ロイ・マスタングは酒を嗜んでいた。
セントラルには無数にあるバーのひとつ。
その中でも軍人御用達と暗黙の了解がなされている場所であった。
古来より酒は百薬の長。
人間関係の潤滑油であり、それは軍に所属する者であっても同様だ。
だが同時に、人の口を軽くする妙薬でもある。
軍人には機密が多く、同じ軍属であっても語ってはならないことなど無数に存在する。
相手がただの一般人――酒場の店主であればなおさらだ。
だが、マスターは何も語らない。何も聞かない。何も、聞かなかったことになる。
そういった体裁を整えて、ようやく酒を楽しめる。
軍人が飲むならここで飲め。
この店はそんな場所。セントラルには無数にある、バーのひとつである。
「隣、いいかい?」
「? あぁ、構わないが」
そんな場所であるのだから、客層は当然軍関係者に限られる。
そんな場所であるのだから、関わりの薄い相手との相席など珍しいことで。
ロイ・マスタングは隣に座った男をちらりと確認して視線を戻し、あまりにも見覚えのあるその顔を思わず二度見することになる。
「ヒューズ……マース・ヒューズか!士官学校以来じゃないか」
「おうおう、いい反応してくれるじゃないか、まったく」
イタズラが成功したように口元に笑みを浮かべながら、その男、マース・ヒューズは席に着く。
「何飲んでるんだ?」
「流行のカクテルさ。酒の味を覚えておけば何かと便利だからな」
「お上品なヤツめ。マスター、いつものを頼む。つまみも適当に用意してくれ」
程なくして酒が揃う。
談笑という名の情報交換を中断した彼らはどちらともなくグラスを掲げ、
「再会に」
「親友に」
「「乾杯」」
再会を祝したグラスが澄んだ音を立てた。
この場は既に酒の席。だが彼らは違わず優秀な軍人だ。
酒に、空気に飲まれる前に、各々の近況を報告するところから会話が始まる。
だが、それらの話題もいずれ尽きる。
「それでよう、グレイシアはほんっとうにいい女でな」
「その話は3回目だぞ。もう諳んじられる」
「おうおうじゃあ頼もうかね!グレイシアの魅力を高らかに語ってくれ!」
「少し声量を抑えろ、店主の目が怖い」
そうなれば待っているのはこの場にふさわしい話題。
どうでもいいような、だからこそ必要な、友人同士の、実に馬鹿馬鹿しい話だ。
「そういや、お前のほうはそういう浮ついた話はないのかよ?」
「いや…………あぁ、残念ながらな」
「おいおいその間はありますって言ってるようなもんだろ!?ほら言って見ろよ、いい娘がいるんだろ?」
「リザは……彼女とは、そのような関係ではないさ」
数年来の親友との偶然の再会に、酒の力も相まって二人の口は当然の如く軽く回り始める。
「あー、そういやこないだ東部に監査に行ったときの話なんだが……」
「待て、飲み過ぎだ。それは私が聞いて問題ない話なのか?」
「構やしねえよ。結局、異常なしのバカ話で終わったんだ。今頃監査室でも語り草になってるだろうよ」
かくして、彼らの話題は件のバカ話に到達する。
「エロ本の模写で雑費が増えるとかバカなんじゃねえの?そんな理由で出張とかやってられねえわ」
「それはまた……コメントに困るな」
「だろう?どいつもこいつもライザライザライザ。お前らが学ぶことは他にいくらでもあるだろうが……!」
「……ライザ?」
「あん?どうしたよ、まさかお前まであの本持ってるとかいうんじゃないだろうな」
「いや、この間セントラルでランチに誘った女性が、ライザと言う名前だった」
「ぷっ、ははっ!どんな偶然だそれ!聞かせろよ、いい肴になりそうだ」
打てば響くツッコミを交えながらも酒は進む。
気心の知れた友人と笑い合いながら、毒にも薬にもならないバカ話を肴にすれば尚更だ。
「彼女はこう、ひどく蠱惑的な格好をしていてな」
「だから声かけたってか?どこに惹かれたんだよ。顔か?胸か?」
「尻……いや、足だな。ヒップからふとももにかけてのラインがこう、むちむちとはちきれんばかりでな」
「ほほーう?」
「当初は時間も場所も弁えずに客引きをやっているのかと注意するつもりだったのだがね。趣味ですと言われてはこちらとしてはどうしようもない」
「ある意味すげえ度胸してやがる」
「私は今までミニスカートこそが最もふとももを美しく見せる衣装だと思っていた。……だが、ふとももにくびれを齎し瑞々しさを際立たせるホットパンツにも素晴らしいものがあると気付かされた」
「あぁうん、お前も酔ってんだなぁ」
「目から鱗だったよ、彼女はさぞ名のある錬金術師だったのだろう」
「いやそんな格好で錬金術師は無理だろ」
それは、繋がるはずのないひとつの偶然であった。
「あぁ、そういえば連絡先を受け取っていたな」
たまたま、ロイ・マスタングがけしからん格好の女性と遭遇したこと。
たまたま、マース・ヒューズが普段よりストレスを溜め込んでいたこと。
たまたま、二人が同じ日、同じ時間に、同じ酒場を選んだこと。
彼がそう言って取り出したのは一枚の名刺だった。
店を構えているという彼女から別れ際に受け取った、手書きのイラストが描かれた掌ほどの紙片。
そして、そのデフォルメされた少女の姿を見たヒューズの動きが、ピタリと停止した。
彼の脳内で点と点が繋がっていく。
思い返せばいくらでも連想できる要素はあった。
故に、酒のせいで鈍っていたとしても、ひとつの結論に辿り着く。辿り着いてしまう。
「……ヒューズ?」
「ロイ、その話、誰にもしてないだろうな?」
「あぁ、誰に話すというものでもないからな」
何も分かっていない親友を尻目に、彼は大きくひとつ息を吐いた。
無駄に回転した彼の明晰な頭脳が導き出した結論はひとつ。
軍が……軍がヤバイ……っ!
彼は知っている。士官候補生たちのライザに対する異様な熱意を。
そのリビドーは架空の人物である、紙面の中の少女に向けられていることを。
だが、そのライザが実在の人物だとしたら?
連絡先なんて持ってる奴がいるとしたら?
まして街でナンパして一緒にランチしたなんて話が広まったら?
下手したら暴動が起きるんじゃないか……?
あまりにも馬鹿げた想像ではある、あるのだが。
手製の幟と横断幕を広げた東部士官候補生一同が町を練り歩く姿は、俺ライザ品評会に巻き込まれた彼にとってあまりにも想像が容易だった。
彼は酔っていた。
件の書籍が発行され続ける限り、ライザのファンはこれからも増え続けるだろう。
ある意味軍部が割れかねない爆弾。しかも原因がエロ本。なんだこれ。
マース・ヒューズは親友に硬く口止めと、なんならその名刺も焼いてしまえと要求するが、残念ながらこの場は酒の席。
その危機感は最後まで共有されることなく、バカ話のひとつとしてロイ・マスタングの胃の腑に消えた。
この場所は軍部御用達のバー。
この場所で漏らしたモノはどこに漏れることもなく、ただ酒の肴として消化されてゆく。
男二人のどうしようもないバカ話を、マスターだけが聞いていた。