穢れた聖杯《改訂版》   作:後藤陸将

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依頼人

「落伍者がよくおめおめと帰ってこれたのぉ、雁夜」

 

 周囲を豊かな自然に囲まれた地方都市、冬木市のはずれにある屋敷にて二人の男が相対していた。一人はまるで齢を重ねたぬらりひょんを思わせる容貌の不気味な雰囲気を持つ老人――この屋敷の主の間桐臓硯だ。その光を映さない暗い瞳は彼が人ならざるものであることをありありと示しているようにも思われる。

 そしてもう一人は臓硯の息子で、今朝日本に戻ってきたばかりの間桐雁夜だった。昼まで生やしていた髭はもうない。これは、彼がこのまま中東に戻る気はないという意思表示でもあった。彼はもう逃げないと決めていた。

 ……髭を剃ったのはあの忌々しい父や生意気な甥、目の仇にしてくる兄貴にまで髭を笑われたくないという事情もあるのだが。

 

 二人が対峙する屋敷の一室は物々しい雰囲気に包まれている。

「いや……ただ落伍したわけではないようじゃな。貴様も自分なりに魔術を齧っておったらしいの」

 老人は老いてもなお衰えぬ執念を宿した眼光を自身の息子に向ける。

「ああ。間桐の家を出てから11年か、世界を飛び回っている間にフリーランスの魔術師の指導を受けた。たまたま魔術に関するゴタゴタに巻き込まれて、身を守るためにな」

 若者は老人の眼光を軽く受け流し、淡々と言った。

「フッフッフ……雁夜よ、まさか魔術を間桐の術を知らぬ別の師匠から齧る程度に教わっただけでこのワシを殺せるとでも思っておったのか?貴様程度の魔術回路なら態々手塩にかけて育てる必要もない。間桐に関わらずに日々惨めに暮らしている分にはワシも手を出す気は無かったのじゃがのぉ……しかし、貴様がその程度の腕でうぬぼれてワシの命を狙うとなれば話は別じゃ。いくら可愛い我が子であってもワシに弓引く輩を見逃すわけにはいかん」

「何が可愛い我が子だ。お前にとって可愛いという言葉は嬲られる姿を見ていてそそられるって意味だろうが。それに、俺は貴様を殺しに来たわけではない。……俺程度の実力で貴様を消せるのなら、歴代の間桐の誰かがとっくに貴様を消している」

「自分の分は弁えておるようじゃな。ならば、この間桐を捨てた貴様が今更何のようじゃ?」

 老人から放たれる圧力が増す。この家中に存在する蟲たちもその僅かな変化に気づいたのだろうか、家のいたるところでざわめきだした。そして、蟲たちのざわめく音は微かではあるが、老人と若者が相対する部屋にも聞こえている。

 若者――間桐雁夜は自身の父、間桐臓硯が身構えていることを察し、緊張から唾を飲み込んだ。目の前に存在する老人は醜悪な怪物だ。だが、ここで屈してなるものかと雁夜は己を強くもつ。自分はもう逃げないと、自分の選択で誰かを不幸にしないために立ち向かうと決めたのだから。

 

 

「今帰ってきたということは、万能の聖杯にでも目が眩んだか?60年の周期が後1年で回りきるからのぉ。聖杯を使えば貴様が恋慕しておった禅城の娘を遠坂の頭首から奪うことも可能じゃ。それとも、禅城の娘を貴様から奪っていった遠坂の子倅を討ち取って復讐しようとでも言うのか?」

「俺が聖杯を獲得したとして、貴様はそれを放置するのか?そんな姿になってまで追い求めた不老不死だ。貴様は俺を絶対逃がしはしないだろうな……俺を殺して聖杯を奪い取ろうとするに違いない。だが、そもそも俺にとっては聖杯もどうでもいい。今回帰ってきたのは別件のことだ」

 雁夜の言葉に臓硯は眉をしかめる。数百年間聖杯を追い求めてきた彼にとっては予想外の答えだったのだろう。そして雁夜はそんな臓硯の態度は気にも留めずに話を進めた。

「遠坂の次女を養子として招き入れたらしいな」

「おお、耳が早い。……まさか、魔術を別の師の下で学び、間桐の術が誰かの手に渡ることが惜しくなったとでも言うのか?残念じゃが、もはやワシは貴様には興味がない。貴様が素直に間桐の家督を受け継いでおれば間桐の秘伝を継承させてやらんでもなかったが、ワシの手には貴様よりもよほど優秀な素養を持つ娘がおる。今更貴様には間桐の秘術はやれん。……それとも、幼馴染の面影がある遠坂の小娘の身体が目当てか?種馬ならばやらせてやってもよいぞ。カッカッカ」

 臓硯は意地悪い笑みを浮かべながら雁夜を見下す。だが、雁夜は臓硯の視線を正面から見返し、臓硯の言葉を否定した。

「俺は間桐の魔術には興味はないし、10にもならない女の子に劣情を抱く趣味はない。俺の要求は遠坂桜の解放だけだ」

「ワシがそのような戯言に応じるとでも思うたか。60年の聖杯戦争の周期が来年には巡りくる。多少なりとも魔術を齧った今の貴様ならともかく、鶴野程度の凡人の魔力では到底サーヴァントは御しきれん。故に、ワシは今回の聖杯戦争は参戦を見送る予定じゃった」

 臓硯は杖を手に席を立ち、雁夜の前に歩みよる。

「だが、此度の聖杯戦争は見送るとしても、60年後の第五次聖杯戦争には勝算がある。遠坂の娘の胎盤からはさぞ優秀な術者が生まれおちるであろう。あれは中々器として、望みが持てるからのぉ。つまり、ワシの悲願の成就のためには遠坂の小娘は必要不可欠ということじゃ。雁夜、何故ワシが悲願を捨ててまで貴様の要求を受け入れねば成らぬ?」

「……そういうことなら、聖杯さえ手に入れば遠坂桜には用はないということだな?」

「お主、何を考えておる?」

「取引だ、臓硯。俺は第四次聖杯戦争で間桐に聖杯を持ち帰る。それと引き換えに、遠坂桜を解放しろ」

 雁夜の宣言に、臓硯はまるで理解できないとでも言いたげな表情を浮かべる。

「馬鹿を言え。確かに貴様はとりあえず魔術師と名乗ることができるほどには力をつけたらしいが、その程度の実力でサーヴァントのマスターになろうだと?その程度の実力でサーヴァントを召喚したとしても、ステータスにはマイナス補正がかかるに決まっておろうに。それで勝算があるわけなかろう。貴様で勝てるのであれば、ワシは数百年前に悲願を成就しておるわ」

 臓硯は雁夜の言葉を妄言とばかりに一蹴するが、雁夜もここで引き下がるわけにはいかなかった。

「戦争は手持ちの戦力で勝敗が決するわけじゃない。知略で戦力の差をひっくり返した例は古今東西事欠かないだろうが。それに、足りないものは他所から持ってくるのが魔術師じゃなかったのか?……そもそも、間桐の執念は間桐の手で果たされるべきものだ小さな女の子を巻き込むものじゃない」

 雁夜はかつて出奔したころの非力な少年ではない。世界中の戦場を巡ってきた戦場カメラマンだ。神秘を巡る争いに巻き込まれて命の危機に陥ったことも一度や二度ではない。決意と経験は、彼に最悪の敵と正面から向き合わせる勇気を与えていた。

「貴様の悲願とやらに無関係の他人を巻き込んでたまるか。まさか……我が子が心配だとは言わないよな?お父さん」

 しわがれた声で笑いながら臓硯は雁夜に嘲りの視線を向ける。

「カッカッカ……遠坂の娘を巻き込まずに済ますのであれば、いささか遅すぎたようじゃな、雁夜」

「まさか……臓硯!!貴様!!」

 青ざめた表情を浮かべる雁夜の脳裏には幼き日に経験した悪夢のビジョンが浮かんでいた。

 

 

 そこは幼き日に悪夢を見た場所、間桐の魔術の深淵を体現した場所だった。おぞましい形をした蟲で埋め尽くされた地下室、そこを間桐家の人々は蟲倉と呼び恐れていた。

「桜!!」

 蟲倉の底では幼い少女が虚ろな目を浮かべながらその身を蟲に嬲られていた。だが、そのような異様な状況下でも少女は呻き声一つあげていなかった。少女の心は既に壊れていたのだ。そこにいたのは可愛らしい少女の容をした心のない精巧な人形だった。

「蟲倉に放り込んで最初の3日ほどは金切り声をあげて喚き叫んでおったが、4日目からは声もあげなくなったわい。今日は朝から放り込んでどこまで耐えられるか試しておったが、一日中蟲どもに嬲られていてもまだ息があるようじゃ。やはり遠坂の魔術師は優秀じゃのう。これだけやってもまだ生きておるとは」

 その愉悦まじりの態度に雁夜は腸が焼けちぎれそうなほどの憤怒の感情を抱いた。だが、その感情に身を任して臓硯に歯向かうわけにはいかなかった。多少魔術を身に着けたとはいえ、未だその実力差は圧倒的で、臓硯には全く歯が立たないのだ。

 それに、桜がこうなってしまった責任の一端は自分にあると雁夜は考えていた。自分が間桐を出奔したばかりに才能の無い兄に変わって桜が間桐の後継者に選ばれてしまったのだ。自分が間桐から逃げたことで少女を地獄に追い込んでしまったと考えていた雁夜は自分自身を責めずにはいられなかった。

 

「さて、雁夜。貴様はどうする?頭から爪の先まで蟲どもに犯されて壊れかけた小娘一匹、それでも尚救いたいと申すなら……考えてやらんことはないぞ」

 最終確認のつもりなのだろう。臓硯は雁夜を試しているかのような口調で問いかけた。だが、雁夜の答えは決まっていた。

「異存はない」

「ハッハッハ……だがな、貴様が結果を出すまでは桜を蟲倉から出すわけにはいかん。ワシの本命はあくまで第五次聖杯戦争であって、今回の聖杯戦争ではない。万が一貴様が聖杯を持ち帰ってくれば、貴様の要求を呑んで小娘は解放してやろう。だが、それまでの一年は教育は続行させてもらうぞ」

 雁夜は蟲倉の底に横たわる桜から視線を外すことなく答える。

「二言はないな、間桐臓硯」

「ああ、約束しよう」

「約束は守れよ」

 臓硯の言葉を聞き届けた雁夜は踵を返して蟲倉の出口に向かう。だが、臓硯はそれを不思議に思って問いかけた。

「なんじゃ雁夜。貴様は刻印虫を使わんのか?貴様の能力で使役できる三流のサーヴァントで勝ち抜けることができるほど聖杯戦争は甘くはないぞ。それとも、あれだけ威勢のいいことを口にしておきながら、自分の命は惜しいとでもいうのか?」

「確かに俺の魔術師としての能力は刻印虫を埋め込めば格段に強化されるだろうな。だが、俺が刻印虫に耐えられなかったら戦争前に死ぬだろうが。戦争前に死んだら戦争の勝機もクソもない。それに、刻印虫を使っても尚生き延びられたとしても、身体は弱って到底戦える状況にはないし、余命は1年あるかないかってとこだろう?貴様が約束を守って桜ちゃんを葵さんのところに返すところまで見届けなければ俺は死ねない。そもそも、元々マスターとしての素養は高くはない俺を刻印虫で強化したとしても、サーヴァントの程度はさほど変わらない。ならば使わない方がマシだ」

 雁夜が刻印虫を受け付けられない事情は本当は別にある。そう、いつか間桐臓硯の命を狙う以上、臓硯に命を握られることになる刻印虫の移植は雁夜には選択できなかったのである。聖杯を手に入れれば桜にようはないとの言葉に嘘はないと思うが、万が一のためにも臓硯への対抗手段は必要だと雁夜は考えていた。

 そして、刻印虫に頼らなくても魔術師の闘争に勝ち抜ける方法を雁夜は既に考えていた。

 

 

 蟲倉の階段を登りきったところで、雁夜はひとつ必要なことを思い出した。もしも、自分が今頭に描いているプランの実現の目処がついたとしても、先立つものがなければ実行は不可能だ。あれだけの啖呵を切った後で言い出すのは恥ずかしいが、背に腹は変えられない。

「……臓硯、軍資金として、5000万ほど貸して欲しい」

「なんじゃ雁夜……あれだけの啖呵を切っておいて金はワシからせびろうと言うのか!カッカッカ!傑作じゃのぉ!」

「息子を戦場に送り出すんだから選別に軍資金ぐらい用意してくれてもいいだろうが。あんたは5000万で見送っていたはずの聖杯戦争に勝てるんだ。安いものじゃないか。間桐の不動産収入を考えれば出せない額でもないだろう?」

 臓硯は少し思案する様子を見せたが、程なくして臓硯は結論を出した。

「よかろう。それが軍資金として必要ということであれば、5000万ぐらい貸してやろう。何ならば後2000万やってもよいぞ、桜を見捨てて高飛びさえせねばなぁ」

「俺は桜ちゃんを見捨てたりはしない……いいか臓硯、ここからは貴様は手出し無用だ。俺は俺のやり方で戦争を勝ち抜いてみせる」

 そう言い残すと雁夜は周囲からは幽霊屋敷とも噂される陰気な邸宅を後にした。

「親から金を無心しておいてよくあれほど大きな態度が取れるのぉ……あやつの人脈では5000万用意したところでたいした聖遺物も用意できんだろうに。聖遺物を用意する金が足りんとかぬかしてまた金を無心にきたら蟲倉に放り込んでしまおうかのぉ……カッカッカ!」

 蟲倉に独り残った臓硯は眼下で嬲られ続ける桜を見て邪悪な笑みを浮かべていた。

 

 

 間桐邸を後にした雁夜は険しい表情を浮かべていた。臓硯には啖呵をきったものの、正直自身の独力では今回の聖杯戦争に勝機は見出せないと判断していたのだ。サーヴァントのステータスは召喚者の力量の大きく左右されるものであり、雁夜の実力では例えかあの伝説の騎士王を呼べたとしても、平均ステータスはC+といったところだろう。

 自身の師を頼ったとしても、力を貸してくれるとは思えない。

 師は死霊魔術(ネクロマンシー)の使い手で、大量の死体を手に入れるべく混沌とした戦場――それも村単位での虐殺が行われた場所に赴き、聖職者のフリをして新鮮な死体をかき集めようとしていたところを現地を支配する武装集団に襲われた。

 聖職者のフリをして死肉を漁る禿鷹を本物の聖職者だと勘違いした雁夜が機転を利かせて救出したのが二人の出会いである。当然、その正体を知った雁夜は唖然とするしかない。だが、師は命を救われた義理ということで、自分に最低限の魔術を教えてくれた。雁夜は当初魔術にも忌避感を覚えていたが、現地の治安の悪化が予想を遥かに超えた深刻さになっていたこともあり、身を護る手段として魔術を学ぶことは仕方ないという結論に至り、彼に短い間弟子入りした。

 蟲を支配する間桐の魔術と、死体を支配する死霊魔術(ネクロマンシー)には共通する概念も多く、使い魔の操作などに限れば短期間で雁夜はそこそこの実力を得ることができた。ただ、未だ臓硯には遠く及ばないことは本人も自覚している。

 そんな義理深い師だが、別に特別親切な人間というわけではない。協力を申し出たとしても、もう義理は果たしていると言って協力を断るに違いない。

 ただ、師は戦闘に特化した魔術師で、魔術協会に属しないフリーランスの賞金稼ぎでもある。この軍資金の5000万を叩きつければ依頼は受理してくれるかもしれない。しかし、この5000万を報酬として用意するのであれば、自分は師以上に頼もしい人物に心当たりがある。

 そもそも、自身の目的はあくまで臓硯の殺害と遠坂桜の解放だ。ただ、臓硯は狡猾で慎重だ。滅多なことでは本体を雁夜の前に曝すことはないだろう。今日相対した臓硯も本体であるという確証はない。

 石橋を叩くどころか超音波検診をしてから渡るほどの警戒心を持つ臓硯を確実に殺すためには、聖杯を勝ち取って臓硯の本体である蟲をおびき寄せるほかに方法はないだろう。屋敷ごと焼夷弾で焼き尽くしたとしても、必ず殺せるとの保障は持てないのだから。

 そして彼は自分が聖杯戦争に参戦すると決心した時点で如何にして勝利を拾い、臓硯を葬るかは考えていた。かつて中東の戦場を渡っているうちに知った伝説の男、彼ならば聖杯戦争を勝ち抜くことも、聖杯に釣られて姿を顕す臓硯を殺すことも可能なはずだ。そして自分は幸運にも彼とコンタクトを取る方法をある戦場で教えてもらったことがある。

 

 今後の展望を考えながら間桐邸を後にした雁夜は、その足で滞在しているビジネスホテルに向かう。そして、仕事で持ち歩いている鞄からエアメール専用の国際郵便葉書を取り出し、そこに宛先を書き込んだ。

 

 そのエアメールの宛先に記入されていたのは米国ジョージア州アトランタにある連邦刑務所に収監されている終身犯、マーカス・モンゴメリーの名前だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 そしてそれから数日後、ある夕方のラジオ番組で賛美歌13番が流された。更にその翌日、ニューヨーク・タイムス紙の片隅には何の変哲もない小さな広告が掲載されていた。

 

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序盤はあまり細かいところしか改訂してません。本格的に改訂前とズレルのは第4話からとなってくる予定です。

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