江風「性転換に負けるわけがないだろう、いい加減にしろ」   作:蒙古襲来

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江風「性転換に負けるわけがないだろう、いい加減にしろ」

 

 パァンと乾いた音が聞こえ、気が付いた時には体が地面に倒れ伏していた。左胸を衝撃が襲った。痛みはあったが、今はもう分からない。意識が途切れそうになる中、鉛のように重くなった体を捻って空を仰ぐ。分厚い雲に覆われ、青空は見えなかった。どんよりした曇り空が際限なく広がっている。俺の人生最期の日を飾るのに最適だった。

 群衆の叫び声にまじって、再会を喜ぶ声が聞こえた気がした。ほんの数秒前まで俺の腕の中で泣きわめいていたあの子どもは、どうやら両親の元に無事に帰ることが出来たようだ。

 容疑者確保の声が耳元に響き、次いで救急車を要請する警官の姿が見に映った。少しの力でさえ入らなくなった体に上から圧がかかり、利き手で強く握りしめていたはずの包丁はいとも簡単に取り上げられた。

 

 生まれてきて良かったと思ったことはただの一度でさえない。

 無関心な父親と教育熱心な母親のもとに生まれた俺は幼少から厳しく育てられた。罵声を浴びせられる記憶は数多くあれど、褒められた思い出など皆無に等しい。一度だけ小学生の頃に描いた父親の似顔絵が賞を受賞した時、珍しく父親が褒めてくれたので嬉しく思った記憶がある程度だ。

 友人を作る間も惜しんで学業に励んだ結果、中学までは優等生でいることが出来た。しかし卒業後、地元でも有数の進学校に進学してからは成績も振るわず、落ちこぼれの一途を辿った。母親には叱責され続ける日々だった。それでも勉学には身が入らなかった。もはや学力で優越感に浸ることは俺には許されなかった。

 勉強だけをしてきた俺は同級生との交流の仕方を知らなかった。いじめられることさえなかったものの、周りから浮いた存在であることは自覚していた。しかしそれをどう克服すればいいのかは皆目見当がつかなかった。

 特に青春らしい青春を送ることもなく高校を卒業した俺は大学には進学せずに地元の零細企業に入社した。端から結果は見えていた。同僚と意思疎通をはかれずしてまともな仕事が出来るわけがない。仕事が出来ない使えない人間、と烙印を押されるのに時間は要さなかった。職場に馴染めず、一年ともたず退職した。それからいくつもの仕事を転々としたが、いつも人間関係で躓いて逃げた。それを何度も繰り返すうち、次第に家に閉じこもるようになった。

 年老いた両親は俺をいないものとして扱った。それは叱責を浴びせられるもの以上にきついものがあった。そして年月が過ぎ、父親、後を追うように母親が亡くなった。葬式などの手続きはいつも親戚やら行政のサービスに丸投げし、俺は両親の死からでさえ逃げた。

 墓におさめるはずだった両親の骨は骨壺に入ったまま仏壇に放置され数年が経過していた。両親の残した遺産も底をつき始め、食うものにも困り始めた。家の中には空になった菓子の袋やら生ごみやらが散乱し、悪臭に困り果てた近隣から苦情が何件も来た。薄暗い家で何をするわけでもなくぼんやりしていたある日、唐突に思った。ああ死のう、と。

 自宅で首をくくって死ぬことが最善だと最初は考えた。しかしごみの山の中から手頃な紐を探そうとして思った。俺の人生っていったい何だったのだろう、と。何をするために生まれたのか、何のために生まれたのか。誰の記憶に残ることもなく、このごみ屋敷のどこかで独り首をくくり、腐り果てていくのか。

 初めて自分の死を直視し、思い知った。この世界の不条理さ。紐を探すのをやめて、包丁を探した。案外すぐに見つかった。

 このごみ屋敷で朽ち果てていくのは仕方ないことだと思った。世の中そんなものだと諦めていた。いや、それはおかしい。なぜ俺がそんな目に遭わねばならんのだ。

 家の外へと出た。久々に新鮮な空気を吸ってすがすがしい気持ちになった。街を歩いた。学生、若いカップル、仕事へと向かうサラリーマン、家族連れ、年老いた老夫婦。皆、誰かと一緒にいる。この街で俺だけが独り。

 忍ばせていた包丁の柄を握りしめる。この理不尽な世界。俺に惨めな思いを強いたこの狂った世界に一矢報いてやりたい。犠牲が伴わなければ成り立たない世界なんて俺がぶっ壊してやる。叫び声をあげ、包丁を振り上げる。賑わう群衆に悲鳴があがり、逃げまどう人々。近くにいた親子連れ、小さな子どもに目を付けた。手を伸ばし、子どもの服を掴む。腕の中で怯えた子どもに包丁を突きつけ、親が叫ぶ声を聞いた。遠くからパトカーがけたたましいサイレンを響かせながらこちらへと向かってくる。警官やらやじ馬に囲まれた。誰もが俺に注目している。気分が良かった。子どもはまだ泣きわめいている。黙らせてやろうと包丁を持つ手を振り上げた、その瞬間。

 

 暗転。

 

 暗転。

 

 暗転。

 

 遠音に波の音を聞いた。安らぎを覚えるような水の音が幾度となく四方から寄せてくる。潮の匂いが鼻をくすぐった。何事かと目をあけると目の前に青い海が広がっていた。

 ぼんやりしていた意識がたたき起こされた。海鳥の声を聞いて空を見上げる。晴天。眩しさから次いで下を向くと海面に立つ細い足を見た。思わず飛びのく。なぜ水の上に立っているのか、立てていれるのか。沈むことがないと分かると少し安心した。しかしすぐに不安になった。もう一度下を見る。今度はじっくりと。白い肌、細い足。決定的だったのは海面に映る自分、いや誰かの姿。またもや飛びのいた。海面を蹴り上げ、水しぶきをあげて盛大に飛び上がった。意識に於いては自分なずなのに、映し出された体は可憐な少女の姿だったからだ。

 

 「…は?」

 

 声も自分のものではなかった。鈴の鳴るような可愛らしい、少女のものだった。ゆらゆらと海面に映る自分ではない、何か得体の知れない存在を見下ろしながら、茫然と立ち尽くした。

 海の色が青から橙色に変わる頃、まだ動けないでいた。そもそもこれは何だ、夢なのか。警官に撃たれて崩れ落ちたところまでは覚えている。それが何故海の上に、しかも少女の姿で?戸惑う中、どこからかエンジンをふかすような音が轟いた。目を細めて音のした方を眺めると夕日の沈む水平線を背に小さな黒い影がいくつか見えた。次第にその影は大きくなり、身構えているとあっという間に接近されて囲まれた。

 体がすくむ中、所属がどうとか、野良がどうとか聞かれた。答えに詰まる。年端のいかぬ少女たちに詰め寄られ、口を噤んだ。彼女たちは不思議な格好をしていた。もちろん自分の格好も変だ。しばらく沈黙があった後、少女たちは俺に聞こえぬように何かを話し、その中の一人が無線か何かでどこかと連絡を取っていた。

 やはりこれは夢だ、と自分かどうかでさえ分からない意識の中で俺は結論を出した。少女たちが何やら話し込んでいる姿をボーっと眺めながら、そう思うようにした。死にゆく体、脳みそが最後に幻想を見せているのだ。

 

 「司令が連れてこいだって。一緒に来て」

 

 手招きをされ、少女たちが海を往く。これが夢以外のなんであるのか。その場で立ち尽くしていると早く、と急かされた。夢の中なら海の上を歩けると納得し一歩踏み出す。次第にスキーをするように体が勝手に動き出して海面を滑るように進んだ。

 ああ、なんという夢だ。海面を走る振動や顔にかかる水しぶき、モーターの駆動する音や知らない海鳥の鳴き声、夕日が沈みゆく光景、知覚する何もかもが本当に自分が経験していることかのようにリアルで生々しい。こんな最期が待っていたというなら、俺はもっと早く自分の人生を終わらせておけば良かった。

 

 連れてこられた先には大きな建造物がそびえたっていた。案内されるがままに工場のようなところに連れられ、足や背中、腕に装着していた物体を彼女たちがやるのを見て、見よう見まねで取り外した。

 

 「君の名前は白露型駆逐艦、江風だ。気が動転しているようだが分かるか?」

  

 得体の知れない物質が入っているであろう緑色の液体の中に投げ入れられた。程よい熱さが身に染みた。裸になった自分の姿は変わらず可憐な少女の姿であったが、不思議と興奮することはなかった。夢の中のまがい物だからだろうか、それとも自分自身の姿だからだろうか、少々の気持ちの悪さはあれど、欲情することはなかった。お湯から上がり、鏡に映る自身の姿をまじまじと見た。胸を触った感触は、女を抱いたことのない自分には判別はつかないが、確かに柔らかかった。そのまま興味本位で体のあちこちを触っていると、おい、と呼ばれた。後ろが詰まっているから、と急かされて、渡されたタオルで体を拭いた。洗濯したてのさわやかな香りに包まれて、心地よい気がした。本当に大した夢だ。

 用意された服を着て出ると案内するところがあると手を引かれた。そして連れて行かれた先で、この夢の中で初めて自分以外の男と対面することになった。会った瞬間に嫌悪感を覚えた。端正な顔立ち、筋肉質でありながらすらりと伸びた背、ハキハキと明瞭で男らしい声、俺が持っていなかった全てを目の前の男は持ち合わせていた。すると今までの自分の人生が唐突に蘇ってきた。誰にも受け入れられず、愛されることのなかったクソのような人生。必死に親の言うことを聞いて勉強したところで、目の前のいわゆるイケメンには到底敵わなかった学生時代。社会へと出てもそれは変わらなかった。蔑まれ続け、最後には存在など無いかのように無関心を突きつけられた。天から与えられた、羨ましいくらいの環境を当たり前のように思う奴が俺を嗤うな、無視するな。どうして悩んで苦しみ続けるこの俺が誰にも愛されないで、顔面偏差値が高いだけのぬるま湯育ちの男の元に女が群がるのだ。俺の欲しいものを全部を独占してきた社会そのものが目の前の男に重なって見えた。

 

 「あなた、何してるの!?」

 

 気が付くと眼前の男の懐に飛び込んで、掴みかかっていた。周りにいた少女たちに阻まれて殴ることは叶わなかったが、止められなければ殴り殺していただろう。俺の夢の中だというのに要領を得ない話だ。

 一方、乱れた服を正し、余裕そうな表情を見せた男に何人かの少女が大層心配な様子で駆け寄った。余計に腹が立った。さっきまで夢見心地な気分だったというのに最悪だ。唸り声をあげ、掴まれた両腕を振りほどこうと暴れた。ますます腕を掴む手に力が入り、床に組み伏せられそうになった瞬間。

 

 「みな、すまんが江風の拘束を解いてやってくれ」

 

 奴がそう言うと暫しの問答が奴らの中であった後、ゆっくりと俺の腕を拘束する手の力が抜かれていったのを感じた。そして奴が屈み、ちょうど俺の目線と同じくらいの高さに奴の顔が来た。俺は笑みを浮かべ、周りが止める前に奴の顔をぶん殴った。想像以上の力が出た。顔面に叩き込まれた俺の拳は奴の鼻を砕き、おびただしい血が垂れ流される。周りから悲鳴があがった。すぐに両腕を掴まれ、今度こそ床にねじ伏せられた。

 

 「バーカ!ざまあみろ!」

 

 スカッとした。夢の中の出来事とは言え、俺を見下す強者、ひいては社会に一矢報いることが出来た気がしたから。頭上から少女たちの罵詈雑言が飛んでくるが気にもならない。うずくまった男は苦しそうに呻き声をあげ、少女たちが悲痛な表情で介抱していた。

 少しして周りの止める声を手で制しながら奴がゆっくりと立ち上がった。そして流血の止まらぬ鼻を押さえながら、床に組み伏せられた俺の顔をじっと見てくるので睨み返してやった。再び奴は俺の拘束を解くように指示を出した。あっけにとられる俺をよそに、今度は激しい抗議の声があがった。痛いくらいに床に押し付けられる。奴はそんな俺の姿を見て、今度は強い口調で拘束を解くように促した。少女たちはしぶしぶと俺から離れた。

 

 「なかなかいいパンチだった。さ、立てるか?」

 

 目の前に差し出された手のひらに困惑した。言葉に詰まる。加えて両手を後ろ手にして床に押さえつけられたこともあり、体は痛みと痺れでうまく動かせなかったので反応が遅れた。尤も体が動くならもう一度そのにやけた顔に一撃をお見舞いするつもりではあったが。

 周りから小さな悲鳴があがった。駆け寄って来る者もいた。俺はさらに困惑した。それは奴が俺の体を軽々と持ち上げて立たせたことが理由に他ならなかった。危険です、と口々に叫ぶ周りの声を無視して、奴は俺の耳元でそっと囁く。

 

 「大丈夫だ」

  

 その言葉を聞いた途端、奴を突き飛ばしていた。ぞわっとした。体中を何かに舐められたような、そんな不快な感情に襲われた。だから力の限り押しのけた。

 またもや悲鳴があがる。すぐに俺を捕まえようとする手が目の前に現れたので、身を躱して一目散に走りだした。その場から飛び出し、行く当ても何もないが、後方から聞こえてくる怒鳴り声に捕まらぬように駆けた。

 走り続けてようやく身を隠せそうな場所を見つけ、へたり込む。片耳を握りつぶすように押さえた。アイツが俺に囁いた方の耳だ。耳に残る不快な感触、それは瞬く間に全身へと広がった。虫が這ったような気色悪さに鳥肌が止まらない。気持ち悪い。だが落ち着いて考えればそれもそうか。夢の中とは言え、見知らぬ男に急に迫られ、耳元で囁かれたら気持ち悪いに決まっている。若い美人の異性ならまだしもと苦笑した。

 身を隠し、乱れた呼吸を整える。すっかり闇に染まった空は俺に味方してくれているようだ。時間はどれほど経っただろうか。俺は、アイツらは誰だ。ここはどこだ。この先どうする。そもそもこの夢はいつ終わるんだ。考えはまとまらなかった。あまりに現実離れしているから理解が及ばなかったのもある。しかしどうにもこうにも落ち着かないのは、未だに押さえ続けているこの片耳のせいだ。じんわりと熱を持っている気がする。同時に頭の中ではアイツの大丈夫、という声が反芻して消えないでいた。どうにも気分が悪い。消えろ、消えろ。全部消えてなくなれ。そしてどうやら気を取られ過ぎていたようだ。いつの間にか闇夜に浮かんだ幾つかの光源の接近を許し、足音に顔をあげた時には時すでに遅し。顔に当てられた照明に顔をしかめるや否や、即刻捕縛された。おまけに殴られ、蹴られ、地面にたたき伏せられる始末。それでも頭上から降ってくる怒声に悪態をつくと余計に暴行を受けることになった。そして無理やり立たされて連れていかれたのは、一目で見て分かった。牢屋だ。檻にぶち込まれ、鍵を閉められる。暴言を吐かれ、あなたはもう終わりね、解体処分よ、とワケの分からないことを告げられて独りにされた。現実世界でもあのまま捕まれば牢屋行きだったわけだが、まさか夢の中でも牢屋入りとは。しかもこの場所、どうやらしばらく使われていない所らしかった。壁の所々が壊れて有って無いようなものだ。吹き抜けばかりである。夜風に曝される。この格好は防寒に向いていない、なぜなら臍が丸出しだから。夢の中のリアルな寒さに凍え、うずくまった。殴られて蹴られたところも痛い。触ると疼く。何か生温かい液体にも触れた。暗闇で目が見えない分、嫌なくらいに触角が冴えわたっていたのが癪だ。

 夜風にまじった潮の匂いが鼻腔を刺激した時。檻の一角に背を預けて微動だにしないでいると突然顔にまぶしい光を浴びせられた。おそらく懐中電灯のようだが、暗闇に慣れた目にはそれでも堪えた。

 

 「入渠すれば治るとは言え、手酷くやられたな」

 

 眩しさに顔を覆いながらも声で分かった。ああ、またアイツか。何しに来た。光が消えたのを機に思い切り睨みつけた。尤も光のない闇の中で、アイツに見えたか分からないが。

 少し話をしようか、と声がして、檻を隔てて俺の側にアイツが腰を降ろした音がした。無性にイライラした。牢屋から手を伸ばして掴みかかってやろうかとも思った。しかし気怠い体を動かすのが億劫で、面倒くさくなった。退屈だったのもある。そのままアイツが勝手にしゃべるのを黙って聞いた。この世界には艦娘と深海棲艦というのがいて、自分は鎮守府で艦娘を指揮している提督なのだとアイツは語った。意味不明の単語を聞き流しながらも俺の夢の中にそんな設定があるのかと思わず笑った。なぜ笑っているのかと問われた。少し躊躇ったが、どうせ夢の中での出来事だ。コイツに聞かしたところでそもそもコイツは俺の脳みそが作り出した幻に過ぎない。何考えているのか分からない他人よりもよっぽど気が楽だ、だって俺自身なんだから。何も恥じることはない。妙に納得して、俺は今までのこと全てを包み隠さず語った。

 語り終えると気分が楽になった。コイツをぶん殴った時と同じくらいすがすがしかった。さて俺の惨めな人生を俺の作り出した幻はどう思っただろう。話し終えるまで黙って聞いていたようだが、どんな感想を持っただろうか。顔が見えないのが少々残念である。あー馬鹿馬鹿しい。自分に聞かせてどうするんだ。急に馬鹿らしくなってきた。コイツは自分なんだから全部知ってるに決まっているだろう。そう思うとまた笑いが込み上げてきた。抑えきれなくなって笑い転げそうになった。でも出来なかった。

 

 「辛かったんだな」

 

 頭の上にふわりと何かが載った感触があった。ポンと置かれたそれはくしゃりと俺の頭を撫でた。ゴツゴツしていたが、何故だか優しかった。

 振り払おうともした。でも出来なかった。それどころではなかったから。頬を伝うこれは何だ。目からあふれ出てきた何かに困惑し、拭っても拭っても止まらない。声にならない声が堪えきれずに飛び出した。ああ、俺は泣いているんだ。

 

 「大丈夫だ」

 

 その一言の後に新しい言葉は続かなかった。代わりにゴツゴツした手のひらが何度も何度も俺の頭を撫でた。男に撫でられるなんて、という嫌悪感は不思議となかった。そう思う間がなかったというのが正しいか。初めて誰かに認められた。肯定された。受け止めてもらえた。それが嬉しくて堪らなかった。いや、厳密には初めてではない。そう、あの時だ。一度だけ父親が俺の描いた似顔絵を褒めてくれた、誇ってくれた。あの時に感じた安心感に俺は包まれていた。

 大の男がしゃくり上げて泣くのはきっとみっともなかっただろう。姿こそ可憐な少女ではあったのが幸いである。そしていつの間に眠ってしまった俺が朝の陽ざしに目を覚ました時、アイツはまだそこに居てくれた。なんだまだ夢は覚めないのかと思う反面、覚めないでくれて良かったと安堵もした。鼻に詰め物をした間抜けな顔をまじまじと見る。口角があがったのは、嘲笑ってのことだろうか。大きな欠伸をして目を覚ましたので、おはよう、とだけ声を掛けた。

 

 「改白露型駆逐艦、江風!出撃するぜ!」 

 

 それからはいつ夢が覚めるのかは分からなかったから、それなら覚めるまでこの世界を堪能してやろうと思い直した。幸い、鎮守府という拠り所も出来たおかげで夢の中とは言え、野垂れ死ぬことはなかった。アイツの鎮守府に所属することになったのだ。それから春が過ぎて、夏、秋、冬、また春が来てを何度も繰り返した。

 正直、艦娘が何なのか十分理解していないし、深海棲艦とかいうのを実際に目にした時は腰を抜かして溺れかけた。海上をスイスイ進めるのも、砲弾をぶっ放せるのも、その反対に砲弾を受けて痛い思いをするのも、まだ慣れていない。服が脱げる仕様も意味が分からん。特にそんなはだけた姿をアイツに見られるのは恥ずかしくてしょうがなかった。でも、江風って昔はやんちゃでさぁ、提督のことをぶん殴った時はさすがに焦ったよ、と一緒に出撃した仲間にそんな随分昔の話を聞かされて、ああ、そんなこともあったなぁ、と笑い話として受け入れてしまうくらいに自分はここに馴染んでしまった。

 

 「よく頑張ったな」

 

 任務を終えて報告書を書く。初めは手取り足取り教えてもらいながら書いていたこの報告書も今なら目を瞑っていても書けるようになった。

 はやる気持ちを抑えきれない。早く書きあげてしまおう。そして書き終えたらそれを然るべきところへと持っていく。それを提出して、はい終わり、とはもちろんならない。

 労いの言葉を掛けられ、頭を撫でてもらう。いつからかこの時間が一番好きになった。これの為に頑張っていると言っていい。安心するし、とにかく落ち着くのだ。

 

 「もっと撫でてくれよ」

 

 頭から離れようとする手を逃がすまいと捕まえ、強引に頭の上に置く。最近は甘えることも覚えた。そうすればもっと長く撫でてもらえるから得だ。

 ふと撫でられて思う、これは現実なのか、と。あの惨めな世界で俺は確かに男だった。しかし今はどうだろう。少女の姿で、甘えた声を出して男に撫でられるのを望んでいる。男なのか女なのか、戸惑いがあった。でも撫でられる間は幸せでいっぱいだった。

 そして時間とか都合とかのせいで、手が離れる。後ろ髪を引かれる思いでどうしてもその場を離れないといけなくなる度、とてつもない喪失感に襲われるのだ。毎度毎度、執務室を出る度に苛まれる。こればかりはどうしても慣れない。

 自室に戻り、備え付けのベッドに飛び込む。そこで思い浮かぶのは決まってアイツ、提督の顔。突拍子もなく浮かんできていたと思っていた彼の顔だが、最近では自分が意識して想像しているという事実に気が付き体が熱くなった。何もない天井をボーっと見つめる。それに飽きるといつもと同じように自身の指がゆっくりと下腹部をなぞり、次に下着の中へと指を這わせる。提督のことを考えるといつもこうだ。呼吸が乱れるくらいに気持ちがいい。指でなぞり上げる度に訪れる快楽の波に何度も体は跳ね上がった。声を押し殺して何度か絶頂。最後はぐったりとそのまま動かなくなってまた考える。

 最初は女の体への興味本位から自慰をすることが何度かあった。それは特に男の時と変わらなかったと思う。それが提督のことを考えてするようになると歯止めがきかなくなった。ゴツゴツと骨ばった提督の手でされていると思うと何もかも忘れてしまうくらいに気持ちよくて仕方ないのだ。そして独り、行為を終えると無性に寂しくなる。空しい。隣に提督がいないのが辛い。

 そんな思いを抱え続けてどれくらい経った頃か。きっかけは、提督が誰かと結婚をするという話題で鎮守府が持ち切りになったことだ。居ても立ってもいられなくなった。執務室へと走り、提督を見つけ、初めて会った時と同じように掴みかかった。そして気が付いたら思いつく限りの罵詈雑言を提督に浴びせかけていた。結局お前もそうなのか、と。あたしを捨てるのか、と。もう何が現実で何が夢なのかなど分からなかったし、どうでもよかった。ただ提督に見捨てられるのは嫌で堪らなかった。提督の胸に顔を埋める。捨てられたくない一心で制服を掴んだ。怒鳴り声は次第に小さくなって最後は嗚咽になった。声をあげて泣いた。

 

 「大丈夫だ」

 

 何があったのか知らないが、と前置きして提督は囁いた。本当に?あたしを捨てない?縋るように聞いた。

 俺はまだまだ結婚するには早いよ、彼は笑ってそう言う。そして泣きじゃくるあたしの髪をいつものように撫でた。それに、と彼は付け足す。

 

 「俺は江風の海のように青い瞳が好きだ」

 

 その言葉があたしの中の何かを刺激した。男だったとか、少女の姿だとか、この世界が現実か夢なのか、どうでもいい。中途半端に踏み切れないでいたが、彼に言われて目が覚めた気がした。

 あたしは紛れもない、白露型駆逐艦九番艦の江風なんだ。彼が撫でるこの赤い髪が、彼が好きと言ってくれるこの青い瞳が、今彼に抱きしめられている体が、今彼とここにいるあたしこそが本当のあたしなのだ。

 

 「ねえ、提督、好き」

 

 彼を見上げる。少し躊躇ったが勇気を出した。じっとその答えが出るのを待つ。

 彼は少し驚いて、あたしの髪をくしゃりと撫でた。それが何を意味するか分からなかったので、彼を睨んだ。でも怖くなって下を向こうとした時、俺の方から伝えようと思っていたんだが、と彼が笑った。

 

 「ねえ」

 

 許された気がした。何に許されたかは分からないが、とにかく解放された気がした。そこで髪を撫でる彼にあたしは一つお願いをする。屈んで、と言うと彼はしゃがんでくれた。彼の顔があたしと同じ高さにある。あたしはそっと彼に口づけした。

 

 「また殴られるのかと思ったよ」

 

 唇を離すと彼が笑ってそう言うので、あたしは、ばか、と言って彼と同じように笑った。ふと彼の後ろの窓から外が見えた。

 

 雲一つない空はあたしの人生の始まりを祝福するかのようにどこまでも広がっていたのだった。

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