不意に目が覚めた。窓の外は未だ暗くひんやりとした空気が漂う、目覚めるには少しばかり早い時間帯。
眼球の動きからあなたの覚醒を検知した薄型スマートコンタクトレンズが視界の端に現在の時刻を表示する。3:14。起きるには早い、しかし改めて寝付く気にもなれないあなたは身体を起こす。
布団の擦れる音で目が覚めたのか家族が顔を上げてあなたを見る。灰色の毛にくりっとした瞳が可愛らしい。犬。シベリアンハスキー。推定年齢では老犬一歩手前らしいが保護されたところを譲り受けたため正確な所は分からない。
「わるいなラズ、まだ寝ていて良いよ。」
あなたの優しい声を聞き入れて頭を降ろして再び寝る様子だ。
あなたはベッドサイドから骨伝導イヤホンを取り身に付ける。立体音響に対応したハイエンドモデル。寝室の扉を静かに開いて部屋を出る。キッチンへやって来たあなたは朝のコーヒーを淹れる事にした。いささか早すぎる気もするが。普段から忙しい事も滅多に無いが今日は早起きした分余計に時間は余っている。少しばかり手間をかける事にした。
あなたは棚から道具を取り出す。スタンドに吊られたガラス球とそれを上方から突き刺すガラス製の円筒。コーヒーサイフォン。日本製、量産品。続いてアルコールランプやその他。豆はどれでも良かったので取り敢えず開封済みの中から一番古いものを。ブラジル産の苦味や酸味のバランスが良いものだった。
コーヒー豆を挽くミルへと投入してハンドルを回すゴリゴリと心地良い振動と音。1人分の豆を挽くのに大した時間は掛からなかった。不意に扉の開く音、ラズが起きて来た。鼻をスンスンと鳴らす同居人には悪い事をしたかもしれない。水飲み皿に新鮮な水を出すとラズはいくらか飲みリビングへ向かっていった。
あなたはミルを開けて挽きたての香りを楽しむ。良い香りだ。ポットに水を入れて火にかけ、フィルターを用意する。サイフォンでは布製のフィルターが使われる事が多いが管理が面倒なあなたは使い捨ての紙製を使う。
良い香りと湯気を立ち上らせるカップを持ちリビングへ。ラズがソファで寝直している。あなたは隣に腰を下ろす。
スマートコンタクトのスケジュール帳アプリを視線操作で開き予定を確認する。直近の予定は4週後に開催するUAVエアレースの準備程度だ。とは言えあなたは参加者ではない。会場となる小さな飛行場を貸し出すだけだ。叔父から引き継いだ農業用飛行場を改造しグライダーとUAV向けの小規模飛行場として所有している。それに関連する予定がいくらかあるものの空欄が多い画面はあなたのゆるりとした生活を保証していた。
中空に浮かぶウィンドウを閉じる。AR。拡張現実の技術はスマートコンタクトの登場により急激に普及していた。技術は進歩し機械は人の暮らしをより便利に。
コーヒーを一口飲みニュースアプリを立ち上げる。中空に浮かぶウィンドウはあなたにしか見えず隣で目を閉じているラズの邪魔になることもない。
いくつか並ぶ見出しを流してあなたはオススメ枠を開く。普段の傾向からあなたの興味があるニュースがピックアップされる。モルディブの軌道エレベーターで国連軍と反政府組織による散発的な戦闘。フランスで新型無人戦闘機が発表。米国一部勢力によるモルディブ反政府組織への支援疑惑。
『GFHI、グレイフィールド重工業が軌道エレベーター開発協力企業に対し技術供与を発表』あなたの気を引いた記事を開く。グレイフィールドはここ10年程度で急激に発展した大企業だ。名の通り重工業分野からエネルギー産業、食糧生産等の様々な事業を展開する企業だ。あなたの使っているスマートコンタクトや飛行場のUAV用カタパルトと着陸誘導装置もグレイフィールド社製だった。
今まで政府は軌道エレベーターに対しあまり協力的な態度では無かったが勢いのある大企業が動くとなるとどうするだろうか。
あなたが次のニュースを読んでいるとラズが起き上がった。周囲を見回し何かが気になる様子。「どうした?」とあなた。ラズはカーテンを潜り窓へ、外の様子が気になるらしい。あなたも立ち上がってカーテンを捲り外を覗くが未だ暗い庭は手前しか見えない。あなたはARの中空に浮かぶコントロールパネルを操作して玄関と庭の照明を点灯し様子を窺うが普段通り異常はない様に見えるが、ラズは前足を窓に付いて立ち上がりそうな勢いであなたに窓を開けてくれと頼んでいる様子。あなたが窓を開けると部屋を飛び出し芝をかけて行く。あなたも後に続き、庭の中程で落ち着いたラズに歩み寄ると耳をピンと立てて警戒モードは継続していた。
片田舎にポツンと建っているあなたの家の周りには灯りもなく何も見えない。セキュリティシステムも異常を示さず人や野生動物が近付いている訳でもなかった。
未だ朝の境界は見えず暗順応が進んだあなたの目には美しい星空が写る。
突然ラズが空へと吠える。短く単発的なものではなく長く大きな鳴き声。遠吠えだ。普段は大人しく滅多に吠えないラズの遠吠えを聞くのはあなたにとっては初めての経験だった。縄張りの主張か同類への呼びかけかは分からないが相手がいるかも知れない。野犬だとしたら危ない。そう思いラズを連れて部屋へと戻ろうとしたその時だった。
轟音。自然界に存在しない酷く機械的で無遠慮な音を響かせてあなたの頭上を何かが飛び去って行く。闇に紛れて灯火類を消している航空機の詳細な形は見えなかったが、それは間違いなくバイパス比の低い戦闘機のジェットエンジンの音だった。森の木に遮られ見えなくなるが、その進路の先にはあなたの飛行場。
呆気に取られていたあなたを現実に引き戻す通知が視界に表示される。《着陸誘導装置・制動装置オンライン》。あなたは目を疑った。あなたの飛行場があなたの許可無く稼働している。本来であれば現地であなたのバイタルデータが無ければ起動できない設備、テロに利用されない為に厳重なセキュリティが施されているものだ。
緊急着陸?いや、それも無い。あなたの飛行場は滑走路が300メートル程度の小規模のものだ。緊急着陸は受け入れていない。
考えていても仕方ない。あなたは部屋へ戻り、車のキーを取ってガレージへ。車のドアを開けると駆け込んできたラズが運転席を飛び越し助手席に納まる。何が起こるか分からない場所に連れていくべきでは無いが、この未知の事象に1人で立ち向かうのは心細かった。
「何かあったら逃げて良いからな」そう言って運転席に乗り込み扉を閉める。
あなたの飛行場は丘を越えた向こう側にある。4.5km先。オートドライブに運転を任せてあなたは飛行場の管理アプリケーションを立ち上げる。ステータスはオフライン。設備は全て停止していた。
丘の頂上が近付いた頃、あなたは窓を開けて外を窺う。頂上にある常時点灯の航空障害灯が木々の隙間からちらりと。少し待つと木の数が減り視界が広がる。頂上を越えた。何も見えない。飛行場の灯火類は全てが沈黙している。着陸誘導装置も。先程の通知が誤報だったのではと一瞬考えたがあなたが聞いたジェットの轟音は間違いなく本物だった。
飛行場の正門に到着したあなたはセキュリティシステムで侵入者がいない事を確認、セキュリティロックを開錠しゲートを開く。ゲートを動かすモーターと車輪の音が暗闇の静寂に響く。もし何者かが潜んでいたらあなたの来訪を察知したに違いない。車を進め格納庫の裏へ。小さな飛行場だがここを拠点に活動する農業や測量会社、競技用途等の機体を納める貸し格納庫がいくつも並んでいる。何かあった時に逃げられるよう車の頭を正門に向けて停止し車から降りる。ラズはあなたの足元から離れず警戒態勢。先程のジェット機がこの飛行場に降りていたのなら、それがいるのは滑走路か駐機場だろう。あなたは足を進めて駐機場からはギリギリ見られない位置まで来ると足を止める。ラズを軽く撫でて覚悟を決めたあなたは駐機場を覗き込んだ。
月に雲がかかり暗闇に包まれた駐機場には一つのシルエットが薄っすらと見える。戦闘サイズの機体だが機種までは識別出来ない。雲が薄くなり僅かな月光で機体が照らされる。2基のエンジンと外向きに傾いた2枚の垂直尾翼。主翼外翼部を上方へ折り、長大なストレーキを有するその機体。F/A-18?随分と懐かしい機体だとあなたは思った。かつては航空母艦を埋め尽くしていた機体も時が進むにつれて置き換えられ現在では装備試験用の実験機を僅かな数残して退役している。
それとよく似た外観の派生機はま未だ運用されている事を思い出したあなたは主翼端に注目する。電子攻撃機のEA-18Gであれば主翼端に電波の受信装置を収めたポッドを装備している筈だ。未だ夜の帳が上がらない飛行場を風が吹き抜け雲を押し除けた月明かりが機体を照らし出す。予想通りのEA-18Gが姿を現す。しかしあなたは驚愕する。最早その機種が何かなど気にする事も出来ない。その機体は、そのコクピットを覆うキャノピーは通常の機体とは全く異なる装甲キャノピーで覆われていた。それは存在しない筈のドーターであった。
あなたは正体不明のドーターへ向かって歩き出す。ラズもあなたの隣に。段々と近付くそれは間違いなくドーターだった。かつてあなたが所属したチームが開発したライノと同様の改造が各所に見受けられる。歩みを進めるあなたはストレーキに腰掛ける小さな人影に気付いた。月明かりに照らされたキャノピーが生み出す影に収まっていた為に気付くのが遅れた。それは小柄な少女だった。ストレーキに腰掛け脚をぷらぷらと振り、身体をゆったりとしたリズムで揺らしている。片側のみのサイドアップもご機嫌に揺れる。少女はあなたに気付くと軽やかにストレーキから飛び降りた。まるで重さを感じない鮮やかな着地は足音すらも聞こえない。
ラズがペースを上げてあなたを置いて行く。追いかけるか迷いはしたが噛むような事は無いだろうとそのまま。あなたに向かって来る少女とラズが接触する。と思ったあなただったが驚く事に横を素通りして機体の匂いを嗅いでいる。少女も犬に反応する事なくあなたの元へ。まるで互いに相手を認識していないかの様に。今までラズはどんな相手でも必ず匂いチェックをしていたので不思議に思ったがそれよりも今は目の前の少女だ。
「アニマ、グロウラー……」
「お久しぶりです♪随分と老けましたね」
「…そう言う君は全く変わっていないな」
ザイ戦争の最中、開発元不明のドーターを調査する任を受けたあなたが空母の中で出会ったアニマは当時と同じ灰色の髪をサイドアップにして同じく灰色の瞳を輝かせていた。
あなたの記憶にある所属不明のアニマの姿がまるで変わらずあなたの前に立っている。それはまるで当時の記録映像を見ている様だった。