エレジアの忠犬 作:からしポン酢
エレジア崩壊からおおよそ三年。
かつての国の残骸は未だ健在なれど、島にとってあの惨劇は過去のものになりつつあった。
「ここにいましたか、ウタ。王が探しておられましたよ」
「……ダーマ。よくここがわかったね」
海鳥を撫でながら、海岸で一人座り込んでいる少女はダーマの声にゆっくりと振り向く。
美しさに似合わない、光を失った紫の瞳。
心の閉じかけた一人の少女──ウタは十二歳になり、少しずつではあるが体は大人へと近づいていた。
「虱潰しで三箇所目です。私の覇気では島全域を探ることなど出来ませんので」
「……ふーん、そう」
訪れた来客に海鳥は飛び上がり、ウタは彼方へ去る一羽を眺め続ける。
ダーマはそんな彼女の側へ寄ることはなく、されど大声でなくとも会話が出来るくらいの距離で立ち止まった。
「……ゴードン怒ってた?」
「はい。それはもうかんかん……というわけでなく、夕食までには帰ってきてほしいとおっしゃるくらいでしたよ」
数分経って呟かれた言葉に、ダーマは心配するように少しだけ優しい声色で答える。
ダーマにしては珍しく冗談を交えた言葉に、ウタは少しだけ心を揺れ動かす。
「ゴードン、最近ご飯作る上手になってきたよね」
「……元々凝り性な方ですからね。あの方が音楽の道に進まなければ、きっとどこかで
今も厨房でせっせと料理を作っているのだろうと、ダーマは王の姿を思い浮かべてくすりと笑みを浮かべてしまう。
本来ならダーマがやるべきなのだが、ゴードンは自分から家事を引き受け率先して行っている。
『王よ、それでは私の立場がありません。よりにもよって貴方に雑用をさせるなど!』
『いいんだダーマ。私はもう王ではないのだし、何よりウタのために私自身がやりたいんだ』
唯一の側仕えの説得を必死に説き伏せ、ついに交代制という形で決着した家事分担。
思えばあのときの言い合いは、この生活が始まってから二番目にヒートアップしたものだった。
こちらとしてもただ一人の護衛として退きたくはなかったのだが、こうと決めたらてこでも動かない王に対し、最終的には折れざるを得なかったのだ。
「……歌の練習はお嫌ですか?」
「ううん、そんなことない。ただ、今日はちょっと乗り気じゃなかっただけ」
ウタは依然ダーマの方を向くことなく、小目の前に広がる大海原に向かって言葉を呟く。
その背中はあまりに寂しそうに、遠い昔の誰かに重なってしまうダーマ。
だからこそ、彼がウタに話しかけたのは当然とも言える結果であった。
「そうですか。なら、少し話でもしましょうか」
「……連れ戻さないの?」
「ええ。今日はそのような命を受けておりませんので」
ダーマの返事を聞いて、ウタは少しばかり驚きながら彼の方へ振り向く。
なにせそれを言ったのは、いつもゴードンの優先する黒色長身の寡黙な男。
ウタにとってダーマという人間はゴードンの部下。そしてゴードンが不在のときに自分に付く大人でしかなく、彼から会話を持ちかけられたのは初めてだったからだ。
「……なんか初めてな気がする、ダーマとちゃんとお話しするの」
「そうですね。狭いようで広いですしね、この島は」
頬を撫でる潮風の匂いを感じながら、ダーマもまた海へと目を向ける。
無限に続く青色の地平線。かつて自分も渡った大海原に思うのは、やはり漠然とした苦手意識だ。
「海は好きですか? 所感ですが、他よりも訪れる機会が多い気がします」
「……どうだろうね。今は嫌い、そのはずなんだ」
事実というよりは言い聞かせるように、自らを否定するようにウタは言う。
「ダーマは嫌い?」
「……どうでしょう。苦手ではありますが嫌いではない、そんなところでしょうか」
ダーマの答えにウタはこてんと首を傾げる。
基本的に何でもそつなく熟すダーマ。そんな彼に苦手なものがあるなどとは思えなかったからだ。
「ダーマって苦手なものあったんだ」
「ええ。私も所詮は人。見せる機会がないだけで、苦手なものなど無数にありますよ」
意外そうに見つめてくるウタに、ダーマはくすりと笑いを零してしまう。
読心が出来る程の見聞色を持っておらず、そしてウタにどう思われているか興味のなかったダーマ。
故にそのような欠点のない人間と思われているなどとは知らず、だからこそ少し驚いてしまったのだ。
「……では一つ。少々刺激が強いかもしれませんが、私の昔の話でもしましょうか。王にも話したことのない、とある野良犬の話を」
ダーマはゆっくりと、それでいて穏やかな口調で自分の過去を語り始めた。
「実を言うと、私はエレジアの生まれではありません。ここでない島にあるドカラという街。今はもう存在しない、争いの絶えない落伍者のたまり場で生まれました」
話しながら浮かんでくるのは、魂に刻まれるほど嗅いだ血と汚物の臭い。
人の死体など珍しくもない屑の街。海軍も海賊も寄りつかず、
「親の顔も知らず、盗みをしなければ生きていくこともできず、言葉すら周りの罵詈雑言で覚えた
ダーマは思い出すように話しながら、ウタの横まで寄り腰を下ろした。
「呼び名すら持たず、愛の一つも知らぬ悲しき獣。そんな私を変えたのは、ある日出会ったラニという名の一人の少女でした」
あの日は、酷い雨だったのを覚えている。
食料を奪い、飢えに支配されながら住処へ戻る最中、道端に年端もいかぬ幼い女が倒れていたのだ。
この街にはそぐわない小綺麗な身なりから、どこかの船ではぐれたか捨てられたのだろうと検討づけ、金品だけ奪って捨て置こうと考えたダーマ。
そんな彼に助けてと、今にも付きそうな蝋燭の火のようなか細さで少女は啼いたのだ。
「色々ありまして、その娘と一緒に暮らすことになりました。私は彼女にこの街での生き方を教え、彼女は私に言葉と外の常識を教えてくれました」
覚えている。嗚呼、今でも覚えているとも。
始めて人から物を奪ったとき、それはいけないことだと叱られたのを。そして私を叱るその時の彼女は、実に悲しそうな顔をしていたことを。
思えば自分ははあのとき、初めて人の感情を自覚したのだ。
「それから数年。まあ過程は省きますが、私とラニは互いに支え合い、気付けば本物の姉弟のようにゴミ街で健やかに育ちました」
「ですがある夜のこと。その街は海賊に襲われ、ドカラは一夜にして滅びを迎えたのです」
滅びたと、その事実を聞いたウタの表情は硬く強ばったものへと変貌していく。
まだこの娘には早かったか。少女を前にほんの少しの後悔はあるが、どうせ始めたのだし最後まで話してしまおうと続けることにした。
「私たちは二人で考えを出し合い、船を盗んでこの街から離れようという結論に達しました」
悲鳴を、罵倒を、咆哮を。
ラニの言葉以外の全てをから耳を背け、一心不乱に街を駆け港へを向かった二人。
腕が立つといえ所詮は子供。二人揃って怪我もなく、港へたどり着けたのは奇跡であったとしか言いようがなかった。
「無人であった小型の帆船を奪い、進み始める船の上で、私たちは一難を乗り越えたことに安堵し合いました」
「──ですが、それは油断でしかなかったのです」
鈍く醜悪な音。目の前で燃える街でよく聞いた音を、生存に喜んだダーマの耳が捉えた時には、もう運命は決定づけられていた。
直後に倒れるラニ。私の相棒、唯一の家族は、街から放たれた凶弾に胸を貫かれていた。
心臓を打ち抜かれ、赤黒い染みは止めどなく広がり続けている。──致命傷だと、助かる可能性のない即死の一撃だと、ダーマは見ただけで理解してしまった。
「ラニは呆気なく死にました。最期の言葉も残さずに、それでも船は進みました」
「あのときほど自らの弱さを呪ったことはありません。そしてあのときほど想いを知らぬ
航海術など持っておらず、船の動かし方すら知らなかったダーマ。
涙を流し、涙が涸れ、それでもまだ嗚咽を漏らし続ける愚かな少年を乗せ、船は波のままに
食事もままならず、水分すらまともに取れず。船は最早、少年少女の棺桶でしかなかった。
「この島に流れ着いたのは奇跡でした。……もっとも、あの頃の私はそれを望んでなどいませんでしたがね」
もう死にたかった、解放されたかった。けれど自分は死ねず、海は死なせてくれなかった。
ダーマは島へと投げ出され、まるで退路はないと、ラニがそう言うかのように船と共に海底へと沈んでしまったのだ。
「船を、そしてラニを失った私に生きる意志などありませんでした。全てを捨ててラニの元へ行きたい、自分はこんなに苦しいのに無駄に喧しいこの島に八つ当たりしてやりたい。その一心でふらりふらりと、より音の大きな方へ歩きました」
「そして私は暴れ、呆気なく兵士に捕まります。偶然にもその日は建国祭、王が街に降りてきていた日だったのです」
肉も心もなく、死人同然であった俺ではさしたる被害を出すことは出来ず。
それでも僅か一日でもズレていれば、自分は今日までのように王に仕えるはことなく、檻の中で飢えて朽ちていたことだろう。
けれどそんな俺を、罪人であった愚かな少年。そんな私を王は治療し、この国に奉仕するという刑を与えたのだ。
「こうして私はこの国の、そして王であるゴードン様に仕えているというわけです。……いかがでしたか?」
全てを話し終えて横を向けば、こちらを見るウタは笑いも泣きもせず、ただこちらを見つめていた。
けれど私に向けられる美しい紫の目は少しだけ、ほんの少しだけだがいつもよりも輝き揺れているようにダーマには思えた。
「ダーマは苦しくないの? 逃げちゃう方がいいくらい辛いことがあったのに、どうして今は笑っていられるの?」
抑揚はなく、決して大きくない声。
けれどダーマには、その問いかけられた質問の中にはウタの心がそのまま表れていると、そんな気がしてならなかった。
「ええ、確かに辛いです。きっと私はどれほど時が経とうと、あのときの後悔を忘れることなど出来ないでしょう」
「……じゃあなんで?」
「けれど私は救われたのです。死んで無に帰るより生きて恩に報いるべきだと、そう思えるようになったからです」
この場で口には出さないが、ダーマも最初の数年は自殺してしまおうと、何度も行為の目前まで準備したことがある。
けれどあと一歩のところでいつも止まってしまった。
それをしてしまえばもういないはずの
「それに今は、手の掛かる
「……私のこと?」
「さあどうでしょう。ウタに思い当たるところがあるのなら、或いはそうなのかもしれませんね」
ダーマはくすりと笑って立ち上がり、少しむっとした表情のウタへと手を差し伸べる。
「そろそろ帰りましょう。そろそろ帰らないと、流石に王も心配しますから」
「そうだね。帰ろう、ダーマ」
ウタがたどたどしく差し出された手を掴めば、ダーマは彼女に合わせて引っ張り上げる。
勢いよく起立したウタは歩き出す。その直前、ダーマは彼女がほんの小さくはあるが、あの歓迎会のときのような自然な微笑みをしていたような気がした。
「遅いよダーマ。早く行こ?」
「……はい、転ばないよう気をつけて下さいな」
二人は並び立ち、遠くに見える城まで足並み揃えて歩いていく。
ウタがこの島を訪れて数年にして、ダーマと少女が二人でまともに会話した最初の日だった。