自身の父、臓硯との11年ぶりの会談から2週間後、雁夜の姿は冬木市にはなく、関東にある鉄道博物館にあった。依頼人である雁夜は仕事人にここを待ち合わせ場所に指定されていたのである。
彼がかれこれ十数分DD13形式ディーゼル機関車の前で佇んでいると、不意に男が後ろから声をかけてきた。
「この機関車が好きなのか?」
雁夜は突然かけられた冷徹な声に驚きながら、事前の取り決めどおりの合言葉を口にした。
「13という形式番号に惹かれたんです」
男は合言葉を確認すると、雁夜の横に立った。雁夜はつられて顔を男の方に向けようとしたが、男はそれを制止した。
「こちらを向くな……そのままディーゼル機関車を見ながら話せ。お前が間桐雁夜だな?」
「……そうです」
ヤバイなんてものじゃない……こいつからは戦場の空気とはまた違う意味での本能的な恐怖を感じる。これが伝説の超一流スナイパー、ゴルゴ13か……
雁夜が戦場で幾度も修羅場を潜った経験から培った感覚は、隣に立つ男の存在にかつてない警鐘を鳴らしていた。だが、雁夜はできる限り平静を装って男に話かける。
「……少し話は長くなりそうです。大の大人が機関車の前で長々と話をしていれば目立ちますから、場所を変えませんか?」
「いいだろう……ここを出たところに公園がある。噴水の北側の林の中のベンチで待っている。5分後に移動しろ」
そう言うとゴルゴは雁夜を置いて先に鉄道博物館を後にした。きっかり5分後に雁夜もディーゼル機関車の前を去る。
そして雁夜は男の言いつけ通りに近くにある公園の林に設けられたベンチに向かった。だが、先に向かったはずの男の姿がない。怪訝に思ってまわりを見渡すが、日が沈みかけているために周囲は暗く、男を見つけることができない。ベンチを照らす電灯が明るすぎることもあって、周囲がいっそう暗く見える。
「そこに座れ。こちらは向かずに話せ」
突然後ろの木陰からかけられた声に一瞬雁夜は驚いたが、男の言葉に従ってベンチに腰掛けた。ゴルゴが愛用しているとの噂のトルコ産のトレンドの葉巻の紫煙が闇夜にうっすらと漂う中、雁夜は依頼内容を口にした。
「依頼内容は、ある男を葬ってもらうことです」
そう言うと、雁夜はフリーの従軍記者時代から愛用している鞄に手をかけたが、そこにゴルゴが待ったをかけた。
「待て。鞄の中身は俺に見えるようにゆっくりと出せ……」
雁夜は突然かけられた言葉と自身に向けられている銃口の存在に気がついて一瞬硬直するが、すぐに彼の流儀について思い出して指示に従った。彼は利き手を他人に預ける握手という習慣は持たず、資料を取り出したりする際にも妙なそぶりをしないようにゆっくりとやらせるほど慎重な性格だ。また、彼の流儀に従えない依頼者の依頼は受理されないことは雁夜も知っていた。
雁夜はゆっくりと鞄の中からファイルを取り出し、そこに挟まっていた一枚の写真をベンチの上に置いた。
「これが今回の
ゴルゴは写真を一瞥すると、葉巻を燻らした。話を続けろという意味であると雁夜は受け取り、話を続けた。
「ですが、この男は普通の方法では殺せません。ですから、一年後にこの地で勃発する『戦争』に勝ち抜いた上で、殺してもらいたいのです」
「俺は依頼に対し、『狙撃に対しての条件』は受け付ける。……だが、『依頼そのものに対しての条件』の申し込みは流儀じゃない。他を当たってくれ」
雁夜は思わず振り返り、踵を返そうとするゴルゴを必死になって呼び止める。
「ま……待って下さい!!これはただの条件ではないんです!!条件を満たさなければやつを殺すことができないんです!!」
雁夜の必死な態度とその言葉から、依頼に付けられた条件にはそれなりの事情があると判断したのだろう。ゴルゴは紫煙を吐き出して再び樹にもたれかかった。どうやら話は最後まで聞いてくれるらしい。雁夜は再度ベンチに腰掛けて話を再開した。
「貴方のような現実主義者の方々には信じがたいことかもしれませんが、この世には魔術師なるものが実在します。私は貴方に御伽噺をしているつもりはありません。超常の力を操る者たちが、実際にこの世界に存在するのです」
「……『根源』への到達を掲げ、魔術をその術として研究している者たちのことだな?」
「ご存知なのですか!?」
雁夜は目の前の男が魔術師の存在を知っていたことに驚愕の表情を浮かべる。だが、ゴルゴは気にも留めずに雁夜に話の続きを促した。
「……話を続けろ」
「はい。……今回の
熱を籠めて語る雁夜だが、ゴルゴは依頼人の個人的感傷には興味が無いらしく、ただ静かに葉巻を燻らせているだけであった。
「……それだけが理由か?」
多くの人の命が犠牲になっているというのに『それだけ』という言葉で済まし、平然としているゴルゴに対し、雁夜は怒りを覚えずに入られなかった。だが、ここで感情のまま行動したところで何も変わらない。それに、自分もそんな義憤で動いているわけではないので、人のことは言えない。
また、ゴルゴは恐らく自身の本心をも既に見抜いているのだろう。彼には依頼に嘘偽りは許さないという流儀がある。依頼の動機も嘘偽りなく告白しろということなのだろう。雁夜は先ほど取り出したファイルからさらにもう一枚、幼い少女の写真を取り出した。
「依頼の動機はもう一つあります。彼女は数日前に間桐の養子となった遠坂桜です。彼女は次代の優秀な間桐の後継者を産むための胎盤にするために蟲による肉体改造を受けています。まだ幼い彼女が朝から晩までおぞましい蟲が埋め尽くす蟲倉の中で肉体的、精神的に嬲られ続ける様子を俺は黙って見ていられない!!あの子は……私の初恋の女性の娘なんです。私には、彼女を見捨てられない……!!」
雁夜は爪が手のひらに食い込むほど拳を硬く握り締めた。
「動機は分かった。では、何故あのような条件を持ち出した?」
「それを説明するには、間桐の魔術について語らなければなりません」
雁夜はさきほど鞄から取り出した分厚いファイルを広げた。
「間桐の魔術について俺が知っていることは全てこのファイルにまとめてあります。詳しくは後でこのファイルを見て欲しいのですが、簡単に言えば間桐の魔術というのは蟲の使役術です。
「……何故そう思った?」
「肉体は如何なる魔術的な手段を持ちいたとしても必ず劣化しますから、500年も永らえることはできません。ですが、肉体が蟲で構成されていれば、肉体が劣化するたびに肉体を構成する蟲を変えるだけで保持ができます。そうなると、臓硯の本体は魂を肉体から切り離して蟲という形をとって生きながらえている可能性が高い。また、臓硯の操る蟲は日光が苦手です。ですが、蟲で構成された人形が外に出せないのにも関わらず、500年も間桐を管理し続けることができたということは、外部との接触、または臓硯の意思を外部に示したことが少なからずあったということです。間桐の術では、蟲以外の対象を長時間、遠距離から操ることはできませんから、可能性としては臓硯の本体となっている蟲が歴代の間桐の代理人に寄生し、操っていたんだと思います」
ゴルゴは彼をよく知る者が見なければ分からないほどに僅かに眉を顰めていた。
彼自身、魔術に関わった経験がないわけではない。かつて神秘の漏洩や封印指定の魔術師の逃亡に巻き込まれて魔術協会の封印指定の執行者や聖堂教会が派遣する代行者との死闘を演じたこともある。彼らは大抵魔術でその身体能力を大幅に強化していたり、こちらの理解の及ばない奇術をもって対抗してくるため、彼らとの戦いは常に尋常ではないものであった。
幾度も死の淵に追いやられたこともあり、ゴルゴは協会や教会の脅威を撃退して生き延びるために魔術の知識を欲した。かつて返り討ちにした執行者の所有物から一人のフリーランスの女魔術師に辿りつき、彼女から魔術や神秘についての知識を学んだのだ。
ゴルゴ自身には殆ど魔術の素養が無かったが、魔術の知識を得たゴルゴは魔術が相手でも冷静にその概要を分析することができるようになり、かつてのように絶体絶命の状況にまで追い込まれることは稀となった。
さらに幾度も自身の命を狙ってくる代行者や封印指定の執行者を返り討ちにした結果、ついに聖堂教会と魔術協会はゴルゴ13の有用性と危険性を認知し、共に彼には関わらないことを彼に確約したのだ。
魔術協会で幅を利かせている魔術師の大家は表の世界では貴族や富豪であったりすることが多く、聖堂教会の上層部も表の世界では世界に名を馳せる聖職者達だ。彼らはゴルゴ13という男の脅威を表の世界のつきあいから知り、魔術の類が使えないものであっても、決して侮ってはならない存在であると判断したのである。
このような事情があり、ゴルゴも魔術関係についての知識は一通りあった。既にその女魔術師はこの世にはいないが、彼女の伝で『
「……つまり、先ほど言っていた“一年後にこの地で勃発する『戦争』に勝ち抜く”という条件は、確実に臓硯の本体が現れるという状況がそれしか考えられないということなのか?」
「はい。老獪さと兎をも超える異常なまでの警戒心、慎重さを併せ持つ臓硯の本体が今どこにいるか自分には分かりません。いや、そもそも自分が今まで本物の臓硯と接してきたのか……それすらも私には分からないのです。ですが、戦争に勝利した間桐の手で聖杯が召喚された暁には必ず臓硯の本体が現れるはずです。臓硯は聖杯をこの手に得て、不老不死をなすためだけに500年も人間の生き血を啜って生きてきたのですから、その執念は並大抵ではありません。やつは必ず現れます。ただ、裏を返せば俺の手に聖杯が渡ることが確実な状況になるまでは絶対に本体を俺の前に曝す真似はしないということです」
「…………。」
ゴルゴは思案する。確かに、魂を肉体から切り離して蟲という形をとっている標的を殺すとなると、標的の居場所を掴まないことにはどうすることもできない。多数の蟲の中から本体を如何にして見つけ出すか、そして如何に本体を始末するかなど問題は多数存在している。
標的が潜伏していることがはっきりしているであろう間桐邸をナパームか何かで燃やし尽くしたとしても、標的の生死の確認は困難を極める。そもそも、標的の生死がはっきりと確認できないやり方は彼の流儀に反するものだ。話を聞く限り、かなり老獪で腕のたつ魔術師ということは確かだろうし、自身の生存のために奥の手を隠している可能性も否めない。
となると、やはり先ほど依頼人が言っていた戦争に勝利するということが、依頼達成のための必要条件となることは間違いないようだ。ゴルゴはプランを練るべく更なる情報の開示を雁夜に求めることにした。
「その戦争……そして聖杯とやらについて詳しく説明しろ……」
「分かりました。……始まりは今から200年ほど前のことになります」
聖杯とは、キリストが自身の弟子に「これが私の血である」と称したワインを注いだ杯である。キリストの死後その杯は各地に分散し、いくつもの聖杯伝説がヨーロッパ各地にうまれた。かのブリテンのアーサー王もこれを求めていたと言われている。
だが、この冬木の地にある聖杯はそのような値段の付けられない聖遺物ではない。聖杯の名を冠した万能の願望機であり、あくまでも魔術礼装に過ぎないのである。未だにその奇跡を目にしたものはいないが、英霊の召喚という奇跡の一端を見せているために願望機の機能を疑うものは多くはない。
冬木の地に存在する第七百二十六号聖杯は内部に秘めた膨大なマナによって世界の外側にまで干渉しうる力を――つまりは根源に到達しうるだけの能力を有していると言われている。
そして、聖杯戦争とは、この聖杯を巡る7人の魔術師と彼らが召喚したサーヴァントの争いである。
始まりは200年前、始まりの御三家と呼ばれる遠坂、間桐、アインツベルンの3家は協力し合い、聖杯の召喚に成功した。だが、聖杯はただ一人の祈りしか叶えない。3家は当然のことながらそれぞれ自分の願いを叶えようと対立した。
それ以来、聖杯は60年に一度の周期で冬木の地に顕れるようになった。そして聖杯が己を手にするに相応しいとして選び、令呪を託した7人の魔術師はサーヴァントと呼ばれる英霊を召喚して他の6人の候補者と戦うことになる。
「……ですが、召喚されるサーヴァントのステータスは召喚する術者の力量にも大きく左右されます。元々才能に乏しく、大した修行もしていない私の力量ではこの戦争に向けて60年下準備をしてきたアインツベルンや遠坂のマスターには遠く及びません。外来の4人のマスターにすら勝てるかどうか怪しいところです。それに、後1年たらずでは、碌に聖遺物を用意する時間もありません」
「聖遺物……?」
「サーヴァントとなる英霊を呼び出す際に、召喚した英霊を指定するためにはその英霊に縁がある聖遺物を触媒として用意しなければならないのです。例えば、源義光を呼び寄せたければ楯無が必要になります。まぁ、西洋でも認知度が高い英霊でなければ呼べないという制約があるので、源義光は呼べないのですが」
「聖遺物なしで召喚に望んだ場合はどうなる?」
「その場合は、召喚者と相性のいいサーヴァントを聖杯が選ぶことになっています。ですが、どの英霊が、どのクラスで現界するのか分からない以上、リスクは高いと言えます。また、アルゴー船の欠片など、ヘラクレスやイアソン、アスクレピオスといった複数の英雄に縁のあるような聖遺物を使用した場合でも、聖遺物に縁がある英霊の中から、召喚者と相性のいい英霊が自動的に選ばれることになっています」
ゴルゴはしばし口を噤み、静かに紫煙を吐く。ゴルゴが何を考えているのかは雁夜には分からなかったが、雁夜もここで断られるわけにはいかなかった。
「報酬はUSドルで40万……いや、45万ドル用意します!!引き受けて下さい、引き受けると言って下さい!!ミスター東郷!!」
雁夜が報酬として示した40万ドルというのは臓硯から借りた軍資金だ。円とUSドルの為替相場はおよそ一ドル125円だったから、これは臓硯から借りた軍資金のほぼ全額に相当する。そして残りの5万ドル、これは雁夜の預金の全額に相当する。これは雁夜にとって己の全てをかけた依頼だったのである。
そしてゴルゴは静かに口を開いた。
「……分かった。やってみよう」
「あ、ありがとうございます!!ゴル……Mr.東郷!!」
ゴルゴはもたれかかっていた木から離れて踵を返す。
「俺の口座に入金がされたことが確認され次第……仕事に入ろう。ただし、場合によってはお前にもやってもらうことがある」
「いったい何ですか?」
雁夜は緊張で息を呑む。
「これから一年の間、お前は俺の指示に従って魔術師としての力量を一年でできるかぎり鍛えてもらう。方法についてはまた連絡する」
「分かりました。……他には?」
「……俺からの指示に全て従え。一つでも指示が履行されなかった場合、この契約はなかったことにしてもらう。俺が去ってからも5分間この場から離れるな……」
ゴルゴはそう言い残すと先ほどまで吸っていた葉巻を道端に放り捨て、その場を後にした。一人残された雁夜は、自身の策が成ったことの確信とゴルゴの放つプレッシャーからの解放によって安堵の表情を浮かべてベンチにもたれかかる。
その瞳の奥には正義の皮を被った小さな狂気が混ざっていることを彼自身は気がついていない。
「妖怪ジジイ……遠坂時臣……俺は勝つぞ!俺の味方は最強なんだ!!」
聖杯戦争の開戦まで後一年に迫ったこの日、一発の銃弾で世界を変えてきた男の参戦が決定した。そしてそれは、第四時聖杯戦争が本来の歴史から剥離することを濃厚に暗示していた。