――ああ。
――なんて綺麗な瞳をしているのだろう。
憎しみでも怒りでもない、空を思わせる蒼く清純な瞳。迷いすらないそれを見て、怒りと憧憬を感じる。
眼前の女は誰よりも大好きだった人たちを斬った女だ。
女の前にいる俺は誰よりも彼女の仲間を殺した男だ。
戦場の記憶。
思い出したくもない、酸鼻で醜悪で残酷な光景。
そのきっかけは差別だった。
四百年前から続く、嫉妬の魔女の恐怖に未だ怯える衆愚による亜人の排斥。
鬱憤は沈殿していたのだ。目に見える亜人の冷遇、蔑視、居場所を追われ隠れ里を開いても、暴かれ、拓かれ、奪われる。そんな人との歴史の中で、確かに。
まるで洪水を堰き止める堤防のようなものだった。明らかな戦力差、勢力差。国家に対し刃を挙げてもどうしようもないという事実が亜人たちの見えない憤怒を押しとどめていた。
そんな堤防を壊したのは結局人間だった。
ヴォラキアとの国境沿い、亜人の商人が密輸の疑いを掛けられその場で手打ちにされたというのが事の発端。そのあまりの理不尽さに亜人たちは気炎を上げて立ち上がった。堰き止められていた濁流はもう既にとどまることを知らず、ルグニカ王国全土に四百年にも渡る迫害への怒りを叩きつけた。
――俺が七歳の頃の話だ。
七歳。それが俺に許された幸福の記憶の最後。そして亜人戦争が始まった日。
亜人戦争の開幕とともに、都市郊外へ住まう亜人への排斥は刃を以て行われることになって、それで。それで……。そこから先の記憶は酷く朧気で、細やかな破片になってばら撒かれてしまったようだった。
掌から零れ落ちていく大切な命と、初めて殺したどうしようもなく愚かな人間たちの躯。
獅子のように変異した肢体とそれに伴う本能による殺意。
達成感よりも、嫌悪感よりも、悲哀のみが全身を埋め尽くしていたあの記憶。
「どうして」
縋るように呟かれた言葉。
誰が言ったものだったか、誰に言ったものだったか。
わかることは、それを言ったものは答えなど得られなかったということ。
わかることは、あの時をきっかけに、俺は戦い以外の道を選べなくなったこと。
失いたくないと伸ばした手で人を殺し、屍を積み上げ、その身を鮮血で穢している。それでも未だ戦うのは抱きしめた両腕の中にある大切なものを守るため。
怒りと憎しみの激流の中で必死に藻掻き、血に濡れた掌を見つめ悪夢に苛まれながら、失いたくないもののために戦い続ける。
その信念だけを支えに六年の時が過ぎた。
堤防が壊れてから、六年の時が。
◇
ルグニカ王国北西。グステコに隣接した領地、ネーデルラント領にある貧村。つけられるべき名は無く、ただ村と呼ばれている。
グステコに近いだけあって、温暖なルグニカにしては寒さが厳しく作物の実りも悪い。僻地であるからか行商の通りも悪く、村はうらぶれて寂れている。
元々そこはグステコの村であり太古の戦争による領土割譲によってあちら側へ帰る手立てを亡くした人々の子孫だからか、村人は閉鎖的で外からの刺激に強い反発を覚える、そんな今にも滅びを迎えそうな村に一人の蛇人が足を踏み入れた。
「なんて酷い……」
低い声とは裏腹に甘ったるい調子で呟かれる声。服越しに見える隆起した筋肉は角張っていて性別は見るからに男性であるのに、眉や顔に施された薄い化粧と
彼の名前はリブレ。亜人族の英雄とすら謳われる亜人最強の剣士だ。
彼がここに来た理由は一つ。もう十年は会っていない友人を探しに来た。それだけだ。
人と結ばれる為に、獅子族の姫君という地位を捨ててまで駆け落ちした愛しくも愚かな友人の足跡を追ってきただけだった。
普通の亜人ならば、そんな愚かな友人のことなど忘れてしまうだろう。或いは憤慨し口汚く罵ることだってある。
だがリブレは普通ではなかった。長きに渡り確執のある亜人と人が結ばれることを祝福した。もちろん一番の友人だった自分にすら内緒で駆け落ちしたのに文句のひとつは言ってやりたかったが、地位や立場を考えるのならば黙って行ってしまったことに少しの理解は示せる。
だから、せめて安否の確認をしたかっただけなのだ。それが十年にも及ぶ追跡になるとは思いもしなかったが、僅かずつ時間をつくり、何年も何年も追跡を続け、つい最近この村でその姿を見かけたことを耳にした。
けれど、時期が悪かった。亜人戦争なんてものがつい最近勃発してしまった。元から根強かった反亜人思想は各地で唸りを上げて村に住まう善良な亜人にすら刃を向けることが増えている。
多分、ここもその限りに漏れなかったのだ。元からボロボロだった村の家屋はそのほとんどが倒壊し、あちこちで血と臓物が鴉によって啄まれている。死体こそ見当たらなかったものの、誰かに人的なものの手で起こされたということをリブレは感じ取る。
そして村の中央で尋常ならざる気配を察知した。亜人のような、魔獣のような、どっちにもつかない気配。初めての気配にリブレは眉を顰め、背に背負う両刃剣に手を添えて歩を進めた。
血と臓物の匂い。錆びた金属じみた濃厚なそれが村の中に充満していて思わず舌を引っ込める。最初、亜人排斥の機運による村人同士の殺し合いを想像していたリブレだったがそれが間違いだったと村の中央に近づくにつれて理解した。
かといってこれほどの数の村人を逃げさせもせずに殺しきるなぞ亜人の英雄たるリブレにだって不可能だ。ならば何が。それを成したものの存在を確かめに歩を進めた。その突如、凄まじいプレッシャーがリブレを襲う。
テリトリーに入った獅子のように、そのプレッシャーの主は殺意と敵意を向ける。リブレは久方ぶりに冷や汗を流した。明確な死のイメージ。英雄であったがゆえに縁遠かったそれを叩きつけられ表情が陰る。
「とんでもないのがいるわね……」
軽口が口を出す。そぐわないが、声にでも出さなければやってられない。
帰るべきだ。とリブレの理性が呻きを上げる。
友人の死をこの目で見るまで帰りたくない。と感情が悲鳴を上げた。
リブレは思う。理性に従うべきだと。もしここで自分が死ねば、亜人戦争が全面戦争にまで発展した時に敗北が確定するからだ。各部族が各地で小規模な反乱を起こし続けている現状ならともかく全面戦争ともなれば指導者や象徴というものが必要になってくる。しかし今の亜人全体を見渡せば自分以外で戦争の旗印となれそうな若手はもういない。
亜人は種族的な肉体能力などの優位があるものの、数という絶対的なもので人間に劣る。
それを覆せる個の存在も、獅子の姫君が消えてしまってから絶えて久しい。
獅子族の王の血族は、全亜人族において三英雄以上の知名度を誇る一族だ。獅子と虎をはじめとする肉食動物の獣人は押しなべて身体能力が高い傾向にあるが、獅子族の王族だけは代々受け継がれるその特異な体質によって英雄視される。
『マナ循環異常体質』。マナを体外に放出できない異常な状態。マナを体外に放出できないということはゲートにマナが飽和して肉体の破裂を招くはずだがこの体質はその余剰なマナを肉体の何かしらの機能に回して消費されるようになる。
獅子族の始祖たるアルケイデスは数万の人間の軍勢相手に単騎で立ち向かい全ての攻撃をその身で受けて尚無傷だったと伝えられており、その伝説の一助となったのがマナ循環異常体質による肉体の硬質化だった。
そしてその始祖の血脈のみがその体質を受け継ぎ、獅子族が鬼族や巨人族、エルフといった他種の強力な亜人を押しのけて『亜人の王』とまで称され一目置かれるようになった。
だが今やその地位にも揺らぎが生じてしまっている。
答えは簡単で獅子族の姫が人間と駆け落ちなんていう前代未聞の事態に陥ってしまったからだ。
獅子族の体質はなにも全ての王族に受け継がれるわけではない。もし全ての血族に受け継がれるのならば今頃獅子族は人間なんてあっという間に押しのけて天下を取っている。
なぜそうならないのかというと、なぜかその体質は長兄のみに受け継がれてしまうからだ。
もし王女が最初に生まれたのならその体質は受け継がれず、次の子供に受け継がれるようになる。
よって獅子族では王女が生まれたのならば周りに気取られないように男として育て祝福し、速やかに水面下で婿候補を探すのが通例となっている。
今の獅子族の王は七十間近の老齢だ。本来なら世継ぎに王位を譲っていても可笑しくはない。だが獅子姫が出て行ってしまったので王位を保持したままとなっている。
ほかにも政治的な話は腐るほどあるが、もはや獅子族が亜人の王と呼ばれる日は来ないだろう。
現王が死んでしまったらその血脈は途絶えるからだ。
四百年というルグニカ王国と同程度の古い歴史は一人の女の恋が原因というありふれた滅びを迎えようとしている。
それにリブレは思うところはない。
もとよりたった一つの血族からうまれるたった一人の英雄に頼り切りな時点でいつか滅びを迎えるのは必定だ。その切っ掛けがたまたま自分の友人だっただけだ。
……ナターシャは愚かな子供だった。
底抜けに明るくてお人好しで、笑みを湛える瞳は夕焼け色。黄昏時を思わせる瞳に、雄大なサバンナを思わせる豪快かつ鮮やかな黄土色の毛並み。種族は違えど美しいと思わせられる顔立ち。
蝶よ花よと育てられているのにどこか遠くをみつめていた。いつも何かを憂いていた。
どこを見つめているのかと聞いても空、だとか、山、だとか答えられて何とも言えない気持ちにさせられた。
だけどリブレにとっては掛け替えのない友だったのだ。
だから、会いに行きたい。
友達に会いに行きたいというのはそんなにダメなことだろうか。
十年も一緒にいた友達に、お別れの挨拶も言えなかった友達に、結婚の祝福もできなかった友達に。……せめて死に顔くらいみたいという我儘くらいゆるしてくれないだろうか。
許されていいはずだ。それがどんなに無残な屍であろうと、リブレは受け入れる。
ただ事実が欲しかった。友が死んだという事実ともう会えないという二つの同居した事実が。
そこではじめて、胸の内にあるこの感情に折り合いをつけられるはずだから。
だから、黒い威圧感を押しのけてリブレはそのテリトリーに足を踏み入れた。
威嚇するような立ち込める殺意が、収束してリブレに向かう。
心臓が早鐘をうち、額と両刃剣を握りしめる手に汗が滲む。息が荒くなり酸素が足りず頭がくらくらした。
どんな化け物がいるのだろう。おそらく魔獣だろうけれど、これほどの威圧感ともなれば三大魔獣にすら匹敵するとんでもないやつかもしれない。
目端に血管が浮かび、浅くなった息に呼応するように、唸り声が耳朶を撃つ。
そこかしこにこびり付く狂乱の証たる血液がその量を増していき、家屋の倒壊具合が近づくにつれて増加する。
やがてリブレの目に移りこんだのは小さい黒い毛玉だった。
体躯はせいぜい百五十センチ程か。黒い獣は牙を向き屍の上で咆哮を上げた。
死体の数が少ない理由はこの獣が食い散らかしていたからだったらしい。屍の山にはところどころに骨が突き刺さりその醜悪さを増している。
血液の匂いが酷かった。目に来るほどの臭気は特段鼻の利くわけでもないリブレを以てして思わず目を瞑りたくなる。
その瞬間だった。黒い毛玉がブレて猛烈な悪寒に襲われたリブレは弾かれるようにその場から横にとんだ。
「うっそでしょ!?」
リブレのいた地面は砕かれ蜘蛛の巣上の罅が入っている。それを成したのは自身より遥かに体格で劣る動物だ。しかしその速度と膂力は己をはるかに凌駕している。
両刃剣を構え、如何な挙動にも対応できるように腰を落とし目を凝らす。
動物は避けられたのが不思議だったのか四肢を地面に下ろしながらリブレの様子を窺っている。
「そりゃあこんな村の武装農民なんて鏖殺できるでしょうね」
ちろりと口から飛び出る下をすすり、冷や汗止まらぬ額を拭うことも厭わしい。運動能力が馬鹿げている。もしここにいたのがリブレ以外の戦士だったら殆どが死んでいただろう。
また黒毛の体がぶれる。今度はしっかりと両の眼でその姿を捉え、しかし身体能力の差からギリギリのところでその爪刃を己の剣で受け止めた。
甲高い金属音、押し込まれる両刃剣。
音速を遥かに超えるその一撃を放つ獣も獣だったが、見切るリブレもリブレだ。
膂力では負けると判断し、リブレは蛇人特有のうねるような体捌きを駆使して獣を弾き飛ばす。刃にかかった力を利用し獣は後方へ回転。迅雷の後退により追撃したリブレの刃は空を切った。倒壊しきった家屋の壁に着地すると、壁を粉砕する脚力を以て再度リブレへ突進する。
これを受けては堪らないと剣の重みを利用して下半身を軸に回転することで高速の突進を回避。しかし獣はまた家屋の壁に着地したかと思えば突進を繰り返す。
(かするだけでも死ぬわね)
速度と膂力、獣砲弾とでもいうべき殺戮技巧、殺意に特化したそれは殺しに特化しすぎたがゆえに歴戦のリブレは対処が可能だった。狙いが露骨であり、いかに速度で勝ろうが来る場所がわかっていれば回避は可能。
だがそれは可能なだけであり、連続した回避は集中力と体力が切れればそれまでだ。
ならば体力も集中力も豊富な今しか反撃の機会はないとリブレの勘が告げる。
そしてリブレはそれに賛成だった。
問題はどうやって勝負をしかけるか。
獣は相変わらず変態軌道による撞球反射を繰り返していて姿を捉えることすら難しい。
(そういえば……)
わずかな違和感。さきほどからこの獣はある方向を向いたときにだけ通常の攻撃よりも早くなる。
最初の攻撃もそうだった。リブレが屍の山を見たとき、そして今もその方向へ視線を寄せると遮るように動いてくる。
(あそこになにかが……)
そして脳裏に電撃が閃いた。
先祖返り。亜人のハーフが行う獣の性質をその身に強く宿す能力。
そして自身の友と、『マナ循環異常体質』による強力無比な身体能力。
もし、この獣が自身の想像通りなのだとしたら。
もし、この村の住民が友人とその夫を殺そうとしたのなら。
もし、この化生じみた強さが亜人の王としてのものなのだとしたら。
「そう、そうだったのね」
たぶん、この子供は今まともな精神状態ではない。
自分の殻に閉じこもり、本能に身を委ねることで自身の心を守り、両親の屍を辱められないように守っているのだとしたらーー。
神速の一撃が飛来する。
あえて屍の山を見つめることで誘導し、その一撃はリブレが想像した場所に想像したとおりに訪れる。リブレはその手に握る両刃剣を地面に突き刺し、飛来した哀れな子供を横から飛びつくように抱きすくめた。右腕が衝撃を殺しきれず弾け飛ぶが、リブレはその痛みを許容する。
敵意も怯えもこの子供を恐れさせるだけだ。ならば友人の子供にむける無償の愛を以て抱き留める。
もはやリブレの心に邪な感情は存在していなかった。
あるのは慈愛。その身に訪れた不幸を慰める慈母の愛。
「お眠りなさい」
抱きすくめられた黒い小さな獣はびくりと慄くように身を震わせると、その姿になってから初めて向けられた愛情によって全身の緊張を解いた。
そして極限状態だった体は疲れ切った精神と肉体を癒すように眠りに落ちた。
しゅるしゅると黒い毛皮が人の白い肌へと変化していき、爪も牙も消えればそこにあるのは幼くも貴い血筋の子供だった。
こんなに小さな体で両親の亡骸を守り続けたのだ。リブレはそれを哀れみ、そして称える。
「あなた、戦士なのね」
幼くして守るべきもののために戦おうとした。守れずともその屍を守り通した。
それはやろうとしてもできるものではないと戦場を知るリブレは知っている。
だからこそこの幼い戦士を称え、慈しむのだ。
「さて、あなたの両親に少し会いに行かせてももらうわね」
一頻り幼子を慈しんだ後、リブレは幼子の寝顔に微笑みながらそう言った。
幼子を抱きしめたまま、リブレは右腕を生やして屍の山に向かった。
相変わらずひどい匂いだが、すでに自分も血まみれなので気に留めずともよい程度になっていた。
屍の山の向こう側に小さな家屋があり、そこだけ倒壊具合が少なかったためリブレはそこに向かう。
扉を開くと軋む金具の音と脆い木材が歪む音がする。かなり古い家だ、周りの家も似たり寄ったりだがこの村はよほど困窮していたのだろうと思わせる。
内装は荒らされた痕跡がそこかしこに点在し、棚は倒れ机はへし折れ家財道具はそこかしこに散らばっていて足の踏み場もない。
足を踏み入れ奥に行けば比較的荒れていない場所があった。
寝室だ。大きいベッドが一つ、ぽつりとおいてあり何かの上に毛布が被さってある。
リブレはその毛布をつかむとゆっくりとめくりあげた。
「ナターシャ」
万感の思いが込められたつぶやきだった。
十年探し続け、想い続けた友人。その死に顔を見つめる彼の心境はいかほどのものか。
「十年ぶりね」
「ロビンも久しぶり」
「十年前言い忘れたことを伝えに来たの」
「結婚おめでとう。あなたのお父様がなんて言ったって私は祝福するわ」
「ロビン、ナターシャを不幸にしたら許さないわよ、なんて言おうとしたのだけれど。ふふ、子供をみればわかるわ。ちゃんと幸せな家庭を築けてたみたいね」
「ねぇ、この子供の名前、なんていうの」
「……この子は優しい子よ、あなたみたいな夕焼け色の瞳も奇麗だし、ロビンの色男ぶりも受け継いでるから将来は明るいわね」
「……なんて、答えてくれるわけもないわよね」
「安心して、ナターシャ、ロビン。この子は私が責任をもって育てるわ」
「一応獅子族のとこにも連れていくつもりだけど、私ともどもたぶん受け入れてくれると思うわ」
「……さようなら。もう会うこともないでしょうね」
「じゃあね、ナターシャ」
◇
蛇人は村を後にする。
無人の村はやがて屍肉につられてきた魔獣に食い尽くされ、その痕跡を消すだろう。
蛇人の友人はもう二度とその形を世に出すことはない。
けれど、それでよいのだと蛇人は言う。
そんな、救いのない亜人の英雄の旅のお話。
次回更新は明日の昼頃、その後は未定。