殺し屋、鎖に繋いだ嫁の為にメシを作る   作:和鳳ハジメ

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ターゲット2/運び屋の『カルボナーラ』

 

 

 組織に所属している殺し屋と言えど、こうした世界で生き残るには個人的な伝手は重要だ。

 雷蔵の机に手紙を残した相手も、そうした伝手のひとつで。

 

(……十分後、右隣のビルの裏手の路地でブツを渡す、なるほど)

 

 暗号文を読み解いた彼は、少々浮かれながら目的地に向かう。

 ――運び屋M&J。

 情報や武器、人は勿論、乗り物も、果ては建物すら運ぶ凄腕の二人組であり、金を積めば物資の調達もしてくれる便利屋だ。

 

(頼もしい人達だ、僕の復讐だって助けて貰ったからなぁ)

 

 単に殺すだけなら簡単だ、刃物ひとつすら必要ない。

 だが後始末は言うまでもなく、ターゲットに近づく手段、殺し方を指定された場合などなど。

 むしろ殺し屋とは、暗殺とは、実行の下準備こそが重要だと言っても過言ではない。

 

(いつも報酬は多めに払ってるけど、復讐して生き残った訳だし報酬とは別にお礼がしたいな)

 

 何がいいだろうか、と考えながら雷蔵は指定された場所に向かい。

 丁度の時間に到着すると、そこには見慣れた二人の姿が。

 

「やぁ、いつもながら目立つ格好をしてるねジェイムズ、メアリィ」

 

「多少奇妙な格好の方が逆に目立たないってもんさ、ライゾー」

 

「それに近くにジャパニーズ・オタクショップの集まる場所がありますので、そこまで奇異には見られないわライゾーさん」

 

「なるほど??」

 

 美少女の絵の紙袋を持ち、妙にダサい格好をしている金髪のイケメン・ジェイムズ、黒いゴスロリを来た美少女・メアリィ。

 彼らこそが雷蔵が懇意にする運び屋、M&Jである。

 

「腑に落ちないけどまぁいいか、じゃあさっそく例のブツは?」

 

「これだ……」

 

「いつも気になってたんだけどさ、なんで毎回エロゲーの箱に入ってるの??」

 

 ジェイムズが手渡したのは、肌色多めのイラストが描かれた小箱。

 雷蔵は困惑しつつ、しっかりと受け取って。

 

「カムフラージュだ、誤解のないように言っておくが別に遊び終わったゲームの箱を再利用してる訳じゃないぞ」

 

「それを信じたいけどね? 刀を運んで貰った時はえっちな抱き枕の中にあったじゃん? 時限爆弾を調達して貰った時は、美少女の絵が書かれた安っぽい目覚まし時計だったよね? ホントに趣味じゃないの??」

 

「誤解よライゾー、別に使い過ぎて汚れたオタグッズの廃棄を兼ねてる訳じゃないわ」

 

「オタグッズの廃棄って言ったっ!? いや絶対趣味でしょそれっ!?」

 

 二人に疑惑の目を向けつつ、雷蔵はエロゲの箱をあけると。

 中には無地の紙で綺麗に包まれた長方形の、薄くて軽い物が入っていた。

 

(実は中身は僕も知らないんだけど、うん、これが目的の物みたいだね)

 

 うんうんと頷く彼に、二人は神妙な顔を向けて。

 

「珍しい事もあるのねライゾー、貴方が武器を頼まないなんて。――いえ、ごめんなさい。少し気になっただけ、何かあるんでしょ? 死なない程度に頑張ってね」

 

「それが何かオレらは知らされてないが、お前は太客なんだ。今回も生き残ってくれよ、この業界、朝の客が夜には死んでるとか日常茶飯事なんだからな。ま、ライゾーみたいなベテランなら骨身に染みてるだろうがな」

 

「ありがとう二人とも、でも――違うんだ」

 

「「違う?」」

 

 思わぬ言葉と聞き、二人は思わず聞き返した。

 いつもならば「僕は死なないよ」などと平然とした顔で言うのに、その上、今日はどこか上機嫌に見えて。

 そんな彼らの疑問に答えるべく、雷蔵は封を破りブツを見せる。

 

「うん、これだよこれ! これが僕が欲しかった――初心者向けの料理の本!!」

 

「…………うん? ちょっと耳がおかしくなったみたいだ、もう一度言ってくれライゾー?」

 

「だからさ、初心者向けの料理の本」

 

「何かの機密情報とか、暗号がかかれた本とかじゃなくて?」

 

「初心者向けの料理の本だね、そこらの本屋で売ってるやつ」

 

「「…………」」

 

「…………?」

 

 沈黙が流れる、二人は理解が追いつかず、雷蔵は彼らが何故黙っているのかが分からない。

 そして数秒後、再起動したメアリィとジェイムズはグイと詰めより。

 

「何でそんなもんをオレらに運ばせてんだよライゾー!? 気でも狂ったのか!? なぁおい、冗談だろ!?」

 

「え? ええっ!? 病院行く? タダで運んでいってあげるから病院へ行きましょう??」

 

「酷くない二人ともッ!? 僕はいたって正気だよ!!」

 

「正気ならなお悪いだろ!! 何処の世界に前金で一千万払ってそこらで買える普通の本を届けさせるんだよ!! オレらはアマゾンじゃねーぞっ!?」

 

「冗談よね? 冗談だと言って? 仕事に使うのよね? ワタシらがどれだけ苦労して手紙置いてきたと思ってるのよ!!」

 

「あー、聞いちゃう? 理由聞いちゃう?」

 

 デヘヘ、と幸せそうに表情を崩す雷蔵に、二人は更なる困惑の渦に落とされて。

 あり得ない、だって目の前の存在は裏社会に名を轟かせた殺戮人形。

 不破とう暗殺の名門が生み出した傑作であり、感情のない最終兵器である。

 

「おい何か変な笑い方してっぞ!? 壊れた!? ライゾーが壊れてやがる!!」

 

「ううっ、遂に壊れちゃったのねライゾー……可愛そうに、やっぱり三ヶ月前にあった大量注文の後に何かが……」

 

「以前は感情を表に出さない生き方してたけどもね? ちょっと酷くない?? 僕って君らにとって大事な太客だよね?? ――あと、実は結婚したんだその時に」

 

「「――――結婚!?」」

 

 眉目秀麗な二人は、あんぐりと大口を開けて驚いた。

 彼に何があったというのだ、裏方の仕事とはいえ二人も雷蔵の仕事風景を見たことがある。

 何事にも動じず、表情一つ変えず、まるで映画の悪役の如く標的を殺してく様は殺戮人形の呼び声に相応しく。

 

「ライゾーお前……人間、だったのか??」

 

「そ、そんな……実はロボットだと思ってたのに!?」

 

「業界の人達から、僕はどういう目で見られてるワケ?? ま、いいか。今の僕は半引退状態だしね」

 

 そう暖かな微笑みすら浮かべる彼に、二人はようやく納得したのか仲良く同時に深い溜息を。

 

「ま、お前が人並みの幸せを得られたならオレらも嬉しいぜ。前のお前は笑ってても目が冷たかったからな」

 

「自分の意志なんて無いって感じだったものね、――結婚おめでとうライゾー」

 

「ありがとう二人とも」

 

「だがな、普通に買えるなら本ぐらい普通に買えよ。結婚したんだろう? 金は大事にしろよ」

 

「僕も悩んだんだけどね、でもさ……恥ずかしくない? 何買えばいいか分からないし、だから信頼できる人に頼んで、ね?」

 

「奥さんに頼みなさいよそれぐらいっ!?」

 

「は? 僕の奥さんにそんなコト頼めないんだけど? 見てみる? 世界で一番の美人だからさ、迂闊に外に出せないんだよ、いやー最近は家に帰るのが楽しみでさぁ~~、あ、そうだ見ても惚れちゃダメだし他言無用だからね、もし仮に僕に恨みをもつ誰かに言ったら――――殺すしかないから」

 

 惚気ながらも殺気を込めて笑う彼に、二人はやっぱり殺戮人形じゃないかと震えたが。

 ともあれ、めでたい事はめでたいのだ。

 

「ま、まぁそれはおいおいね? 今度プライベートで遊びに行きましょ、ダブルデートってやつよ」

 

「結婚祝いと言っちゃなんだがよ、オレがメアリィを口説いた時に使ったパスタのレシピを教えるぜ、今度嫁さんに作ってやれよな!」

 

 そうしてジェイムズはエロゲの特典と思われるメモ帳にレシピを書くと雷蔵へ渡し。

 運び屋の二人は、彼の頬に親愛のキスをすると去っていった。

 

「いつもながら、頬とはいえ挨拶のキスは慣れないなぁ……」

 

 苦笑をひとつ、だが心は弾んでいる。

 何せ、自分に足りない知識が得られる本と、新しいレシピを手に入れたのだ。

 

(帰りにスーパーによって、早速今晩作ってみよう!!)

 

 そうウキウキ気分でオフィスに戻り、その後、定時で会社を出て帰宅した雷蔵であったが。

 

「くんくん、くんくん、……へぇ、そう、良いご身分ですこと旦那様は。――――他の女の匂いがする」

 

(あっれぇええええええええええええええ??)

 

 帰宅した彼を出迎えた妻・貴咲は、おかえりなさいと言う前に整った美貌を鬼のように歪めたのだった。

 

 

 

 □■□

 

 

 

(ふふふっ、あははははっ、バカみたい、今日は何時に帰ってくるだとか、もう少し着飾った方がいいかしら、とか考えてたのがバカみたいじゃない――)

 

 玄関で硬直する雷蔵を前に、貴咲の機嫌は急速に下降していった。

 少しは妻らしく、帰ってきたら玄関でおかえりと言う所から始めてみようと。

 今日は何を作ってくれるのかと、悔しいが少しばかり浮かれていたというのに。

 

(嗚呼、間違いない、……私以外の、他のの女の匂いがするわ)

 

 驚いている、こんな思考をしてしまう自分に。

 驚いている、ふつふつと怒りが沸いてくる事に。

 あの惨劇の夜より、強い衝動が胸にあるのが。

 

「え、ええっと貴咲? いったい何を――」

 

「お黙りなさい旦那様? ふふっ、嗚呼――、貴方はどうしてこう、私の感情をかき乱すのが上手なの? これも駆け引きなのかしら? それとも…………捨てるの? あれだけ愛を囁いておいて? あれだけ熱心に毎晩抱いておいて? もう他の女に手を出しているのですか?」

 

「誤解ッ、誤解だから! 他の女の人と関係持ったりしてないって!! というか匂いって何なのさ!?」

 

「嗚呼、臭い、臭いわ、こんなにも臭いのに――、なんで旦那様は気づかないのかしら? ふふっ? 腹立たしくて、とてもおかしくて、ふふっ、くふふふふっ――――」

 

(ダメだ話を聞いてくれないッ!? 何でこうなってるのさ!? 何が原因で何に怒ってるワケ??)

 

 血走った目を見開き、口元を強く歪め、貴咲は己の首輪から延びる鎖を雷蔵の首に巻き付けて。

 事と次第によっては首を絞める、そう雰囲気が雄弁に物語っている。

 

(本当に、……嗚呼、本当に腹が立つわ)

 

 洗脳、とでも呼ぶべきだろう。

 かつての不破で貴咲に施された女としての教育が、男の不実を見逃せと囁く。

 甘く嫉妬し、寵愛を煽れと本能が訴える。

 

(けれど、――心は別なのよ)

 

 許せない、欲望のままに汚された事が。

 許せない、あれだけ愛を囁くならば他の女の陰すら見せないのが道理であろう。

 許せない、こんな男に絆されようとしている自分が。

 ――何より、誤解だと分かっていて止められない感情が。

 

「許せないの、――ねぇ、分かる雷蔵? 私が何故、許せないのか、貴方と引き裂いて殺したくて殺したくて堪らないのに、その腕に抱かれる事を意識してしまう気持ちが……理解できる? 出来ないでしょう??」

 

 譫言のように呪うように言葉を吐き出す彼女に、雷蔵は静かに一度、目を閉じて。

 彼女が側にいると、いつもそうだ。

 己が己でなくなっていく感覚、否、そうではない。

 

(気持ちがね……押さえられなくなるんだ)

 

 人形だった自分は壊れてしまった、僅かに残った堅い部分でさえ少しずつ壊れていく。

 

(ダメだ、たぶんさ、ダメなんだよこう思っちゃ。でも――)

 

 体に震えが走る、貴咲の声が耳朶に届く度に、その指が体温を伝える度に。

 

「何とか言ったらどうなのよっ!! それとも捨てる私なんかと話す言葉を持ち合わせていないとでも言うの?? ――震える程、笑っている癖に!!」

 

(心地良いんだ、君の声が、例えヒステリックに叫んでいても)

 

「なんでっ!! なんで何も言わないのよ!!」

 

(嬉しいんだ、君が離してくれない事が)

 

 何もかも持っていなかった雷蔵に、たった一つ手に入れた宝物。

 

「ううううううっ、殺すっ、殺すから、貴方なんか――――っ!?」

 

 苛立ちが頂点に達した貴咲が、雷蔵の首を絞めようとした時だった。

 彼の目尻に浮かぶ、大粒の水滴を発見してしまって。

 溢れ出したそれは、ぽろぽろと頬を伝って落ちる。

 

「…………ありがとう貴咲」

 

「え?」

 

「嬉しいんだ、どんな感情であれ君が僕を想ってくれてるのが。――何も無かったから、僕には何も無かったから、ううん、本来はあったのかもしれない、でも……そういうの無かったから、僕だけに向けた僕だけの感情が、嗚呼、嬉しいんだ」

 

 不破雷蔵、或いは、ら104、それとも殺戮人形か。

 己を表す呼び名はある、だがそれは本来の物ではなくて。

 あった筈だ、両親から送られた名が、想いと愛が込められた大切な名が、温もりが、家族が、あった筈なのだ。

 

(なんで……なんで泣くのよ)

 

 不破に奪われた者、不破であるから奪われた者、どちらも一度ゼロになって、ひとつを手に入れた。

 同じなのだ、雷蔵も貴咲も、なのにこんなにも違って。

 

(私にこの人しか居ないように、この人は私しか居ない、――それって)

 

 度し難い、本当に度し難い、目の前の男が怖くて憎くて仕方がないのに。

 執着されるのが、己の言葉、一挙一動で右往左往する彼の存在が。

 

(楽しいだなんて、憐れんで優越感を感じてしまうなんて)

 

 ダメなのに、こんな感情抱いてはいけないのに。

 貴咲の背筋はゾクゾクと震え、下腹から熱い何かがこみ上げてくる。

 ――きっと壊れてしまったのだ、彼に鎖をつけられて。

 

「………………はぁ、今回は不問にしておいてあげるわ。次、他の女の痕跡があったら覚悟しなさい」

 

「やった!! 貴咲がデレた!!」

 

「うわキモっ!? 泣いてたのに満面の笑顔で言うんじゃなうわよ!!」

 

「バカにしないで欲しい、――君の言葉があるなら僕は絶望の淵にいても希望を抱いて立ち上がろう!! …………ところでお腹減ったね、晩ご飯作ろうか」

 

「大丈夫旦那様?? そこでそれはサイコパスすぎない??」

 

 妻の言葉を華麗にスルーして、彼はいそいそと玄関から移動する。

 着替える夫の背中を見ながら、不安を隠せない妻はジトっと睨みつけ。

 

(うーん、このまま食事の支度をさせていいの?)

 

 彼が調理に移るまでの時間は、余り残されていない。

 なにせ、着替えてエプロンを付けたら終わりだ。

 今は手洗いうがいをしているが、この隙に何か出来ないものか。

 

(教えて貰ったカルボナーラ、上手く作れるといいなぁ、貴咲も喜んでくれるといいんだけど)

 

(考えなさい、このサイコパスに本当に料理させていいの?? 一昨日みたいに監視する?? それとも私が作る? ――いいえ違う、先ずは時間稼ぎよ)

 

(この前みたいに一緒に作ってくれるのかな、うーん、でも普通に待ってて貰いたい気もする)

 

(私に何が出来る? 力でも技でも敵わないひ弱な女に、男に媚びるしか能がな…………これよ!! 手段は選んでいられないわ!!)

 

 貴咲が決心したと同時に、雷蔵は意気揚々とエプロンをつけ。

 それ故に、今がラストチャンス。

 取りあえず不安だから調理を止めるのだ、と彼女はふわっと微笑み。

 

「そこ、座りなさい」

 

「え?」

 

「ね、いいから、そこのソファーに座って? お願い……ダメ??」

 

 貴咲は上目遣いで、可愛く小首を傾げてみせる。

 その際、さり気ないボディタッチと胸を押しつけるのは忘れない。

 普通の男だと確実に勘違いしそうな行為、ましてやそれが雷蔵なら。

 

「――オッケェ!! 座る!! 座った!! 次は何をすれば良い!!」

 

「ふふっ、素直な旦那様は好きよ」

 

「ッッッ!? ……ッ!? い、今ッ、僕のコト好きって!?」

 

「はぁい、そのまま動かないで――よいしょっ」

 

「膝の上に乗ったぁッ!? ゆ、夢!? もしや僕はもう死んでて幸せな幻想を見ている…………ッ!?」

 

 愛する妻に膝の上に乗られたとあれば、その上で彼女は額をぐりぐりと彼の胸板に擦りつけて。

 彼女はまるで猫が匂いを上書きするように、雷蔵を染め上げようとする。

 

(し、幸せだ……、こんなコトがあっても良いのか??)

 

(このまま何時間か膝の上に居れば、今日は料理させずに済むわよね?)

 

(――――嗚呼、だからこそ)

 

(頬にキスぐらいしてやろうかしら? それとも寝たふりでも?)

 

 幸せで、幸せだから、すっと雷蔵の心は冷え込んでいって。

 だってそうだ、あり得ない。

 彼は貴咲に向ける愛が一方的であると知っている、彼女が雷蔵を愛していないのを知っている、故に。

 

(残酷だねぇ、貴咲もさ)

 

 嗚呼、と溜息が漏れそうになる。

 思わず殺意すら浮かび上がってくる、腹立たしい、とてもイライラする。

 幸せの重みを感じているのに、彼女の白い首筋に手を伸ばしたくなって。

 

(君も――僕を弄ぶのかな? 僕を人形として、玩具として、便利な道具として使う気かい? 嗚呼、そうさ、君が僕に笑いかけるなんてあり得ない)

 

 忘れかけていた憎悪がチロリと弱火で燃え始める、そうだ、愛しているから、美しいから、立場は違えど彼女もまた不破の被害者であるから。

 そんな理由で、彼女を殺さなかった訳ではない。

 そんな理由で、彼女を犯した訳ではない。

 

(不破の最後の直系。僕こそ許せるものか、嗚呼、君の罪じゃない、けど……)

 

 殺して、殺して、全て燃やして、己はそこで共に死のうと思っていた。

 だが最後に残った彼女を目にした途端、愛とも憎悪とも分からない何かに。

 ――始めて、感情に体が支配された。

 

「ねぇ貴咲……、君は良い奥さんだね」

 

「はい? 食事も作らない妻ですけど? その目は節穴ですか旦那様?」

 

「違うよ、――君を見る度に、美しいと思う。愛おしいと思う、とても幸せだと思うんだ…………僕の中にある憎しみがまだ、燃えているコトにだって気づかせてくれてさ」

 

「ッ!? ――――ははっ、心の底から壊れてるのですね旦那様?」

 

「そうさ、君たちが生み出した壊れた人形だ、嬉しいんだ、君への愛が、その血への憎悪が、僕を人間にする」

 

 その時、貴咲は腑に落ちた気がした。

 やはり、そんな感情すら浮かぶ。

 執着は愛だけではない、復讐だ、無理矢理に妻にし囲っている事こそが彼の復讐なのだ。

 

(可哀想なヒト……、痛めつける事すら出来ずに、中途半場に妻としか扱えず、復讐心がなければ、私への愛がなければ死んでしまう生き物)

 

 誰よりも強いのに、滑稽なほど弱くて不器用。

 

(愛してる、なんて一生言ってあげないわ)

 

 その言葉は貴咲の敗北であり、雷蔵の心の死である。

 満たされたいのに、満たされたら死んでしまうのだ。

 だからきっと、料理を始めたのも貴咲の関心を、愛を得たいからで。

 ――誘うように、謡うように、彼女は囁く。

 

「私の為に食事を作るのも、復讐ですか旦那様? 権力者の妻として栄華を極める筈だった私への、意趣返し……」

 

「そうかもしれない、でも……分からないんだ、愛してると口にしてもさ、それが復讐心なのか本当に愛なのか、誰も何も教えてくれなかったから」

 

「愚かね、そんなの誰も教わらないし、分からない事だわ」

 

「じゃあ、僕はどうしたら良いと思う?」

 

 結婚したなんて形だけの事だ、雷蔵は夫として愛してないし、貴咲も妻として愛していない。

 何もかも終わった後に始まった関係は、とても歪で。

 

(だから藻掻いているのね、貴方も、私も、夫婦として、人として、欠落した人生を歩いてきたから……)

 

 全てが手探り、二人っきりで暮らす事だって初めてだ。

 その事に気が付くのですら、三ヶ月経った今であり。

 という事は、だ。 

 

「…………バカの考え休むに似たりよ、今日はこのまま過ごしましょう。夕食は適当にピザでも頼むとして」

 

「ええッ!? 作らせてくれないの!?」

 

「だって貴方、作るの見てて怖いのだもの。きっとこの前のはまぐれで完成したとしか思えないし」

 

「えー、折角教えて貰ったのにカルボナーラの作り方……」

 

 しょんぼりする雷蔵に、貴咲は軽く眉を動かして。

 

「どうせ女の方なのでしょう? 他の女に習った料理を妻に味あわせるなんて良い趣味をしてますね??」

 

「誤解だよ、教えてくれたのはジェイムズの方。あ、君は知らなかったっけ運び屋の二人のコト」

 

「……ああ、そういえば誰かが言ってましたっけ。腕は良いけれど珍妙な運び屋の二人組の事を」

 

「そうそれ、運び屋M&J。昔から個人的に利用してるんだ」

 

 三ヶ月前の惨劇の準備にも関わっているのだろう、と貴咲は直感したが。

 ともあれ、彼から他の女の匂いがした理由も見えてきた。

 

(確か……外国の男女の二人組だったわね。なら、挨拶にキスぐらい、うん、するかも)

 

 心にモヤっとした何かを感じながら、はぁと溜息を一つ。

 

(私は……雷蔵が好きなのかしら? それとも既に愛して? 分からない、分からないけれど……)

 

 憎悪や愛を別として、彼に頼らないと生活が成り立たないのも確かだ。

 正確に言うと、彼の妻でいること、それそのものが彼女なりの意趣返しでもあり。

 つまり、適度な飴は必要であるとも認識している。

 

「…………では問題です、カルボナーラのソースを作るときの火加減は?」

 

「え? 早く食べたいし強火で良くない??」

 

「はいダメ!! あー、もう……、私が側で見てますから、ちゃんと美味しく作ってくださいよ?」

 

「それってオッケーってコト!! やったーー!!」

 

「きゃっ!? いきなり抱き抱えて立ち上がらないで!? そのまま調理する気ですかおバカ!!」

 

 貴咲は不安しか無かったが、ともあれカルボナーラを作ることになったのだった。

 

 

 

 □■□

 

 

 

 パスタを茹で始めた後、貴咲は用意された他の食材に視線をやった。

 

「では旦那様、材料の確認ですが……」

 

「卵四個、ブロックベーコン、粉チーズ、スパゲッティの麺、ニンニク一個!!」

 

「え、ニンニク一個丸ごと使うのですか?」

 

「ははは、まさか。その中でひと欠片さ」

 

 成程と思いつつ、しかして貴咲はそれでも多いのでは、と思ったが口には出さず。

 それより先に、言うことがあるからだ。

 麺を茹でるための鍋は何も問題はない、むしろ買って帰ってきた事を褒めるべきだろう。

 

「…………その、旦那様?」

 

「え、何その目。間違ってた?」

 

「間違ってるというか……、菜箸をナイフの様に持って何をしてるのですか??」

 

「いやベーコン斬るんだけど? だって少し厚めにしたいし」

 

「ああ、そういう…………ってぇ!! どこの世界に箸でベーコン切る人がいるのですかっ!?」

 

 余りに普通に言うので流しそうになったが、とてつもない非常識さに貴咲は思わず大声をあげた。

 いくら彼が斬ることに長けていると言っても、出来ることと出来ない事があるだろう。

 それとも本当に可能なのだろうか、或いは彼なりのツッコミ待ちなのか。

 

「この前さ、初めて包丁使ったじゃない? ちょっと食材切るには斬れすぎるかなぁって」

 

「普通に包丁使って??」

 

「まぁ見ててよ、良い感じに斬るからさ……」

 

「えぇ…………??」

 

 夫の奇行に遠い目をする妻であったが、当の本人は至極まじめな顔で。

 

(僕なら出来る、――やってみせる)

 

 斬る、というのはコツがある。

 どんな物体にも、果ては水や空気でも、斬り裂くのに丁度良い角度とスピードがあるのだ。

 

(その日の湿度とか温度も関係してくるけど、こうやって軽く叩いて感触を確かめて……)

 

 菜箸でブロックベーコンを叩く、先日の玉葱のように投げる事はしない。

 万が一にも過つことは無いが、貴咲にも刃があたる可能性は少しでも減らす為だ。

 雷蔵は菜箸の強度も計算に入れて、一気に振り下ろすと――。

 

「――ッ?? は?? 何でそれで切れるんですか!? 物理法則に喧嘩売ってるんですか旦那様??」

 

「いやいや、物理法則の範疇だよ。流石に法則そのものは斬れないって、まぁもし見えたら斬れるかもしれないけどさ」

 

「言葉の意味が分からないわよっ!? 何で!! 何で本当に切れてるのよ!!」

 

 これが才能、本物の才能かと貴咲は戦慄する。

 どうして料理の場で、人類最高峰の殺しの技の一端を見せられなくてはならないのか。

 理不尽すぎる目の前の光景に、頭痛さえしてきそうだ。

 

「いやー、やれば出来るもんだねぇ。でもこれで包丁を洗う手間が省けたってもんだし。うん、これからも菜箸でいいかな?」

 

「そういう問題じゃありません!! お願いですから!! 普通に包丁使ってよ!!」

 

「あれ不評? あるぇ?? カッコいい技を見せたらちょっとは惚れてくれるって甘い考えはあったけどさ、そこまで不評なの??」

 

「――――こんど菜箸でそれをしたら、食事は作らせません」

 

「目が座ってるッ!? そこまで嫌だったの!?」

 

 がーんと落ち込みながら、少し厚めに切ったベーコンを雷蔵は小皿に移す。

 何がいけなかったのだろうか、洗い物はひとつ減り、才能を有効に使っただけなのに。

 女心は誰かを殺すより難しい、そう痛感しながら次の行程に取りかかり。

 

「はぁ……どうしてこう、雷蔵は……、いえ、落ち着くのよ私、ここから先は切る必要なんて無いんだからっ」

 

「よーし、じゃあ次は卵液ってのを作ろうと思うんだ」

 

「…………はい? 卵液? ソースではなく?」

 

「ソースを作る手順の一つだってさ」

 

 どれどれと、貴咲は彼が横に置いていたレシピをまじまじと見る。

 実の所、彼女とてカルボナーラを作るのは初めてであり。

 二人して、新たな知識に目を輝かせていた。

 

「へぇ~~、二段階に分けてソースを作ってるのね」

 

「四つの内、二つをそのまま、残りは卵黄のみってコトだけど。卵白の部分は捨てるしかないし勿体ない気がするね」

 

「でも今の私たちでは、残して置いていてもも腐らせるだけだけでしょうね」

 

「ここに粉チーズを入れて、塩と胡椒も忘れないようにっと……」

 

 卵液、と呼ばれるそれを雷蔵がかき混ぜ、貴咲が残りの材料を入れる。

 

(――――あれ? もしかしてこれって共同作業じゃないかしら? い、いえ、別にそんな気で手伝ってる訳じゃ……っ!!)

 

(しっかり混ぜろってジェイムズは言ってたけど、うーん、具体的にはどれぐらいなんだろうか……?)

 

 ともあれ数分後、それっぽく混ざった卵液を横に置いて。

 今度は、ベーコンを炒め始める。

 

「いやぁ、良い匂いだねぇ……、このベーコンの炒めたのだけでご飯が進みそうだ」

 

「実際に作ってみると、食べる時より色々と匂いが違うのね」

 

「――っと、ニンニクの色が変わったね。ベーコンはこのままで良いのかな??」

 

「手順を見るに、問題なさそうね。ふふっ、どんな風に仕上がるのかしらっ」

 

 食生活が悲惨だった雷蔵とは違い、貴咲はカルボナーラは何度も食している。

 しかし、それは外でだったり家の料理人の手によるものであったり。

 自分達で作るの初めて故に、自然と浮かれ始める。

 

「あ、パスタも茹であがったみたいですね旦那様!」

 

「よぅし、麺を引き上げて水切りしてよ貴咲、僕はソースの続きに入るよッ!!」

 

「茹で汁を120cc程入れるのをお忘れ無くっ」

 

「――問題ない、今投入した!!」

 

 雷蔵は火を消して、ベーコンを炒めていたフライパンの中に茹で汁を即投入。

 運び屋曰く、冷まさずに高熱が残った状態でかき混ぜるのがコツだとか。

 それを意識しながら、卵液を投入して。

 

(……ここで失敗するとソースがダメになるって言ってたッ、慎重に、でも速度を落とさずかき混ぜる、唸れゴムベラとかいう道具!!)

 

 刃物を振るうより、なんと難しい事か。

 新米夫は、ごくりと唾を飲み込んで額に汗をかきながら手を動かす。

 

(固まらない様に……固まらない様に丁寧に……!)

 

 時折、冷めないように再び火を入れては一定時間の後に消し、付けては消し、を繰り返して。

 

(思ったより難易度高くないこれェッ!?)

 

(が、頑張るのよ雷蔵!! 絶対に口に出して言ってあげないけど、頑張って!! 今日の夕御飯は旦那様にかかってるのっ!!)

 

(ふわぁああああ、緊張して手が震えて来たぁ!?)

 

(レシピによると、もうそろそろ出来る筈よ……!)

 

 貴咲は茹であがったパスタが入ったザルを持って待機、お皿は準備している。

 後は、混ぜてから盛りつけるだけ。

 そう、それだけなのだ。

 

「――――今だッ、入れてくれ!!」

 

「はいっ!!」

 

「混ぜるッ、フライパンの中で混ぜる!!」

 

「……ソースは固まってません、成功よ旦那様っ!!」

 

「なら後は、お皿に盛るだけ――――ッ!!」

 

 そして、フライパンを持って皿がある食卓へ。

 彼にしては非常にゆっくりと移動し、続いて震える手でそれぞれの皿に乗せ。

 

「…………か、完成したッ」

 

「ええ、ええ、上出来よ雷蔵。……さ、フライパンを置いたら食べましょう」

 

 やりきった、その満足感と達成感が二人に屈託のない笑顔を浮かべさせる。

 高揚感に包まれた夫婦は、お互いが笑顔なのに気づかず席につき。

 

「「――いただきます!!」」

 

 ならば、思うがままに食すのみ。

 食欲をソソる匂いが、目の前のカルボナーラから漂って来て涎が垂れてしまいそう。

 ごくりと唾を飲み込むと、雷蔵はくるくるとフォークで麺を絡め取りまずは一口。

 

(おお、なんか濃厚な感じがして美味しい!!)

 

 本当に、自分がこれを作ったのか。

 信じられない気持ちと、しかしてレシピが良かったのだろうという感謝の念が湧き出る。

 そして。

 

「――ありがとう、今回も貴咲のお陰で美味しく出来たみたいだ」

 

「どういたしまして、貴方はもっと私の存在に感謝すべきね……うん、美味しいっ」

 

 彼女はまんざらでもない顔をして、もぐもぐと幸せそうに頬張る。

 これがもし実家ならば、はしたないと怒られたかもしれないが。

 生憎と、この場は貴咲と雷蔵の二人だけだ。

 

(ベーコンの塩気がソースの濃厚さを引き立てている……、あー、これが食べたかったのって感じねぇ~~)

 

 肉の旨味と卵とチーズのソース、この組み合わせは神ではなかろうか。

 彼女はそんな事すら考えながら、おもむろに胡椒の瓶を手に取る。

 考えが正しければ、きっとこれで。

 

「――うん、追加で胡椒をかけたら更に美味しいわね」

 

「えッ、ホント!? どれどれ…………美味い!!」

 

「ね、ね、今度作る時は最後に卵黄を乗せてみましょうか」

 

「見たことあるヤツだッ、うーんでそうすると卵多くなりすぎない?」

 

「馬鹿ね、美味しさの前では些細なことよっ!」

 

 それもそうか、と雷蔵は頷きながら舌鼓を打った。

 幸せとは食卓にあった、もはやそれは確信である。

 今後もこうして二人で食卓を囲めると良い、そう考えた時。

 

(――あ、そういえば他にも教えてくれたっけ)

 

 ジェイムズはこれをメアリィに作り、プロポーズしたという。

 それはもう幸せそうに、運び屋の二人は惚気ていて。

 だから雷蔵は。

 

「『このカルボナーラの様に、君の人生の全てにオレを美味しく捧げたい』」

 

「……はい? いきなり何を言い出すの? とうとう言語まで壊れたのかしら?」

 

「そんなキョトンとした目で見ないで……、これはね、ジェイムズがメアリィにプロポーズした時の台詞なんだって」

 

「え、それで結婚したの?」

 

 それはロマンチックとは程遠く、むしろ残念極まりない言葉。

 これで結婚を決意する女性がいるのか、不思議でしかたがない。

 

(――――ああ、逆なのね)

 

 きっとこの言葉は、相手の事が愛おしすぎて出てしまった言葉であり。

 メアリィは言葉の前に結婚を決意しており、つまりは。

 

「だからこそ、結婚したのね。……ふふっ、男の人って本当に馬鹿なんだから」

 

「どういう事?」

 

「言葉は何でも良かったのよ、そこに愛という気持ちがあれば、愛が伝わっているなら」

 

「…………」

 

 少し羨ましそうな顔をした貴咲に、雷蔵はフォークを置いてまっすぐ見る。

 運び屋の二人に影響されたのか、それとも。

 今の彼は、衝動に突き動かされていて。

 

「――ねぇ貴咲、聞いてくれるかな」

 

「美味しいから、聞いてあげるわ」

 

「僕は君の意志を無視して無理矢理に結婚した、悪いと思ってる」

 

「…………それで?」

 

 今更、あらためて謝罪をする訳でもないだろう。

 貴咲は興味を引かれて、続きの言葉を待つ。

 彼の些細な変化を見逃さないよう、目を細めて見つめる。

 

「何もかも間違っててさ、ちゃんと愛してるかすら分からない。――でも、僕と一緒に幸せになって欲しい」

 

「幸せにする、じゃないのね」

 

「僕だけ幸せになってもね、貴咲は僕の生きる理由で、きっと……君が幸せじゃないと僕も幸せじゃないから」

 

「断ると言ったら?」

 

 穏やかであるが挑発的な言葉に、雷蔵は笑みを浮かべて答えた。

 

「それでも、君と一緒に幸せになりたいんだ。だからさ……もっと美味しい物を沢山作って、貴咲と一緒に食べようと思う。――――付き合ってくれるかな?」

 

「私の愛を手に入れる前に、胃袋を掴もうと?」

 

 貴咲はニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべながら、緊張した顔をする夫を見た。

 彼は加害者であり、己は被害者だ。

 しかし同時に、彼こそが救いの主でもあって。

 

(実際の所、……±0どころか、+1なのよね、ええ、心情的に納得いかないだけで、恩義より恨みが先に来るだけで)

 

 彼が貴咲に罪悪感を得ているように、彼女もまた雷蔵に罪悪感がある。

 

(――私に罪があるのならば、一族に殉じて死ななかったコト、雷蔵を殺そうとしていないコト、……憎みきれないコト)

 

 そして。

 

(結婚出来て、嬉しいって思ってるのよ。貴方に愛を与えてないのに、貴方が愛してくれて優越感すらあるの)

 

 だから。

 

「…………好きにすればいいわ、精々ありもしない希望に縋ればいい。私は旦那様が死ぬまで側にいて、絶望して死ぬのを待っているわ」

 

「うん……うん! ありがとう貴咲!!」

 

「嗚呼……本当にバカよね貴方、まぁ、美味しい食事を作ってくれたら好きな服ぐらいは着てあげるわよ」

 

「マジでッ!? うおおおおおおおおおおッ!! 漲ってきた!! これからもっと色んな美味しいの作るよ!!」

 

 俄然、張り切り出す夫に妻は苦笑して。

 今夜ぐらいは、色気のある下着をつけてもいいかもしれないと思ったのだった。

 ――――そして、三日後の夜である。

 

(そろそろ、あの服も処分しなくちゃね……)

 

 就寝前、雷蔵が入浴している間に貴咲はふと思い至って。

 あの服とは、さの惨劇の日に着ていた着物である。

 その日は、一週間後に迫るお見合いの為の衣装会わせをしており。

 

「クローゼットの中とはいえ、いつか邪魔になるだろうし……余計な未練は残したくないもの」

 

 あの家に居た頃は、決して幸せとは言えなかった。

 だがそれを着た時は、母も妹も、厳格な父でさえ笑って誉めてくれて。

 でも、もうボロボロだ。

 

(結構破れてるし、所々燃えてるし、当てつけで残してた様なものだもの)

 

 苦笑をひとつ、貴咲は用意したゴミ袋に入れようとし。

 

「――――ぁ」

 

 ころん、と小さな指輪が床に落ちた。

 それはプラスチックの粗末な、どうみても玩具としか言いようのない物で。

 彼女はのろのろと拾うと、大事そうに両手で包み込む。

 

「こんな所にあったのね、ええ、てっきりあの家と共に燃えてしまったものだと……」

 

 静かに目を伏せる、子供の頃の想い出、今となってはたった一つの。

 

「――――ばか、思い出しちゃったじゃない。忘れてたのに、今まで、忘れたフリをしてたのに……皮肉なものね、嗚呼……バカなのは私もよ、今更…………だなんて」

 

 少し悲しそうに、切なそうに、震える声で、けれど嬉しさが。

 否、嬉しさではない。

 慕情といえる何かを感じさせる顔で、彼女は祈るように指輪を大切に握りしめ。

 

(貴咲…………ッ??)

 

 見てしまった、雷蔵はそれをトランクス一丁の姿で。

 見てしまった、妻が指輪を大事そうにしているのを。

 見てしまった、彼女が誰かを想っている姿を。

 夫は彼女に指輪など送っていないのに、指輪を握りしめる妻の姿を見てしまったのだ。

 

 




そうそう、話数的にはいつもより少ないですが。
トータルの文字数で見れば、いつもと同じ一冊分ぐらいのアレです。
今作は日常グルメ系の括りなんで、一品ごとに切りよく纏めてみました。
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