「聞いてねぇぞ……! こんなの聞いてねぇ!」
とある地方都市の駅前、その廃ビルに男の叫び声が響きわたった。
五月蠅いほど乱れている呼吸音、走る足音だけが聞こえる。
男は確かに誰かに命を狙われ、今もこうして追われているのに、不吉なほど己の出す音しかしない。
「畜生っ、楽な商売じゃねぇのかよ! なんで狙われなきゃいけねぇんだよ!!」
柱の陰に身を隠しながら震える、どうして、どうしてこうなったのだ。
男は三日前までただの窃盗犯であり、そして二日前から殺し屋稼業に足を踏み入れただけなのに。
「クソっ、クソクソクソっ!! 割に合わねぇ、たかだが百万ポッチで殺しただけじゃねぇか! なんでオレが――」
男は殺した、ヤクザから頼まれて地元の代議士の秘書を撲殺した。
誰にも見られず、死体もまだ見つかっていない筈だ。
己の凶行も存在も、まだ誰にも分かってない筈なのに。
「――何でってそりゃさ、君が杜撰な仕事をしたからでしょ」
足音も無く、突如として新たな声が響いた。
時刻は夕刻、そして廃ビル故に明かりは無く詳しい容姿は分からない。
「誰だっ!!」
「聞かなきゃ分からない? それでもプロなの? ……ああ、獲物を前にベラベラ喋ってる僕もプロ失格か」
「お前…………へへっ、なんだぁテメェ、このオレが誰だか分かってんのか!!」
彼我の距離は五メートル、暗さに慣れた男の目には彼が新卒のサラリーマンに見えた。
メガネをかけた穏和そうな、一発ブン殴れば泣いて謝罪するような弱者に。
だから男は右腕を振り上げようとして。
「遅い」
「――あがっ!?」
「そして減点だね、見た目で判断すると痛い目を見るよ今みたいに」
「う、腕ぇ!! オレの腕がぁ!! うああああああああああああああああ! ひぃ、死ぬっ、死ぬううううううううううううう!!」
「五月蠅いな、殺したんだろう? 自分が殺されるかもって思わないのか?」
サラリーマンの呆れた言葉に、地元では有名なチンピラだった男のプライドがなけなしの冷静さを呼び覚まし。
「て、テメェ、こんなコトしてただじゃおかねぇぞ!! オレに背後にはなぁ――」
「あのヤクザの事かい? それなら先に始末しておいたよ」
「――っ!? し、信じるかよ! テメェみたいなひ弱そうなガキにアニキ達がなぁ!!」
「僕に腕を切り落とされててさ、よくそんな事が言えるねぇ、ちょっとそのバカさ加減に尊敬しちゃいそうだよ」
やれやれと溜息を吐き出すサラリーマンは、右手に持っていた刀をひらひらと見せつけて。
そうだ、先ほどの一撃はその刀によって行われたのだ。
「ははっ! 刀が銃に勝てるもんか――うぎゃああああああああああああああ!!」
「本当に君はルーキーなんだね、ま、君みたいな杜撰な奴はここで死ぬのがいいよ」
「腕が……オレの、オレの手が両方――――!!」
「うわぁ、このグロッグ使っててよく暴発しなかったね? 粗悪なコピー品じゃん。初心者なら獲物は選ぼうよ、ね? まぁここで死ぬんだから意味のない忠告か……」
男の残りの手首も切り落とし、動揺一つ、返り血一つ無いサラリーマンは拳銃を拾うとポケットにしまう。
そして、刀を上段に構えると。
「じゃ、そろそろ死のうか。ほっといても死ぬだろうけど一応ね?」
「あはっ、あはははははははははっ!! 死ぬ!? オレが死ぬぅ!? そんなバカな話があるのかよ! オレはここから――」
「恨むならさ、コッチ側に足を踏み入れた自分を、あんな杜撰な仕事をした自分を恨むことだね。――ああ、そうだ聞きたいことがあったんだ」
刀を振り下ろそうとし、止める。
サラリーマンは今にも死にそうな男を、とても冷たい目で射抜き。
その迫力に男は最後の冷静さを取り戻す、聞きたい事とは、遺言か、それとも犯行動機か。
「オレは何も喋らねぇぞ、アニキの為にもなぁ!! 何の情報も得られないまま手ぶらで帰れよぁ!!」
「うん? 違う違う、君の事情には興味ないんだ、だから遺言とかお涙頂戴の過去とか要らないよ」
「……テメェ、いったい何を」
ごくりと男が唾を飲んだ、死に急速へ迫る体が恐怖で震える、死へではない目の前のサラリーマンへだ。
己の人生最後の言葉になるだろうそれに、男は怯えた顔で身構えると。
「――今日の晩ご飯、何作ればいいと思う?」
「……………………は?」
「だから晩ご飯は何がいいかなって話だよ、いやー、実は奥さんが居るんだけどね、ご飯作ってくれなくてさぁ……出前で凌いでたけど飽きて来ちゃったから僕が作ろうと思って、ね、何が良いと思う?」
はは、と乾いた声が男の喉から漏れた。
目の前の存在は、殺し屋と思われるサラリーマンは何を言っているのだろうか。
狂ってる、殺そうとしてる相手に夕飯のメニューの相談などと正気の沙汰ではない。
――或いは、その様な存在でないと殺し屋などやってはいけないのか。
「~~~~~~っ!! ふざけんな!! カップ麺でも食わせとけ! ちなみにオレはカレー味が好――――――ぁ」
「貴重なご意見ありがと、じゃあさよなら……ってもう聞こえてないか」
男は全てを言い終える前に、その首を切り落とされて絶命した。
サラリーマンは何事もなかったかの様に懐紙を取り出すと、刀の血糊を拭いて納刀する。
そしてスマホを取り出し「カレー レシピ」と検索したその瞬間であった、コツコツと足音が近づく音が。
「やぁ、お疲れさま不破っち。後始末はコッチがしとくから帰っていいぞ~~」
「ヨシダさん、いつもご苦労様です」
「ふふふ、それが俺らの仕事だからな! 不破っち達みたいな現場組が殺って、デスク組の俺らが仲介と後始末、それがゴトー・クリーニングサービスってもんよ!」
近づいてきた同じくスーツの男、三十代で小太りの彼こそがヨシダ。
サラリーマン・不破雷蔵(ふわ・らいぞう)と同じくゴトー・クリーニングサービスの従業員であった。
な、かの会社は裏稼業の会社であるが故に、両名共に偽名ではあるのだが。
「ではお言葉に甘えて、僕はお先に失礼しますね。あ、この刀、そろそろ刃こぼれしそうなので。資材部に研ぐように伝えておいてください」
「オッケ伝えとく、お疲れ! ――って、ちょいまち!」
「ヨシダさん? 明日も現場が入ったのですか?」
「いや明日はオフィスで表の方だけども……そうじゃなくて、…………あー、いや、やっぱいい、ちょっと気になっただけだから」
そう言われると雷蔵としても気になる、彼は手に持ったままのスマホをしまうとヨシダに向き合って。
「もしかして、この男をもっと苦しめて殺した方が良かったですか? 依頼主はそうとう恨んでいた様ですし」
「そっちじゃなくてな、その、なんだ? お前さっき気になる事を言ってたじゃないか……あー、奥さんがどうのこうのって」
「――――…………? ああ、そういう事ですか、ええ、聞いても問題ないですよ」
ヨシダが口ごもった理由に思い至り、雷蔵は笑って許可を出した。
殺し屋という職業柄、こうして組織に所属していてもプライベートを聞くのは御法度という風潮がある。
だが雷蔵にとってヨシダは、この会社に入る前からの知り合いであり、この会社を紹介してくれた恩人でもあるのだ。
「お、そうか? いやぁ不破っちとはそこそこの付き合いだけどさ、細かいことは何も聞いてない訳じゃん?」
「そういう業界ですからね、僕も聞かれたくない事は沢山ありますし。でもこの会社の人なら、何よりヨシダさんなら問題ありませんよ」
「――いざとなれば殺せるから?」
「それもありますね」
「…………相変わらずサラっと言うなお前」
率直に告げた雷蔵に、ヨシダは苦笑を一つ。
「ま、ヨシダさんには色々とお世話になってますから。恩義を感じてるんですよ? これでも」
「ううっ、かつては『殺戮人形』と呼ばれた不破ちゃんが……こんなにも表情豊かに……! 俺は嬉しい!」
「あはは……、まぁ、あの頃は不破の人形でしたから」
不破、それは裏稼業の中でも古くから続く暗殺の名家として有名だ。
雷蔵は三ヶ月前、故あってそこから出て独立した訳ではあるが。
「そーいや不破の話は最近聞かねぇよな……、ま、流石にそれは話してくれるワケねぇし」
「不破の話がご所望で?」
「少しは気になるってレベルだな、不破から独立したって割にはお前さん不破を名乗ってるワケだし。――そうじゃなくてな、…………嫁さんいるのか?」
「ああ、そこを聞かれてたんですか。ええ、実は結婚したんですよ」
三ヶ月前、雷蔵は不破からの独立と共に結婚した。
フリーで殺し屋を続ける事を考えたが、ヨシダの世話になる事を選び今がある。
「なぁなぁ、どんな嫁さんなんだ? 美人か? メシ作ってくれないって? 話してみ? 妻帯者としても先輩なヨシダさんが相談に乗ってやるぞ??」
「ははぁ? さては先輩風吹かせたくて聞きましたね?」
「興味本位も加えて良いぞ、なんたって可愛い弟分の事だからな! ――こんど嫁さん連れてウチに飲みに来るか? こんな職業だからな、そういうのに飢えてんだよ俺」
「あー、分かります分かります! そういう普通の会社員っぽい事したいですよね!」
二人は死体の側で明るく笑いながら頷きあう、死体を片づけていた同僚達も笑いながら頷いて。
「んで、どーなんだ? 喧嘩でもしたのか?」
「そんな所です、機嫌を取る意味でも食事を作ろうと思うんですが、いやー、メシ作るのって初めてで色々悩んでるんですよ」
「ほほぉ、それは良いことだな、うん、先に謝っておくのも忘れるなよ、新婚時代の喧嘩だし絶対に根に持ってるからな向こうは…………ああ、思い出すなぁ」
自分の新婚時代を思い出したのか、ヨシダは遠い目をして。
周囲の同僚達もまた、深く頷いた。
(あれ? もしかして結婚してる人が多いのか?)
これは雷蔵にとって、少し意外な事だった。
不破という家で厳しく育てられ、幼少期から殺しをしていた彼にとって予想外の事であり。
しかしならば、相談相手に事欠かないということでもある。
「――――ちなみに先輩、実はウチには包丁とか一切無いんですけど、料理するのに何が必要です?」
「そこからっ!? お前それでよく料理しようと思ったな!? つーか今までメシは!?」
「全部……出前です!!」
「嫁さん、メシ作らないんじゃなくて作れないのか?」
「うーん、見たことないけど作れる筈ですよ?」
「えぇ……??」
どんな嫁なのだ、悪い女に引っかかってるのではないか。
ヨシダの目には、そんな不安の光が浮かび。
「心配しないでください、全部知って結婚してるんで」
「…………お前がそう言うなら、でも何かあったら相談するんだぞ? お前は俺の可愛い後輩なんだからな?」
「はい、ありがとうございますヨシダさん」
「よし! んじゃあ……あー、白米の炊き方から教えた方が良いか?」
「流石にそれぐらいは出来ますって、取りあえずカレーでも作ろうと思うんですけど…………」
雷蔵の言葉に、ヨシダと他の者は作業の手を止めて集まって。
それから一時間後、死体の後始末の手伝いをしながら知識を得た彼はスーパーに寄ってから帰宅すると。
「――――今日は少し遅めの帰宅なのねクソ野郎? ヘマして死んだかと思ったわ? いえ、何で死んでないの旦那様?」
扉を開けて一番、愛する妻の。
髪の長い絶世の美女の罵倒に、思わず苦笑したのだった。
□■□
とある地方の都心のマンション、その三階に一室を不破雷蔵とその妻は住処である。
三ヶ月前に引っ越してきたは良いか、室内は最低限の物しかなく殺風景で。
そんな中、彼の妻は家を出たときと同じく静かにソファーに座っていた。
「ただいま、貴咲」
「お帰りなさいませどうして死んでいないのです雷蔵、むしろ死んでいないとおかしいでしょう? 私を愛しているなら苦しんで今すぐ死ぬべきでは?」
「およよ……、妻が罵倒して心が壊れそうだ……、でも嬉しいよ、だってそれは貴咲が僕に関心を持ってくれてるって事だからね」
「…………ちッ、今すぐその減らず口を閉じて死ねばいいのよ旦那様」
「そうそう、晩ご飯はカレーを作ろうと思うんだ。食べてくれるよね?」
「………………はああああああああああああああああああああああああああああああああッ!? アナタが夕食を作るですって!? 本気で頭でも打ったの!? それとも毒を盛って私を殺――――あぐぁッ!? ああもうッ、いい加減に外しなさいよこの鎖!!」
洗面所で手洗いうがいをする雷蔵に駆け寄ろうとし、妻・不破貴咲(ふわ・きさき)は鎖に阻まれた。
そう、鎖である。
結婚三ヶ月目、新婚の妻である貴咲の首には大きな鋼鉄製の首輪と重たい鎖がついていた。
(まったく……このクソ男は何を考えてるの?)
彼女のとって、夫である雷蔵は不可解なクソ男に他ならなかった。
好感度はゼロ、結婚なんて以ての外の存在でもある。
そんな彼と、どうして貴咲は結婚しているのか。
(機嫌を取ろうとしてるの? ははッ、お笑い草ね、そんなコトで私の恨みは――絶対に晴れないし許すことなんて一生涯無いわ)
不破雷蔵こそ、貴咲にとっての怨敵であり宿敵であり、この世で一番嫌いな男だ。
どうして好きになれようか、どうして愛せようか。
(私は決して忘れないわ……、妹を、両親を、一族郎党に至るまで全て殺されて、何日も犯された挙げ句に無理矢理に妻にされて、嗚呼、嗚呼、嗚呼、――どうしてこの憎しみが消えると思うの?)
唇から血が出てしまいそうな程、強く噛みしめる。
そんな姿すら、雷蔵は美しいと褒め称えるのだろうと考えると。
一層、彼女の胸には憎悪が燃え上がり。
(雷蔵……ら104番、貴方など不破の人形でしかなかった癖に……!!)
彼女が雷蔵と名付けた男は、幼い頃に素質を見いだされ不破に拉致され育てられた男は。
三ヶ月前のあの時までは、不破に従順な子飼いの暗殺者の一人でしかなかった。
――とはいえ当代一の実力を持ち、次期当主である妹の婚約者に内定していた事も確かであったが。
(私にもっと力があれば……私が美しくなければ……ッ!!)
美しさは罪、とは誰が言い出したのか。
彼女にとって腹立たしい事に、それは正しい言葉で。
だってそうだ、雷蔵は貴咲に一目惚れしたが故に彼女だけを殺さなかったのだ。
(言い換えれば、私を手に入れる為に……みんな、みんな殺されてしまった)
そんな憎い相手が、しつこく愛を囁き毎夜犯してくる夫が、料理だと。
今更なんの風の吹き回しだろうか、それとも彼女を苦しめる企みの一環であるのか。
憎悪を瞳に携え貴咲がソファーに座り直した数分後、部屋着に着替えた彼がエプロンをして戻ってくる。
「…………何のつもり?」
「え? もしかしてカレー嫌だった?」
「そうじゃないッ、何でッ、何でそんな――ッ」
「ああ、僕が料理するのが不思議と?」
得心がいったと雷蔵はにこやかに頷いて、愛しい妻に笑いかけた。
「だっていつも出前かカップ麺でしょ? そろそろ普通のご飯を食べようよ」
「へぇ、そう思うのなら妻である私に、貴方が強引に妻にしたこの私に命じれば良いでしょう? ええ、勿論、一族の敵討ちとして毒を盛らせてもらいますが? 貴方が欲しがってる私の、愛する妻の愛ですよ? 本望ではありませんか?」
「まだ死ぬのはちょっと……、それに、ちゃんと栄養つけない君の美貌に悪いからね」
「くッ、ふざけないでください雷蔵!! 貴方の為に私は美しく在るのではありませんッ!!」
キレ気味にまくしたてる貴咲に、しかして雷蔵は顔色変えず。
(嗚呼――今夜も貴咲は綺麗だなぁ……)
うっとりとした眼差しを向ける、重く粘ついた愛情はあって。
不破貴咲、世界の何よりも愛する妻はとても美しい存在であった。
壮絶な色気のある女、と言い換えても。
――長い髪は艶やかで目を楽しませる上に、触り心地が良い。
――大きな切れ長の目は、常に誘われてるような蠱惑的な印象で。
――思わず吸いつきたくなる、厚ぼったく柔らかな唇はリップを塗らずとも朱色に煌めき。
(誰にも渡さない、貴咲は僕の妻だ)
胸は大きくしかして形が良く、腰はくびれ、臀部はスカートを盛り上げる様にボリュームがあって勿論、美しい形をしていた。
太股も足も、芸術とエロスを両立させた美術品の如く。
――否、正しく芸術品なのだ。
(例え、僕を好きにならなくても、愛してくれなくても、……ごめんよ、もう君を離せないんだ)
不破という黴びて腐り落ちた名家が生み出した、美しさの怪物。
時の権力者との結びつきを強くするために、代々の当主が美しい女性を妾にして『配合』を繰り返し。
男に取り入るために、男を悦ばせる為だけに、作り出された高価な商品なのだ。
「…………気持ち悪い、そんな目で見ないでくれませんか?」
「ごめん、君がそういうのを嫌ってるのは百も承知なんだけどね。――もう、僕は手遅れだから」
「ええ、そうでしょうとも。素直に操り人形で居たなら当主に次ぐ権力すら得られたのに、そうしてから私を奪い返す事すら可能だったのに。……ふふッ、死体が散らばる中で私を無理矢理犯した気持ちはどうでした? ええ、さぞ心地よかったのでしょうね?」
「この世の天国かと思ったよ、復讐の達成と、君という至宝を手に入れる事ができてさ。あのままセックスし続けて焼け死んでも良いとすら思ったよ」
「――――本当に、度し難いほど狂っているのですね旦那様は」
不機嫌そうに睨みつける貴咲に近づくと、雷蔵はそっとその頬に触れる。
彼女はとても嫌そうに顔をしかめて視線を反らすも、抵抗はせず。
無駄だという事が、この三ヶ月間で十二分に理解してしまったからだ。
「帰宅早々、また抱くのですか?」
「お腹減ってるから食事が優先だね、それにさ……」
「何か? 私が美しいのは変わらないので食事とやらを作ったらどうです?」
「……今日は、その服を着てくれたんだ。ありがとう貴咲」
「ッ!? あ、貴方の為ではありません! ええ、いつもの格好に飽きただけです!!」
彼女はいつも、当てつけの様に無地のTシャツとジーパンという格好だけをしていた。
雷蔵に向けて着飾る事などしないと、口に出してまで言っていた。
だが今は、彼が買ってきたボーダーのトップスとロングスカートを着ている。
「マネキンが着てた一式を買ってきただけだけど、君が着るとオーダーメイドみたいに見えるね」
「ふぅん、貴方の好みの服ではないと?」
「適当だった事は認めるけどね、君に似合うかなって選んだんだ!」
子犬の様な無邪気な笑顔を向ける雷蔵に、貴咲は深く溜息を吐き出した。
今だに慣れない、不破に居た頃の彼は本当に無表情の極みで。
あの惨劇の夜だって、顔色ひとつ変えずに彼は同じ境遇の義兄弟すら殺していたのに。
「…………サイズ」
「え?」
「サイズ合ってなかったわ、今度から服を買うなら私も連れて行きなさい。――逃げないから」
「………………ありがとう貴咲、うん、じゃあ僕はカレーを作ってくるよ。君も食べてくれると嬉しいな」
機嫌良く台所に向かう雷蔵を、貴咲はボヤっと見送る。
無意識に首輪と鎖を指でなぞって、己自信を嗤う。
(馬鹿なのは、狂ってるのは私もね)
彼は毎朝、起きると同時に首輪を付ける。
不安そうに、懇願するように。
(鍵も付いてない首輪なんて、本当に愚かだわ)
逃げだそうと思えば逃げれる、服を自由に着替えられるし、買い物だって行ける。
でも、そうした所で何になるのだろうか。
貴咲には何もない、男を慰めるだけに作られた彼女は一人では生きていけない、居場所もない、作り方も分からない。
(外に一歩踏み出すのと、雷蔵に……いえ、考えても無駄ね。どうせ逃げても追いかけて捕まるもの)
彼の妻という居場所以外に、己には何もない。
この美貌が衰えた時、彼に捨てられるのだろうか。
彼が他に愛する何かが出来たら、きっと捨てられてしまうだろう。
(脂ぎったクソジジィの妾として飼い殺しになるのと、どっちがマシだったのかしらね)
そう考えた瞬間だった、貴咲の目は驚きに見開いて。
「――――ちょっとちょっと雷蔵ッ!? 貴方いったい何をしようとしている訳ッ!?」
「え? 何って、今から玉葱を切ろうと思ってるんだえど?」
「なんで玉葱切るのに刀を持ち出してるのよッ!?」
「ああ、安心してよ。この刀は新品だからさ」
「そういう問題じゃないッ!?」
貴咲の全身へとても悪い予感が襲う、まさか、もしかして、聞きたくないけれど聞かなければいけない。
彼は、雷蔵は本当に。
「――――ね、ねぇ旦那様? 調理のご経験は?」
「今日が初めてだね、でも安心してよヨシダさん達に色々教えてもらって来たから」
「うわあああああああッ!? 玉葱は皮を向いてから! まな板はどうしたのよッ!?」
「え? 玉葱って皮を剥かなきゃいけないんだ、これは知らなかったなぁ……」
関心するように頷く夫に、妻の額に盛大な冷や汗が流れ始める。
失念していた、あまりにも自然に作ろうとするから、てっきり経験があるものと思いこんでいた。
(殺ししか教えられてこなかった人が、小学校すら通ってない人が、料理なんてやったコトあるわけないでしょうにぃッ!!)
その時、初めて貴咲は痛感した。
(もしかしてこの人、……私が居ないと本当に生きていけないッ!?)
思い返せば、彼には知識の偏りが大きく見られた。
金銭感覚も大ざっぱで、掃除だって今の同僚に教えて貰ったと言っていた気がする。
各種契約書類のアドバイスを求めていたのも、妻としての自覚を促すのではなく、判断が付かなかったからではないか。
「貴咲? なんでそんな変な顔してるんだい?」
(お、落ち着きなさい私ッ、大丈夫、この三ヶ月の間で会社勤めは何とかなってたじゃない。……いえ違うわ、仕事をする知識だけ与えられてたってコト!? なんて教育してるのよウチは! もう全員死んでるし屋敷ごと全部燃えて無いけども!!)
「――玉葱の皮って、どこまで剥けば良いのかな。ああ、迷ったらスマホで動画探せって言ってたっけ」
(あわわわわッ、私が何とかしないと!!)
今ならまだ間に合う、貴咲はひきつった顔で雷蔵に告げた。
否、命令した。
この際、手段は選んでいられない。
「ね、ねぇ旦那様? 貴方の愛しい妻が側で指導してあげるから、私の指示通りに作らない? 作ってくださいまし、作れ」
「え、ホント!? やった! 夫婦の共同作業だ!!」
満面の笑みでお揃いのエプロンを差し出す雷蔵の額を、貴咲はどんよりした目でデコピンしたのだった。
□■□
白米を炊飯器で炊き始めた後、あらためて貴咲は問いかけた。
「それで? カレーと言っても何を作るのかしら?」
「キーマカレーに挑戦しようと思うんだ、そこまで時間がかからず難しくないとか何とか」
「分かったわ、材料はちゃんと買って来たのね?」
並べてある材料を見ると、挽き肉、玉葱、トマト、茄子、卵、カレールゥ、冷凍のほうれん草、そしてサラダ油。
その隣には、封を切ってないセラミックの包丁と、薄いシートタイプのまな板が。
小さなフライパンの様な物は、何に使うのか彼女には分からなかったが一応、必要な物は揃っている様だ。
「包丁あるなら使いなさいよ……ッ!」
「使い慣れた獲物の方が良いと思ってさ」
「旦那様なら何使っても同じでしょうに……」
貴咲は思わず頭を抱えたくなった、これが義務教育をまともに受けてない哀れな男の姿か。
彼が得意とする分野は、刃物による切断。
その気になればナイフで鉄パイプを切り落とすような、人外の才能を持っている。
「とにかく、料理には料理のルールがあるのだから。大人しく包丁使いなさい。それとも――刃物は刃物でも包丁は使いこなせないのかしら?」
「そんな事あるもんか! よーしやるぜ僕はやってみせるぜぇ!!」
「はいはい、なら調理開始。ルゥの箱の後ろに書いてある通りに作るの」
「分かった任せてくれ、先ずは……玉葱のみじん切りからだね」
「皮は茶色の部分だけよ、忘れないで」
雷蔵は頷くと、真剣な顔で玉葱の皮を剥き始める。
みじん切り、歯抜けの知識だが聞いたことがある。
確か、小石より小さく切ればいいとかなんとか。
(玉葱は球体なのに、どうやって普通の人は切ってるんだ? 半分に切って、そのまた半分に切って? うーん、まどろっこしい。きっと正しいやり方があるんだろうけど)
包丁の背で玉葱をコンコンと叩き、感触を確かめる。
彼のそんな姿に、貴咲は首を傾げて。
「ちょっと雷蔵、本当に包丁の使い方が分からないとか言わないわよね??」
「どうやったら楽に切れるか考えてたんだ、うん、でもこれなら楽に切れそうだ。危ないから一メートルぐらい離れててよ」
「なんで??」
嫌な予感がする、しかし雷蔵の真剣な顔に思わず彼女は言うとおりに距離を取る。
何をやらかすのか、不安げに見守っていると。
(切った材料を小さなボールに入れるとして、玉葱は確か……切ると涙が出てくるらしいから素早さが重要で)
玉葱の堅さは理解した、セラミックの包丁の刃は獲物として問題ない切れ味がありそうだ。
ならば、不安になる事はない。
切る事だけは、何万回、何億回もやってきた。
(回しながら玉葱を軽く上に投げて、――今)
彼の手から玉葱が上へ離れた瞬間、雷蔵は包丁を動かした。
先ず、頂点に達した時に縦横斜めに分割する。
だが余りにも早すぎて玉葱は己が切れた事に気づかない。
(――ちょっと雷蔵ッ!? 貴方何を――!?)
落下し始めた時、もう一度縦横斜めに分割。
それを繰り返す事、十回。
着地した玉葱はその衝撃で、見事なみじん切りになり。
「はい、最後にヘタをキャッチ。どれどれ……? うん、この細かさで良いのかな? どう思う貴咲?」
「………………大丈夫だけどッ、大丈夫だけども!! なんでそんな切り方してるのよッ!?」
「え? 何か変だった? あー、使い慣れない獲物だから、やっぱバレるよね。あと三回は細かく切れたよね。うーん、僕もまだまだ未熟だなぁ」
「何処がよッ!? 機械を使わず落下までの一秒未満でみじん切りをするんじゃないッ!! しかもヘタはちゃんと分けてるし!! というか何で遅れて落ちてくるのよ!!」
「え? ヘタだけ少し上に飛ばしただけど?」
キョトンとする雷蔵に、貴咲は思わず地団駄を踏んで叫んだ。
「そういう所!! そういう所が好感度下がるのよ雷蔵!! 嫌味? 嫌味なの? ええ、ええ、どうせ私はロクに剣も使えなくて美貌だけが取り柄の道具よ!!」
「切るだけしか能が無い僕とお似合いだね!」
「喜ばないでバカ! バカバカバカ!! ああもうッ、次よ次! ナスとトマトも切っちゃいなさいよ!!」
本当は一族を継ぎたかった、どうしようもなく外道で、悪い所しかない古びた家ではあるが。
貴咲は、長女として跡継ぎになりたかったのだ。
だが美貌故に、殺し屋としての素質不足故にそれは叶わず。
(ホントもう……、私が何度も嫉妬してたの、貴方は気づいているの?)
今のも雷蔵は悪意など無かったのだろう、ただ手早く済ませる為に、持ちうる力で全力を尽くしただけだ。
だからこそ、癪に障る。
これだけの力を持ちながら、彼女が望む全てを台無しにした彼が腹立たしい。
「――――はぁ、全部切れたわね? じゃあ手順通りに炒めなさいな」
「玉葱を強火で三分、その後に挽き肉とナスを二分、トマトが三分だったね」
「ルゥを加えるのはその後、ほうれん草はルゥの後よ間違えないでね」
「心配性だなぁ、書いてあるなら間違えないって」
「お米を洗う時に石鹸使おうとした人は誰でしたか?」
にっこりと問いかけると、雷蔵はうぐと唸ってすごすごと大人しく炒め始める。
手順通りに進める中、貴咲はそういえばと思いだし。
「この小さなフライパンみたいのは、何に使うかしら?」
「ああそれ? 目玉焼き専用のフライパンだって、トースターで予熱せず四分がオススメって聞いたよ」
「わざわざ目玉焼きだけの為に? ……でも便利そうね、そんな物があるなんて知らなかったわ」
「僕も初めて知ったよ、僕らは一般人の情報に疎いよねぇ……テレビとかパソコンってやっぱ必要なのかな?」
現在の不破家にはテレビもパソコンも無い、ついでに言えばスマホは雷蔵が会社から持たされている物のみだ。
「正直に言えば欲しいわ、旦那様が居ない間は暇ですから」
「じゃあさ、今度の休みにでも揃えに行こうよ!」
「その前に、外出用の服が欲しいわ雷蔵。今日じゃなくて良いから連れて行きなさい」
「なら明日、晩ご飯を外で食べる事にして出かけようか」
その言葉を聞いて、貴咲の目は輝いた。
外出が嬉しかったのではない、彼女には行ってみたい所があって。
しかし、それを言うのは躊躇われた。
(うう、言い出すなら今の内よね。雷蔵のコトだからディナーの予約とかしかねないし)
貴咲は雷蔵の愛を、執着を、その重さを理解している。
それが故に、放置していたら彼は際限なく彼女に贅沢を押しつけようとするだろう。
現に、彼女がいつも座るソファーは一千万する代物だ。
(断らないと思うけども、……ちょっとはしたないわよね、夕食には似つかわしくないと思うし、でもあの家に居たら絶対に出来ないコトだし)
そわそわとしながら目玉焼きをセッティングする彼女に、雷蔵は素直に問いかけた。
「どこか行きたい所があるのかい? 遠慮せずに行ってくれると嬉しいな」
「えっと……その、少しね、明日の夕食を外で食べるなら行きたいところがあって」
「ああ、そういえば君ってジャンクフード好きだったっけ?」
「ッ!? なんで知っているのッ!?」
「あはは、だって貴咲が高校生の頃さ、学校の行き帰りにいつも通り道にあるマックを食べたそうに見てたじゃん」
「――――ぁ」
貴咲は思わず赤面した、そういえば彼は彼女の護衛役をしていた事があった。
まさか気づかれているとは、と恨めしい目で貴咲は雷蔵を睨む。
「…………悪い、お嬢様育ちですけどジャンクフード好きで」
「いいや、何か嬉しくなってくるね。それに僕も実は行ってみたかったんだ。ほら、仕事中は用意されたゼリー飲料を飲むか、そもそも食べないし。そういう所に行く機会も無かったから」
「ほう! それは人生損してるわね旦那様? ええ、ええ、ならば私が明日の外食も指導してあげましょう!」
「それは楽しみだなぁ……っと、そろそろ出来上がるね。お皿を用意してくれるかい?」
「ふふッ、旦那様の初めての料理。しっかりと味わってあげますわ。不味かったら金輪際、台所は使わせません」
そう釘を差しながら、機嫌良く彼女は用意した。
この家に来てから初めて使う皿は、雷蔵が百円ショップで買ってきた安物であったが。
不思議と、きらきらと輝いて見えて。
「「いただきます」」
出前かスーパーの総菜しか乗らない食卓に、今日、初めて手作りの料理が乗った。
ほうれん草のドライカレー、半熟目玉焼き乗せ。
(おお……これが僕が初めて作った――、匂いヨシ! 先ずはカレーとご飯だけを)
スプーンで一口、途端、彼の頬は緩んで。
「んぐんぐ……美味しい、上手くいえないけど美味しい!!」
「辛くは無いけど、うん、ちゃんと出来てるわ。――嗚呼、美味しい」
彼女もまた、一口、一口とスプーンを運ぶ。
野菜の甘いが程良い辛みで引き出されて、とても白米と合う。
高級な物など食べ飽きるほど与えられて、舌が肥えてると思っていたのに、どうしてか普通のドライカレーが何よりも美味しく思える。
(多分……、貴方と一緒に食べてるからだわ)
美味しさに、ほう、と幸せな溜息をつきながら貴咲は雷蔵を見た。
本当は、恨みだけじゃない、怒りだけじゃない。
愛してはいないけれど、好きではないけれど、他にもあって。
(少し、ね、実は少し嬉しかったの)
女という道具として育てられ、太って脂ぎった父よりも年上の男に、薄汚い権力者に嫁ぐ運命だと諦めていた。
愛のない結婚をし、笑顔を張り付けて生きるのだと思っていた。
(――生まれて初めて、暖かい食事をしている気がすするわ)
今初めて、あの惨劇の夜から三ヶ月たった今初めて。
貴咲は全てから解放された気がした、一族の頂点に立つという叶わぬ夢から、道具として人生を消費させられる運命から。
引き替えに、妄執じみた愛に囚われてしまったけれど。
「…………悪くないわね」
「でしょ? いやー、チャレンジしてみるものだね! これからはもっと作るよ!!」
「ふふッ、バカねぇ旦那様は。ま、期待しないで待ってるわ」
「ふふん、もっと美味しいって言わせてみせるからね」
いそいそとお代わりに台所へ向かう夫の背中に、貴咲は微笑んだ。
まだ正面からの笑顔は見せない、けど、悪くないと思ってしまったのだ。
(たかが手作りの食事ひとつで……、我ながら簡単な性格してるわね)
「あ、貴咲のお皿も空だね。お代わりいる?」
「私はいいわ、残ってるなら明日の朝食べる」
「あ、それも良いねぇ。食パン買ってきてあるから……ドライカレーって乗っけて焼いても良いのかな?」
「そういうのって、普通の家庭では当たり前らしいわよ」
なるほど、と炊飯器を前に考え込む雷蔵。
そんな姿に苦笑しながら、貴咲は告げた。
「美味しかったから、今日は特別に添い寝してあげるわ。無理矢理抱いたらダメよ」
「っ!? うぇっ!? い、今なんて言ったの!? 添い寝!? 添い寝って言った!? 強引にベッドに連れ込まないと一緒に眠りもしない貴咲が!? 一緒に寝てくれるの!!」
「拒絶すると旦那様はむしろ燃え上がるでしょう、迷惑なのよ次の日に腰がダルくて。今夜は添い寝だけで我慢しなさい」
「いやっほう!! 喜んで!!」
小躍りする夫に、胸の中で甘い何かを感じながら貴咲は呆れた視線をプレゼントしたのだった。
――それから次の次の日。
つまり、マックを堪能した次の日の事である。
職場にて雷蔵がトイレからデスクに戻ると、見慣れぬ茶封筒が置かれており。
(差出人は不明、封を開けられた様子は無い。――右下にM&Jのサイン、ああ、よく潜入できたな)
ゴトー・クリーニング株式会社は、表向きは普通の清掃会社だ。
しかし雷蔵らが居るオフィスは、裏向けの人材が詰める警備も厚い部屋。
間違っても、部外者が侵入出来る場所ではなく。
(……一応、警備の見直しを言っておくかなぁ)
彼は口元をうっすらと歪めながら、中身を読むことにした。
始めまして&お久しぶりです。
全十話、八月中に完結予定、第8話以降は出来上がり次第の投稿です。