夏の日射しが照りつける。
京都の盆地特有の蒸し暑さと同時に日射しによる痛さすらも感じる。こういう日は早く家に帰ってビールと枝豆で一杯したいものである。
丁度1週間前に誕生日を迎え、これまでみたく隠れながら煙草を吸う必要もない。居酒屋で年齢確認されても運転免許証を見せれば全てが解決する。
たった一つ年を取っただけで世界が大きく変わった。
大学2年生としてルームの配属を考え出すこの季節、俺は緩いことで有名な岡山教授のルームに入ることが内定している。
これは岡山教授の研究内容がいわゆる「トンデモ物理学」といわれる難解なもので学生からの人気がなかったので、希望者が今のところ俺一人であるからだ。
そして、気になるのは俺の前を弥次郎兵衛のようにフラフラと歩く段ボールが徐々に俺の方に近づいていることである。
困ったことに、俺が左に避ければ左に傾き、右に避ければ右に傾く。なかなかに感度のよい赤外線レーダーを取り付けているようだ。
残念ながら俺の手元にはフレアも赤外線ジャマーもない。
ここはアニメでの王道通り、誘導弾をギリギリまで引き付けることにする。
当たる寸前まで引き付け、引き付け、惹き付け……左に避ける。
その瞬間、段ボールが左に傾く。
予想通り。
左に傾いたのを確認した瞬間、右に急転回し、避ける。
完璧であった。俺がこの物語の主人公であれば段ボールを華麗に避け、先程までと同じように物理学教棟へと歩いていただろう。
しかし、現実は俺が主役ではなかったらしい。
右に避けた……完璧なはずであった。
段ボールを気にかけ、左を向くと、目と鼻の先に茶色の壁があった。その壁は、少しずつこちらに向かっている。
避けるのは無理だった。
「キャッ」という、段ボールのわりには高く可愛らしい声と共に想像以上の重力が俺にかかる。
「あいたたた」
可愛らしい声は段ボールのものではなかったらしい。段ボールにしては柔らかい感触が俺のからだの表の面、すなわち腹側に当たる。
甘い薫り、少しの湿気、そして何よりも俺よりも軽いようなのでとりあえず安心した。
「大丈夫ですか?」
危害を加えた相手を心配するなら先ずはお前が乗っている物体に気を向けるべきだろう。
「とりあえず降りてくれ」
重くて敵わん、とは言えなかった。
相手も乗っている物体の正体に気がついたらしく、慌てて立ち上がる。
側に転がっている黒いつば広帽子を拾い上げ、後ろ側を少し下げて被る。肩ほどまで伸びた黒髪、左耳の辺りの髪を一房に纏めている。赤い刺繍の入った白いワイシャツに赤いネクタイをしている。
見たことがある。そう思った。
恐らく一年生。物理学教棟の近くでときどき見掛ける女。授業のないときは心理学部の一年生とよくつるんでいるやつだ。
件のそいつは一年生でありながら教授の中で押し付けあいが始まっているとも聞いた。どうやら問題児らしく、度々その言動が俺の耳にも入って来ていた。
そして、そいつは謝ることも礼を言うこともなく、俺の顔を覗き込んでいた。
「やっぱり」と、言うと静かに問題児の口が開いた。
「白シャツジーパンで煙草の人ですね」
どうやら俺には不可解で不名誉かつ不愉快そして不思議な渾名が不親切な連中に付けられているらしい。
確かに、普段から服を選ぶのも買うのも嫌いで同じ白いワイシャツとジーパンを愛用している。そして、授業の合間や手持ち無沙汰なときには十中八九喫煙所にいる。
しかし、その渾名はどうだろうか。端的に特徴を示すのが渾名であるはずだ。そう思いながら、不名誉で不親切とあるピアノ奏者を思い出していた。
しかし、論点はそこではない。
「で、だ」
俺は口を開き、つば広帽子の女に話しかける。
「はい、なんでしょうか?」
女は特に気にかけるようすもなく、俺に変な渾名を着けていることも詫びる様子もなく、まっすぐと、ツリ目がちな目を向ける。
こいつに言うべきことは幾らでもある。
ぶつかっといて言うことは無いんか?
物理学科の一年だよな?
名前は?
危ねぇだろうが!
重いなら手伝うぞ
しかし、俺の口から予想だにしなかった言葉が出てきてしまった。
そして、この一言が俺とこいつとあいつの運命を変えてしまったのかもしれない。
「おまえ、心理学部のやつと問題ばっかり起こしてるらしいな。何やってるんだ?」
何故、このようなことを言ってしまうのだろうか。確かに普段から気になる点ではあった。どれだけ素行に問題がある生徒がいてもここまで噂になることはこれまでなかった。未成年で煙草を吸おうが、交通事故を起こそうがその学科内で笑い話になる程度でしかない。ここは規模の大きな大学だ。噂話が大学中に拡がることはそう多くない。
しかし、こいつは違う。入学してわずか、数ヵ月で既に『問題児』というレッテルが縫い付けられている。外れないレッテルはタトゥーと変わらない。何処に行っても危険因子として見られ、弾かれ続けるだろう。
そこまでして得たい何かがこの女にはあるのだろう。そして、俺はそれを知りたい。
「白シャツジーパンで煙草の人さん、『神隠し』って知ってますか?」
「迷子の最終到達点だろ?残念ながら非科学的なものの存在を認知するほど俺は優しくないぞ」
昔調べたことがある。神隠しと呼ばれる現象と伝承について、様々な文献を読み漁ったがどの伝承も出典は「暗い山で独り遊んでいると山の神に拐われる」という、つまりは「一人は危ないから早く帰ってこい」という親心からの警告というものがほとんどであった。
神隠しに関する記録についても、江戸時代以前の山岳部の集落におけるものがほとんどで山で迷子になった子供が帰れなかったという結論が出た。
さらに調べると神隠しがあった村の山を挟んで反対側の村で突然子供が現れたという記録も残されている。
これ以上語る必要はないと思っていた。
「では、神隠しの頻発する長野県のとある神社の敷地内に別の時空、もしくは世界に通じている可能性のある空間の裂け目、すなわち結界があるとすれば」
俺は女がすべてを言い終わる前に、女の手を掴み、走った。
端から見たら変質者を想起するであろう。男が女の手を引き、人気の無いところへ連れ込もうとしているのだから。
俺の内心はそんな外から見る評価など気にしていなかった、気にする余裕がなかった。こいつはとんでもないことを口走ろうとしている。それだけが俺のニューロンを駆け巡った。
教棟の裏につき、アホなことを口走ろうとした阿呆を壁に押さえつける。
「名前は?」
また、想定外のことを聞いてしまった。警告しようとしていた。アホなことは止めろと注意するつもりだった。
俺の口と脳を結ぶ神経はどうやら正常に活動していないらしい。
「宇佐見蓮子です。理学部物理学科、一回生です。専攻は理論物理。白シャツジーパンで煙草の人さんは?」
困ったものだ。
何が困ったかと言えば、この宇佐見というアホ女の持つ肩書きについてだ。
何故こんなにも運が悪いのだろうか。段ボールを避けることができなかったのがそもそもの始まりだ。誰を恨めばいい?ガリレイか?ニュートンか?ゴルジか?カハールか?
それよりもだ。やはり俺の口は不調だ。そうこう考えているうちに勝手に動き始めていた。
「理学部物理学科理論物理学専攻、相模友人。二回生だ」
俺は後悔した。恐らく人生で最も後悔した一瞬であろう。小学生のときに勢いで告白して玉砕したとき以上に口が動いてしまった。
何故、このようなことを言ってしまうのだろう。何故、こいつの前ではこんなにも話してしまうのだろう。
堂々巡りの到着点はやはり堂々巡りの始まりである。
アルキメデスを恨むべきだったか。
「私たちは空間の裂け目を観測し、実際に異なる時空、もしくは世界に移転した経験もあります」
どうやら授業をまともに受けずに旅行ばかりしているからという理由で問題視されていた訳では無いらしい。
『禁忌』そう呼ぶのが最も相応しい、この時代の、この時代になったからこそ触れてはならぬ部分にこいつとその仲間は土足で踏み込んでいる。
こいつは危険だ。そう思わずにはいられない。触れるべきではない、してはいけない……
「御前、山にある鉄塔の金網乗り越えたことがあるだろう」
こいつは子供と変わらない。不思議だから、気になるから、知りたいから……それだけをエネルギーにして、それだけを規準にして、行動する。止めろと言われたら言われただけしたくなるそういう心理。警告を鵜呑みにするのではなくその真意を見定めたいと思う心理。そして得られた真理のみを信じる
「御前、根っからの物理屋だな」
そう呟いた。俺もそうだった。金網を何度も越えた。電柱を登った。溜め池に飛び込んだりもした。
大人の言うことを聞きたくないのではなく、何故危険なのか、何が危険なのか、どういった条件で危険なのか、それが知りたかった。
「先輩も同じ臭いがします。何故、結界を禁忌として扱うのか、本当に危険なものなのか、結界の先には何があるのか知りたくないですか?」
惹かれる。
魅せられる。
求めている。
真理を探したい。この世の観測者でありたい。
物理屋の血が騒いだ。
禁忌に触れることへの恐怖も感じたが、その恐怖が伝達しきる前に俺の足はサークル棟へと赴いていた。
たまには趣向を変えてみるのもいいと思います。