陽炎教官がいなくなった事で私たちは水を得た魚のような状態になりました。
「陽炎教官がいなくなったからと言って訓練が甘くなるとは思わないでよね!」
特に敷波が顕著で生き生きと例の棒を振り回し生徒達がそれから逃げるために必死で訓練に臨んでいます。
陽炎教官がいたから自重していたけどいないとなれば話は別、私も手を抜いている生徒には海に沈めるつもりで棒を振るいます。これが我が世の春という奴ですかね、気分がいいです。
「陽炎教官が帰ってきた時ガッカリさせないためにもちゃんと訓練についてきてくださいね〜」
巻雲は私達と違って激励するだけですけど目が笑っていません。何かあれば容赦なく鉄拳制裁を下す構えですね。
「もしついていけないなら夕立が手取り足取り教えてあげるっぽい」
夕立は一見すると優しそうな対応ですけど実際は一番苛烈な対応です。
私達……少なくとも私は訓練についていけないのなら鉄拳制裁を与えた後は少し休ませるつもりです。
対して夕立は無理矢理にでも訓練について来させるために隣で見張り続けると宣言しているのです。生徒達がそれに気が付いているかどうかはわかりませんが。
「艦列乱れてるから敷波指導してきて欲しいっぽい」
にしても本土の艦娘は酷いですね。訓練学校で習う様な簡単な艦隊運動でさえ乱れが生じています。
普段一緒に訓練をしていない者同士だからと言い訳できないこともないですけど、私達の様な艦隊に所属している艦娘と違い泊地所属の艦娘は任務部隊を編成して活動することが多いです。この程度の連携で齟齬が出ては本土防衛に不安を抱かざるを得ません。後で陽炎教官に伝えないといけませんね。
そんな事を考えているとまた1隻、艦列を乱す艦娘を見つけました。
「そこ!艦列が乱れていますよ!!波があるわけでもないのにどうしてそんなに艦列が乱れるんですか!!!」
波がないどころか今日は風も吹いてなくて航行に支障をきたす障害は何もない。だと言うのにここまで艦列が乱れるなんて一度訓練学校からやり直した方がいいんじゃないでしょうか。
「これは酷すぎるっぽい」
夕立が私のそばに近寄ると周りに聞こえない様小さな声で言いました。
「陽炎教官が見たら顔真っ赤にして怒鳴るっぽい」
「それで済めばいいですけど……」
怒鳴るのは確定ですけど。
「どうなるっぽい?」
「卒倒するんじゃないですか?」
頭の血管が数十本単位で切れるんじゃないでしょうか。
「流石にそれはないっぽい」
「賭けますか?」
「負けたら間宮羊羹1本っぽい」
「それで行きましょう!」
間宮羊羹1本は嬉しいですね……負ければ痛いですけど。
あれって基本的に食事のデザートとしてしか供されないので1本丸々手に入れるのって難しいんですよね。もちろん私はギンバイして数本確保してますけど。
「ゴチになるっぽい」
「もう勝ったつもりですか?」
「だって陽炎教官が人前で無様に気絶するなんて想像できないっぽい」
それを言われると辛いですね。私も陽炎教官が人前で気絶する姿なんて想像できません。
「もしかしたら弁慶みたく立ち往生するかもしれないじゃないですか」
あの人ならそんな器用な事できても驚きません。
「……陽炎教官死ぬっぽい?」
目を開けて海上に立ったま真っ直ぐ海底に沈んでいく教官の姿を思わず想像しましたけどそれを振り払って口を開きました。
「立ち往生するからって死ぬわけじゃないでしょう」
「冗談っぽい」
「夕立の冗談は分かりにくいです」
本気で疑問に思ってそうな顔をするから冗談かどうかの判別がつけられないんですよね。
「もう少し冗談とわかりやすい反応をしてくださいよ」
私の言葉に夕立が不満そうな顔で反論しようとした時でした、阪南泊地司令部から通信が届きました。
『こちら阪南泊地。先ほど連合艦隊旗艦漣、及び護衛の第三駆逐隊が当泊地を出港しました。まもなく教導部隊の近くを通過しますので注意してください』
連合艦隊旗艦が近くを通過するとなれば相応の対応を取らなければなりません。
通信を聞いてざわめき艦列を乱す生徒の前に夕立が立ち塞がると命令を下しました。
「全艦隊列を整えて旗艦の見送りに備えるっぽい」
後に私達はこの判断を後悔することになります。連合艦隊旗艦、いえ漣に必要なのは見送りではなく砲弾の雨と魚雷による追撃だったんですから。
とは言え当時の私たちがそんなの知るわけもなく、そもそも半人前の泊地の連中を引き連れて戦闘なんてしたところで戦いになるわけもなく結果としてはこれは正しい判断だっのでしょう。
私達が事態を知るのはこの日の訓練が終わった直後の事になります。後になっていくらでも気付く余地はあったはずなのに気が付かなかった自分の間抜けさを呪いましたけどこの時はそんなこと思いましていませんでした。
連合艦隊旗艦がこの阪南泊地を去ってから数時間が経った頃、訓練は終了しました。
泊地の港につき生徒達が疲れた様子で艤装を片付ける中、ふと思い出した様に敷波が口を開きました。
「そう言えば陽炎教官戻ってこなかったね」
「そう言えばそうですね」
訓練に集中していて全然気が付きませんでした。
「きっと巻雲たちの事を信用して泊地でゆっくりしていたんですよ〜」
「陽炎教官に限ってそれはないっぽい」
確かに陽炎教官は私達のことを散々問題児呼ばわりしていましたしここで長時間目を離すなんてあり得ませんね。
一体私達のどこが問題児なのか皆目見当がつきませんが今更それを認めたとも考えにくいです。
「もしかして居眠りでもしてるんじゃない?」
「あの陽炎教官がですか?」
俄には信じられま……いやそんな事ももないですね。訓練は厳しく私達に二水戦らしい行動をするように指導する陽炎教官は一見すると真面目な艦娘に見えます。だけど航行中の煙草厳禁という規則を破って喫煙したり勤務中に喫煙所で煙草吸ったりどちらかと言えば不良艦娘の部類。あり得ない話じゃないですね。
「陽炎教官が連合艦隊旗艦との会合に使った部屋ってどこでしたっけ?」
「第2応接室だったはずですよ〜」
「狭霧、陽炎教官が居眠りしてると思ってるっぽい?」
「あり得ない話じゃないでしょう。あの人、人には規則を守るよう言うくせに自分には割とルーズじゃないですか」
煙草とかタバコとかたばことか。
「もし仮に居眠りしてたらあの人の弱みを握れると言うことですよ。それって最高じゃないですか?」
それが決め手でした。私達はスキップでもしそうな軽やかな足取りで陽炎教官がいるであろう第2応接室に向かいました。
幸運な事に、とでも言いましょうか。応接室の扉を開けた私達の目にソファの影から床に投げ出された足が見えました。体勢からしてまず間違いなく床にうつ伏せに寝転んでいます。あの第二水雷戦隊旗艦の陽炎ともあろう人がだらしなく床に寝転んでいるんです。
それを確認した時、思わず私達は顔を見合わせて笑みを浮かべていました。起こさないようにそろりそろりと足音を消してゆっくりと近づく中、最初に異変に気がついたのは夕立でした。
「陽炎教官、縛られてるっぽい?」
「縛られている?」
夕立の言葉にソファ越しに覗き込むと確かにうつ伏せ状態の教官は頑丈そうなロープで後ろ手に縛られています。
「腕が鬱血してるじゃないですか!」
ソファを飛び越えてロープを解こうとした私を止めたのは巻雲でした。
「待ってください!急に解いたらクラッシュ症候群とかになりませんか?」
クラッシュ症候群、挫滅症候群とも呼ばれ長時間瓦礫などで腕や太腿が圧迫されていた時、それから解放された時に起こるものです。圧迫されていた事で毒素が溜まりそれが圧迫から解放されると同時に体全体に周り最悪しに至る。縄でそうなるのかはわかりませんがいきなり解くより医官を呼んだ方が良さそうですね。
「それより教官息してる!?」
敷波に言われて私は慌てて生死の確認を行いました。死んだらクラッシュ症候群も何もないですしね。
「猿轡まで噛まされてるじゃないですか!」
一体誰が、どうしてなんて考えている場合じゃないですね。そんなの後からいくらでも考える時間があります。
「呼吸は荒く、脈拍も安定していないですけど生きてはいます。誰か医官を呼んできてください」
巻雲が慌てて部屋から出ていくのを横目に私は陽炎教官の詳しい容体を確認します。
「目につく外傷はありませんね。体温計がないので詳しい事は分かりませんけど熱が高いように感じます」
服なんかを捲り上げてもこれと言った外傷はなさそうですね。
「そもそも陽炎教官、なんで縛られてるっぽい?」
「なんでって誰かに襲われたからじゃないの?」
「陽炎教官なら大抵の相手は返り討ちにできます」
確かに夕雲の言う通りこの状況は変です。陽炎教官に正面きって確実に勝てると言える艦娘なんて日本には連合艦隊旗艦くらいしかいません。その旗艦でさえ部屋を荒らさずに、おまけに無傷で取り押さえるのは不可能だと思います。
ざっと見渡した感じ部屋が荒らされた形跡もないですし陽炎教官に外傷はない。極めて奇妙な状況です。
「その机の上にあるお茶、飲まないでくださいね」
ふと机の上のお茶が目につき敷波と夕立に声をかけました。
「飲みかけのお茶なんて飲むわけないじゃん」
「確保しておいた方がいいっぽい」
「そうですね。あとで成分を調べてもらいましょう」
さすが夕立、敷波と違って察しがいいですね。
「……毒でも入ってるの?」
「それは分かりませんけど可能性は高いですね」
「狭霧、本当に外傷はないっぽい?」
「一通り見ましたけど目につく外傷は無さそうです」
わざわざスパッツを脱がしたりしてないし縛られている関係で胸のあたりとか腕なんかは服を捲りにくくて見れてませんけどそれ以外は大体見れたはずです。
「わざわざ縛ってるって事はこの中に入ってるのと陽炎教官を昏倒させているのとは別の薬品を使ってる可能性が高いっぽい。首筋くらいはよく見た方がいいっぽい」
「注射痕ですか。確かにそれなら見逃してる可能性はありますね」
どうせ巻雲が帰ってくるまで手の打ちようがないですし探してみますか。
そう思って首筋を見ると意外とすぐにそれは見つかりました。
「ビンゴです。さすがは夕立、何かわかりませんが陽炎教官は注射されたみたいですね」
しかも艦娘に注射を打てると言う事はちゃんと艦娘精神注入棒と同じ素材で作られた物。滅多な事では病気にならない艦娘に注射は無用の長物、使われるとしたら実験等で採血する時くらいですから一体どこでそんな物手に入れたのやら……。
「た、大変ですよ!!」
開け放していた扉から医官を連れた巻雲が飛び込んでくるなり叫びました。
「二水戦の旗艦が襲われた事以上に大変なことってあるんですか?」
今一番大変な問題はこれだと思うんですがけど。
「く、呉が……呉が……」
急いだせいか息が上がっている巻雲は途切れ途切れに言葉を発します。
「はいはい、ゆっくり喋ってくださいね。医官さん、陽炎教官の事をよろしくお願いしますね」
陽炎教官のこと以上に大変な事はないだろうと思い適当に巻雲をあしらいながら医官に陽炎教官の事を託すと巻雲に向き直りました。
「で、呉がどうしたんですか?」
「呉が空襲を受けたんですよ!!!」
それを聞いた時私は愕然としました。
そんな事はあり得るはずがないんです。呉は最前線より遠く、潤沢な兵力から哨戒網も最前線とは比べ物になりません。深海棲艦が来れば必ず呉に到達する前に捕捉される筈です。
しかし巻雲の青褪めた表情がそれが真実であると物語っていました。
「詳細は!?」
「わ、分からないですよ〜。巻雲も空襲を受けたと聞いただけで……」
「巻雲はここで陽炎教官の様子見てて欲しいっぽい!夕立と狭霧、敷波で詳しい情報収集してくるっぽい!!」
呉は、第二艦隊は、第二水雷戦隊がどうなったのか。今の私達に必要な情報はそれだけでした。