「やっとこころ読んだよ。少し長いから敬遠してたけど読んでみたら面白かった。いやー高二の時にやったはずなんだけど、全然授業聞いてなかったからさ、覚えてなくて。でも今読んだら、楽しめたよ。羅生門読み直した時も思ったけどちゃんと授業聞いとくべきだったな」
9月も終わりに差し掛かった頃。私が前からお勧めしていた夏目漱石の『こころ』を読んでくれたみたいでその話になった。
「それはよかったです。ちなみに早人くんは先生の行動についてどう思いますか?」
「先生が悪者には見えなかったな。誰だって好きな人を取られたくないでしょうし」
早人くんは難しそうな顔で「それに」と続けた。
「Kがお嬢さんを好きだって打ち明けたのも見方を変えれば、ずるいとも言えない? だって『お嬢さんが好きだからお前は手出すなよ』って牽制してるとも受け取れる気がするし。もちろんKにそんなつもりはなかったと思うけど」
『こころ』は三角関係を描いた小説だ。Kという男は先生(と呼ばれているけど先生ではない)の友達で下宿先のお嬢さんを好きになる。そのことをKは先生に伝えるが、実は先生もお嬢さんを好きだったのだ。焦った先生はお嬢様と結婚する許可を、Kに黙って取ってしまう。
「じゃあ先生は悪いと思わないですか?」
「うん。すごく自然な行動じゃないかな。Kがお嬢さんを独占できる権利を持ってたわけじゃないからね」
私は心臓をドキドキさせながら次の質問をした。
「じゃあ早人くんが先生の立場だったらどうしますか?」
「俺が先生か...」
早人くんは難しそう顔でしばらく悩んでからこう答えた。
「俺だったら、お嬢さんとは結婚しない。Kに譲るよ」
帰ってきたのは意外な答えだった。
「それでお嬢さんを取られちゃってもいいの?」
「良くない、けど。でも俺はそんな友達の気持ちを知っても自分の恋を優先できるほど気持ちは強くないよ」
早人くんは難しそうな顔を明るく変えてから「花丸ちゃんならどうするの?」と聞いた。
「...私も同じです。Kに譲ると思います」
でもそれは弱さに見えてしまった。ラブライブに向けて努力する自分と相反するような気がした。やっと高校生になって変われた気がするのに。頑張る私に励まされると言ってくれた彼の前でこんな答えを言うのは少しだけ恥ずかしい気もした。
「じゃあ俺と同じだね」
早人くんは私の答えを聞いて嬉しそうに笑った。そしてこう続けた。
「人に譲れるってのも優しさだし、その人の魅力だと思うよ」
「でもそれじゃ好きな人も手に入れられないですよね」
「確かにそうだよね。でも、その恋がダメでもそんな優しい人にはきっとまた素敵な出会いがあると思う」
そう言って早人くんは微笑んだ。私も彼も同じなんだ。
バス停に着く。バスがやってくるまでもう少しだ。自転車を押して歩いていた早人くんはサドルにまたがる。
「じゃあまたね」
「あの」
私の呼び止めで彼は振り向く。
「何?」
「次のラブライブに向けて練習が忙しくなるから、多分しばらく図書館行けないと思います」
「そっか。それは残念だけど仕方ないね。練習頑張ってね。応援してる」
「ありがとうございます。早人くんも勉強頑張ってください」
遠くでバスの走る音が聞こえる。視界の恥にいつものオレンジのバスが見える。
「じゃあお互い東京でがんばろうね。俺は受験が東京だから。花丸ちゃんは決勝が東京でしょ?」
「はい! 絶対決勝に行きます」
そう言って彼は「じゃあね」と優しく手を振って別れた。彼の背中はどんどん小さくなっていく。
彼は既に遠くへ行ってしまった。
「乗らないんですか?」
ついその場で止まってしまった私を見て運転手さんに心配されてしまった。
「すみません。乗ります」
私がに席に着くとバスは発車した。バスは沼津の中心街を離れ南へ進む。沈みかけた夕日が海を赤く染める。恋愛に関する小説はいくつも読んだ。その度に本物の恋ってどんなものなんだろうと期待に胸を躍らせた。小説では夕陽のように顔が赤く染まるなんて表現があって、本当にそんな顔に出るものかと疑問に思った。でもきっとそれは本当だろう。彼と出会ってそう思えた。私は彼と会う時の私は赤く染まっていたはずだ。いつも会うのが帰り道でよかった。沈む夕陽のおけげで赤くなった顔ごまかすことができたと思う。もしも朝に会っていたら、顔が赤くなっていたのがバレてしまっていたと思うから。他にも小説の中では男女がやっとの思い出で結ばれて幸せを手に入れる結末もあった。でも私のお話の場合は、彼と結ばれることはなかった。彼と一緒に図書館以外で出会えたら。一緒に買い物に行ったり食事に行ったり。やってみたいことはたくさんあった。小説で描かれていたデートを彼としてみたかった。私の恋はひっそりと終わった。彼に思いを告げることもなく。でもきっと大丈夫。太陽が沈んでもまた再び登るように。私にもきっとまた素敵な出会いがある。今日もまたあの時みたいに彼の言葉に救われたんだから。
『その恋がダメでもそんな優しい人にはきっとまた素敵な出会いがあると思う』
彼の言葉を思い出しながら、沈んでいく夕日を眺めた。
参考文献 夏目漱石(1951). こころ 角川文庫