよろしくお願いいたします。