果南が沼津を離れる日。俺は沼津駅に来ていた。結局、果南とは連絡先を交換することもなかったんだけど、最後に少し話しておきたかった。善子から沼津駅にやって来る時間を聞いていて、ちょっと早めにやってきた。まあ、何度か話した程度でそこまで深い仲じゃないし果南には大事な友達との時間あるだろう。邪魔しては悪い。少しだけ話して立ち去る予定だ。
しばらく駅前で待っていると、バス停の方から果南が歩いて来るのが見えた。ご家族も一緒に来ていた。面識はなかったが、こんにちはと挨拶すると、果南はいったん家族の元から離れて俺の元に来てくれた。一瞬果南のお父さんと思わしき男性から鬼のような形相で見つめられたが慌てて「と、友達です」と訂正しておいた。
「よう」
「来てくれたんだ」
「まあちょっとな。悪いな勝手に来て。善子からこの時間だって聞いちゃって」
果南は今日で故郷を離れるというのにさっぱりとした表情で笑顔を見せた。もちろん、彼女の胸の内を知ることはできないしどんなことを思っているのかはわからないけど、俺にはそういう風に見えた。
「ううん、ありがとう来てくれて」
もうすぐすると果南の友達もやって来るだろう。早めに切り上げたほうがよさそうだ。
「俺は果南からもらった言葉のおかげで道が開たんだ。正直今でもまだ自分が何をしたいのかわからないけど、でも大学でできることをやるつもりだよ」
「そっか。うん、早人君ならきっと大丈夫だよ」
「俺ばっかりAqoursに応援されて何か返せることがあればって思ったけど、いつか絶対やるべきこと見つけて、頑張りたい」
「ううん、応援してくれてそうやって変わろうとしてくれる時点で私にとっては大きなお礼だよ。だって好きでやりたくてスクールアイドルやってただけなのに、こうやって誰かの背中を押せたならそれだけで、自分のやってたことが間違ってなかったんだなって思える」
ああ、やっぱりそういう果南はかっこいいな。
「Aqoursのやってきたことは絶対残ってる。きっとこれからもいろんな人の背中を押すことになるよ」
「じゃあ早人くんを見て、背中を押される人も出てくるね」
そんなことないって口から出そうになり、飲み込む。いや、あるかもな。今はそう思えた。自分が誰かに影響を与えようとしなくても、気づかずにそうなってることもあるかも知れない。だって俺は勝手に、果南は俺のずっとずっと先を走っているんじゃなくて、肩を並べて並走する存在だって思ってるから。まあ実際に走ったら絶対置いていかれるだろうけど。
「そんな人がいたら、俺も背中を押してあげたいな」
「いるよ。絶対いると思う」
果南とはそんなに仲が良かったわけでもない。関わることもそんなに多くはなかった。でもそんな関係だけど、この果南の確信はお世辞でもなんでもなく、本当にそう思ってくれているのがわかった。
「資格とって沼津戻ってきたら、その時果南のお店でダイビング教えてくれよ」
「もちろん。楽しみにしてて」
バス停の方から、同世代らしき女の子たちが歩いて来るのが見えた。きっと見送りにきた浦の星の子だろうな。もとより俺はAqours以外の浦の星の知り合いはいない。あの中に入るわけにはいかない。
「じゃあ。お互い頑張ろう」
「うん。今度早人君の話も聞かせてね」
果南はそういうと右手の掌をこっちに向けてきた。俺も右手を上げると、元気よくハイタッチした。俺は決意を固めた果南に背中を向けると、自宅の方へ歩き出した。ちょうど果南の方へやってきた浦女の子たちとすれ違う。結局果南とは連絡先は交換しなかった。まあそんな関係じゃないって気もする。そう言うとちょっと冷たく聞こえるかも知れないけど。でもまたどっかで会える気がした。むしろそんなに関係が深くないからこそ、あの時果南からもらった言葉を冷静に客観的に受け止めらたのかも知れない。
「早人じゃない」
自宅へ向かって歩いていると、向こうから善子がやって来るのが見えた。
「おう。これから果南の見送りか?」
「そうよ。早人も行ってきたのね」
「うん」
「じゃあまた」
「おう」
善子と果南はどんな関係だったんだろう。俺はよく知らない。彼女たちの中には彼女たちしか知らない関係がある。俺が彼女たちの全てを知らないように、彼女たちも俺の全ては知らない。彼女たちには彼女たちの進む道があって俺には俺の進む道がある。時々その道が重なってまた離れて、いつかまた重なるかもしれない。
沼津を離れ東京に引っ越す前日。もう明日には東京なのかと思うと変な感じがする。今日は梨子と会うことになっている。駅まで行くよと言われたが、俺が内浦の方まで行くことにした。自転車に跨って、駆け抜ける。バス代を節約したかったってのもあるんだが、沼津のこの景色をしっかりと見たいってのも理由だった。バスだと見える景色の視界は限られちゃうけど、自転車だったら全方向自分の目で見られるからな。俺、将来バイク買うのかなってこの時思った。
春の風が心地よく顔に当たる。右手には駿河湾が見える。潮の香りがかすかにする。この風景がとても、誇らしく思えた。
重たい足をなんとか回し、目的地に到着した。梨子の家の近くの浜辺に座る。人もほとんどおらず景色を独占できる。波が足元までやってきては、海へ還っていく。梨子は海の音を聞いたと言っていた気がする。俺には海の音、と聞いてもただ波の音しか想像することができない。でも梨子には何か感じることができたんだろう。俺にはわからない何かを感じることができるからこそ、人を感動させられる曲を作って弾くことができたんだ。でもそんな梨子に今はもう気後れすることも、劣等感もなかった。ただ違うだけ。俺は梨子になれないし、梨子は俺にはなれない。今日だって。家からここに来るまでペダルを一回一回力強く踏み締めた。景色を楽しみながら漕いでいたら、ここまでやってきた。ただ目の前のことをやっていけばその軌跡がきっと輝くんだと思う。
そんなことを考えていると、視界の端に、彼女がやってくるのが見えた。
「お待たせ」
「俺も今来たとこ」
彼女ー桜内梨子ーは、東京からやって来た善子の友達だ。ピアノが得意で作曲もできて、美人な女の子だ。でもそんなプロフィールに書けそうなこと以外にも俺は、彼女の良さを知っている。人のいいところを見つけて受け入れることができて、普段は凛とした感じだけど、照れる時はとっても女の子らしくて、楽しい時は楽しいって子どもみたいに素直になるところも可愛くて、そんな普通の女の子みたいなところが俺は好きなんだ。
「梨子、来てくれてありがとう」
「早人くんこそ遠いのにありがとね」
「伝えたいことあったから」
俺は明日、東京へ行く。だからこのことを伝えるために今日はここまで来た。
「夏、あの時はその...梨子の気持ちに答えられなかったけど、それから梨子のピアノとかライブを見たり、この前も遊びに行って、自分の気持ちに気づいたんだ」
今更答えを変えるなんて図々しいと思う。ここでやっぱり好きになったので付き合ってください、と言うことはできなかった。
「もしも来年、梨子が東京の大学に来るなら、その時俺の気持ちを聞いてほしい。それで、その時、来年の梨子の気持ちを聞かせてほしい」
今度は自分から言おうと思った。
「うん。わかった。来年楽しみにしてるね」
その時の梨子の笑顔は、桜のような誰もが見惚れる美しさだった。
その後近くのカフェに寄り、お茶をすることにした。前に善子も入れて3人で来た場所だ。注文を済ませ席に座る。
「早人くんは大学でサークルとかやるの?」
「まだ何も決めてないんだ。でも色々見学して楽しそうなところに入ろうかなって思ってる」
「そうなんだ。見つかるといいね」
2人で話している時間がとても楽しかった。この時間がずっと続けばいいのにと思った。こんななんでもない普通の会話が好きなんだ。
「たまには沼津帰ってくるよ。頻繁には難しいかもだけど、ライブの時は絶対行くから」
「本当に? やった。余計やる気出ちゃった」
新しい学校でのAqoursはどうなるのか、全くわからないけど、今からとても楽しみだ。
「あのさ、迷惑じゃなかったらたまに電話していい?」
遠慮がちにお願いされた。梨子にじっと見つけられ、震えるような声で言われたら、断れる人なんていないだろう。
「もちろん。電話しよう」
「やった」
そう言って小さく喜びを表現する梨子がとても可愛くて、永遠にこの瞬間を見ていたかった。窓の外を見ると、快晴で雲ひとつなかった。こんなに美しく、愛おしい場所が俺の故郷なんだ。翌日、俺は東京へ旅立った。