『すい、水龍、泣かないで』
その伝承が伝わる小さな町にある小さな湖と小さな祠。そこには伝説の生き物である龍がいると言われている。
かつての水龍は人間が嫌いで厄災をもたらした。しかし一人の巫女が水龍へと祈りを捧げ、寄り添い、人がどのような存在なのかを少しずつ伝えたことで水龍は人間を嫌うことができなくなった。
巫女はある時、自らの力の一部を切り離して祠にいる水龍に欠片を預け、戦へと行くことになった。巫女は戦で死んでしまい、残された巫女の欠片と水龍は悲しみに暮れ、泣き続けた。
それでも、優しい水龍は巫女の欠片と共に町を見守り、時に手を差し伸べた。人間は優しき水龍を畏れ敬い、亡くなった巫女を丁重に弔った。そして雨が降るたびに民は優しき水龍に寄り添う為の言葉を唄う。
『水龍、水龍、泣かないで』と。
▽▽▽
「伝承に伝わる水龍。一般的には普通に伝わる御伽話の類と思われていますが、実際には違います。水龍は実在し、伝わっている話は全て事実です」
「え。じゃあそれもう特級呪霊じゃあ…」
「普通ならそうでしょう。ですが、この水龍の伝承は少し特別な事情が絡んでいるのです」
移動中の車の中、七海から今回向かう任務地の詳細を聞いていた虎杖は龍がいると聞いて興奮すると同時に、特級が出てくるのでは無いかという不安が同時にやってきていた。しかし七海の話では少し違うらしく、頭に疑問符を浮かべていた。
そこに嫌らしくも出てきたのは、虎杖の中にいる宿儺だった。
『水龍…ふん、あの女が手綱を握ったくせに表に出さず詰まらん喧嘩になったアレか』
「はっ!?宿儺おまっ」
「…宿儺の言うとおり。水龍は両面宿儺と関わりがあるのです。正確には、水龍を呪いから土地神へと昇華させた呪術師の巫女、ですが」
『ケヒッ…水龍…奴が暴れていれば大層面白い事になっていたと言うのに、あの女が丸くしたせいで暇で暇でしょうがなかったくらいだ』
虎杖は自分の頬に出てきた宿儺の口をベチっと叩く。宿儺は後はどうでも良いと言わんばかりにすっこんで黙ったが、虎杖は内心冷や汗でいっぱいだった。
「ナナミン…俺、そこにいけば殺されるんじゃ無いの?その水龍に」
「それは無いでしょう。何せ…今回向かう理由はその水龍から直々に指名を受けたからです」
何故か私も指名されてましたが、と七海は目頭を抑えて俯いている。その上ため息を付いている様子は五条に振り回されている時と似ていた。虎杖は余計に困惑していた。
山奥の細い道を走り、ようやく開けた場所へと出たその時、虎杖は今まで感じたことのない違和感を感じた。それは帷で区切られた空間に入る時と似ているようで真逆の感覚。帷の中に入る時はねっとりとした感情や苦しい空気が漂っているが、今は違う。綺麗な空気と清廉な雰囲気に包まれた、言ってしまえば「綺麗すぎる場所」のような感覚だった。
「呪術界の上層部も手を出すことが許されず、かつ外交も担う場所です。ここは土地自体に縛りがあると同時に水龍の【領域】の中でもある。そのことを忘れずに」
虎杖は七海のトンデモ発言に最早何も言えなかった。
▽▽▽
表向きは地方活性化の為に開発された町、しかし歴史は違う真実を見せてくる。水龍信仰によって集まった呪力は水龍を特級呪霊よりも遥かに強い存在へと昇華させた。水龍は自らの領域に祝福をもたらすと同時に、害為すものには容赦をしない。
この土地では「日本人の呪術師は力を発揮できない」という縛りを筆頭に、古くから日本を裏で支配している呪術界も手を出せない程の【領域】を水龍が作り出し、維持し続けている。町一つを覆うほどの領域を千年以上維持しているだけでも、その力の強大さが分かる。それ故に、どれだけ権力に縋っている呪術界の重鎮であろうとも手を出せず、出さずにいる。
「──それが、この町に関する説明だ。ま、それ以上にここは外交上の主要都市ってことにもなってるから大使館も大量にあるわけなんだが」
「ヌヴィレットさんは今の時間は…あぁ、今日は呪詛師の【裁判】を行っているな。恐らく、私と公爵が案内をしている間に終わるだろう」
案内人としてやってきたのは「公爵」と呼ばれている目元に傷のある大男のリオセスリと「代理人」のクロリンデの二人だった。どちらも見た目からして日本人ではないことははっきりとしている上、名前でも日本人ではないというのを知れる。外交主要都市とされているこの町には外国人が非常に多い。寧ろ、日本人の方が割合としては少ないらしい。
肩書きからしてかなりの地位にいるであろう二人に案内されている虎杖は緊張してガッチガチに固まっていた。一方、七海は慣れているのか普段通りだった。
「さて、この町に入るのが初めての少年はなんとなく分かっているだろうが…今、少年の中にいるヤツはいつも以上に静かになっていないかね?」
「うぇっ、あっ、うん!?」
「ふむ、ヌヴィレットさんの予想通りか。七海、この少年にはまだ説明していなかったのか?」
「この町の【縛り】がちゃんと適用されるかは現地入りするまで不明でしたので」
「え、ナナミンなんか隠してるの?」
「隠している、というよりは分からなかったから言えなかったというところですね」
──この地では日本の呪術師は呪力を使用できない
──この地では水龍が【裁判】を行う
──この地には害する意思のあるものは入れない
──この地には、招かれた呪霊しか入れない
縛られた複雑な掟は数多く、全てを把握しているのは水龍のみ。掟に触れればすぐさま【裁判】の対象となり、水龍によって判決が下される。
今の虎杖は「招かれた呪霊」という扱い、そして日本人であるというのは適用されているらしい。人間と呪霊の両方に当たっている辺り、相当稀有な事例と言うことらしいが。
七海は幼い時に数年この地に住んでいたこともあり、リオセスリやクロリンデとの面識もあった。そして七海は純粋な日本人ではないこともあり、若干ではあるが呪力を用いて戦うことができる。七海も指名されたのは万が一の保険と言うことだろう。
しかし虎杖には一つ疑問が浮かんでいた。見た目的にはリオセスリやクロリンデの方が若いように見えるのに、七海が敬語を使っているのだ。口には出していないが顔に出ていたのか、リオセスリは苦笑しながら答えた。
「ヌヴィレットさん…あー、水龍の加護でな。水龍に認められて、この町に所属する日本人じゃない呪術師は水龍の影響を受けるんだ。分かりやすいのが老化が遅くなるとか寿命が伸びるとかだな」
「本人が嫌がれば無論、ヌヴィレットさんは加護を弱めて少し死ににくいくらいまで抑えてくれる。だからこれに関しては私たちの意思で決めた事だ」
「じゃあナナミンって…」
「この二人に面倒を見てもらっていた時期があります。小さい時ですが、見た目は全く変わってないです」
「水龍すげー…」
虎杖は未だ見ない水龍がどれだけヤバいのか、イマイチ理解できていないがとりあえず凄いという事だけは分かった。
案内されてやってきた施設、恐らくは歌劇場らしき建物にきた虎杖はその大きさに驚いていた。呪術界といえば取り敢えず古い建物が多いので現代文化の建物、それも割と最近建てられた様子の歌劇場に連れられた事に予想を裏切られた。
「エピクレシス歌劇場、或いは水龍の領域へようこそ」
「くれぐれも失礼の無いように。七海が居るなら問題ないだろうが…」
「お、押忍…」
「彼は常識人ですから大丈夫だと思いますが」
七海はかつて面倒なことがあったのを思い出したのか、少し遠い目をしているような気がした。
▽▽▽
町に入ってきた時よりも清廉で、しかし今度は冷気を感じさせる空気に虎杖は無意識のうちに姿勢を正していた。エピクレシス歌劇場は人払いがされているのか、案内人の一名を除いて今は誰も居ないようだった。広く荘厳な内装と気品のある飾りや建物のデザインは本来であれば素晴らしいと感じるのだろうが、人気のない今はそれら全てが虎杖に対してプレッシャーを感じさせる要素になっていた。
歌劇場の奥、歌劇場に中にありながらデザインや造りが全く違う青と金の装飾が施された大扉まで案内され、案内人は一礼をして去って行った。歌劇場に入った時よりもさらに気圧される威圧感に冷や汗が流れる。特級呪霊と対峙した時とは違う圧力と気配に思わず一歩退きそうになる。しかしそれを意地で耐える。
一呼吸入れたタイミングで、扉の奥から良く通る声がした。
『二人とも、中へ』
「失礼します」
「し、失礼します」
大扉を開け、七海から先に部屋へと入る。水龍、と聞いて西洋のドラゴンか良く見る龍を想像していた虎杖だったが、部屋の中にいたのは一人の男性だった。
だが、雰囲気からして感じるのは圧倒的な差。そしてこちらを見据える両目は人間のものよりも鋭く、まさしく人ならざる者を感じさせる縦に長い瞳孔とアイスブルーの瞳だった。
「久しいな、七海。変わりないようで何よりだ」
「未だにあの人に振り回されてます」
「あの小僧か…。貴殿に直接的な被害がないならまあいいだろう。そして、君が宿儺の器になった人の子か」
「っ!」
スゥ、と男性、ヌヴィレットの瞳が細められる。蛇に睨まれた蛙、この場合は水龍に睨まれた人間か、虎杖は全てを見られているかのような感覚に陥り、固まった。
「……り…ん。いた……り…く…!虎杖君!」
「…っは!…っぐぅ、ハッ、ハッ……」
「すまない。少し、人の子には強過ぎたようだ」
七海の呼び掛けで硬直から戻った虎杖は呼吸を忘れていたらしく、正気を取り戻した直後にその場で崩れ落ちた。ヌヴィレットからは先程までの威圧感が無くなり、今は少しプレッシャーを感じる程度までに抑えられていた。
宿儺の生体領域で対峙した時よりも遥かに強大で恐ろしい威圧感。その前に虎杖は何もできず、ただただ気圧されるしかなかった。
「やはり、私の予想通りか…。少年、君は何を思って宿儺の指を取り込んだ」
「…俺が、出来る事なんだったら、やる。そう思って飲み込んだ、ました…」
未だに硬直の影響が残っているせいか、少し思考があやふやになりつつも、ヌヴィレットの問いかけに答える。うっかり敬語を忘れて後付けになってしまったが、ヌヴィレットはあまり気にせず、むしろきちんと答えた虎杖に感心していた。
「──結構、貴殿の覚悟は本物のようだ。虎杖悠仁、君が望むならこの地に留まり、厄災を齎さないという選択肢を選ぶこともできる」
「ヌヴィレットさん!?それは──」
「きっと虎杖悠仁自身が分かっている筈だ。いずれ自分が宿儺の指を全て取り込む前に、誰かを殺す未来が」
ヌヴィレット、水龍が出した提案は恐らく呪術界の上層部であれば認める事。詰まるところ、宿儺の指が「完全に無効化される土地」に虎杖悠仁を押し込めるという選択肢だ。虎杖は一生をこの町で過ごす事になるが、安全は保証される。死刑を宣告されている現状から見れば破格の処遇とも言える。
だが虎杖はその提案に首を横に振る。
「…多分、それが安全で俺も【楽】なんだと思う。けど、それで助けられる誰かを見逃すのは、嫌だ」
「結果として救う人数より殺す人数が多いとしてもか?」
「させない。その為に俺は宿儺の指を全部喰って死ぬ。そう決めた」
「……」
「良いだろう、私は貴殿の意思を尊重しよう。ただ気が変わったら連絡入れると良い。私は虎杖悠仁という人間に興味を持った」
カンッ、といつの間にか現れた杖でヌヴィレットは床を突く。その音に応じるように、部屋の中を満たしていた特徴的な呪力が弱まる。
虎杖は人の姿をした水龍を見据える。水龍はほんの少し、表情を和らげると虎杖に一つの勾玉を差し出した。
「来たる未来で君は人を殺す、それは確実だろう。宿儺は生きる者を殺す事を快とし、それのみを基準に生きている。貴殿が望まなくとも、宿儺はその罪を貴殿に着せる」
「だとすれば、それは俺自身の罪だ」
「如何にも。故に、その勾玉は一線を越える事を一度だけ防ぐ。罪なき人の子が奴のせいで罪人となるのは私としても非常に気に入らない。嘗て私に人間を教えた巫女のように、今の私は人を嫌うことなどできない」
水龍の巫女は宿儺に殺された。ヌヴィレットはその事に対して怒りを未だに覚えている。しかし、それは虎杖の中にいる宿儺のみであって、虎杖自身は人として認めた。
「虎杖悠仁、貴殿が私の【裁判】によって裁かれない事を祈る」
▽▽▽
水龍との謁見を終えた後、七海と虎杖は指定されたホテルにやってきていた。この町の中でも最も格式高いホテルは、一般人であればまず入ることすら出来ない場所である。
色んな意味でプレッシャーしかかかってない虎杖は初めて胃痛がどんなものかを思い知った。
「…水龍の目的は虎杖君を直接見定める事だった様ですね」
「ナナミン、水龍って割と人っぽいけど人じゃないんだね」
「まぁ、元は呪霊ですから。呪いも回り回って祝福になったのが水龍、呪いのまま色濃く残ったのが宿儺。そう言われているくらいです」
コインの裏と表、まさしくその言葉通りだと思う。水龍は人が脆く弱い事を知った。故に加護と庇護を与える。宿儺はそれを自らの快楽の為に消費している。それが両者の差だ。
なら、水龍を水龍にした巫女はどれほどの人物だったのだろうか。
「…巫女は外国の人ですよ。呪霊は日本に多くいますが、海外はあまり居ない。そこに呪霊が見える上に強く生まれた子供は不気味だった。それ故に日本に貿易という名目で追放されたのです」
「捨てられた子供?」
「えぇ。巫女、と言われていますが見た目が日本人ではないのが原因でしょうね。服装もまず当時の日本にはないものですから、巫女と言うのは方便です。ただその捨て子は、当時呪霊だった水龍の呪いを紐解く位には純粋だった。それが真実です」
なら巫女は、宿儺に殺された最後はどれほど悲しかっただろうか。虎杖は七海の話を聞いて、ずっとそれを考え続けた。
▽▽▽
「ヌヴィレット!」
「…フリーナ殿、扉は静かに開けるように」
「リオセスリとクロリンデから宿儺の依代が来たって聞いて今走ってきたんだよ!?」
「彼は宿儺ではない」
「…だとしても、僕の半身を殺したんだ。せめて一目くらいは見ておきたいよ」
「問題ない。フリーナ殿には後々、呪術高専の東京校に行ってもらう。そこで彼がどんな人間かを好きなだけ見ると良い」
「ねえ待って!?それは聞いてないよヌヴィレット!あと流石にご機嫌なのは分かるけど眩しいからちょっと抑えてくれないかな…」
「む、そうか。それは失礼した」
「午前は雨なのに午後はバカみたいな晴天でみんな困ってるから」