一
耳を劈く金音でぱちり、目を開く。
けたたましく鳴る目覚まし時計を無造作に叩き、布団からのっそりと起き上がる。
頭をわしゃわしゃと掻くと、少し寝ぐせが付いてしまっていることに気付いた。
今は何時だろうか。
先程ぞんざいに扱ってしまったそれに謝罪しながら、寝ぼけ眼でその面を見る。
……七時。七時である。
ぼやけていた意識が急速に覚醒していく。
非常にまずい事になった。どうやら私はやらかしたらしい。
家から学校はかなり遠い。バスなどを使っても一時間程は掛かるか。
始業を告げるチャイムは丁度八時に鳴る。鳴ってしまうのだ。今の私にとって、それは有罪を告げるガベルの音。
つまる所遅刻である。まだ決まったわけではないが、恐らく免れないだろう。可能性は限りなく高い。
くしゃくしゃになった毛布を払いのけ、ベッドから飛び起きる。驚いた目覚まし時計がヘッドボードから落ちた。
気にも留めず、クローゼットから制服を取り出し着替える。寝ぐせはそのまま。着こなしなど気にしている時間は無い。
幸いにも荷物は昨晩の内にまとめていたので、更なる手間を取らずに済んだ。
適当に鞄を引っ掴み、ドアノブに手を掛ける。
―――そこで、勉強机の上に折り畳み傘が置かれていることを思い出した。危ない、忘れるところだった。
これも持って行かなければ小言を言われてしまうな。そもそも遅刻などした時点で手遅れか。まあいいだろう。
容易に想像できる彼女の姿を頭に浮かべ、苦笑いしながら傘を鞄に入れる。
今度こそドアを開け、早歩きで階段を下りる。
朝食が恐らくキッチンに置いてあるはずだが、食べている暇はない。
昼まで空腹に耐えられるだろうか。恐らく問題ないとは思うが。
そうして玄関に辿り着き、外に出ようとしたのだが。
陽光が鋭く目を貫いて、痛みで咄嗟にドアを閉めてしまった。
息を吐き、もう一度目を慣らす為に、少しずつ、ゆっくりと開く。
隙間から覗いてみると、雲一つない青空。昨日までの暗がりや水音が、嘘のようであった。
今日は傘を開くことは無さそうだ。
二
案の定、校門を跨いだのは定刻より少し後。
道中出てきた汗を拭いながら、小走りで教室の前まで辿り着いた。中はがやがやと騒がしい。
中に入るために勢いよく教室のドアを開けると、全員の視線が私に集まった。途端に静寂が訪れる。
大半が困惑や驚きの表情を浮かべる中で、たった一つ、微笑みがこちらに向けられていた。
「こら」
ぼけっとそれを眺めていると、担任から声を掛けられてハッとする。
「何をしていたんだ」
恥ずかしいのであまり正直に答えたくはない。
しかしここで誤魔化しても仕方が無いので、素直に答える。
「寝坊です」
そう言った途端に周りの雰囲気が和らいだ。
数秒前までの静けさとは一変して、それぞれが自分の事に戻りまた騒がしくなる。耳を澄ますと私のやらかしに関する話題もちらほらと聞こえてくる。
それでも、唯一向けられた微笑みは変わらないまま。
少し説教を喰らって席に着き、普段通りにクラスに溶け込む。
残りの朝礼が終わり一時限目の準備をしていると、横から声を掛けられた。
「夜更かしでもしていたんですか?」
透き通るような、心が洗われるような、そんな少女の声。
私が顔を向けると、先程の微笑みがそこにあった。
想定より距離が近くて、艶のある栗色の髪が鼻の先に見える。
いい匂いだ。なんだかふわふわとした心地になる。例えるなら金木犀の花だ。
シャンプーの匂いなのか、彼女自身の匂いなのかは分からない。それとも香水など付けているのだろうか。
そんなことを考えていたものだから、顔同士が近い事に気付くのが遅れて。
我に返って恥ずかしくなり、思わずそっぽを向いてしまう。
そしてそのまま、問いに答えるために口を開く。
「そうかもね」
顔の勢いのまま、ぶっきらぼうにそう返す。
「そうですか」
彼女はそれだけ言うと私の横から位置を変え、空いていた前の席へ歩く。
そのまま椅子に座り、足を横に投げ出した。
一つため息をついた後、ゆっくりとこちらを見据える。足をぶらぶらと、小刻みに動かしている。
……ああ、これは始まってしまうな。
彼女の唇が、動き始める。
「前々から何度も言っていますが、夜更かしは体に毒ですよ?実際今日遅刻していますし、もう少し早く寝ないと駄目です」
呆れ顔で彼女はそう言う。まさか朝から二回も説教をされる事になるとは思わなかった。今日はついていないな。
最早これは恒例行事のようなもので、私が何かやらかすのが彼女の目に付くと毎回こうなってしまう。
初めの方こそ鬱陶しいなどと思っていたのだが、彼女も私の事を案じてのことだろうし、自分に落ち度がある事は確かなので次第に受け入れるようになってきた。
最近確かに夜遅くまで起きている事が多い、というのは自分でも分かっていた。
ゲームやその他の娯楽で夜更かしをしているわけではない。ただ眠れずにベッドで天井を眺めている。
ただ、その時必ず頭の中にあるのは彼女の事で。少し前からずっとそうなのだ。
「分かってるよ。でもそれは―――」
言いかけて、飲み込む。
彼女の足の動きは止まって、大きな耳はピンと立った。顔には疑問の二文字。
―――それは君のせいだ、と言いたかった。
しかしそうしてしまうと、何か大事なものが無くなる気がして本能的に留まった。
それにそう言ったところで、彼女からしてみれば理不尽でしかないだろう。夜更かしの原因を、意味も分からず擦り付けられたのだから。
かといって、自分でも何故なのか分からない。この感情は一体何なのか。私には形容することが出来なくて。
ただこの胸の内は外に出してはいけないと、おぼろげにそう思うのだ。
「……いや、なんでもない」
彼女の懐疑の目から逃れるように早口で言う。なんだか腑に落ちないという顔をしているが、これに関しては黙秘する。
しかし追及されると間違いなくボロが出てしまうので、ここらで先手を打って話題を変えよう。
「それより傘、返すよ」
そう言って私は、鞄から紺色の折り畳み傘を取り出す。
未だに表情の変わらない彼女の手を取り、半ば無理矢理それを握らせる。
するとようやく動き出した彼女が、少し待っていて下さい、と言って教室の後ろにあるロッカーの方へ歩いていく。
「私もこれ、返しますね」
戻ってきた彼女は黒一色の大きな傘を持っていた。私のものだ。
「ありがとう」
受け取って礼を言う。見るととても綺麗に畳まれているのが分かる。私より良い扱いをしてくれるので、さぞかしこいつも喜んでいることだろう。
見たところ、どうやら話題のすり替えには成功したらしい。あとはふとした瞬間に掘り返されないことを祈るだけだ。
……そういえば、このやり取りも何度目だろうか。なんだか心地良い。
その後、もうすぐ授業が始まるからと彼女は自分の席に戻って行った。
目で追っていると、彼女が席に着くとほぼ同時に授業の始まりを告げるチャイムが鳴った。
結局あの感情は何なのか。どうすれば正体が分かるのだろうか。
そればかりが頭にこびりついて、内容はほとんど頭に入らなかった。
―――思えばこの感情は、梅雨の始まりから続いている。あれは初めて傘を借りた日だったか。
あの時からずっと煮え切らないまま、正体が分からないまま、私の中で蠢いている。
そう。あの時から、ずっと。
あれは雨が降り続く中でも、一際雨脚が強い日であった。
三
私は雨が嫌いだった。
憂鬱な気分になるからだ。それ以上でも、それ以下でもない。
具体的な理由はあるのかもしれない。太陽が見えないからとか、ジメジメするから、とか。
思いつくものは色々あるが、私はそれらを全部ひっくるめて憂鬱な気分としている。
夏が始まり、梅雨に入って数日、という所であった。
連日雨が降り続き、正に憂鬱な気分で日々を過ごしていた所、それを加速させる出来事が起こった。
傘を忘れたのだ。家を出るときは降っていなかったから気付かずに、そのまま学校に着いてしまった。
家まで取りに行けるような距離でもないし、ビニール傘を買いに行くお金も持ち合わせていない。そもそも辿り着く前に濡れてしまう。
授業を受けている間は緩和されていたものの、一通り終わると再びじわじわと気分が落ち込んでゆく。
自分の席に座ったままで、どうやって被害を抑えればいいものかと考えていると、横から声が掛かったのだ。
「どうしたんですか?まさか、傘でも忘れましたか?」
透き通るような、心が洗われるような、そんな声。
声のする方に顔を向けると、やはりそうであった。
いい匂いのする栗色の髪。落ち着いた、それでいてどこか凛とした佇まい。
「……グラス」
「はい、グラスワンダーですよ」
グラスワンダー。彼女は人間ではなくウマ娘である。
私が幼い頃から関わりが深く、所謂幼馴染という関係だ。
とは言っても物語の様に大袈裟な出会いがあるわけではなく、単純に小学校で一緒になった、というだけの話。
何故か知り合ってからは一緒に居ることが多くなった。特に取り決めをしているわけではなく、気付けば彼女が傍に居ることが多い。
彼女はなにかと世話焼きで、私が失敗をするとそれが分かっていたかの様に手助けをしてくる。まるで私の心を覗いているみたいに。
勿論それによって助かってはいるのだが、人に見られていると少々恥ずかしい。
ここまでの仲になったのは、家が近いというのもあるのかも知れない。お互いの家まで歩いて十分程だ。
そういえば、彼女は何をしに来たのだろう。
これから濡れ鼠になる私を笑いにでも来たのか。それともいつものように救いの手を差し伸べてくれるのか。
そんな事を考えていると、彼女が口を開いた。
「傘を忘れたのであれば、私の折り畳み傘を貸しましょうか?」
出てきたのは思わぬ提案、どうやら私は救われるらしかった。なんとも嬉しい話だ。
しかし、彼女の分はどうするのだろうか。流石に手を差し伸べてくれた本人を濡らす訳にはいかない。
「いや、それだと君が――」
「同じ傘に入ればいいじゃないですか。狭いですが、びしょびしょになるよりかは良いと思いますよ?」
……まあ、それならばいいか。少し濡れる箇所が増えるかもしれないが。
◇◆◇◆◇
帰路に就くため靴箱まで来た。
終礼が終わってからしばらくグラスと話していたため、いつもわいわいと騒がしいここも今は閑散としている。雨の音も相まってなんだか少し寂しい。
上履きを脱いで自分の場所に入れ込み、靴を取り出す。彼女の方を見るとどうやら既に準備は出来ているようで、ガラスのドア越しに外を眺めていた。
「凄い雨ですね」
彼女が呟いた。外を見ると、確かにとても激しい雨だった。
この中を一本の折り畳み傘、ましてや二人でとなると少し辛いものがあるかもしれない。ずぶ濡れにならないだけありがたいけれど。
なんにしろグラスと家が近くて助かった。でなかったら、最悪な気分で今日を終える事になるところだった。
「そろそろ出ましょうか」
そう言うと彼女は鞄から、白い水玉模様の付いた紺色の折り畳み傘を取り出した。
それは落ち着いた大人っぽさの裏にどこか可愛らしさを感じるもので、なんとも彼女らしかった。
ドアを開き軒下に出た彼女が傘を開く。
そしてこちらへ振り返り、手招きをしながら微笑んで言った。
「ほら、早く帰りましょう?」
―――美しい。頭に浮かんだのはその一言だった。
湿気のせいかいつもより艶の増した髪、薄暗い空のせいで際立つ白い肌。なんだかあでやかで、見惚れていた。
先程までは一刻も早く家に帰る事しか頭に無かったのに、出来ればゆっくり帰りたいな、なんて考えてしまった。
「……どうしたんです?」
我に返ると、訝し気な顔が少し先にあった。長い事見つめ過ぎてしまったか。
誤魔化すために咳払いをして、彼女の方へ歩き出す。
「ちょっとね。じゃあ、帰ろうか」
そう言って同じ傘の下に入る。ぽつぽつと雨粒を弾く音が気持ち良い。
入れてもらった身としてそのままではまずいので、さり気なく傘を受け持ち彼女の方に傾ける。そこそこ濡れてしまうが仕方ない。
ちょっぴり窮屈な中で、私達はゆっくりとバス停に向かって歩き出した。
四
家から一番近いバス停に到着し、下車する。時間が経っても雨は止まなかったようだ。
彼女から傘を受け取り、先程と同じように差す。心なしか距離が近くなったような気がした。
あとは家まで歩くだけ。本来ならばこの場所に辿り着くのにも一苦労であっただろうから、グラスには感謝しかない。
学校を出てからここに来るまで、他愛もない話をしながら過ごしていた。会話に穴が空くことは殆ど無かった。
最近終わったテストの事や、雨の中の体育、プールの授業が嫌である事、そして傘を忘れた事に対するお小言など、いつもと同じ他愛のない会話。
バスの中ではあまり喋ると迷惑だからと彼女の口数は少なくなって、することが無くなった私は車体の心地よい揺れに眠気を誘われていた。
いつも通っている道を歩いて、家に向かう。
ここは元々人通りの少ない道で、天候も相まって人影は見えない。
物静かな雰囲気になんだか寂しくなって、会話を展開しようとしたのだが。
さっきまで眠気で朦朧としていたので頭が回らず、言葉を捻り出そうとしてもうまくいかない。
彼女もバスの中での静かさが続いており、口を開くことは無かった。
しばらく無言のまま歩く。聞こえるのは雨の音だけ。
―――その時ふと、『相合傘』なんて単語が頭に浮かんだ。
曰く、男女が一つの傘の下に入る事。そしてそれは二人が恋仲である、ということを示しているものが殆どらしい。
恋心を持っている相手を誘う事で、その秘めた思いを伝える意味合いもあるようだ。
思い返せば、同じクラスの仲睦まじいカップルがそうしていたのを見た事がある。彼らはとても幸せそうだった。
私は愛だ恋だには疎く、今まで特にそういう事を考えたことも無かった。異性と同じ傘に入ったのだってこれが初めてだ。
しかし、今の状況はまさに相合傘そのものではないか。何故あんなにもあっさりと入ってしまったんだ。寝惚け頭が急速に鮮明になる。
もし知り合いにでもこれを見られたら、きっとそういう噂が流れてしまうだろう。それではグラスにも迷惑が掛かってしまう。
とにかく、ずぶ濡れになってでも早急にこの傘から出なければ。これではまるで―――
「これでは私達、まるで恋人同士みたいですね」
空間が、更なる静寂に包まれた。最早雨の音すら聞こえない。
分かってはいたがこの傘はとても小さく、二人で入るには物足りない。実際私の肩は勿論、首や髪にも少しではあるが雨が掛かっている。
その為グラスとの距離は必然的に近くなるのだ。そうならないように気を付けてはいるが、横に一歩でも動けば腕同士が触れ合ってしまう程に。
ここまで彼女に近づいたのはこれが初めてだった。今までそれなりの距離は保っていたから。
「まあ、そんなに濡れて。もっとこっちに来てください」
そう言って彼女は私の腕を掴み、引き寄せる。腕が、肌が触れ合う。
吸い込まれるように、グラスの方に目を向ける。横顔から分かる端正な顔立ち、美しいフェイスライン。
しっとりと濡れた栗色の髪は、姿勢よく肩下まで伸びている。
ふんわりと感じる、金木犀の花のような優しくてどこか落ち着く匂い。彼女の穏やかさを表しているようだ。
触れ合った白い肌は柔らかく、少し冷たい彼女の体温が分かる。
触覚、嗅覚、視覚。
体中のありとあらゆる器官が、私に彼女の存在をこれでもかと伝えてくる。
……そうだ、私は今感じているのだ。『グラスワンダー』という生き物を、こんなにも近くに。
その瞬間、私の中で形容しがたい感情が生まれた。
それはキラキラとしていて、色鮮やかなもの。心の奥底から、ぽかぽかと暖かいものが上がってくるような。
それはどろどろとしていて、おぞましいもの。少し扱いを間違えば、私が私でなくなってしまうような。
静寂は続く。耳を澄ませば、彼女の鼓動すら聞こえてきそうで。
降り注ぐ雫のカーテンが、外界と私達を隔てる。目に映るのはただ少女一人だけ。
まるで世界から、私達以外が居なくなってしまったのかと錯覚するほどに。
静寂は続く。だがそれさえ心地よい。言葉は要らない。
あんなに嫌っていた雨に、止んで欲しくないとまで思った。憂鬱な気分は既に綺麗さっぱり消えていて。
さっき生まれた感情でさえ、その時だけはどうでも良いなんて。
頭上には、星が散りばめられた紺青の空。他の人には見えないそれは、とても幻想的にも思えた。
空の下、私たちはただ歩き続ける。
降れ、降れ。もっと。
―――このふたりだけの世界が、ずっと続けばいい。
五
過ぎて欲しくない時間ほど、早く過ぎ去っていくものだ。
気付けばもう家の前で、二人だけの夜は明けてしまっていた。
「傘、直しますね」
玄関前、軒下まで辿り着いてグラスに傘を手渡すと、彼女はそれを閉じ始める。
付いていた雨粒を払って骨を折り、くるくると手際良く巻いていく。
ぱちんとボタンで纏め、そこに同じ模様のカバーを被せると、折り畳み傘として見慣れた姿になった。
さっきまでの私からしたら壮大なものだったのに、ここまで小さくなると何とも不思議な感覚に陥る。
それを見ていると、なんだか急にさっきまでの時間が恋しくなって。
「グラス」
今はもう過去になってしまったけれど、確かにあの空間はふたりだけの世界だった。
過ごした時間を噛み締めるように、私は彼女の名前を呼んだ。
文字にすればたった三文字。でも、それを口にするだけで心が満たされる気がした。
「はい」
衝動的に口をついて出たその三文字は、彼女に聞こえなくても良いものだった。
けれどもグラスには届いていたようで、短いながらも十分な返事が返ってくる。
特に続く言葉を考えていなかった私は少し迷って、今日の出来事に対しての礼を述べることにした。
「ありがとう」
グラスは微笑んで、どういたしまして、と言った。
―――彼女は知らない。私があんなにも素晴らしい世界に居たことを。そして、この感謝に込められた本当の意味も。
でも、これでいいのだ。彼女がそれを知った時、私たちの今の関係は崩れてしまうだろうから。
学校を出てから、情緒がまるで安定していない。
憂鬱になって、焦って、高揚して、落ち込んで。こんな日は初めてだ。
それだけじゃない。初めてあんな感情を抱いたし、初めてグラスとあんなに距離が近づいた。
今日は沢山の初めてを見つけられた日だ。彼女には重ねて感謝しなければならないな。
……そろそろグラスも帰る頃か。もう用が無い所に長居はしないだろう。
すぐ先に待っているであろうひと時の別れが、とても惜しい。出来るのならば今日はこの後もずっと彼女と一緒に居たい。
叶わない事は分かっている。しかし、人間はいつだってないものをねだる生き物。別に願うだけならいいじゃないか。
そんな事を考えていても、時間は無情にも過ぎていく。
名残惜しいが、あまりここに留まらせてこれ以上雨が激しくなると申し訳ない。
彼女もそれは分かっているだろうが念のため、それにちょっとした期待も込めて声を掛けてみる。
「まだ、帰らないのかい」
彼女は先程からの微笑みを崩さぬまま答える。
「帰りますよ」
どうやら期待は儚く散ったようだった。
でも、と付け加えて、こちらに直したはずの折り畳み傘を差し出してくる。
確かに、帰りの道中でも使うはずなのにやけに丁寧に畳むので違和感はあったが、私に渡す意図が分からない。
どうすればいいか分からず困惑していると、彼女はこちらに詰め寄り、無理矢理に私の手に傘を押し付けてきた。
「これはあなたが持っていて下さい。その代わり、あなたの傘を借りてもいいですか」
有無を言わせない勢いでそう言われたので、思わず二つ返事で了解してしまう。
それを聞いた彼女の笑みは、心なしか先程より深くなっているように見えた。少し尻尾の揺れも大きくなっている。
家の扉を開け、傘立てから私がいつも使っている黒い傘を取り出して彼女に渡す。
それは自分で身の丈に合っていないと思うくらいには大きいので、君には似合わないだろうに何故、と言おうと思った。
しかしその嬉しそうな様子を見ていると、なんだか野暮であるように感じて止めた。
傘を受け取った彼女は私に背を向け、何やらそれを眺めているようだ。
ここで素朴な疑問が湧いたので、ぶつけてみる事にした。
「何故自分の傘を使わないんだい」
恐らくこの状況になれば、誰でも同じ事を考えると思う。全くもって意味を汲み取れない。
返答に迷っているのか少し困ったような顔をした後、うん、と一つ頷いて。
「内緒、ですよ」
グラスはこちらに振り返って答えた。
さっきまでの微笑みとは違う、年相応の眩しい笑顔で。
「では、そろそろ帰りますね。傘は明日返してください」
「私の傘、ちゃんと使って学校に来て下さいね」
彼女は一方的にそう言って、その身体には似合わない傘を差しながら、小走りで雨の中に飛び出て行く。
「グラス!」
少しずつ、それでも確実に遠くなっていく姿に居ても立っても居られなくなって、大きな声でその名前を呼ぶ。
このまま別れたくなかった。一秒でも長く彼女を見ていたかった。
呼び止められた彼女は止まって、顔だけでこちらを不思議そうに見る。
「また明日」
またしても続きを考えずに発したものだから、声が小さくなってしまった。
この激しい雨の中、水音でかき消されてしまうかも知れない。届いているかは分からない。彼女が何か言っても聞こえはしない。
それでも確かに私には、彼女が同じ言葉を返して笑った気がしたのだった。
六
あの日以降、私たちは時たま傘を交換するようになった。
未だにその理由は彼女から聞けていない。いずれ分かるといいが。
私が夜更かしをしている訳はこれだった。
グラスの傘が家にある時、なんだか彼女が本当にそこに居るような気がするのだ。
初めに出て来たのは落ち着きだったが、色々と考えていく内に彼女の事で頭が一杯になって眠れない、という事である。
……前の私からは、到底考えられないような話だ。
結局あの時生まれた感情の正体は、今も分からないまま。
ただ、少しずつ育っているとは思う。これもいずれ分かる事を願っている。
最近のグラスは分からない事だらけ。しかしもどかしくはなくて。
このままずっと続いて欲しいとさえ思っている。それでは駄目だと分かっていても。
授業は全て終わり、さあ帰ろうかといったところ。ふと窓の外を見る。
少し前とは別世界ではないのかと勘違いするほどに明るく、眩しい空。太陽が最後に顔を覗かせたのは随分と前だ。
教室を出ようと支度をしていると、グラスがこちらに歩いてくるのが見えた。
そのまま私を通り過ぎ、前の席に座る。横に足を投げ出し、ぶらぶらと小刻みに揺らしている。
それを横目に見ながら教科書などを鞄に入れ込んでいると、彼女がこちらを見て何か言おうとしているので耳を傾ける。
「今日は、一緒に帰りませんか」
聞くと、それは思いがけない提案だった。今まで靴箱でたまたま鉢合わせたから、などということはあっても、こうして誘われることは殆ど無かった。
珍しいこともあるものだ。もしかすると、いつぶりかの晴れ模様で少し違う気分になったのかも知れない。
「いいよ。そうしようか」
断る理由も無いし、むしろ私としては嬉しいので快諾する。
彼女は既に荷物をまとめ終わっていたようなので、私も手早く残りの支度を済ませ教室を出る。
二人で廊下を歩いて、靴箱に向かう。グラスは私の少し後ろを歩いている。
特に会話をするでもなく、心地の良い間を感じながら靴箱に辿り着いた。
終礼が終わってからあまり時間が経っていないので、生徒が入り乱れてがやがやと騒がしい。
上履きを脱いで直し、靴を取り出す。彼女はまだ履き替えられていないようなので、一足先にガラスのドアの前まで行く。
「お待たせしました」
後ろからグラスの声がして、彼女が隣に並んでくる。
「じゃあ、帰ろうか」
ドアを開け外に出て、久しぶりに陽の光を浴びる。朝は余裕が無くて分からなかったが、やはり陽光は気持ちが良い。
その時、あっ、と何かを思い出したように言った彼女が、私の前に出てくる。
「そういえば、朝言いかけた事は何だったんですか」
それに私は、少しいたずらな笑みを浮かべて答えた。
「内緒、だよ」
◇◆◇◆◇
いつものバス停まで辿り着き、家に向かって歩いている。彼女との距離はおよそ折り畳み傘一本分。
ようやくプールの授業が終わった事、もうすぐ来る夏休みの事、課題は計画的に終わらせるようにといったお小言など、他愛もない会話をしながら。
雨が止んでも、この道は変わらず人が少ない。たまに一人二人とすれ違う事はあれど、とても静かだ。
ゆっくりと、この時間が本物である事を確かめるように歩く。一歩、一秒を大切に。
しかし楽しい時間とはあっという間に過ぎるもので、気が付けばお互いの家の方向に別れる所まで来てしまった。
それを惜しみながらも、また明日も会えるのだと自分に言い聞かせる意味も込めて言う。
「また明日ね、グラス」
彼女は微笑みながら、しっかりとこちらを見据えて口を開く。
「はい、また明日」
夕焼けの綺麗な空の下、グラスは手を振り歩き出す。
私は彼女の姿が視界から消えてしまうまで、その後ろ姿を見つめ続けた。
自分の帰る道に向き直り、再び歩き出す。
一人になると、先程まで溢れんばかりだった例の形容しがたい感情も収まった。
しかしこうなってしまうと寂しくて、出来るだけ早く帰りたいと早歩きになる。
―――また明日。
今度ははっきりと、この耳でその言葉を聞けた。勘違いでも、思い込みでもない。
その事実に、徐々に気分が晴れやかになってくる。柄にもなくスキップをしてみたけれど、途端に恥ずかしくなりやめた。
またこんなに情緒を乱されるとはな、なんて考えて。そうこうしているうちに、家に着いていた。
ドアを開け、玄関に入る。すぐ横にある傘立てに持っている傘を立てた。
そこにはまだ彼女の温もりが残っているようで、見ていると不思議と穏やかな気持ちになる。
もしかすると、グラスも同じ事をしているのかもしれない。そうだったら、嬉しいな。
あの日の彼女の気持ちが、少しだけ分かったように思えた。
ようやく梅雨が明けて、明日から傘を持って行く必要は無くなる。
余計な荷物が減るし、憂鬱な気分にもならないしで非常に嬉しい話だ。
……でもまたあの世界に入れるのなら、雨も悪くはないじゃないか。
夢に見た話を膨らませてみた。
どうも、Lone_(ろね)と申します。
二ヵ月程前に創作を始めて、Pixivに初めて作品を投稿したのですが、こちらでの反応や評価も気になったので投稿してみました。
この作品はハーメルンでは初投稿、創作を始めてから二作目になります。
こっちは投稿時の設定が多くて大変ですね。
メインはPixivになると思いますが、こちらでも活動をしていきたいと思っているのでどうぞよろしくお願いします。