Pokémon LEGENDS 三聖獣異聞録 神都秘邃百獣夜行   作:野傘

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大変長らくお待たせしました。
『百獣夜行』、第二幕です。


深緑の■君

 手をグッと握りしめ、再び開く。

 足に力を込めて、その場で数度足踏みする。

 

(うん、大丈夫だ)

 

 感触を確かめるように体の各部を動かし、ショウはうんと頷く。

 先日まで手足を動かす度に走っていた痺れるような感覚はない。2週間の休養と機能回復訓練(リハビリテーション)を経て、彼女の体はその機能を取り戻していた。

 

(だけど……)

 

 だがショウの体調が順調に回復する一方、『百獣夜行』の調査は順調とは言い難かった。

 

 『百獣夜行』発生より2週間。その間、調査隊による『純白の凍土』の調査が行われたものの、ショウの報告以上の情報は何一つとして得られておらず。解明の鍵となるかもしれない白き雷獣——ライコウについてもその足取りは掴めていない。

 未だ『純白の凍土』にはポケモンたちが戻っておらず、不気味な沈黙が続いている状態。

 ……お蔭でポケモンたちに邪魔されることなく、順調にシンジュ集落の復興が進んでいることだけが幸いだったが。

 

 ともかくギンガ団内部には、ヒスイの地を襲った『百獣夜行』という未知の災害について、解明の糸口を掴むことが出来ぬままじりじりとした焦りが広がっていた。

 そんな時だ、

 

「ショウ! 大変だ!」

「テル先輩?」

 

 その知らせが齎されたのは。

 

「そんなに急いでどうしたんです?」

「ハアハア……『百獣夜行』だ」

「——え?」

「『百獣夜行』がまた起きたんだ! 今度はコンゴウ集落で!」

「!!」

 

 ——コンゴウ集落にて『百獣夜行』発生せり。

 

「今その件でセキさんがムラに来てる。それでボスがお前も来いって……!」

「ありがとうございます、テル先輩! 私、すぐ行きます!」

 

 その言葉を聞いた瞬間、礼もそこそこに大急ぎでショウは駆けだす。

 目指す先はギンガ団本部、団長室だ。

 

 

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 

 

 コトブキムラ、ギンガ団本部団長室。

 

「失礼します! 団長、新たに『百獣夜行』が発生したとお聞きしましたが——!?」

「うむう、来たか」

 

 『百獣夜行』発生の知らせを聞き及び、あらん限りの速度で駆けつけたショウ。

 ほとんど飛び込むような形で団長室に入った彼女を出迎えたのは、彼女のよく見知る三人の男女の険しい顔であった。

 

 一人はギンガ団団長にしてこの部屋の主たるデンボク。

 一人はギンガ団調査隊隊長にしてショウの上司たる女性シマボシ。

 そして、もう一人は青い髪を後頭部で括り、カブいた着物を着こなす若い男——その名を"セキ"。シンジュ団と同じヒスイの先住民にして、時間を司るシンオウ様——ディアルガを信仰するコンゴウ団の長である。

 

 団長室へと駆けこんだショウの姿を見止めると、デンボクはうむと一つ頷き、早速とばかりに口火を切る。

 

「これでおおよそ揃ったな。では、セキよ。事の子細を頼む」

「ああ」

 

 デンボクに促され、次に口を開いたのはセキ。その顔にいつもの余裕綽々とした様子はなく、眉間に皺を寄せ、いつになく真剣な表情を浮かべていた。

 

「時間が勿体ねえから前置きは抜きでいくぜ。コンゴウ集落が壊滅した」

「ッ!」

 

 コンゴウ集落の壊滅。セキの口から告げられたその言葉に、ショウは息を呑む。

 

「やたらと殺気だったポケモンたちが、脇目も振らずに集落へなだれ込んできてな。オレたちゃ逃げる時間を稼ぐだけで精一杯だった」

 

 曰く、突如ポケモンたちが大挙してコンゴウ集落を襲撃。突然の出来事にコンゴウ団は対応しきれず、集落は壊滅状態となってしまったという。

 

「ハッキリ言ってこんな事象、今まで見たことも聞いたこともねえ。だったら、それはオレたちが今まで知りえなかった事象——つい最近になって発生したっていう『百獣夜行』以外にあるまいよ」

 

 セキは断言する、コンゴウ集落を襲ったこの現象を彼は今まで見たことはなく、またコンゴウ団の伝承にも残されていない。故にこれはヒスイにおいて全く未知の災厄——即ち、『百獣夜行』に他ならない、と。

 と、そこで彼は僅かに表情を緩め——

 

「とはいえ、幸いなことにコンゴウ団(オレたち)から死人は一人も出ちゃいねえし、それに怪我した連中はいても一刻を争う重傷者はいねえ。安静にしてりゃあそのうち治るだろうさ。それに旦那たち(ギンガ団)から『百獣夜行』の情報を聞いて、オレたち(コンゴウ団)もそれなりに備えをしてたんでな。里の復興はオレたちだけでやれる」

 

 里こそ壊滅したもののいざという時の備えはある、故に復興は可能だと、そう言った。

 

 自力での復興が可能であるという——言外にギンガ団からの支援は無用だと滲ませる——セキの言葉にデンボクは内心でホッと胸を撫で下ろす。

 シンジュ団への支援によりただでさえギンガ団の許容量(キャパシティ)が圧迫されつつある今、さらにコンゴウ団への支援も追加するとなると相当に厳しい。故に支援は不要というセキの言葉は素直にありがたかった。

 

「ただ、また『百獣夜行』(こんなこと)が起きたら流石のオレたちもどうしようもねえ。だから旦那たちには今回の一件、解明のため調査を頼みたい」

「うむう、『百獣夜行』はヒスイに生きる全ての者たちにとっての脅威。その解明のためならば、我らギンガ団総力を挙げて取り組む所存。その依頼、喜んでお受けいたす」

「ああ、頼んだぜ旦那」

 

 『百獣夜行』解明のため、ギンガ団に対し調査を頼んだセキ。そんな彼からの依頼をデンボクは一も二もなく受諾する。『百獣夜行』は目下、ヒスイ地方に生きる者たちにとって最大の脅威となりつつある災害。ようやくヒスイの地に根付きつつあるギンガ団にとって、その解明と対策は急務であった。

 

 さて、コンゴウ集落を襲った『百獣夜行』について正式に調査を請け負うこととなった調査隊。

 そこで調査隊隊長シマボシが手を挙げた。曰く、セキが目撃した『百獣夜行』に関して幾つか質問を行いたい、と。

 

 なぜ彼女がこんなことを言い出したのか。それは『百獣夜行』そのものの情報が現状、大幅に不足している状態であるからであった。

 前回、シンジュ集落を襲った『百獣夜行』が発生したのは夜間。暗闇の中で混乱した状態ではどうしても得られる情報に限界がある。だが今回の『百獣夜行』が発生した時間帯は昼間。見通しのよいこの時間帯ならば、前回よりもより詳細な情報が得られるのではと踏んだのだ。

 そんなシマボシからの求めに、解明に役立つならばとセキは快く応じ、了承を受けたシマボシは早速質問をぶつける。

 

「二つ質問する。その一、集落を襲ったポケモンが殺気立っていたと言うが、具体的にはどのような様子であったか。その二、『百獣夜行』発生の前後で『紅蓮の湿地』に何か変わった点はなかったか」

 

 シマボシから発された二つの質問にセキはしばし記憶を思い起こす素振りを見せると、記憶を探るように一つ一つ回答していく。

 

「そうさな。まずは一つ目の質問だが……集落を襲った連中は皆、尋常じゃねえくらい気が立ってるみてえだった。本来なら大人しい性格のポケモンたちもみんな目を血走らせて、目につくものには手当たり次第攻撃をしかけてよ。後は……」

 

 と、そこでセキは不意に訝しむような表情を浮かべ。

 

「——そうだ。そういや連中の体には、薄っすらと何か……黒い(もや)みてえなものが纏わりついているようにも見えた」

「!!」

 

 セキがポロリと零した言葉——"黒い(もや)"。その言葉を聞いた瞬間、ショウの脳裏にとある記憶が思い浮かぶ。

 

(黒い(もや)……それって!)

 

 思い起こされるのは『純白の凍土』での一件。かの恐るべき白き雷獣(ライコウ)との戦いにて目の当たりにした、活力を奪い尽くす黒い霊気(オーラ)

 

「シマボシ隊長、もしかして……!」

「断定はできない。——だが、可能性はある」

 

 "セキが見たという黒い(もや)は、かのライコウが放った黒い霊気(オーラ)と同一なのでは"、という可能性に行き着き、思わずシマボシの方を振り向いたショウ。シマボシもまたこれだけでは断定出来ないとしつつも、可能性としてならばと肯定する。

 

「——その様子だと、そっちには何か心当たりがあるみてえだな」

「はい、実は……」

 

 二人の様子を見てどうやら何かしら心当たりがあることを察したセキ。そんな彼に対しショウは先の『純白の凍土』での一件——白き雷獣(ライコウ)について説明をする。

 ショウからライコウについての詳細を聞き、セキは「はあ」と唸り声を一つ。

 

条都(ジョウト)の地に伝わる聖なる獣……雷を司るライコウねえ。ウォーグルや雪原キングにまで襲い掛かったとは聞いたが、んな力まで持ってるとは知らなかったぜ」

「うむう、これについては我々(ギンガ団)の不手際だ。別活動に注力した結果、コンゴウ団への情報共有が疎かになってしまっていた」

 

 そう言ってスマヌと詫びるデンボクに、セキは気にするなと手を振り。

 

「過ぎちまったことはもう仕方ねえ。今ここで情報を得られたんだったらそれでいいさ。それに、仮にそのことを事前知ってても対応は変わらなかっただろうしな」

 

 "だからこの話はこれで終めえだ"、とこの話題を打ち切った。

 と、そこで再びシマボシが口を開き、セキに対し新たな問いを投げる。

 

「我々ギンガ団はこのライコウと『百獣夜行』には何かしらの関わりがあると見込んでいる。今回の襲撃でそれらしき存在は確認できなかったか?」

「——いや、そのライコウってポケモンについては見ちゃいねえ」

 

 今回の一件でそれらしき存在を確認できなかったか、というシマボシからの問いに否と返したセキ。だがそこで彼は「ただ——」と一拍置いて。

 

「こりゃ二番目の質問にも係るんだが。『百獣夜行』からこっち、『紅蓮の湿地』の様子がおかしくてな」

「様子がおかしい……? 具体的にはどのようにおかしいのか」

「ああ、それがな——」

 

 果たして、セキが語った『百獣夜行』の発生を境に『紅蓮の湿地』に起きたという"異変"——その詳細にギンガ団の面々は驚愕することとなる。

 

 

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 

 

 セキの来訪より数日の後、『百獣夜行』調査のため『紅蓮の湿地』を訪れたショウ。

 そこで彼女は信じがたい光景を目の当たりにする。

 

「何これ……本当に、ここ『紅蓮の湿地』なの……?」

 

 ——泥、泥、泥、泥。

 遠浅の干潟が如く、ただそれだけが一面に広がる光景。完全なる泥濘の海と化した『紅蓮の湿地』、これこそがセキの語った"異変"であった。

 

 彼曰く『百獣夜行』発生後、一夜にして『紅蓮の湿地』南部の低地がこの泥の大海に覆われていたのだという。

 確かに『紅蓮の湿地』はその名が示す通り、元々水気の多い土地ではあった。だが幾ら何でも前兆もなしにこのような泥濘の海と化すなど常識としてありえない——まさに異変としか言いようのない現象。

 それは長年この地で暮らしてきたコンゴウ団ですら知りえない全く未知の現象であり、故にこそセキはその調査をギンガ団へと依頼したのであった。

 

 ショウの目的はこの泥濘化現象の原因と『百獣夜行』との関わりの調査である。

 セキの話によれば泥濘化が確認されたのは『百獣夜行』が発生したすぐ後。ならば、それ以外に前兆らしい前兆が無かった以上、この泥濘化現象が『百獣夜行』と因果関係を持っている可能性が高いと判断するのも当然のことであった。

 

 ヒスイの地に齎された新たな脅威——『百獣夜行』。シンジュ・コンゴウの両集落を壊滅させたこの災害はしかし、それほどの被害を及ぼしながらもほとんどその実態が分かっていない状態だ。

 『紅蓮の湿地』の泥濘化現象は、そんな中で現れた新たな手がかりである。故にこそギンガ団は最も信頼がおける調査隊員(ショウ)を送り込んだのだ。

 

 さて、『紅蓮の湿地』に到着し早速調査を開始しようとしたショウであったが……しかし、その調査は初っ端から躓く。

 原因はごく単純、この泥濘の海を移動する手段が無かったからだ。

 低地部分を覆う泥は水分を多量に含んでおり、僅かでも体重をかけただけでズブズブと沈み込んでしまう。故、地上性のライドポケモン——アヤシシやオオニューラではこの泥濘で行動することは極めて困難。また、極浅い水深しかないこの泥濘では水棲のイダイトウも満足に動くことはできない。そして、このような状況下において最も頼りになる筈のウォーグルは先日の負傷から回復しきれておらず、とてもショウを載せて飛ぶことなど不可能であった。

 

 結果、ショウは今調査においてはライドポケモンを頼ることは出来ず、その身一つでの調査を余儀なくされたのである。

 

 

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 

 

 バシャリ、バシャリと泥飛沫を上げてぬかるむ大地の上を進む。ショウの足には水蜘蛛にも似た幅広の履物が取り付けられており、お蔭で泥に脚を取られることなく——時折深く沈み込むことはあったが——移動することが出来ていた。

 周囲に広がるのは見渡す限りの泥の大海。しかし、そこに響くのは彼女の足音のみ。普段であればイヤというほど聞こえてくる筈のポケモンたちの騒めきは一切なく。『紅蓮の湿地』は今、どこまでも静寂に満ちていた。

 

(ポケモンたちがいない……『純白の凍土』と同じだ)

 

 そんな静寂に包まれた『紅蓮の湿地』の様子に、ショウは『純白の凍土』の記憶が呼び起こされる。

 

(やっぱり、これも『百獣夜行』の影響……)

 

 『純白の凍土』では『百獣夜行』発生の後、ポケモンたちが一斉にその姿を消していた。そして今回、ここ『紅蓮の湿地』においても同様の事象が起きている。となればこれもまた『百獣夜行』に因するものなのだろう、と推測するショウ。

 

(……集落を襲ったポケモンは『凍土』も『湿地』も、その地域に住むポケモンたちだった)

 

 前回も、そして今回も『百獣夜行』にて現れたポケモンたちは皆それぞれの地域に生息する種族であったことが確認されている。

 それをポケモンたちが姿を消す事象と合わせて考えれば、『百獣夜行』において襲来したポケモンたちが『凍土』、『湿地』に生息していたポケモンたちであったことは容易に想像が付く。

 

(じゃあ、どうしてポケモンたちは集落を襲ったの……?)

 

 ——では、何故そのポケモンたちがわざわざ集落を襲ったのか。

 今まではその理由が判然としなかった。何せ、ポケモンたちにはわざわざ人里を襲う理由がない。ここ数年で形作られたコトブキムラ(ギンガ団の拠点)ならばともかく、長年に渡りヒスイの地に根付いた両団の拠点は周囲のポケモンたちの縄張りと住み分けが出来ている。

 さらに言えば彼らは各地のキング、ライドポケモンといった強大な存在の世話をすることでその加護を受けている。彼らを傷付けることは即ち、ヒスイ屈指の強者の不興を買うということに他ならない。

 ポケモンたちにとって態々リスクを冒してまで人里を襲うメリットなど無いに等しいのだ。

 

 それにも関わらず『百獣夜行』は起こった。ならばそこには彼らにとってはそのリスクを冒してまでも人里を襲う理由があったことを意味する。そして今回、セキから齎された情報の中にはその理由に繋がるかもしれないものがあった。

 

(——黒い(もや)

 

 暴走するポケモンたちの体から立ち昇っていたという黒い靄。セキによればこの靄を纏ったポケモンたちは皆一様に殺気立ち、通常ならば大人しいとされるポケモンでさえ普段とは比べ物にならない程の凶暴性を発揮していたらしい。

 状況証拠からの推察でしかないが、この靄がポケモンたちを『百獣夜行』へと駆り立てた要因の一つである可能性は高い。問題はその靄が何なのかという点だが……これに関しては既に心当たりがあった。

 

(ライコウが使った、黒い霊気(オーラ)

 

 それは二週間前、『氷山の戦場』にて邂逅した白き雷獣(ライコウ)のこと。『百獣夜行』にて観測された黒い(もや)と彼の獣が放った活力を奪う黒い霊気(オーラ)はどことなく似ている気がするのだ。

 勿論、この二つには齎す作用が"生命力の略奪"と"凶暴化"という点で違いがある。だが生物が最も凶暴化するのは自らの生命が脅かされた時——即ち飢餓状態の時であるという。ならばこの二つの作用は本質的に同一のものであると考えることも可能だ。

 故にあくまでも状況証拠からくる推察でしかないものの、ショウは彼の雷獣(ライコウ)こそが『百獣夜行』の元凶、ないしはそれと極めて強い関わりがあるものと考えていた。

 

 そして今回の調査においてショウはその考えが正しいものである確信をますます深めることとなった。

 

 それはショウが泥の海へと踏み込む直前、カミナギの笛でライドポケモンたちを呼び寄せた時のことである。

 その時ショウは泥濘での行動能力を確認すべく全てのライドポケモンを呼び寄せた。勿論、ほとんどのポケモンたちが呼びかけに応え姿を現した——が、どういう訳か呼びかけに応えず姿を現さなかったポケモンが()()いたのだ。

 一匹は負傷中のウォーグル。これに関しては何も言うことはない。彼は襲撃の傷が癒えておらず、呼びかけに応えられないのは当然のことである。

 

 ()()()()()()()()

 

 姿を見せなかったもう一匹のライドポケモン——その名、ガチグマ。

 他ならぬ()()()()()()湿()()()()()()()とするライドポケモンである。

 

(『ライドポケモンはカミナギの笛の旋律に反応して姿を見せる』)

 

 ライドポケモンが共通して持つその性質は、彼らにとって最早本能と言ってもよい。事実、かつて荒ぶる"峠クイーン(ドレディア)"の花粉に侵された時でさえ、ガチグマはユウガオの旋律に呼応し姿を現した。

 そのガチグマが姿を見せなかったのだ。

 不審に思ったショウが幾度旋律を奏でようとも反応はなく。その後、念のためにと発してもらった世話役であるユウガオの旋律でさえその姿を現さない。

 明らかな異常事態であった。

 

 何故、ライドポケモンであるガチグマが旋律に応えないのか……考えられる理由は二つ。

 笛の音が聞こえていない、もしくは()()()()()()()()()()()()()()()、だ。

 

 ……彼のライコウは『純白の凍土』にてライドポケモンであるウォーグルを襲い、大怪我を負わせた。それこそカミナギの笛に応えて姿を現すことが出来ないほどの。

 そして今回、『百獣夜行』が起きた『紅蓮の湿地』で同じ"ライドポケモンである"ガチグマが姿を現していない。

 

 これがもし、ガチグマが『百獣夜行』の元凶と推定される存在に襲撃され、殺害ないし瀕死の重傷を負ったと考えれば……辻褄は合う。

 

 セキの証言から、今回の一件においてかのライコウらしき存在は確認されていない。だが、それに代わるように起きたこの泥濘化現象。

 そしてジョウトの伝説にはライコウと同格の力を持つポケモンが他に二匹存在する。

 

(エンテイとスイクン)

 

 炎を司るというエンテイ。

 水を司るというスイクン。

 どちらもライコウが生まれ落ちた際に同時に生み出され、ライコウと同等の力を有するとされている伝説のポケモンである。

 彼ら三匹はその根を同一とする、いわば兄弟とも言える存在。ならばライコウの姿が確認された以上、他の二匹もまたこのヒスイに存在していても可笑しくはない。

 

 無論、これらの話に全て確証がある訳はなく。特に後半については信憑性が低い予想でしかない。

 しかし、現実にガチグマが姿を現さない以上、彼の身に何かがあった可能性は高い。故にショウは調査の最初の目的地をガチグマの縄張りである『ヘドロ台地』と定めたのである。

 

 

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 

 

「はあ……はあ……。ふう……少し休憩しよう」

 

 荒い息を吐きながらショウは突き出した岩に腰掛ける。彼女の額には玉のような汗が浮かんでおり、かなり体力を消耗していることが伺えた。

 ここまで休むことなく『紅蓮の湿地』に広がる泥濘を歩き続けて来たショウ。だが、道中柔らかい泥に何度となく足を取られており、そのたびに脱出のため少なくない体力を持っていかれていた。

 岩に腰を下ろし一息吐いたショウは懐からアルセウスフォンを取り出し、マップ機能を使って自身の現在位置を確認する。

 

(まだ、これだけしか進めてない)

 

 見れば既に結構な時間歩き続けてきたにも関わらず、『ヘドロ台地』まではまだかなり距離があった。ライドポケモンが使えないことに加え、泥上の移動で想像以上に時間がかかっている所為であった。

 

(……このままだと『ヘドロ台地』に着くのは夕方近くになりそう)

 

 これまでのペースと移動速度、そして『ヘドロ台地』までの距離を勘定し、到達時刻を見積もる。

 ただでさえ足元が悪いこの状況。視界が悪い夜間での行動は出来るだけ避けたい。

 そう考えたショウは最低限呼吸を整えた後、腰かけていた岩から立ち上がる。そして再び歩き出そうと足を踏み出し……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ——ミ、ミ……。

 

(——ッ!?)

 

 次の瞬間、耳へと届いた聞き慣れぬ音に思わず足を止めた。

 聞こえたのは微かな水音とか細い鳴き声。普段であれば聞き逃してもおかしくないその音は、静寂に包まれたこの場において確かに彼女の耳へと届いたのであった。

 

(ポケモン……?)

 

 ポケモンたちが姿を消した『紅蓮の湿地』で聞こえて来た何者かの動く音。調査中に起きた初めての事象にショウはその源を確かめるべく意識を集中する。ほどなくして聞こえる水音が彼女の背後から発されたものだということが分かった。

 音の主に気付かれないよう、ゆっくりと水音のする方向へと忍び寄るショウ。やがて彼女の視界に見たこともないポケモンの姿が映った。

 

(……さかな?)

 

 それは小さな水たまりの中で力無く跳ねる一匹の魚ポケモンであった。

 同じ魚ポケモンであるバスラオ、コイキングと比較してやや小さな体躯。目測0.6メートル程度といったところか。体表は地味な土色の鱗に覆われ、ところどころに汚れたような濃いまだら模様が浮かぶ。見開いたかのような大きな目の周りには隈を思わせる黒い縁取りが存在し、体から生える青いヒレは破れたかのようにボロボロであった。

 全体的にみすぼらしく貧相な印象を受けるそのポケモンは、見た目の印象に違わぬ弱々しい動きで浅い水たまりの中でパシャパシャと跳ねていた。

 

(あれ?)

 

 さて、そんな未知の魚ポケモンを観察していたショウはそこでふと気が付く。

 

(あの子、怪我してる……?)

 

 力無く跳ねる魚ポケモン。その体の側面には幾つもの傷が走っており、そこから僅かずつ血が流れ出していた。

 流れ出る血は徐々に、しかし確実に彼の体力を奪っていくだろう。そうでなくとも水棲ポケモンではまともに動けぬ泥の上、放っておけば死に至るのは必定である。

 

(となると、このまま放置するのは……)

 

 このまま放置しておいた場合、このポケモンは確実に死ぬ。

 とはいえ野生の生死は運否天賦。このポケモンの運が悪かったと言ってしまえばそれだけだが。

 

(うーん……)

 

 だが、こうも関わってしまうと見捨てるのはどうにも後味が悪い。それは善意を一方的に押し付ける人間の傲慢なのかもしれないが……それでも助けられるのなら助けてやりたい、とそう思ってしまうのだ。

 何より目の前のこのポケモンは今まで確認されたことのない未知のポケモンである。ならばその生態を調査することなく死なせるのは調査隊としての使命に(もと)る。

 

(——よし!)

 

 逡巡することしばし、ショウは目の前のポケモンを助けることを決めた。

 懐を探り、取り出したのは空のモンスターボール。

 

「ちょっとゴメンね!」

 ——ミ……!?

 

 ショウの声に反応し、ビクリとこちらを振り向くポケモン。そんなポケモンの無防備な体目掛けてショウの手からボールが投げ放たれる。投擲されたボールは寸分違わずポケモンの体を捕らえ、光とともに吸い込み、そして——。

 

 ——パン!

 

 小さな花火とともに捕獲が完了したことを告げた。

 

「捕獲完了、と」

 

 泥上に着地したボールを拾い上げそう呟く。彼女はそのまま捕獲したボールの留め具を外し、中に収めたポケモンをその手の内に解放する。

 

 ——ミ……!? ミ、ミ……!!

 

「わわ、動いちゃダメ! ——大丈夫、あなたを傷付けるつもりはないよ」

 

 突如として手の内に囚われたことを驚き、逃れようと激しく体をバタつかせる魚ポケモン。その際に開いた傷口から激しく流血するのを見て、ショウは慌ててポケモンに落ち着くよう声を掛ける。

 それが功を奏したのか、魚ポケモンは彼女の姿をしばらく見つめた後スッと大人しくなった。

 大人しくなった魚ポケモンを見て、取り敢えず自らの意思が通じたと判断するショウ。彼女はそのまま腰のポーチを探り、中からキズぐすりを取り出した。

 

「ちょっと大人しくしててね」

 

 そう言うとショウは傷口に手早くキズぐすりを塗っていく。彼女が使用したのはキズぐすりの中でも取り分け強力な薬効を持つ「かいふくのくすり」。最上級の薬品が持つ薬効のお蔭か、流血はすぐさま収まっていった。

 

「これでよし、と。うん、このまま大人しくしていればすぐに良くなるよ」

 

 流れ出ていた血が止まったことを確認し、そう呟くショウ。彼女の言葉に、ポケモンは理解したと言うかの如くヒレを揺らす。ポケモンが自身の言うコトを理解している素振りに少し驚きつつ、ショウは"ならば"と口を開く。

 

「——えーと、取り敢えず血は止まったみたいだけれど……。大丈夫? まだ痛むところはない?」

 

 と、そう尋ねるショウに対し、ポケモンは平気だと言わんばかりに尾びれをパタパタと振動させる。どうやら元々の生命力もあってか大分回復したようだ。

 

「うん、大丈夫そうだね。……それで、ちょっと提案したいのだけど。あなた、私と一緒に来ない? ほら、ここに居ても動けないし危ないでしょう。だから安全な場所に連れてって上げようと思うんだけど」

 

 どうかな? と、ショウが問いかけると再びヒレをひらひらさせるポケモン。その行為を恐らく肯定の意味だろうと解釈し、ショウは話を続ける。

 

「うん、ありがとう。それじゃあ悪いけど、またこの中に入ってくれるかな?」

 

 そう言って先ほど捕らえたポケモンボールを差し出せば、ポケモンはあっさりとその中に納まった。どうやらショウ(こちら)を信頼してくれたようである。

 

「……よし」

 

 ポケモンが収まったボールをしばらく見つめ、破壊の兆候がないことを確認したショウ。ホッと一息吐くと、そのままポケモンの収まったボールを収納し、あらためて『ヘドロ台地』へ向け出発する。

 

 

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 

 

 さて、紆余曲折を経て未知なるポケモンを捕獲したショウであったが……しかし、此度の彼女の目的はあくまで『紅蓮の湿地』に起きた異変の調査。報告は後回しにして泥濘の中をひた進む。

 相も変わらず最悪な足元に辟易しつつ進み続けること数時間、空が赤く染まった頃にようやく彼女は目的である『ヘドロ台地』まで辿り着いた。

 

(ここだ……)

 

 アルセウスフォンの地図機能を使い、自身の居る位置が確かに『ヘドロ台地』であることを確認したショウ。だがようやく辿り着いた『ヘドロ台地』は、他と同様に泥濘の海と化し、地図機能が無ければとても分からないほどに変わり果てていた。

 とはいえ、位置的にここが『ヘドロ台地』(ガチグマお気に入りの場所)であることには変わりない。ショウはポーチよりカミナギの笛を取り出すと、ライドポケモンを呼び出すための旋律を奏でる。

 静まり返った湿地に鳴り響く、美しい笛の音。周囲に遮るものがない以上、近くに居れば確実に聞こえている筈だ。

 

 しかし——。

 

(ガチグマは……来ないか)

 

 ガチグマが来る気配はなかった。それどころか周囲に生物の気配らしきものも一切感じ取れず、旋律が鳴り止んだ『ヘドロ台地』を再び沈黙が支配する。

 お気に入りの場所で吹いた笛の音にすら反応しない。となれば、やはりガチグマの身に反応出来ない程の何かあったのだ。静まり返った『ヘドロ台地』を見回しながら、ショウはそう確信する。

 

「(——これ以上ここにいても仕方ない。取り敢えず、一端拠点に戻って報告を……ッ!?)ひゃあ!?」

 

 と、拠点へと戻るべく踵を返したショウ。

 だが一歩足を踏み出した瞬間、泥に脚が沈み込みバランスを失ってしまった。

 

「と、ととと……うひゃっ!」

 

 慌てたショウは思いきり腕を回して姿勢を保とうとするが、しかし崩れた体勢がもとに戻ることはなく、泥の地面に思いきり尻もちをついてしまう。

 

「イタタ……うわっ、冷たい」

 

 尻もちの衝撃で泥の水分が衣服へと一挙に浸透し、不快な冷たさに思わず眉をしかめるショウ。

 "ベースキャンプに戻ったら乾かさないと"、と湿った衣服の不快さにうんざりしつつ、ショウはサッサと立ち上がろうと全身に力を込め——。

 

「——え?」

 

 ()()()()()()()()()()()()()()

 

「な、何で!? どうして抜け出せないの……!?」

 

 一体何が起きたのか。訳も分からぬまま再び泥から脱しようと奮闘するショウであったが、しかし結果は同じ。どれだけ彼女が藻搔こうとも泥から抜け出せず、むしろ藻搔けば藻搔くほど体が沈み込んでいく始末。

 まるで底の見えぬ泥に体が呑み込まれていく感覚、ショウの背筋に冷たいものが走る。

 

(——ッ! 落ち着いて、焦っちゃダメ。こういう時こそ冷静に)

 

 と、そこで自らが恐慌(パニック)状態となりかけていることに気が付き、冷静になるよう言い聞かせるショウ。危機に瀕した際、逸る気持ちのまま行動することは命取り。むしろ一度気を落ち着け、冷静に対処しなくては乗り切ることは出来ない。

 自らの頬をピシャリと張り、その痛みで冷静さを取り戻す。そうしてあらためて自身が置かれた状況を観察し——そこでハタと気が付いた。

 

(沈むのが緩やかになってる……?)

 

 ショウは先ほどの悪戦苦闘の所為で既に腰元まで泥に浸かっており、そしてその体は今も少しづつ泥に沈み込んでいる状態である。しかしながら、その沈む速度そのものは先と比べて明らかに緩やかとなっていた。先と今の明確な速度差を疑問に思うショウ。少し考えた後、彼女は動けば動くほど沈みやすくなるのではと推測を立てる。

 思い返せば先ほどは脱出しようと藻搔けば藻搔くほど体が沈んでいった。そして逆に激しい動きをしていない今は沈む速度が緩やかになっている。ならばこの推測が正しい可能性は高い。

 

(……! 危なかった……! あのまま焦って藻搔いていたら、本当に脱出できなくなってたかも……)

 

 あのままでは、焦るあまり本当に取り返しがつかない状態となっていたかもしれない可能性に思わず冷や汗を流すショウ。危ういところで冷静さを取り戻せてよかった、と内心で安堵する。

 

(……取り敢えず完全に沈むまで猶予が出来たけど)

 

 とはいえ、今の彼女がまだ危機の只中にあることは変わりない。下半身は分厚い泥に覆われており、自らの意思で動かすことすらままならないのだ。下手に動けばますます沈み込む現状、残念ながら単独での脱出は不可能だろう。

 そう——

 

「ダイケンキ!」

 

 ——けーーんき!

 

 ()()()()()

 

 忘れてはならない、彼女は決して一人でない。彼女はポケモンと共に歩み往く者(ポケモントレーナー)、その傍らには常にキズナを結んだポケモンたちがいる。

 投げたボールより飛び出したのは、ショウが真に信を置くポケモンの一匹。ラベン博士より託され、ショウが全霊を以て鍛え上げた大業物——その名も"かんろくポケモン"ダイケンキである。

 ボールより飛び出し、泥の大地へ軽やかに着地するダイケンキ。彼の四肢は水陸の双方に適応した形状である。故に不安定な泥濘においてもその動きに乱れはない。だからこそショウは力を借りる相手として彼を選んだのだ。

 

「お願いダイケンキ、引っ張り上げて!」

 

 そう言ってポーチよりロープを取り出し、ダイケンキへと放るショウ。そう、彼女は自力での脱出が不可能ならば、ポケモンに引っ張り出して貰えばよいと考えたのだ。

 果たしてそんな主人の意図を正確に汲み、ダイケンキはロープの端を咥えるとグイグイと引っ張り出す。

 

「ふっ、ぬぬぬ……!」

 

 成人男性のそれを遥かに凌駕するダイケンキ(ポケモン)の膂力に引かれ、ロープを離さぬようショウは必死に力を込める。お蔭で腰元までズッポリとはまり込んでいた体が少しずつ引き抜けてきた。

 

(よし、膝まで抜けた! あとはこのまま……)

 

 ——引っ張り続ければ脱出できる。そう彼女が希望を抱いた、その時だった。

 

「……!? ぶべっ!?」

 

 突如として自らを引く力が消失し、思わずしてつんのめるショウ。いきなりことに対応できず、彼女はそのまま顔面から泥沼へと突っ込んでしまう。口一杯に生臭い泥の味に広がり、すぐさま口に入った泥をぺっぺと吐き出す。

 

「ペッ、ペッ……! 何なの、急に……!?」

 

 急にロープを引くことを辞めた相棒(ダイケンキ)に困惑しながら呼びかけるショウ。だがダイケンキはそんな彼女に答えることなく、鋭い目つきでしきり周囲を警戒している様子であった。

 

「どうしたの、ダイケン……ッ!?」

 

 様子のおかしい相棒の姿にショウは一体どうしたのかと疑問を抱き——幸か不幸か、その疑問はすぐさま氷解することとなる。

 

(居る……!)

 

 全身にのしかかる強烈な威圧感。

 背筋が凍り付くかのような殺意の視線。

 

 それは好戦的なポケモンと対峙した際に感ずる特有の——(こと)にオヤブンと呼ばれる個体と対峙した時に酷似した感覚。

 

 間違いない、ダイケンキはこれを感じ取っていたのだ。

 

 ——ぐるるるる……!

 

 黄昏に沈む泥濘の海、そのとある一点を見つめダイケンキは低く唸る。

 釣られるようにショウはダイケンキの向ける視線の先へと目を遣り——その姿を見た。

 

 ——それは一匹のポケモンであった。

 スラリと伸びるしなやかな四足に、気品さえ感じる優美なシルエット。

 されどその身を包む体毛は、さながら澱んだ沼の如き深緑のソレ。尾部より伸びる黒褐色の双尾はまるで水底に揺らめく水草の様。額より伸びる晶角は毒々しい紫紺に染まり、背にたゆたう(たてがみ)は底知れぬ深淵を思わせる濃藍色であった。

 

 それはまるで穢れなき泉から腐った汚泥が湧きだすような、清らな北風から澱んだ瘴気が漂うような、そんな美しさと醜さを併せ持つ獣。

 やがて獣はショウの見つめる先でその美しい顎を開き……次の瞬間、大気を震わせる悍ましい咆哮を上げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ——どしゅすいいー!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 

 

 

(あ、れは……!)

 

 咆哮を上げる謎のポケモン、その姿は見たショウにとって見覚えのあるものだった。

 

(間違いない、絵画にあったのと同じ!)

 

 それは調査に赴く前、デンボクによって見せられた一枚の絵画。

 ジョウトに伝わる伝説のポケモンが描かれたという絵に、目の前のポケモンが酷似していたのだ。

 

(——スイクン!)

 

 その名をスイクン。

 北風の化身の異名を持つ三聖獣の一匹。それが今まさにショウの目の前で殺意を放っていた。

 

(……でも)

 

 伝説のポケモンから放たれる圧倒的なまでの威圧感(プレッシャー)。発せられるそれに呑まれまいと抗いつつ、ショウはその姿にかすかな違和感を覚える。

 

(絵で見たのと、違う……?)

 

 ショウが覚えた違和感、それは眼前にて吠えるスイクンの姿が記憶にあるソレと異なっているというものであった。

 絵画のスイクンは濁った水を瞬く間に清めるという伝承に相応しく、清水を思わせる淡い青色で描かれていた。だが目の前のスイクンらしきポケモンの体色は澱んだ沼のような深緑。

 さらに伝承においては、スイクンは湧水の優しさをその身に宿すとても慈悲深いポケモンとされている。だが、眼前のスイクンらしきポケモンにはそのような慈悲深さなど欠片もなく、ショウたちへ一切容赦なく殺気を叩きつけている。

 伝承とは正反対といえる凶々しい姿に、これは本当にスイクンなのか疑念を抱くショウ。しかし彼女にそれ以上、疑念を深掘りする暇はなかった。

 

 ——どぅしゅおおおー!!

 

 咆哮を上げるスイクンの足元、泥濘がゴボゴボと沸き立ち——次の瞬間、轟! と無数の泥の弾丸が撃ち出された。

 

 "早業"【どろばくだん】

 

「——!! 迎撃して、ダイケンキ!」

 

 スイクンから放たれた先制攻撃。恐るべき速度で迫る無数の泥弾に、ショウはすぐさま反応し自らの剣(ダイケンキ)へ迎撃を命ずる。

 果たして大業物たるダイケンキはそんな主からの指示に寸分違わず応えてみせた。

 

 得物たる脚の刀を逆手持ち、構えし刹那——居合抜刀。

 

 "力業"【ひけん・ちえなみ】

 

 繰り出されたのは千重波にも見まごう、荒々しき無数の斬撃。

 黒く輝く太刀筋が数多閃けば、迫る【どろばくだん】は瞬く間に切り刻まれ、単なる泥しぶきとなって落下する。

 

「【ハイドロポンプ】!」

 

 迫る泥弾を凌ぎ、返す刀でダイケンキへと指示を飛ばすショウ。瞬間、ぬかるむ泥海の一角に陣取るスイクンへ高圧の水流が放たれた。

 

 ——コアアアッ!

 

 スイクン目掛け迸る高圧の水流。狙い定められたその軌道は正確無比。このままいけば間違いなくスイクンへと着弾するだろう。

 だが、当のスイクンは迫り来るそれを前にしても、避けることはおろか動く様子もない。

 

 ——否、動く必要がない。

 

 【ハイドロポンプ】がスイクンに着弾せんとするその刹那、スイクンの背負う藍のたてがみが蠢いた。

 ゆらゆら、と水草の如くうねる藍色の毛束。それが水面(みなも)のように拡がったかと思うと、瞬時にスイクンの体を包み込む。上半身をたてがみ包んだその姿はさながら藍色の水滴のようにも見えた。

 そうしてスイクンが己の身をたてがみで包んだ次の瞬間、放たれた【ハイドロポンプ】がスイクンに着弾した。

 

 ……だが。

 

「んな……!」

 

 着弾の衝撃で巻き上がった泥飛沫が晴れた時、そこには着弾前と変わらぬ位置で佇む藍色の水滴(スイクン)の姿があった。

 

 ——ありえない。

 

 ショウの顔が驚愕に染まる。

 みずタイプの中でも最大級の威力を誇る【ハイドロポンプ】かき消された……それも"わざ"をもって迎撃したのではなく、真っ向から受け止められる形で。

 ましてやそれを放ったダイケンキは彼女が手ずから鍛えあげたそんじょそこらのポケモンとは練度(レベル)が違う強者。彼の放つ【ハイドロポンプ】は例え伝説のポケモンであってもまともに当たればタダではすまない筈。

 だが、事実としてスイクンはさしたるダメージもなく【ハイドロポンプ】を受け止めてみせたのだ。

 

(いったい、どうやって……?)

 

 ショウの思考を埋め尽くす疑問。果たしてそれはスイクンがたてがみの包みを解いたことで氷解する。

 ゆらめく藍色のたてがみから水が滴り落ちているのを見つけたのだ。

 

(まさか……あのたてがみで【ハイドロポンプ】を吸収したの!?)

 

 "一部のポケモンにはタイプ相性による無効化とは別に、特定のタイプのわざを無効化・吸収する能力を持つものがいる"。以前、ラベン博士が呟いていた言葉がショウの脳裏をよぎった。

 しかし、彼女の思考はそこで強制的に切り替えられる。防御の構えを解いたスイクンが再び動き出したのだ。

 

 ——どしゅいいいい!

 

 咆哮とともにうねる藍色のたてがみを勢いよく泥の地面へと突き刺すスイクン。すると周囲の泥がゴボゴボと泡立ち、流動化していく。

 

 ——しゅおおおお!!

 

 矢庭にスイクンが片足を振り上げると、そのまま流動する泥海目掛け勢いよく振り下ろした。

 

 "力業"【だいちのちから】

 

 瞬間、『ヘドロ台地』を覆う泥海が俄かに沸き立ち、幾つもの巨大な泥の柱が噴き上がった。

 

 ——けいん!?

「ダイケンキ!?」

 

 真下から噴き上がった泥の柱に圧され、ダイケンキの体が宙に舞い上がる。

 中空に投げ出され、無防備に隙を晒すダイケンキ。その隙を逃さぬとばかりにスイクンは更なる攻撃を仕掛けた。

 四肢に力を込めその場から跳躍。噴き上がる泥柱を蹴り上げ加速しながら、目にも留まらぬ速さで中空のダイケンキへと肉薄する。

 一方の中空に投げ出され、体の自由が利かぬダイケンキ。迫り来るスイクンに有効な手立てを打てず、精々出来たことといえば、苦し紛れに手にしたアシガタナを突き出すくらいのものであった。

 そんなダイケンキのささやかな抵抗を嘲笑うかの如く、スイクンの蠢くたてがみがアシガタナを絡めとってこれを無力化。さらにはダイケンキの体まで雁字搦めに縛り上げてしまう。

 

 ——げい……ぁ……!

 

 全身を万力のような力で締め上げられ、ダイケンキの口から苦痛の声が漏れる。

 だが、スイクンがそれに構うことはなく。縛り上げたダイケンキを中空にて二、三度振り回し、勢いをつけて大地へと叩きつける。青黒の体が泥の地面に着弾し、衝撃で大量の飛沫が上がった。

 

「ダイケン——っ!?」

 

 成す術もなく泥濘の大地へと叩きつけらた相棒に思わず悲鳴を上げかけるショウ。

 だが、その悲鳴は半ばにて途切れることとなる。

 

 なぜならば——。

 

 ——カロロロ……

 

(ひ……ぁ……)

 

 彼女のすぐ目と鼻の先、低く唸り声を上げるスイクンの姿があったからだ。

 怒気と殺意に満ち満ちた、酷薄なる鮮紅の視線に射抜かれ、まるで心臓をわし摑みにされたかのような感覚に襲われる。

 

 ギンガ団調査隊として数多の死地を乗り越えてきたショウでさえ、今まで感じたことのない濃密な死の気配。

 

 自分は死ぬ。目の前の存在に惨たらしく殺される。

 

 数秒先の未来に自らの息絶える姿を幻視し、自身の意思とは無関係に身体が竦む。

 

 

 

 "早業"【アクアジェット】

 

 

 

 しかし、ショウの幻視が現実となることはなかった。

 凄まじい速度で飛来した何者かがショウとスイクンの間に割り込んだのだ。

 

「——ダイケンキ!」

 

 割り込んだのは誰であろう、ショウの相棒ダイケンキに他ならなかった。彼は信頼する主の危機を察知するや、"ひんし"寸前の身体にも構わず飛び出したのだ。

 【アクアジェット】による加速で割り込んだダイケンキに不意を突かれ、スイクンが一瞬その動きを止める。果たしてダイケンキは難敵(スイクン)の晒した一瞬の隙を見逃さず、己が手に構えた得物(アシガタナ)を閃かせた。

 

 【ひけん・ちえなみ】

 

 千重にも及ぶ黒き剣閃がスイクンの身体を切り刻む。並みのポケモンでは傷一つ付けられぬスイクンの毛皮に、無数の切り傷が刻まれる。さらに剣の軌跡に沿って飛び散ったアシガタナの欠片が傷口に食い込み、尋常ならざる苦痛をスイクンへと齎す。

 

 ——どしゅぅいいいい!?

 

 全身を苛む痛みに咆哮を上げるスイクン。齎されるそれに耐えかねたのか、跳躍しダイケンキたちから距離をとった。

 

(危なかった……! ダイケンキの助けが無かったら、絶対に死んでた……!)

 

 ダイケンキの割り込みにより何とか窮地より脱したショウ。流れ落ちる冷や汗を拭い、目前まで迫っていた死を回避できた事実に安堵する。

 

(……でも)

 

 だが、目の前の危機を脱しはしたものの、彼女の置かれている状況は決して良くない。

 半身は相変わらず泥に浸かっており、身動きが取れない状態。おまけに先ほどの攻防の衝撃で、膝まで抜けかけていた体は腰まで埋まってしまっている。これでは自力での脱出はほぼ不可能だろう。

 かといって手持ちポケモンに助力を頼むことも難しい。ダイケンキがある程度のダメージを与えたとはいえ、スイクンは未だ健在。この状態で"救助"などという隙だらけな行動は正しく命取りでしかない。

 

 手持ちの一匹をスイクンに対峙させ、その間に別のポケモンに救助を頼む……ということも考えたが、すぐさま無理だと結論づける。何せ、彼女が現在有している最高レベルの戦力(ダイケンキ)でさえ圧倒されている状況なのだ。スイクンは尋常ならざる大敵。そんな存在を相手に彼女の指示無しで手持ちポケモンが持ちこたえられるかと考えれば……難しいと言わざるを得なかった。

 

(それに、ダイケンキも……)

 

 ショウの眼前、スイクンから彼女を守るように立つダイケンキ。だが、その姿は全身傷だらけの満身創痍。荒い息を吐きながら、アシガタナを支えにやっと立っているだけの有様であった。

 

「(こんな状態じゃもう戦えない……)ダイケンキ! 一度ボールへ戻っ……!?」

 

 "ひんし"寸前のダイケンキではもう戦闘を行うのは不可能だとして、ショウは彼をボールへと戻そうとした。

 だがその刹那、全身を貫く強烈な悪寒に思わず動きを止めてしまう。

 

(これ……って……!)

 

 それは幾多の修羅場をくぐって来たショウをして心胆を寒からしむる、身の毛もよだつおぞましい気配。

 瞬間、ショウの脳裏に雪原の記憶がよぎり、全力で気配の発される方向を向く。

 

 ——どぅ、しゅ、ぐるるるる…………!

 

 果たして振り向いたそこにあったのは、全身からドス黒い霊気(オーラ)を噴出し、低い唸り声を上げるスイクンの姿。

 やがてスイクンは悶え苦しむかの如く総身を二度、三度と震わせ——そして。

 

 ——すすいいいいぃぃ!!

 

 

 

 

 

スイクンは おぞましい力を解き放った!

 

 

 

 

 

 スイクンから身の毛もよだつ黒い霊気(オーラ)が放たれる。

 泥海を舐めるかのように拡がるそれは雪原でライコウが放ったものと全く同じ、温度を感じられない黒い炎のような力。

 

(マズい……!)

 

 迫り来る黒炎の波を前に、ショウは焦りを覚える。

 あの霊気(オーラ)は生物の持つ活力を奪い尽くす代物、一度触れれば指の一本すらまともに動かせなくなる。

 何せ、ショウは以前これを真正面から受けた経験があるのだ。その危険性は文字通り、身に染みて分かっていた。

 

 故に絶対に当たる訳にはいかない……のだが。ご存知の通り彼女は今、半身を泥に埋め身動きの取れない状態。いくら避けたくても避けようがない。

 

(マズい……マズいマズいマズい、本当にマズい! 打つ手が、ない!)

 

 脳をフル回転させ、必死に打開策を練るショウ。だが、いくら考えても焦りばかりが募り、よいアイデアなど何一つ思いつかなかった。

 そうこうする内、霊気(オーラ)がすぐ彼女の目と鼻の先まで迫る。

 "最早これまでか"とショウが覚悟したその時、ふと彼女の視界を覆うものがあった。

 

「!! ダイケンキ——!?」

 

 それは迫り来る霊気(オーラ)から守るように立ちはだかる彼女の刃(ダイケンキ)の姿であった。

 ひんしの体を精一杯拡げ、背後の(ショウ)に届かせまいとするダイケンキ。果たしてショウが彼のその姿を認識した瞬間——到達した黒炎(オーラ)が視界の全てを黒く染め上げたのであった。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 

 

 

「……っ!」

 

 全身を襲っていたおぞましい気配が消え去り、ショウは瞑っていた目を開ける。

 泥海を舐めるように広がっていた黒い霊気(オーラ)の波は、すでに無く。周囲は元の何もない泥濘の原に戻っていた。

 

(体は……何ともない)

 

 黒い霊気(オーラ)の波が襲い掛かったにも関わらず、ショウの体から力が抜けた様子はない。どうやらダイケンキが庇ってくれたお蔭で霊気(オーラ)の影響を及ぼされずに済んだようである。

 

「——! ダイケンキ!」

 

 一方で、ショウを庇い真っ向から黒い霊気(オーラ)を受け、力尽きたかのように大地へと横たわるダイケンキ。力無く伏せる相棒の姿に最悪の想像がよぎるも、腹部が僅かに上下するのを見てホッと胸を撫で下ろした。

 

「(良かった、生きてる!)無茶させちゃってゴメン……! 今すぐボールに戻して——

 

 

 ——どしゅすいいー!!

 

 

 っ、スイクン……!」

 

 と、"ひんし"のダイケンキを戻そうとショウがボールを取り出したその瞬間、宵闇の泥海に再び轟くスイクンの咆哮。見ればスイクンは先の攻防のダメージなどものともせず、怒気と殺気を滾らせ戦闘態勢を取っていた。

 叩きつけられた威圧感(プレッシャー)に気圧されるショウ。だが、すぐさま威圧を振り払い、次なる手持ち(手札)を繰り出さんとポケモンボールに手を伸ばし。

 

「——え」

 

 刹那、信じがたい出来事を前にその動きを止めた。

 

「ダイ、ケンキ……?」

 

 ショウの眼前。力尽き、地に伏していた筈のダイケンキがゆっくりと起き上がったのだ。

 

 ——それは本来であれば喜ばしい事態であった。何せ、ひんし寸前と思われたダイケンキに、まだ立ち上がるだけの力が残っていたということに他ならず。即ち、ダイケンキのダメージが少なかったことを意味するのだから。

 しかし、立ち上がったダイケンキ姿を見るショウに喜ばしいという感情は一切ない。

 ——それも当然だ。

 

 ——ぎゅうるるるるるる……!

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 充血し、赤く染まり切った瞳。そこに理性の光は無く、あるのはぎらつく獣性の輝きのみ。

 鋭い犬歯を剥き出しにした顎。半ば開かれたそこからはダラダラと多量の唾液が滴り落ちる。

 そして何より目を惹いたのは、ダイケンキより立ち昇る——黒い(もや)

 

 月下の微かな光でもハッキリと分かる。ダイケンキの全身が漆黒の(もや)に覆われていた。

 

 

 ——ぎゅうわあああああ!!

 

 

 ダイケンキが咆える。

 『ヘドロ台地』に響く、割れ鐘のような咆哮。それは一片たりとも理性を感じさせぬ、正しく獣の如きもの。

 ギラつく瞳に(スイクン)のみを映し、ダイケンキは疾駆する。

 

 四肢に激流を纏い、泥を跳ね飛ばしながらスイクンへと肉薄するダイケンキ。鋭い牙を剥きだしに、その身体を引き裂かんと猛り狂う。

 

 ——しゅああおお!!

 

 しかし、黙ってそれを許すほどスイクンは甘くない。迫るダイケンキへとうねるタテガミを伸ばし、彼を捕らえんとした。だが……。

 

 ——どしゅあ!?

 

 伸ばしたタテガミに突如として痛みが走り、スイクンは驚く。見れば伸ばされたタテガミの一房にダイケンキがその牙を突き立てていた。

 

 ——ぎいいいいぁぁぁ!!

 

 そのままダイケンキは咥え込んだタテガミを全力で引く。本能の(リミッター)が外れたことによる、尋常ならざる剛力。引かれる力に耐えきれずスイクンの体が宙を舞った。

 

 ——どうしゅうい!?

 

 振り回され、恐ろしい勢いで大地へと叩きつけられるスイクン。ダイケンキはすかさず仰向けに倒れたスイクンへ馬乗りとなると、その無防備な喉笛に喰らいつく。

 

 ——どしゅああああああ!!!?

 

 柔らかい喉笛に鋭牙が喰い込み、鮮血が滴り落ちる。これが並みのポケモンであったならば成す術なく喉肉を食いちぎられ、そのまま絶命していたであろう。しかしスイクンは押すに押されぬ伝説のポケモン。その並々ならぬ防御力は、例え弱点に刃を突き立てられたとて致命には至らせぬ。

 

 ——しゅすいいいい!!

 

 動揺より回復したスイクンは喉笛に喰らい付くダイケンキを力づくで引き剥がし、彼方へと跳ね飛ばした。

 だが、ダイケンキはそれを物ともせず、跳ね飛ばされた勢いを四肢に激流を纏うことで相殺。体勢を立て直すや、再び牙を剥き出しにしてスイクンへと襲い掛かった。

 

 ——ぎゅるるわあああああ!!

 ——どしゅすいいいいいい!!

 

 月下の湿原に猛り狂う二匹の咆哮が響いた。

 

 

 相争う二匹を見ながらショウはどうしようもなく焦燥にかられていた。

 視線の先にあるのは、全身から黒い靄を吹き出し、鬼気迫る姿でスイクンに襲い掛かるダイケンキ(相棒)の姿。

 己が牙と爪を武器として、狂ったように仕掛ける攻撃に、常の達人の毎き技の冴えは無く。あるのは本能に任せたひたすらの暴力のみ。

 

(どうしよう……このままじゃ……)

 

 故にショウは確信していた。このままではダイケンキが危険だ、と。

 猛り狂うダイケンキは一目すればスイクンと互角に渡り合っているようにも見える。だが、それはあくまでも護るべきもの(ショウ)を捨てた故の戦闘スタイルの変化に、スイクンがまだ対応できていないだけのこと。時を経ればいずれ対応されるのは必定だ。

 そうなってしまえば、ただただ力任せの暴力なぞ最早恐るるに足らず。そも地力では伝説のポケモンたるスイクンの方が圧倒的に上なのだ。その差を埋めるべき技の冴えを欠いた今のダイケンキではそのまま叩き潰されるのがオチである。

 

 加えてあの黒い靄のことも気がかりだ。

 

 ダイケンキの全身より立ち昇る黒い霊気(オーラ)。月光の元でもハッキリと視認できるそれは、明らかにセキの話にあった『百獣夜行』のポケモンたちに纏わりついていたという靄と同一のもの。突如として豹変したその有様も『百獣夜行』が引き起こしたポケモンの凶暴化と酷似していた。

 状況証拠から、あの黒い霊気(オーラ)がダイケンキを暴走させていることは確実と言っていい。そしてそんなものがダイケンキにとって良い影響を及ぼすものである筈が無い。そもそもダイケンキは先のスイクンとの戦いで動けなくなるほどのダメージを負っていた……その状態であのような荒々しい戦闘を行っているのだ。果たして肉体にかかる負担は如何ほどのものだろう。

 事実、ショウの目に映るダイケンキの動きは明らかに精彩を欠き始めていた。頭がいくら暴走を命じようとも、最早肉体そのものがその指示に応えられなくなっているのだ。

 

 ——このままではダイケンキの命が危うい。

 

(どうにかしてあの子をボールに戻さなくちゃ……。でも、どうやって……)

 

 相棒へと迫る命の危機に、何としてもボールへと戻さねばと決意するショウ。だがそのためにはどうすべきか。

 今のダイケンキは暴走状態にある。それこそ相棒(パートナー)であるショウがいくら呼びかけようとも届かない程に。故に掛け声で呼び戻すことは不可能。別の方法を模索する必要がある。

 それにダイケンキを退かせるのならば、現在戦闘中のスイクンもどうにかしなければ。このまま戦闘を続けられていては、とてもではないが戻すことなど出来はしない。どうにかしてスイクンからダイケンキを引きはがす必要があった。

 

(——少し、無理させちゃうけれど)

 

 ショウは腹を括った。

 彼女に残された選択肢はただ一つ。別のポケモンで以ってスイクンを抑え込み、その隙にダイケンキを回収するのだ。

 無論、ダイケンキを戻すまでの間、そのポケモンはショウの指示無しでスイクンを相手にしなければならない。伝説のポケモン相手の時間稼ぎ、それも暴走するダイケンキをボール収めるまでずっと、だ。果たしてそれが出来るのか。

 確証はない——だが、やるしかない。

 

「——お願い! ムクホーク!」

 

 ——きゅいいいいぃぃ!

 

 覚悟を決めてボールを開き、呼び出したのは"もうきんポケモン"ムクホーク。逞しい翼を羽ばたかせ、雄々しき鳴き声と共に滞空する彼は、黒曜の原野にてショウに捕獲されてより常に彼女の手持ちに在り続けた古株のポケモンである。

 

「ダイケンキをスイクンから引き剥がして! "素早く"【ブレイブバード】!」

 

 ——ききゅい!

 

 ショウからの指示に、短く一声鳴くことで答えたムクホーク。彼は逞しい翼を一打ち、射かけた矢の如き勢いで飛翔した。

 そのまま地面スレスレの低空を飛びながら、争い合う二匹を強襲。スイクンに強烈な体当たりを仕掛けて弾き飛ばす。

 

 ——しゅすい!?

 

 戦闘の最中に横合いから殴りつけられ、思わずたたらを踏むスイクン。

 その隙にムクホークは尚もスイクンへ襲い掛からんとするダイケンキを引っ掴み、ショウの方へと投げ飛ばしたのであった。

 

 さて、目論見通りダイケンキからスイクンを引き剥がすことに成功したムクホーク。だが投げ飛ばしたダイケンキに気を取られた次の瞬間、彼目掛けて無数の泥の弾丸が殺到する。

 対空砲が如き勢いで発射される泥弾。ムクホークは迫り来るそれらをジグザグに飛ぶことで躱していく。

 そうして躱して躱して躱し続け、とうとうムクホークは全ての弾丸を躱しきることに成功する。しかし、ホッとしたのも束の間、ムクホークの眼前に(アギト)を拡げたスイクンが現れた。

 

 ——どしゅおおお!

 

 【ヘドロばくだん】

 

 スイクンの額の晶角が毒々しい紫に輝き、口腔から猛毒のヘドロ塊が放たれる。

 

 ——ききゅあ!?

 

 突如として放たれた【ヘドロばくだん】を認識し、大慌てでその場から離れようと羽ばたくムクホークであったが——残念ながら逃れる暇もなくヘドロ塊は中空にて炸裂、彼の体に毒飛沫となって降り注いだ。

 至近距離で炸裂したヘドロ塊を避けきれず、どく状態となったムクホーク。それでも彼は必死に翼を羽ばたかせ、何とかスイクンより一定の距離を置くことに成功する。

 

 そうして何とか距離を置きつつ、ムクホークは(スイクン)の強大さに改めて舌を巻く。

 相対せし泥の獣(スイクン)はまさしく絶対強者。"伝説"の名に恥じぬその力はなるほど、(ショウ)懐刀(ダイケンキ)が敵わなかったのもむべなるかな、と。

 だが、その絶対的なまでの強さを認識して、しかしムクホークに怯えはない。

 

 なぜなら彼は勇猛果敢なる空の雄(ムクホーク)。いかなる強敵にも怯まず、例え自らの体が傷つこうとも戦いを辞めることはないのだ。

 同時に彼はショウと絆を結んだ朋友(手持ちポケモン)でもある。ショウが彼に託した望みは、懐刀(ダイケンキ)を退避させるまで時間を稼ぐこと。ならばその望みに全霊を以って応えるのが、朋友(手持ちポケモン)たる自分の役目。

 

 毒に蝕まれ、崩れ落ちそうになる肉体を叱咤しながら、ムクホークは獲物を逃がし怒り狂う怪物(スイクン)へ、挑発するかのように鳴く。

 

 ——さあ、来るがいい。伝説(かいぶつ)。お前の相手はここにいるぞ。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 

 

 

(ゴメン、ムクホーク。少しだけ頑張って……!)

 

 足止めのためスイクンに挑みかかったムクホークの姿を横目に、ショウは内心でそう祈る。

 ムクホークの奮闘によってスイクンの意識は現在、完全にこちらから外れている。彼が体を張って稼いだ宝石よりも希少な時間、一秒たりとも無駄にはできない。

 

 ——ぎゅうるるるる……!

 

 彼女の視線の先で投げ飛ばされたダイケンキが再び(スイクン)へと駆けださんと力を込める。

 

「——ダイケンキ!」

 

 そんな彼にあらん限りの大声でその名を呼びかけるショウ。彼女の声を聞きつけたか、ダイケンキはゆっくりと声のする方へ振り向いた。

 

 ——ぎゅうるわ!?

 

 と、次の瞬間、振り向いた彼の顔面にべちゃりと泥の塊が張り付く。ショウの投擲した"どろだんご"だ。

 そのまま二度、三度と続けざまに"どろだんご"がダイケンキへと投げつけられる。顔面へ貼りつく不快な感触にダイケンキ意識が強制的にショウの方(煩わしい外敵)へと向けられる。

 

 ——ぎゅわあああ!!

 

 怒気と殺意をむき出しに、恐るべき速度で以ってショウへと迫るダイケンキ。今の彼にもはや常の冷静さなど欠片としてなく、あるのはただ目に映るもの全てを敵と見なし攻撃する破壊衝動のみ。それは己とキズナを結んだパートナーであっても例外はない。

 

(——来た!)

 

 だが迫り来るダイケンキを前にしてショウの顔に焦りはなし。それもその筈、まさしく今の状況こそ彼女が狙ったものであった。

 視線の先にダイケンキの姿をしかと捉え、その手に構えるはポケモン(ダイケンキの)ボール。指先に神経を集中させ、射程に入ればすぐさま投擲できるようしっかりと握りしめる。

 これこそがダイケンキを救う彼女の策。ダイケンキの意識をこちらに向けさせ、ボールの射程内までおびき寄せる作戦だ。

 

(あと少し、あと少し……今!)

 

 射程圏内に入るその時を手ぐすねを引いて待ち受けるショウ。そしてダイケンキが範囲内へと一歩足を踏み入れたその瞬間、シッと鋭い息とともにボールを投げ放ったのであった。

 正確無比な軌道で放たれたボールは寸分違わずダイケンキへと吸い込まれ、その体に命中する。同時にボールの開閉機構が作動、家主となるダイケンキを吸い込まんとその身を光で包み込んだ。

 ——だが。

 

 ——ぎゅるるいいいいいいい!!

 

「なっ……!?」

 

 ダイケンキがボールへ吸い込まれんとしたその刹那、彼の体から立ち昇る黒い霊気(オーラ)が勢いを増し、身を包む縮小の光を吹き散らしたのだ。

 役割を果たせなかったボールが地面へと落下し、暴走するダイケンキの足によって踏みつぶされる。

 砕け散ったボールの破片。それ目の当たりにして、ショウは自らの策が失敗したことを悟った。

 

 暴走するダイケンキはすでに目の前。もはやショウに次の行動に移る暇はなく。

 

 ——ぎゅわああおお!!

 

 次の瞬間、無防備なショウの肩口へダイケンキの鋭牙が突き立てられた。

 

 

 

 

「ぎ……あ、があああああ!?」

 

 

 

 

 ショウの喉から絶叫がほとばしる。

 肉が引き裂かれ、骨が砕ける感覚。激痛のあまり視界が明滅し、意識が飛びそうになる。

 

(で……も……!)

 

 ここで斃れる訳にはいかない。大切な相棒(ダイケンキ)に自らの手で仲間を弑させるなど許せる訳がない。

 その一心で飛びそうになる意識を繋ぎ止める。

 そして無事な片腕で肩口に喰い込むダイケンキの顎をゆっくりと掴んだ。

 

「つ、かまえ……た」

 

 そのまま興奮するダイケンキを落ち着かせるように、ゆっくりと撫でていく。

 

「大丈夫……、大丈夫……」

 

 呼びかけるのは彼女の口癖「大丈夫」。それはダイケンキがミジュマルであったことからよく聞かせられていた言葉であった。

 

 ——ぎゅるるるぅ………

 

 万力の如き重圧でショウの肩口を食いちぎらんと力を込めていたダイケンキ。だが撫でられている内に、徐々にその力が緩まっていく*1

 やがて狂気に濁っていた彼の瞳に、一瞬理性の輝きが灯り。

 

 —————。

 

 次の瞬間、ドウと地面へと倒れ伏したのであった。

 

(や……った……)

 

 力を失い倒れた相棒を予備のボールに収めつつ、何とかダイケンキを狂乱の檻より解放できたことに安堵するショウ。

 

「……づ、あ!」

 

 その時、再び激痛が走り思わず肩口を抑える。

 手にへばり付くぬるりとした感触。見ればダイケンキに噛みつかれていた肩口辺りは流れ出た血で赤く染まり、見るも無残な有様であった。

 そして流血はいまだ止まっておらず、服に血の沁みを拡げ続けている始末。

 この怪我がこのまま放置すれば命に関わるものであることは明白だ。一刻も早く処置を行わなければ。

 

 と、冷静に判断するショウであったが……残念ながら状況が彼女にそれを許さなかった。

 

 ——どしゅぐるおおおお!!

 

 湿地に鳴り響く咆哮。同時に、泥飛沫を上げながら彼女のすぐ側の地面に何かが投げ出される。

 

「……! ムクホー、ク……!」

 

 泥飛沫が収まれば、そこにあったのは傷だらけで意識を失ったムクホークの姿。

 ショウの願いに応え、単身で今の今まで時間を稼ぎ続けた彼であったが伝説(かいぶつ)との力の差は如何ともし難く……奮戦虚しくとうとう力尽きてしまったのであった。

 

「戻っ、て……!」

 

 無惨な姿で地に転がるムクホークを震える手でどうにかボールへと戻したショウ。

 

「——っ!」

 

 次の瞬間、その身を圧し潰す凄まじい重圧(プレッシャー)を感じ、弾かれるように顔を上げた。

 

 ——すすいいぃぃぃ!!

 

 視線の先、捉えたのは大地にタテガミを突き刺し力を溜めるスイクンの姿。

 うねるタテガミから泥の大地へと何かが注ぎ込まれ、同時にスイクンの周囲の地面がゴボゴボと音を立てて湧きたっていく。

 それは明らかに何かしらの"わざ"の予兆。思い返せばスイクンが泥を操る"わざ"を繰り出す際には必ずあのように大地が湧きたっていた。

 だがしかし、目の前で湧きたつ地面の規模は今までとは比べ物にならないほどの広範囲——つまり繰り出される"わざ"の威力も今までとは比較にならないということだ。

 

 その時ショウの脳裏に思い浮かんだのは、『純白の雪原』においてライコウが放った"氷の雷霆"。今まさにスイクンより放たれんとしている"わざ"は、まさしくそれと同等の一撃。

 そして、今のショウにそれを防ぐ手段も、時間も……残されてはいなかった。

 

 ——すいいい!

 

 彼女の眼前で、スイクンの周囲がいっそう激しく湧きたった。

 それは技の溜め(チャージ)が終わったことの合図。同時にスイクンは一際長い咆哮を発し——大地に片足を叩きつけた。

 

 ——どしゅおおおおおおおおおおお!

 

 【やまつなみ】

 

 

 

 

 顕現したのは山川草木悉くを埋め尽くす、黒山の如き泥の津波。

 進路上のあらゆる存在を呑み込みながら、鉄砲の如き速度で迫る【やまつなみ】をショウはせめてもの抵抗とばかりに睨みつけ——

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、全てが黒に閉ざされた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 ——ギュルルルル……!

 

 【やまつなみ】によって平らかとなった『ヘドロ台地』を睨みながら、スイクンは低く唸る。

 極上の獲物(ガチグマ)を取り逃がし、気が立っていたところへ現れた小癪な存在(ニンゲン)。腹いせに消し飛ばしてくれようと思ったが、思わぬ反撃を受けて消耗の大きい【やまつなみ】(大技)まで使わされてしまった。

 自らより遥か格下の存在に翻弄され、切り札まで切らされた事実に凄まじい怒りを覚えるスイクン。だが、それ以上に深刻なのは【やまつなみ】を使わされたことによる体力の消耗だ。

 先日の獲物(ガチグマ)との戦いで連続使用したことも相まり、残された体力は危険域に達している。一刻も早くエネルギーを補給しなければ。

 

 そこでスイクンは視線を北の山へと向ける。

 感じ取れたのは強大なエネルギーを秘めた獲物の存在。あれを捕食できたならば、当分の間は持つ筈。

 だが同時に、その存在はスイクンにとっても尋常ならざる相手。返り討ちにあう可能性も十分あった。

 

 ——ど、しゅ、るるぃぃ……!

 

 そう危機告げる理性を、しかし、飢餓叫ぶ本能が凌駕する。

 

 ——贄を 贄を 疾く贄を

 

 己が魂より響く、呪いの叫び。精神の深奥より湧き出す、抗い難き殺戮の衝動。

 果たして擦り切れきったスイクンの理性はそれに抵抗することすら出来ず。

 

 本能に突き動かされるまま、スイクンは女王の座す『舞台の戦場』へと駆け出すのであった。

 

 

 ——どしゅすいいー!!

 

 

 

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 

 スイクンが立ち去り、再び静寂に包まれた『ヘドロ台地』。

 先の戦闘が嘘であったかのように、どこまでも平らかに凪いだその地に——ふと、動く影があった。

 

 しゅるり、しゅるりと長い体をくねらせ、泥の上を滑るように這い進む影。

 月光を反射し七色に煌く鱗を持つそれは一匹の美しい(みずち)であった。

 

 ——この(みずち)は本来、ここ『紅蓮の湿地』に住まうポケモンではない。

 本来は遥か『天冠の山麓』の奥深く、霧深き湖をその縄張りとし、数多の眷属を従えかの地を統べる"ぬし"たるポケモンである。

 

 なぜ霧の湖の"ぬし"たる(みずち)が棲家を離れ、遠路はるばる『紅蓮の湿地』までやってきたか。

 それは先日、霧の湖にて起きたとある事件が原因であった。

 

 霧の湖の"ぬし"たる(みずち)には、自らに付き従い生活する大勢の眷属たちがいた。

 眷属たちは(みずち)の同種の幼体となる存在であり、(みずち)は彼らの群れの"ぬし"として戦う術を持たぬ眷属らを庇護し、安全に生活できるよう自らの縄張りに住まわせていたのだ。

 ところがつい先日、平穏であった筈の湖に突如としておぞましき"命の叫び"が響き渡った。生命あるものに抗い難き畏れを抱かせるこの叫びにより、恐慌状態に陥った眷属たちは霧の湖からてんでばらばらに逃走、一匹残らず行方不明となってしまったのである。

 そういった訳で(みずち)は散り散りとなった眷属たちを探し出すべくヒスイ各地を東奔西走。眷属の微かな気配を追ってこの『紅蓮の湿地』までやってきたのであった。

 

 かすかに残る眷属の気配を辿りながら『ヘドロ台地』を進んでいた(みずち)は、やがて気配が一段と濃い場所を見つけ立ち止まる。

 

 ——ここか。

 

 間違いない、我が眷属はここに居る。"ぬし"ポケモンの感覚によってその確信を抱いた(みずち)は、やおらその美しい顎を開き膨大な水流を吐き出した。

 降り注ぐ水流の圧力により大地を覆う泥濘がみるみる剥がれていく。やがて(みずち)の吐き出す水流が収まり、泥濘に埋もれていたものが姿を現した。

 

 泥濘より姿を現したのは半死体のニンゲンの小娘だった。

 ひしゃげた片腕、大量の血で汚れた被服、血の気の失せた肌……身じろぎすらせず泥に体を沈める様は一見すれば亡骸にしか見えぬ。しかし、その身より僅かに感ずる生体エネルギーから、風前の灯火ではあれど命脈を保っているのが分かった。

 恐らくはこのニンゲンに宿るシンオウの加護の賜物であろう。その身に宿る神の祝福がこのニンゲンをギリギリのところで生かし続けているのだ。

 ——もしや、いつかカミナギの巫女が言っていた"時空の迷い人"というヤツであろうか。シンオウに時空の彼方より呼び出され、世界(ヒスイ)を救う使命を授けられた存在。ポケモンたちを従えヒスイを駆けるというその在り方は、どことなくコダイノエイユウを思わせる。

 

 とはいえこのニンゲンが何者であるかなど(みずち)にとってはどうでもよいこと。重要なのは眷属の安否だ。

 眷属の気配を頼りに、ニンゲン(ショウ)の腰元から上面を赤く塗った球体(モンスターボール)を取り出す。色濃く漂う気配と生体エネルギーの感覚から、球体内に眷属が収められていることを確信した(みずち)。すかさず球体を放り投げると尾の一撃でもって粉砕、閉じ込められた眷属(我が子)を解放した。

 

 ——ミッ!?

 

 中空に放り出され驚く眷属を(みずち)は長い耳で以って優しく受け止める。

 そのまま怪我などしていないか全身を探り、眷属が無事であることを確認してホッと安堵する。

 

 ——さあ、我らの縄張りへと帰ろう。

 

 眷属を見つけ出し目的を達した以上、もうここに用はない。(みずち)はそのまま眷属を連れ自らの縄張りへと戻ろうとした。

 

 ——ミ? ……! ミ、ミ!

 

 ところがである。縄張りへ戻ろうと(みずち)が踵を返したその時、なにやら慌てた様子で眷属が騒ぎ出したのだ。

 "一体どうしたのか"と(みずち)が問えば、眷属曰く、"あの倒れているニンゲンを助けてやって欲しい"のだという。

 

 眷属からの突然の懇願に思わず疑問符を浮かべる(みずち)。なぜわざわざあの生き物(ニンゲン)を助けなければならないのか。

 確かにあのニンゲンは強いシンオウの加護を宿す特別な存在。カミナギの巫女に曰く、時空の歪みを正す使命を帯びた"時空の迷い人"。

 だがそんなことは(みずち)にとって関係のない話だ。いかに神々にとっての重大事項といえどそれはあくまで神々にとってのもの、神ならぬ(みずち)にとっては心底どうでもよい事情である。

 (みずち)が関心を払うのは己が縄張りの安寧と眷属たちの繁栄のみ。生態系の安定のため傷付いたぬし(ライドポケモン)を癒すならばともかく、ニンゲンを助けねばならぬ理由などどこにもない。

 

 と、そう思う(みずち)であったが、しかし続く眷属の言葉で考えを改めることとなる。

 曰く、あのニンゲンは座して死を待つばかりであった眷属を救い、傷の手当をした上で安全な場所まで連れて行こうとしたのだとか。こうして自分達が無事再会できたのはあのニンゲンのお蔭。そしてそのニンゲンが今、死にかけている。ならば救われた命の恩をここで帰さねばならない……と。

 

 眷属より理由を聞き及び、(みずち)は深く納得する。

 なるほど、確かに命の恩を命で以って報いるは道理である。さらに言えば眷属の命を救うあのニンゲンの行いは眷属らを利する行為に他ならない。そして"ぬし"たる(みずち)にとり、眷属に利を齎す者へ恩恵を与えることはやぶさかでなかった。

 

 ——ふぉおおおおう

 

 (みずち)はしゅるりと長い耳ヒレを伸ばし、ニンゲン(ショウ)の体を泥濘より掬い上げる。

 そして微かに輝く水球を作り出すと、それをズタズタに引き裂かれたニンゲン(ショウ)の肩口へと押し当てた。

 (みずち)が作り出したこの水球には彼の持つ生体エネルギーたっぷりと混ぜ込まれている。傷口を通してショウの体へと注ぎ込まれたその生体エネルギーにより、彼女の傷はみるみる内に癒えていった。

 果たして治療を開始して数分の後、あれほど酷かった肩の傷は僅かな跡のみを残して消え去り、血の気の失せた肌も元の血色を取り戻したのであった。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 

 何かに揺られる感覚でショウは僅かに意識を取り戻す。

 どうやら自分は何かの背に乗せられているらしい。茫漠とした意識の中、それだけを知覚するショウ。

 

(——ん)

 

 その時、彼女の視界が自らを乗せる美しいポケモンの姿を捉える。

 

(——きれい)

 

 月明りに照らされ宝石のように輝く七色の鱗。水面に落ちた錦を思わせる鮮やかな紅い鰭。流麗かつ優美な造形はさながら"美"という概念が形を持ったかの如く。

 ポケモンの持つ天上の美しさを目の当たりにして、ショウの抱いていた不安や焦燥といった感情がことごとく洗い流される。代わって彼女の心を満たしたのは穏やかな安寧の情。

 

 身心を満たす心地よい感覚にショウの意識が微睡みへと落ちていく。

 

(——ぁ)

 

 そうして眠り落ちる刹那、ショウはふと自らの隣を泳ぐみすぼらしい魚ポケモンの姿を見つけ——。

 

(——よかったぁ)

 

 その元気そうな様子に安堵した後、今度こそ夢の世界へ旅立つのであった。

 

 

 

 

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 

「——以上が『紅蓮の湿地』における異変調査の結果となります」

「うむう……」

 

 ギンガ団本部最上階、団長室。

 シマボシの調査結果報告を聞きながら、デンボクは思わず眉をひそめる。

 

雷の聖獣(ライコウ)に続いて、水の聖獣(スイクン)まで姿を現すとはな」

 

 先の『純白の凍土』の一件にてライコウが。そして此度の『紅蓮の湿地』の一件にてスイクンが。ジョウトに伝わる三聖獣の内の二匹が、遠く離れたこのヒスイの地に姿を現した。それも『百獣夜行』という未知の災厄を伴って。

 いよいよもってきな臭い状況、デンボクの表情が険しくなるもの当然であった。

 

「して、ショウと交戦した後のスイクンの足取りは如何に?」

「は。コンゴウ団からの証言よれば件のスイクンはその後『舞台の戦場』を襲撃。峠クイーン・ドレディアと交戦しこれに重傷を負わせた後、姿を消したとのこと。残念ながらそれ以降の足取りについては分かっておりません」

「——うむう、"クイーン"にすら襲い掛かるか。先のライコウといい、奴らはキングポケモンたちを優先して狙っているのか?」

「推測ですが、加えてライドポケモンも対象としているものかと。今回、()()()()()()()()()()()()ガチグマにも何者かに傷を受けた跡があったとユウガオ氏より証言が出ています」

「先のウォーグルと同じ、という訳か。——ううむ、分からん。彼奴らめ、一体何が目的なのだ」

「……少なくともキングやライドポケモンを捕食対象と見なしていることは確かです。そして彼らはすでに二度、獲物を食い逃しています。ならば——」

「——再びキング場が襲撃される可能性は高い、ということか」

 

 シマボシの言葉を引き継ぐようにデンボクが呟く。

 シマボシもまたデンボクの言葉に首を縦に振ることで肯定する。

 

「——シマボシよ。此度の調査にて、彼奴らが『百獣夜行』を引き起こす元凶となっていることがほぼ確実となった……そう報告していたな?」

「はい。ショウとの交戦の最中、スイクンがかのライコウと同じ黒い霊気(オーラ)を放出し、それに触れたダイケンキが暴走状態に陥りました。その際、現れた症状は『百獣夜行』で見られたポケモンたちの特徴とほとんど一致しています。以上の出来事から、かの聖獣たちが『百獣夜行』の元凶であることはほぼ間違いないかと」

「うむう。……彼奴らがいかなる理由で『百獣夜行』を引き起こしたのかは分からぬ。しかし、その狙いが各地のキングたちであるならば……次の『百獣夜行』がどこで起こるのか予測は立てられるな」

 

 ヒスイの地に現れた聖獣たちは『百獣夜行』を引き起こす元凶。そして彼らは各地のキングを積極的に襲っている。ならば必然として、『百獣夜行』が発生するのはキング場を備える領域。それが分かっただけでも非常に大きな収穫であった。

 何せこれで『百獣夜行』は、原理は分からずとも発生の予測が出来る災害となったのだから。

 

「『百獣夜行』は最早、正体不明の災厄に非ず。近い内、我らギンガ団もまたこれに対抗すべく策を講ずるつもりだ。その際はお前たち調査隊の尽力も期待する」

「了解しました。調査隊一同、全霊を以って準備に当たります」

「うむう、頼んだぞ。……そういえばだが、シマボシよ。ショウの様子はどうだ。確か『湿地』の調査にて傷を負ったと聞いたが」

 

 と、そこでデンボクは先の調査にてショウが負傷したという報告を思い出し、彼女の状態について尋ねる。

 彼女はギンガ団が抱える貴重な戦力。それが来るべき『百獣夜行』対策で動けぬとなれば痛い。

 

「現在は医務室にて静養を命じていますが……幸いにして傷は浅く、3日もあれば復帰は可能とのことです」

「……報告では肩口の骨を砕かれる重傷であったと聞いたが?」

「確かに本人はそう証言しています。ですが、ユウガオ氏に発見された時点で被服に多量の出血痕こそ見られたものの、目だった外傷はほとんど無かったとのこと。後に医療隊による検査でも肩口に瘢痕(はんこん)こそ確認されましたが、骨などに異常は見られなかったそうです」

「——では重傷を負ったというのは虚言か」

「否定は出来ません。が、その可能性は低いかと。そもこの件についてショウ自身に虚言を吐く理由がありません。また当人もこのことを不思議がっている様子であり、わたしが話を聞いた際にも嘘を吐いている様子はありませんでした」

「そう、か。うむう……いや、わたしとて今更ショウがギンガ団に仇為すなどとは考えていない。あくまでも念のためだ」

「存じております。デンボク団長はギンガ団を率いる長。そして長たる者が団に多大なる貢献を果たした団員を疑うなどありえないこと。そうですね」

「う、うむ」

 

 心なしかシマボシから圧力を感じ、若干冷や汗をかくデンボク。

 彼は何かを誤魔化すように咳払いすると、話題を別の方向へと向ける。

 

「んん……! 軽傷であるならば重畳だ。来る『百獣夜行』対策においてもその働きに期待しよう」

「は。当人にもしかと伝えておきます」

「うむう。……しかし、この食い違いはどうも気になるな」

「医療隊によれば、ショウの肩口の瘢痕(はんこん)はまるで重傷から治癒したような状態であったとのこと。……これはあくまで予想ですが、彼女が遭遇したという未確認のポケモンが関わっているものと考えております」

「未確認のポケモン……? うむ、そう言えば『紅蓮の湿地』調査中に未発見のポケモンを捕獲したと報告があったな。いったい如何なるポケモンだ」

「はい。件のポケモンがスイクンとの遭遇により行方知れずのため詳細は不明ですが……聞き出した特徴から恐らく"ヒンバス"および"ミロカロス"と思われます」

「"ひんばす"に……"みろかろす"……?」

 

 シマボシの口より飛び出した聞き覚えのない種族名。思わず"おうむがえし"するデンボクに、シマボシは自身の知る情報を伝える。

 

「ヒンバス、そしてミロカロスは主にホウエン地方で生息が確認されるポケモンです。とはいえ、どちらも目撃例は極めて少なく、その生態はほとんど分かっておりません。精々、その容姿のみが知られている程度でしょうか。特にミロカロスは故郷(ホウエン)において、その美しさから見た者の心を癒す、と伝えられています」

「ふむう。……まさか、そのポケモンがショウを治療したというのか?」

「……証言からの推測ではありますが」

 

 野生のポケモンが見ず知らずの人間を治療する、それはデンボクの常識にとり信じがたい出来事であった。

 

「……にわかには信じがたい話だな」

「しかし、人間・ポケモン問わず傷病者を見かければ手当を行う生態を持つハピナスという例もあります。それにあくまで噂ですが、『純白の森』で遭難した少年にゾロアが治療を施したという話も。——野生ポケモンが人を助ける、という事例は少数ですが確かにこのヒスイでも確認されていることです」

「そう、か」

 

 にわかには信じがたい、と言うデンボクにシマボシが語ったのは、彼の常識に反する事例が他ならぬこのヒスイにおいても存在しているという事実。

 彼女の言葉にしばしデンボクは瞑目し、物思いにふけるように沈黙する。

 

 ポケモンは恐ろしい生き物だ。時に火を吐き、時に水を噴き出し、時に雷を放つ。その気になればいとも簡単に人間を()してしまえる存在。

 それはデンボクにとって紛れもない真実。過去の経験に裏打ちされたその価値観は、恐らく未来永劫変わることはないだろう。

 

 だが、同時に今の彼はポケモンがただ恐ろしいだけの存在でないことを知っている。

 互いに認め合い、強固な信頼を結べる相手(パートナー)。時に助け合い、共に歩むことの出来る隣人。ポケモンと人は共存できる、それは他ならぬショウがこの地にて証明したこと。

 そしてデンボクは自らの価値観に固執し目の前の事実を認めることを拒むような、そんな狭量な人間ではなかった。

 

「"人とポケモンの争い無き新天地"……か。あるいは此度の一件、我らの目指す理想の未来……その兆しなのやもしれんな」

「——まことに」

 

 複雑そうに、それでいてどこか嬉しそうにデンボクはそう呟く。

 そんな彼の言葉にシマボシもまた、静かに同意したのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ヒスイを覆う暗雲、未だ晴れず。

 されど雪ほどきし未来(はる)の兆し、かすかに萌え出づ。

*1
ショウ自身も気が付いていなかったが、この時彼女の懐のアルセウスフォンがかすかに輝きを発していた




スイクン(???の姿)
タイプ:じめん
『姿、酷似する故"スイクン"と呼称す。然れど伝承と相反せし深緑の姿、澱みし沼池が如くなり』





















以下、本編に入らなかった補足など

・ヒンバス
『目撃情報少なく詳細知れず。極めて貧相なるその容姿は、身を護るための擬態と推察』
 霧の湖の"ぬし"たるミロカロスの眷属。命の叫びに驚いて縄張りから逃げ出し、死にかけていたところをショウに救われた。
 ——彼女は生涯に渡り、ショウに命を救われた恩を忘れることはなかった。そしてこの時彼女が人間(ショウ)に抱いた好意は、彼女がミロカロスより地位を引き継ぎ、新たな霧の湖の"ぬし"となった後も変わることはなく。
 それが遥かな未来にて、彼女の眷属の一匹ととある人間の少女によるシンオウの頂点を目指す物語へと繋がるのだが……それはまた別の話である。

・ミロカロス
『目撃情報少なく詳細知れず。その美麗なる姿は見る者の心癒すと伝えあり』
 『天冠の山麓』の奥深く、霧深き湖に住まう"ぬし"ポケモン。シンオウの力が色濃く残るテンガン山内奥を縄張りとし、準キングとも言うべき強大な力を持つ。
 古くは古代シンオウ人とも交流があったようだが、現在では人前に姿を見せることは滅多にない。
 ちなみに本編でショウを治療した後、たまたまスイクンに襲われ"ひんし"状態となっていたガチグマを発見し、これもついでに治療。治療代とばかりにショウのことを押し付けた。
 なお、余談であるが命の叫びによって散り散りになった眷属を回収した後、カミナギの巫女にこの騒ぎを何とかしろと文句を言いにいったそうである。

・ガチグマ
 『紅蓮の湿地』を縄張りとするライドポケモン。本編ではスイクンの襲撃を受けて"ひんし"の重傷を負っていた。
 その後、ショウを運ぶ最中であったミロカロスと偶然遭遇し治療を受ける。回復後はミロカロスからショウの身柄を預かり、ユウガオの元に送り届けた。

・ダイケンキ
 ショウがラベン博士から託されたポケモンの一匹。彼女の手持ちの中でもジュナイパーに次ぐレベルを持つ実力者。
 スイクンの黒い霊気(オーラ)に当てられ暴走状態となるも、ショウとの絆、そして彼女の身に宿るシンオウの加護によって正気を取り戻す。しかし、霊気(オーラ)に侵された影響か現在は昏睡状態に。医療隊に曰く回復の見込みは不明ということで、以降は戦線離脱することとなる。
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