多次元への物体の移動は、否定的な目で見られることが多い。これはおよそ30年前に発見された公式によるものであり、多次元へ物体を送る際、その物体の大部分は消失してしまうためである。
そのようなことを語りながら、授業の終わりを告げるチャイムに耳を傾ける。生徒たちもこの音を心待ちにしていたようで、「では」の一言を言えば、学級委員が授業を締める挨拶を行った。
小さな町の少しだけ大きな中学校。今、俺はそこではたらく。町内に他に中学校がないためほとんどの児童はこの中学校へと進学する。
「先生、今日の授業は雑談が少なかったですね。」
このような皮肉がたまにある。
子どもたちにとって、授業の本筋から反れる雑談こそが面白い。特に理科、科学と言う分野はそもそも関連する知識が多く、教科書という書物について説明するについても、それぞれの知識について、前提的な知識について、関連する知識について話していれば一年では全く足りない。
「雑談してほしかったら速く授業を進めないとな。」
わざと意地悪らしく話する。雑談の時間、知識探求の時間、知識の定着の時間、テストの点数をとるための時間。それぞれの時間、内容は優先度を決めなければならない。残念ながら雑談やおまけの時間はおまけの時間でしかない。
「では、授業終わりや放課後の時間を利用してもいいですか?」
「あぁ」
「先生って暇なんですか?」
「暇ならもう少し栄養のあるものを食べてるよ。」
「養分の重要さと各器官のはたらきについて教えてくれたのは相模先生ではないですか?」
「法定速度とそれを確実に守ってる大人の割合について調べればいい。知ってることと実践することは違うからな。」
「ほら、また屁理屈を捏ね始めた。」
他愛ないやり取りである。いつものやり取り。いつもの会話。いつもの空気。話してみたいが、話しかけにくい教師2年連続1位は伊達ではない。
「相模先生」
少女というのは人の油断を突くのが得意なようだ。
「なんだ?小泉」
答える。夕日が教室に注ぐ。教室後ろの連絡黒板が橙色に照らされる。黒板の深い緑と合わさり、藍色のような風合いを見せている。東の空は位紫に彩られ、まもなく来る夜の世界が顔を除かせる。
「このクラスには小泉が3人いますよね?」
「そうだな、茜、翠、葵だったな。」
「後一人いたとしたら何と名前をつけますか?」
「黄(コウ)かな?」
何ともない会話。橙色も藍色も紫色も既に使われていた気がした。ただそれだけ。
姉妹でもない。親戚でもない。だが同じ名字を有し、色にまつわる名を持つ3人の少女。何かを忘れている。何かを失っている。不思議な感覚。小泉翠が小さく口を開く。俺の顎辺りに見えるはずの頭が消えた。3回、ゴムで木を叩く音がコツ、コツと狭い教室を木霊する。
「忘れたのか?やはりサルか。やはりサルの舌は2枚だな。」
少女の声色が変わる。少女の体重がこちらにかかる。
「舌が2枚あるのはキツネザルだ。そうだろう?狐」
適当に答える。目の前に黄色の壁が現れる。
「戻る気はあるか?」
「あっても言わねぇよ。なかったら言うよ。」
「そうか」
「あぁ」
「皆、心配している。特に霊夢はお前が帰ってからというもの縁側で茶を飲んでばかりだ。魔理沙も研究ばかりしている。紫様も寝て起きてこない。皆、心配している。」
「いつも通りで安心した。」
「戻る気はないのか。」
「2度も言わねぇよ。」
かけられていた体重から解放される。「では」の一言をいい、小泉翠は消えた。3人分の転出届を作成することに面倒くささを感じながら、どこに転出するかを説明できず、途方にくれた。
「外国に行きましたで説明つくかな。」
ゆっくりと息を吐き、冷えきった教室で一人座り込んだ。