蒸し暑い夜の薄暗い道場には、汗ばんだ道着が擦れる音や、拳や筋肉の躍動する音が独り、響いている。
『ホンゴウ空手道場』という古ぼけた木の看板が掛かっている木製のドアがギシギシと音を立て、そこにひとりの女性が顔を覗かせた。
「───あ、『ママ』…!」
少女───『本剛・唯』は拳を止め、夜露のような汗を輝かせ、長いポニーテールを左右に揺らしながら、その女性───彼女の母親のもとに駆け寄った。
「自主練は、もうおわりそう?」
「うん。あと50本くらいやったら行くよ。」
少女は明るく応える。
「くれぐれも…『アレ』には気をつけなさいよ。もう、遅いんだからね。」
少し暗い顔で母は彼女に訊いた。
本剛家の道場は家から徒歩4分ほどの場所に建てられていた。夜道は危険だ。最近は、『不審なもの』に襲われる可能性もあるのだから、心配するのは当然だ。
「大丈夫だよ、あたし、強いんだからさ。」
ぎゅっと拳を握りしめ、不敵な笑みを見せる少女に、母は安堵の色を見せてそっと戸を閉めた。
「───ぁ……!ママ……夕飯は後で食べるからとっといて!」
練習を再開しようとするも、思い出したように続けて問いかける唯。
「───────。」
しかし、母からの返事がない。唯は焦って古い木戸に手をかける。
「ママ……?」
万が一のことがあっては、と思い、直ぐに彼女を追わんと扉を開いた。
「───ッ!!!!」
瞬間。扉を開けると広がる光景に、唯の瞳孔は、首を掴まれた雛鳥のようにキュッと絞め上げられた。
──母は、地面に、頭から血を流して仰向きに倒れていた。
彼女の目の前には、2メートルほどの黒い人間(のようなもの)がこちらを睨みつけてユラユラと体を揺らしている。紙のように薄っぺらいのその肉体からは、赤い液体が時時ボタボタ滴り落ちていた。不気味なほど明るい月が、ギラギラとその巨体を照らし、また少女を睨みつけていた。
これが『霊物(れいぶつ)』────。
人間が無駄にした「モノ」から生まれる負の集合体。所謂「もったいないオバケ」と呼ばれるような種の怪異である。
本来、ソレの発生時には各魔法事業社から派遣される戦闘員が迅速に処理をする。──そのはずだが…今この場でその霊物に立ち向かえるのは唯というひとり少女のみ。
もちろん一般人なら、この時点で腰を抜かしてしまい動けないであろう。しかしこの格闘家、本剛・唯は違った。
「押忍。おねがいします───ッ。」
真剣勝負の礼の角度は、決まって15度だ。深深と異形を睨んだままに一礼。
左拳は顔の先、右拳は腹の前に構え、足は前後に肩幅ほど開く。
両足で、トン、トン、と己がリズムをつくり、軽く跳ねる。
…あろうことかこの若い少女は、母を護るため、怪物に立ち向かおうとしていた。荒い呼吸を整え、眼前に映る恐ろしき異形からの攻撃へ全神経を注ぎ込む。
──勝負は一瞬。
左の脇腹をその腕に斬られ、ぼたぼたと鮮血がコンクリートに零れ落ちる。唯はその場に倒れ込んだ。
……ところが。倒れたのは少女だけではなかった。異形の怪物も、腹部に巨大な衝撃を受けて、後ろに大きくよろめいたのだ。
『ゥ……』というおぞましい呻き声が響く。
───『カウンター』。攻撃を喰らう刹那。彼女は一瞬にして反撃の体制をとったのだ。
空手に於ける『突き』は、一切の無駄なく放たれる。相手の攻撃に合わせて、こちらが相手より速く拳を打ち込む。相当ハイリスクな一撃必殺である。
試合や対人戦闘であればこれで『技あり』であっただろう。だが今回は全く相手が悪かった。月が雲に顔を埋め、辺りは一瞬の静寂に包まれる。
「(──ぁ、これ、あたし死んだ。)」
太刀打ち出来ぬ恐怖に死の覚悟を決め、少女は目を強く瞑った──
「……………………?」
ところが、その怪物はこちらに向かってこない。
───否、向かって『来れない』ようにも見える。何故か足を震わせ、地面に手を付き、まるで産み落とされた子鹿のようにわなわなと動けずに『滑って』いる──?
「……あ、だだだ大丈夫ですかァ〜ッ……」
「2人とも、怪我してるじゃあないっすかッ!!先輩はソッチを頼みます!」
怪物の後ろ、暗闇の向から、女の声が聞こえる。それも2人。
2人組の女は黒髪と金髪。そのうちの金髪のほうは傷ついた唯の母の元に向かったようだ。そしてもう1人、黒髪のほうが、唯の元に駆け寄って来た。
「って…わ…っ。かぁいいなぁ………おじょうちゃんは…こ、高校生、ですか?お名前は…?」
月が雲間より顕れ、その女の顔があらわになる。
「唯です…っ。あなたは…!?」
「えぇ。ゆゆ唯ちゃんっ…二重パッチリじゃないのすごいかぁいい……私一重なのよね、ひとえ…ポニーテールも素敵だねぇ…」
黒いネクタイにワイシャツを着たその女は、高校生である唯より結構年上らしかった。艶やかな黒髪はツインテールで左右に細い箒のように結っており、前髪は6対4くらいで左右に分けている。左前髪を赤いピンで留めており、広いおデコには月明かりが反射してちょっぴり眩しい。そして何より特徴的なのがその目つきの悪い細目と隈──寝不足なのだろうか。
「あ…あの…私は北山り…りこって言って……あ、まずは霊ですね…座っててください…怪我、してるでしょう…」
ボソボソとした声で、あまり詳しくを語らないまま、その女性──りこは、地面に四足を着いて滑っている怪物の元にゆっくり近づいていった。
「こ…このやろめ…。た……立てないでしょ。
──だって『摩擦』さ、『奪っちゃった』んですから…」
彼女は右手にグローブをはめ、その小さな足にはローラースケートを履いていた。唯は、そのおかしな格好をした女を怪訝そうに睨んだ。
「は…はいじゃあやっつけちゃいますね……。えっと…この子は『紙の霊』かな…?」
怪物の前に堂々と立ち構え、彼女はグローブを左手で数度、撫でるように優しく擦った。
「い、いま終わらせちゃうからね…大人しく…してねぇ…っ」
途端に、彼女のローラースケートが火花を放ち、一瞬にして弾丸のようなスピードで加速。怪物に突っ込んでいく。唯は驚きのあまり、思わず目を閉じてしまった。
「────ぇ。」
唯が再び目を開くと、炎を纏ったその拳は、怪物の体を轟々と燃え上がらせていた。炎は赫奕たる輝きで唯の、その驚愕した顔を照らしていた。
「ゆ、ゆ、ゆい…ちゃん…は、く…空気抵抗摩擦って知ってる…かな…あんまりペ…ペダンチックに知識をひけらかすのは好きじゃないんだけどさ…私。」
「あなたッ…一体、何者なんですか…?!」
───この街……そして世間で有名になりつつある『とある職種』。
「えっ……と、そうです…わっ私は…『対霊派遣特殊戦闘員』です…最近なにかと話題でしょ…このシゴトは…」
「対霊……なんですか?りこさん、」
聞きなれない言葉だが、無理もない。
その『仕事』とは──
「戦う其の姿や、じょ、女性しか慣れないという『特異な雇用形式』から、俗にはこうよっ…呼ばれてますね……」
「『魔法少女──』と。」
りこさんはアラサーです。