今年の冬はいつも騒がしい幻想郷にしては、比較的穏やかに過ぎ去ったものだと感じた。事件らしい事件が起きることはなく、霊夢も大抵は神社でコタツにこもっていたように思う。
何事もないと時が過ぎることが早く感じてしまうものだ。いや、少し違うか。何事もない時は異常に長く感じるのに、実際に振り返ってみると中身がなにもないせいで、過去が短いのではないかという感想を抱くのだ。
とは言え、騒がしいにせよ騒がしくないにせよ、己が歴史は実際に過ごした年月よりもはるかに簡潔で短時間なものとして振り返ってしまう事実は変わらない。それは現在から続く未来が幾重にも絡まったツタのようなものであることに比べ、過去とはすでに終わっている、結果が出てしまっている一つの塊だからだ。
未来にありえるかもしれない夢を馳せることは、その正体が可能性という無限のものであるからこそいくらでもすることができる。しかしとっくに終焉を迎えた過去に可能性なぞあるはずもないため、それは為せず、ゆえに幸せだった思い出さえも限りなく簡素なものとして思い返してしまう。
過去は未来よりも簡単に色褪せる。一見残酷な事実に見えるけれど、それは嘆くべきことではない。過去を糧に常に先を見据え、精進することこそが正しい道なのだ。生き物に組み込まれた過去から未来へと続ける思考の規則性は、あらゆるものの零が定めた真なる心持ちへ通じる道しるべである。
「大体が、本に書いてあったことなんですけど」
倉庫魔法は仙術――仙人が扱う術を応用して作った魔法だ。その過程で仙人が読むような本を俺も目にすることがあり、そこそこ印象的だったので記憶に残っていた。
春。原初たる白は暖かく鮮やかな色に染まり、寒さの内に沈んでいた幻想郷の陽気さが目を覚ます。明るい色彩に誘われた人間や妖精、妖怪や神仏が騒ぎ立て、始まりを祝うかのようにどんちゃんと目出度い花見を繰り返した。
何日も連続で花見をやったことも記憶に新しい。最初は神社でやっていたそれも香霖堂の裏にある桜が咲き乱れると場所をそちらに移し、その時までは花見に参加していなかった霖之助もなんだかんだで楽しそうだった。
そんな愉快な日常の中にもまた、しかしそこには誰しもが気づいてしまうようなとてつもなく大きな異常が混じっていた。
花が咲いていたのだ。桜、菜の花、ハナモモ、椿――紫陽花、向日葵、コスモス、楓。春には決して咲かない違う季節のものまでもが、幻想郷中で満開に咲き乱れていた。
「……まぁ」
霊夢や魔理沙、その他いろいろな面子がその異変の調査に行ったらしいのだが、あいにくとその時の俺は体調を崩していたために詳しくは知らない。
未だ季節に合わない花は咲き続けているけれど、霊夢いわく「六〇年周期で定期的に起こる異変なんだって。六〇年よ、六〇年。そんなのわかるわけないじゃない。それに死神のボスに異変とはまったく関係のないことで怒られてさぁ。そうよ、今回の異変は自然に起こるものなんだけど、彼岸のやつらがしっかり仕事をしてれば今回ほどひどくはならないって聞いたの。要するにあいつらが仕事をサボっていたせいで、花やら幽霊やらがそこらに溢れ返ってたわけなのよ。つまり今回の異変は私ががんばろうががんばらまいがどうしようもないってこと。あー、無駄足踏んだわ。それにあいつら……早く解決してもらわないと私の威厳に関わるってのに」とのことらしい。こんな感じで延々と愚痴を聞かされたのは記憶に新しかった。
幻想郷中を覆う博麗大結界はどういうわけか、六〇年を境として緩むようにできているらしい。その影響で外の世界の幽霊が大量に迷い込み、それらが花に入り込んだせいで季節から外れた花さえも咲き乱れ、さらにはそこにも入り切らない大量の幽霊が必要以上に飛び交っていたようだ。俺の体調が著しくなかったのも、外の世界と一時的に繋がりやすくなっていたせいで、前回のように記憶が原因の不具合が生じていたからだろう。
言われるまで気づかなかったが、確かに幽霊も多い。冥界と幻想郷との行き来が簡単になったおかげで元々多くなっていたけど、今回ばかりはその比ではないくらいだ。
「紫の桜も風情があっていいですね。こんなの初めて見ました。あなたも、綺麗な花たちだと思いませんか?」
真夜中。人里にでも行こうかと思って林を歩いていたところ何者からかの視線を感じ、目的地を急遽変更して無縁塚までやって来ていた。ここは幻想郷でもかなり危険度が高い場所と知られているので、よほどの用事でなければ追ってこないだろう。そんな思いを抱いて無縁塚に訪れたけれど、どうやらその『よほどの用事』らしい。
無縁塚に咲き誇る桜の花びらは、他の場所のそれと違ってすべてが紫色だった。地に彼岸花が大量に開花していることも相まって、冥界とはまた違った侘しい死の世界に来たのではないかと錯覚さえ覚えてしまう。
一際大きく風が吹き、不気味な色の花弁が散った。耳を打つ空気の雑音に混じって足音が耳に届き、その方向に振り返る。
そこにいたのは鋭く細めた瞳で俺を見据える、厳格そうな雰囲気を纏った一人の少女だった。
緑色の髪は左側と比べて右側が少し長く、その上に、周りに黄土色の飾りがつけられた深い緑の帽子をかぶっている。生と死を表すであろう、とても長い紅と白の二本のリボンをそこから垂らしていることも特徴だ。着ているのは一昔前の中国にありそうな厳格な服装に少女らしい可愛げなアレンジを加えたようなもので、下はスカートだ。そういうところや童顔と合わさって、どこか子どもっぽい印象も受ける。
その手にはひどく自然な所作で笏が握られており、いつもこうやって手に持っているのだろうなと感覚的に察した。
「紫の桜は罪深い人間の霊が宿る花……彼らは、本当は白色になりたいと思っている。決してできないことを、すなわち犯してしまった罪を清算することを願っている。それを知ってもあなたは、これを美しいと言えますか?」
「罪の花、汚れを映した花弁……というわけですか? 確かにこんな色の桜の花見をしたいとは思いませんが、こんな儚いものを一人で観賞するのもいいかもしれませんよ」
そんなことよりあなたは? そう問いかけると、「申し遅れました」と少女が小さな礼をする。
「私は四季映姫・ヤマザナドゥ。罪を裁く者、紫の桜の霊を無間の底に落とす者、地獄の閻魔です」
「閻魔さまですか。とりあえず映姫って呼ばせてもらいますね。私はレーツェル・スカーレット。幻想郷にある霧の湖の畔の館に住む、吸血鬼です。それで、かの閻魔さまであられる映姫が私のような一吸血鬼になんの用なんですか?」
今回の異変、すなわち六〇年周期の大結界異変には俺は一切手出しをしていない。体調を崩していたことも理由の一つであるが、俺が知る異変の中で今回のそれが一番危険が少ないのだ。なにせただ花が咲き乱れるだけであるし、誰が起こしたわけでもない自然の起こした異変だ。
四季映姫・ヤマザナドゥ、と言ったか。一応、俺の原作知識の中にも彼女の情報はある。説教好きな閻魔、と言う程度の役に立たないものでしかないのだが。
もしかしたらこうして俺を訪ねて来たのも、なんらかの説教をするためなのかもしれない。そう考えるとすぐにこの場を立ち去りたくなってきた。わざわざ
「あなたは罪を咲かす紫の桜に魅せられた。常人ならば無意識のうちに避けてしまうような不気味なそれを美しいと称しました。紫の桜はすぐに散る、罪に塗れた地獄の花……」
「……えっと、なにが言いたいんです?」
「そう、あなたは自身が償いようのない深い業を背負っていると思っている。そして、それが誰かに裁かれることを望んでいる。だから、これから深い闇の中に落ちゆく哀れな魂にさえ焦がれてしまったのでしょう。犯した罪に他の何者かから正式な罰が与えられることを、羨ましいと感じてしまったのです」
……またこのパターンか。萃香と初めて会った時にも、こんな感じで見透かされたような話をされた記憶がある。
彼女が閻魔だというのなら、俺がやって来たことを余さず知っていてもおかしくない。閻魔とは死後の魂がどこに行くかを決める者なのだから、裁く存在の過去を熟知していなければならない。
俺はまだ生きていて、全然死ぬ気もないのだけれど。
「仕事に戻った方がいいですよ。私なんかに説教するより、きっとその方が有意義です」
「裁かれることを望んでいながら、けれどあなたが切望することは、地獄に落ちることではない。天界に昇ることでもない。冥界に送られることでもない。いや、裁かれたいと思っていながら死後のことなんてどうでもいいと考えている。不思議ですね。矛と盾……その組み合わせの意味を、あなたなら理解できていることでしょう」
「無視しないでください。あなたが無視するなら私も同じようにしますよ。本当は人里に行きたかったんですし……もう行きま――」
「そう、あなたは常に矛盾している。裁かれたいと思っていながら、本心では思っていない。羨ましいと感じていながら、本心ではああはなりたくないと感じている。誰かを守りたいと誓っていながら、本心では、心の底では――いつも、誰かに救ってほしいと願っているのです」
帰ります、と。口からでかけた言葉が、どうしてか止まった。
「罪を清算し、忘れたいと、誰かに『もういいんだよ』と赦されたいと考えているのです。外面では救いを拒みながら、内心ではいつもいつもそうやって助けてほしいと泣き叫んで……あなたは恐ろしいほどに自分に正直ではない。いつだって自分で自分を苦しめ、どんなに辛くても気づかないフリをする。非常に嘆かわしいことです」
「……辛くなんてありませんよ。お姉さまがいて、フランがいて、パチュリーも咲夜も美鈴も……霊夢たちだっているんです。これだけ恵まれていて辛いだなんて」
「その誰もがあなたの心を助けてくれない。あなたはいつも一人……暗い海の底で、上がろうともせず地上の光に焦がれ続けているのです。そもそもあなたは助けてくれようとしてもそれを受け入れないでしょう。救われたいくせに、あなたがあなた自身を救おうとしないから、誰もあなたを救うことができない。やはり矛盾しています」
「違いますよ、全然」
頬に手を触れて、それが無表情であることを確認する。
そもそもだ。映姫は俺が赦されたいと考えているなどと言ったが、俺が"狂った帽子屋"になったのはそんな程度の低い理由からではない。
俺の両親は、前世の記憶と精神を引き継いでしまった紛い物の娘である俺なんかに愛情を注いでくれた。父が迎えた元人間の眷属の義母もまた、母を失ったことで傷ついていた俺やレミリアを快く受け入れてくれた。
そんな、俺を愛してくれた、俺も大好きだった人たちを、俺が俺自身の不注意で殺したんだ。
「罪が償い切れるとか、罰で贖い切れるとか……欠片も思ってないですし、実際ありえません。それでも償って、贖い続けるんです。私にはそれを突き通せる便利な能力があります。最後の最期まで自分を騙し切れば、それはもう本当のことでしょう? 私は救われたいなんて思っていない。私は気づかないフリなんてしていない。私はただ皆と一緒に生きて、幸せそうに生を終える。それはそれは素晴らしいハッピーエンドじゃないですか」
その過程でどれだけ俺が傷つこうが、どうでもいい。どうせ悲しくない、辛くない、苦しくない。
もう二度と、俺の大切な――俺なんかを大切に思ってくれる人たちを、失ってはいけない。ありとあらゆる俺のすべてをかけて、どんな害からでも守り通し、幸福の『答え』を迎えさせるんだ。
それから、俺の罪の結果として狂気を宿したまま生まれてしまったフランが、最初から最後まで幸せにいられるように、彼女の面倒を見続ける。親殺しがその子どもの世話をするというのも、滑稽な話だけれど。
その二つの誓いのためになら、
そうして意味なき生の果て。きっとその時、ようやく俺は死することだけが許されるのだと。
「……そのまま自分を騙し続けていては、あなたは死後に地獄にすらいけなくなる。どこにも行き場がないがゆえに、私が手を下すまでもなく、『無』へと転化してしまうかもしれない。それはあなたが考えているよりもずっと忌々しい……この世のすべての命が忌避することです」
「構いませんよ。どうせ私は『答えのない存在』ですから」
「それに、罪を裁けるのも、それに罰を与えられるのも、私たち閻魔だけです。それをあなた自身でやってしまおうとは、単なる傲慢にしかすぎません。あなたは自分の行いを反省し、己が業を自覚しつつ、善行を積んでいけばそれでいいのです」
「傲慢でもなんでも構いません。知ったことじゃありません」
「……実はあなたは、きちんと善行は積んでいるのですよ。だから最初は、あなたに会いに行くつもりはなかった。説教をするつもりでもなかったのです。まだ取り立てて注意するような段階ではありませんから。実際に会話してみて、山ほど説教したい気分になりましたが……今日は時間がありません。でも、ただ一つ……これだけはあなたに教えておかなければならないでしょう」
目を細め、まるで子どもをなぐさめるような表情で、映姫が俺を見る。
霊夢から話を聞いていた限り、この映姫という閻魔は相当な説教好きらしい。それが説教をやめて一つだけと言うのだから、本当に時間が押しているのだろう。
このまま延々と説教が続くようなら正直逃げるつもりだったけれど、最後ならいいかと、耳を傾けた。
「――――あなたの両親とその眷属が死んだのは、あなたのせいではないのですよ」
そうして心臓が、思考が、血が、時間が、すべてが止まる。
「それはあなたの罪としてはカウントされていません。閻魔の私が言うのだから間違いありません。あなたはただ、自身の内にこびりついている罪悪感を消したいだけなのです。あなたは少々特殊な身の上のようですが……それでも私の手鏡を通して見たそれは、あなたの罪ではないと断言できるものでした。あなたの最大の罪は親を殺したことではなく、親が亡くなった日より前のことを悔やみ続けていることです」
「…………罪じゃない……? 私のせいじゃ、ない……?」
「あなたははるか昔のその日より前に、とてつもなく大きな後悔を抱えている。あの時こうしていれば、あの時ああしていればと……そうやって自分のやってきたことの否定をし、後悔することは非常に重い罪になるのです。さらに言えば、あなたがあなた自身を罰と称して傷つけていることも罪となります。自身の体を大事にしない者は決して救われません。ましてや無理矢理自身を騙し、抑えるなんてことは……」
映姫がなにか言っているが、耳に入らなかった。俺の頭の中を占めるのはただ一つ、あの三人が死んだのは俺のせいではないという一言。
――血飛沫と肉片、ちぎれた臓器が飛び散った部屋中に、無邪気な赤子の泣き声が木霊する。
――頬を垂れる生温かい物質を指で掬ってみれば、それは白と赤が混ざり合った泥状の液体だった。
――弾けた母の目玉だと気づくのに、少しの時間を費やしてしまう。
ふいと、なにかがへばりついているのではないかと、恐る恐る自分の頬に手を触れた。しかし白い泥状のなにかも、悲しみの涙も、なにもない。あるのはただ、先へと進むために手に入れた『答え』をなくす仮面だけだ。
――無邪気に首を傾げる彼女の足元に、あの眷属の女性がつけていた青い宝石の首飾りが見えた。
――飛び散った紅蓮の液体にまみれて、その輝きはすでに米粒ほども残っていない。
罪ではない?
俺には、彼女たちの死を防ぐ手段があった。原作知識という未来予知にも等しき力を見つめ直し、幸せに酔いしれず未来を見据えていれば、彼女たちとフランに幸福を与えられるだけのことができた。
俺が殺した。方法があったのに講じなかったから、不幸を呼び寄せた。より幸福な外史へと向かうことができたはずなのに、臆病ゆえに生の意味を失い、無意味に正史へと歴史を進めた。
愛してくれた者たちを見殺しにした。
だというのに、この世のすべての善悪を判断する閻魔である彼女が罪ではないなどとほざくなんて、おかしいじゃないか。
――まるで風船を爪楊枝で突っついた時のように、まるで体内の爆弾が起爆したように、呆気なく。
――血飛沫と肉片、ちぎれた臓器がレミリアの周囲に飛び散った。
――本人にもかかった肉の欠片を、呆然とした様子で掬い上げて。
思考から意識を離し、じっと映姫の顔を見つめた。俺のせいではないと言った時と変わらない、誰かを諭そうとするような優しい表情だった。
それを見て自分が、すぅー、と平常心を取り戻していったのを感じ取る。
「ああ……そういうことですか」
「……納得してくれましたか? 私はもう帰りますが、これからも善行を積んでいくように。それから、あなたの罪は大きくなりすぎている。また今度、それを裁きにやって来ますから、そのつもりで」
「ええ。待っていますよ……ずっと」
映姫も忙しい身の上なのだろう。言うだけ言うと、すぐに背を向けてどこかへ飛び立って行ってしまった。
風が吹いた。紫の花弁が舞い、目の前を横切ろうとする。その一枚をギリギリのところで掴んで、ゆっくりと拳を開いた。
両親とその眷属を殺したのが俺のせいではないというのなら、きっと俺は、白い桜になることができるのだろう。後悔をやめて、自分を誤魔化すことをやめて正直になれば、この美しくも儚い罪深き花びらを咲かすことはないのかもしれない。
こんな価値のない存在でも、正しい終わりを迎えられる可能性がある――。
けれどそれは、傲慢なんて言葉では言い表せないくらいに、俺の中では罪深いことだった。
「映姫。きっと閻魔には、罪の重さがわかるんでしょうね。誰よりもなによりも、正しすぎるくらいに正しい善悪の基準を持っている……あの人たちが死んだのが私のせいじゃないというのも、本当のことなんでしょう」
でも、と手の中に捕らえていた花弁をパッと離した。
頭の中に浮かんだのは、俺を見る、子どもをなぐさめるような優しげな表情――同じところに立とうとしない、上から目線の善の心。
「……きっとあなたには、気持ちの重さがわからない」
母が死んだ時。母代わりの眷属の女性が死んだ時。父親が死んだ時。
あの時に感じた思いは、感覚は、今でも鮮明に思い出すことができる。悲しさ、辛さ、苦しさ、悔しさ、どうしようもない喪失感。
クオリア――俺が俺だからこそ抱いた思いの重さは、閻魔であろうと決して推し量ることはできない。
「罪に、ではありません。きっと私は、私を愛してくれた三人の気持ちに償いと贖いをしなければならないんです」
志半ばで死に絶えることなんて誰も望むはずがないのだ。
母はずっと名残惜しそうだった。眷属の彼女は、まだまだ父と一緒にいたかったと思っていたはずだ。父は最後の最後まで、フランを……俺のせいで生まれた狂気を恨んでいた。
たとえ彼女たちの死が俺の罪ではないのだとしても、彼女たちの抱いたすべての気持ちを背負う責任が俺にはある。いや、なければならない。
あの傷と悲痛は絶対に忘れてはいけない。そうでなければ、誰が彼女たちの無念に『答え』を捧げるというのだろう。
「どうせ私は『答えのない存在』です」
『レーツェル・スカーレット』とは、自身が生まれたせいで発生した歪みがひどくならないよう、大切な誰かが不幸にならないよう、必死に正史になぞらせてようとしている哀れで意味のない存在。
いつまで経っても『答え』はないまま。
ああ、もう。正史とは俺がいなかった世界なのだから、正史なんて求めるくらいなら、最初から産まれてこなければよかったのに。
「大切なものを必ず守り通します。フランに望むままの幸福を与えます」
そして俺がその過程でのありとあらゆる苦痛のすべてを受け入れる。その重苦だけが、俺のせいで無念に消えて行ったあの三人への唯一の罪滅ぼしとなるのだ。
「私は"狂った帽子屋"……正の感情も負の感情も存在しない、ずっと同じ場所で回り続ける狂人です」
その言葉に、返答はない。誰もいないのだから当然だ。当然だから、当然だから。
ああ、胸が痛いな。
まだ大結界が緩んだ時に崩れた体の調子が、完全に戻ってはいないのかもしれない。このまま人里に寄ろうと思っていたけど、諦めてもう帰ることにしよう。すぐに寝て、また明日、いつものように目を覚ます。
五〇〇年。いつも繰り返していた通りに、当然のように。
翼を広げ、トンっと地面を蹴った。夜空はあいにくと雲で隠れて、月どころか星すらも窺えない。紫の桜が美しいだけにセットで見れないのは非常に残念だった。
ふと、帽子になにかが引っかかっているのが視界の端に見えて、それに手を伸ばして目の前に持ってくる。
それは一目で一際に濃いとわかる、一枚の紫の桜の花弁であった。