古明地こいし。古明地こいし。頭の中で反芻し、すぐに覚える。
こいしと名乗った少女はいろんな角度から俺のフードの中を覗き込もうとしていたので、この路地なら日も当たらないからと、フードを外してあげた。
目と目が合う。互いになにも言わずじっと見つめ合い、空からのちゅんちゅんという小鳥のさえずりだけが耳に届いていた。
「どうしたの?」
「いえ、その」
いつまでも視線を外さない俺に、こいしがこてんと首を傾げて問いかけてくる。なにか話題を提供しなければと思いつつ、しかしなにも考えずに追ってきたために咄嗟には出てこなかった。
口を開けては閉めてを繰り返し、そろそろなんでもいいから言わなければというところでようやく出てきたのは「い、いい天気ですね」という、当たり障りのなさすぎるありきたりな言葉だった。
「そうだねぇ。ここじゃうまく空は見えないけどね」
「あ、確かに……」
出だしの会話選びを完全に間違えた。どうにかして今の失敗を挽回しないとと焦る俺に、こいしは「変わってるわ」と再び笑い出す。
「ねーねー、どうして私を追ってきたの?」
「どうしてと言われても……無性に追いたかったから、でしょうか?」
「あれ? もしかして悪いストーカーさんだった? えっと、なんだっけ……そう、変態さん?」
「違いますっ」
「わーい、変態さーん! 変態さーん!」
こいしがきゃっきゃと両手を上げてはしゃぐ。思いついたことそのままに口にしているのか、あるいは行動に移しているのか、あまりにもマイペースすぎてついて行けない。
「変な色合いの髪してるねー」
「あ、わっ」
サッと俺の横に回り込んだこいしが、俺の髪をつーっとなぞっては、掬うようにしていじってくる。猫耳と比べれば全然刺激は少ないが、なんというかこう、むしろ絶妙なくすぐったさだからこそ身じろぎしたくなった。
耐え切れずに身を捩ると、「むぅ」とこいしが不満そうに唸る声が聞こえた。
「わ、私の髪のことを言うなら、こいしのそれの方がよっぽど変じゃないですか」
「変じゃないよー。私はそういう妖怪だもん」
こいしが俺の指差しに反応して、自分の胸の前にある閉じた瞳を可愛がるように撫でる。
「そういう妖怪って、そういえば
「私は
「……閉じてますよ?」
「うん。だって、人の心なんて見ても落ち込むだけでいいことなんてなに一つないもん。こんなもの閉じてた方が全然いいわー」
閉じた瞳の膜をぐにゃぐにゃと触りつつの回答に言葉が詰まる。さらっと告げられたセリフの中には、しかし確かに重い実感が込められていたのに、どうしてこうも感情のない幸せそうな微笑みを浮かべ続けていられるのだろう。
古明地こいしという少女に潜む行動の真意がどうしても測りかねる。まるでその場のノリだけで行動している、言葉を口にしているだけのように――いや、もしかしてそうなのか?
「えへへー、それじゃ行こっか」
「えっ」
唐突にこいしが俺の手を掴んで、来た道を引き返し始めた。
「あ、あのっ、ど、どこへっ?」
「わっかんなーい。どこだろうねぇ」
あいかわらずの返答に困惑しながら、こいしに連れられて路地を出る。咄嗟にフードをかぶり直す俺に構わず、こいしはぐいぐいと手を引っ張ってきた。
わがままな子どもに振り回されるかのような心持ちで、どこへ向かうでもなく適当にさ迷い歩く。おそらく目的地なんてないんだろうなぁ、なんて思いながら流されるままにあちらこちらへ。
そうして数分経つ頃に立ち止まった場所は、単なる蕎麦屋の前であった。
「お腹空いたー。ごめんくださーい、蕎麦くださーいっ」
「あ、えっ」
例のごとくこいしの手に引かれ、半ば無理矢理に蕎麦屋の中に突入する。俺たちに……というより俺の様子に気づいたらしい店員がこちらに向かってきて、丁寧にカウンター席に案内してくれるので、変に出歩こうとするこいしの手を今度は俺が必死に引っ張ってそちらへ向かった。
こいしを席に座らせ、その隣に俺が腰をかける。それを確認した店員が注文が決まったらまた誰か呼んでほしいと告げて、また別の客の方へと向かって行った。
「なに食べよっか」
「……食べることは確定なんですね」
まぁ、構わないか。初めて会ったばかりの女の子と食事を楽しむのもまた、幻想郷における日常の一つなのかもしれない。
そう判断して、どんな種類の蕎麦があるのかと台の上にある注文可能なものの一覧に手を伸ばしたところ「ん?」と、こいしと反対側からどこかで聞いたような声が耳に届いた。メニューを手に取ったのち、そちらに目を向けてみる。
「……もしかして、レーツェルですか?」
「あれ、慧音?」
「レーツェルさん、こんにちわ」
「阿求も……」
人間の里における二人の知り合いのうち、その両方とエンカウントした。席を一つ挟んだ向こう側に慧音、阿求と続いている。
慧音が一つ席を俺に寄せ、同様に阿求も同じ方向に動いて、俺はこいしと慧音に挟まれる形となった。
「翼がなくなっていて驚きました。まさかこんな昼間からレーツェルが里にいるとは……そういえば最近、悪魔が里に入ってきたという報告を聞かなくなったとは思っていましたが」
「慧音は寺子屋を里の子どもを相手にやってましたよね? 私も、こんな時間から慧音が蕎麦屋にいるとは思いませんでした」
人間化魔法を覚えてからは特に騒がれることもなくなったので、慧音に頼ることはなくなってしまった。付き合いが少なくなってきたところにこうしてまた会えたのはよかったかもしれないと、なんとなく思う。
そして逆に阿求とは最近会うというか、会いに行くことが多い。彼女はかなり物知りだから、ただ話しているだけでもいろんなことが学べて有意義な時間になるのだ。
「今日は慧音さんの寺子屋はお休みですよ。私のところに資料を借りにいらしたので、どうせならお昼を一緒にとここに。レーツェルさんはお一人ですか?」
「いえ、二人ですよ。ほら、私の左隣にいるじゃないですか」
阿求の質問にそう答えると、慧音と阿求がパチパチと目を瞬かせた。おかしな反応に首を傾げていたところ、ちょうどこいしが俺の肩に寄りかかって「誰?」と慧音と阿求の方に目を向ける。
そこまでしてこいしの存在にようやく気づいたかのように、二人が揃って「あ」と声を上げた。
「レー……レーツ……なんだっけ? まーなんでもいっか。レーチェルの知り合い?」
「レーツェルです。二人とも友達ですよ。青い服の人は上白沢慧音と言って、寺子屋の先生をやっている
「え、ええ、上白沢慧音です。よろしくお願いします」
「同じく、稗田阿求と言います」
「私は古明地こいし。よろしくねー」
メニューを開くと、その二秒後に「あ、これ食べたい」とこいしが『茸蕎麦』を指差した。やはり特に考えもせず、直感で決めているようである。
「それにしても、これだけ堂々と妖怪がいて気づかない……いや、気づけなかったとは、なんて気配の消しようなんだ」
「そうですね。なんというか、視界から外れれば今にも忘れてしまいそうなほどというか……私には絶対的な記憶能力があるので、そういうことはありませんが」
「え、そんなにですか? 確かにちょっと存在感は希薄ですけど、十分認識できる程度だと……」
「レーチェルは変態さんだもん。皆、私が話しかけてもあんまり反応しないのに、レーチェルはレーチェルの方から私を追ってきたんだから」
「レーツェルです。あと、それを言うなら変態じゃなくて特別とかそういうのです」
注文が決まったので「すみません」と店員を呼ぶ。こいしが「茸蕎麦っ!」と叫ぶも、どうやら本人が今しがた言った通り聞こえていないようだったので、「『茸蕎麦』と『山菜蕎麦』をお願いします」と二人分頼んでおいた。
「変態の態はともかくとして、レーツェルが変であることには納得ですね。こんなに気の抜ける悪魔も珍しいというか、他にいないでしょう」
「慧音だって変わった半妖じゃないですか。半ば自主的に寺子屋を開いたりしてるんですし」
「私から言わせれば両方とも変わってます」
阿求のセリフに「阿求も変わってますけど」「阿求さんもですが」と揃って言い返す。意外だったのか、何度か瞬きをしたのちに不満そうに頬を膨らませていた。阿求は一〇年と少しという年月に似合わぬほどに膨大な知識を保有しているものの、精神がそれに比例するというわけでもないので、こういう子どもっぽいところも数多くある。
「レーチェルー、お蕎麦まだかなぁ」
「……もっと子どもっぽい妖怪がここにいますけど」
「ねーねー」
「わっ、揺らさないでくださいっ」
必死にこいしを宥める俺を眺めて、慧音と阿求がそれぞれ顔を見合わせていたのが横目で窺えた。
「お姉ちゃんみたいですね、レーツェル」
「次女ですよ私。フランって妹がいます。こんなにやんちゃじゃないですけど」
「えへへ、私もちゃんと血の繋がったお姉ちゃんがいるよ? こんな変態さんじゃないけどねー」
「変態じゃないですって」
――実際に蕎麦が運ばれてくるまで、そんな賑やかな空間が続いた。慧音と阿求に、こいしとは今日初めて会ったのだと伝えた時、大層目を見開いていたのが印象に残っている。
蕎麦を食べ終わり、慧音や阿求と別々になった後は、再度こいしと里を見て回った。気がつけば空は赤く、日が沈みかけている。彼女は疲れなど感じないかのようにいろんなところに立ち寄るので終始振り回されっぱなしではあったが、俺も俺として案外楽しんでいたようで、存外時間は短かったと感じていた。
最後には、また会おう、と。
そんな約束をして、俺はこいしと別れた。
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古明地こいしという名が原作知識の中のそれと合致したのは、その日の夜中、ふと今日のことを振り返った時だった。
どうして名前を聞いた段階で思い至らなかったのか。そんな疑問を抱いたが、すぐに、きっと彼女が備える能力の影響を受けていたからだと結論を出した。
こいしは胸の前にある第三の瞳で見た対象の心を読むことができる
彼女がする行動のすべては無意識によるものであり、欲望や希望等の余計な感情が介入する余地はなく、本人ですら次になにをするかわからないという。そしてすぐに人に忘れられるのと同様に、彼女自身もまた物事を容易に忘却してしまう。流されるままに生きるだけの彼女はまさしく『意味のない存在』であり――それはつまり俺の在り方にもっとも近い者であると言えた。
ああ、だからか、と一人納得する。昨日すれ違ってから俺がずっと感じていた衝動は、『答えのない存在』としてのシンパシーとでも言うべきものだったのだ。
「……私のこと、きちんと覚えてくれたでしょうか」
俺は覚えている。今日起こったことだから、出会いの部分から別れの部分まで鮮明に思い出すことが可能だ。それが意味をなくし、俺だけのものになってしまうのは……なんというか、ちょっと嫌だなと思う。
ふいとその時、もしかしたらこいしも俺と似たようなシンパシーを覚えていたのではないかという思考に至った。
彼女はどうして急に俺の手を引いて里を回り始めたのだろう。蕎麦屋で一緒に食事をしようとしたのだろう。
『意味のない存在』であるはずのこいしもまた、俺になにか感じるものがあったのかもしれない。
「それにしても、心を読むことをやめた
どんな妖怪にも在り方というものがある。吸血鬼が血を吸って生きるように、天狗が速く空を駆けるように。そしてサトリの在り方とは心を読んで相手を驚かせることだ。心を読むことをやめたサトリとは、在り方そのものに『答え』がないことと同義だ。
俺は臆病ゆえに『答え』を失った。しかし彼女は自身の意思で瞳を閉じ――自分から望んで、『答え』を捨てている。
それはほんの少しの違いでしかなかったが、あまりにも決定的すぎた。
「……また会えますよね」
暗い部屋の中、一人呟く。再会できることはほとんど確信してはいたが、不安からか、曖昧な表現になってしまった。
この出会いがどこへ行きつくのか。生きる意味を失くした者同士が集まって、なにが為せるというのか。
……きっとなにもできやしない。ゼロにゼロをかけてもゼロになるだけだ。それでも無意味なことに、心のどこかで淡い期待を抱いてしまう。
――それに、こいしを通して、知りたかった。俺は他人からいったいどういう風に見えているのか。
どうしても知らなければならないと感じた。
「お姉さま、起きてる?」
「フランですか? 入っていいですよ」
扉のノック。予想通り、入ってきたのはフランであった。
「明かり、つけないの?」
「ちょうど寝ようと思ってたところなんです。フランはどうしましたか?」
枕を両腕に抱えていたから次に言い出すことの大体の予想はできていたが、敢えて問いかける。
「……久しぶりに、一緒に寝てもいい?」
「ふふっ、もちろんですよ。お姉さまはどうしますか?」
「レミリアお姉さまは、いい。今日はお姉さまと二人がいい」
暗闇の奥、赤い瞳が潤んでいるのがわかった。怖い夢でも見たのだろうか。なんにせよ、フランの頼みを断るつもりは毛頭ない。
大切な妹と一緒に布団に横になって、向かい合わせになった。不安そうだった彼女の頭に手を置いて、できるだけ優しくと意識して撫でていくと、次第にその顔が気持ちよさげに緩んでいく。
今度こいしと会う時はフランを連れて行くのもいいかもしれない。
天真爛漫同士でなんだか気が合いそうだと、なんとなく思った。