過去にとらわれていた男が、一歩足を踏み出す話。

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あるいは───

 車が線路の上を通るために設けられた高架橋の下。

 

 その下に、一人のホームレスがいた。

 緑色のコートを羽織り、段ボールを敷いている上に座っている。

 ぼっーと、ただ目の前の空間を眺めていた。

 

 カタン……コトン……

 

 目の前を、電車が通る。

 

 田舎道。車が電車を避けるために作られた、橋の下を通る電車。

 線路を通って過ぎていくその電車を、彼はじっと見つめていた。

 

 電車が通って、空気を震わせて、鉄を鉄が叩くガタンゴトンという音。

 僅かに二両しかないその電車が過ぎ去って。上を、見上げた。

 

 

 

 時刻は夕暮れ時。

 二両目に一人だけ乗っていた、若干疲れた顔をした青年。

 ぽけーと外を見ている、冴えない顔の持ち主。

 緑の背もたれを擦って窓に寄りかかり、僅かにその壁を曇らせる。

 

 規則的な金属音が聞こえる、夕暮れ時。そして、ツンと鼻をつく電車に特有の匂い。

 どうにもセンチメンタルな気分になってしまう。

 座席が区切られた車両に乗っているなら、尚更その思いは強くなるだろう。

 

 この車両には俺しか乗っていないのだけど。

 

 橙の光が窓の曇りに乱反射して、目を突き刺してきた。

 外の景色にももうそろそろ飽きてくるころ。周りを見渡して、めぼしい広告全部に目を通した。

 とうとう何もすることがなくなると、空想ぐらいしかする事がない。

 

 今日のことを思い返すかと目を瞑り、背もたれに寄りかかる。上を、見上げた。

 

 

 

 

 

 ごぉ、と大きな音が頭上から聞こえ、思わず身をかがめてしまう。

 

「ハハハ、吃驚するのは分かるが、そんなになるか? ここら辺はよく通るんだろ?」

 

 新幹線が通った音。空気の振動が大きな音響を作り、鼓膜へと伝わる。

 両手を頭の上から降ろし、膝を伸ばして。旧友へとささやかな反撃を試みた。

 

「いやいや、この音に慣れている方がやばいと思うんだよ。大きな音に驚くのは防衛本能なんだからさ」

 

 昔を懐かしむように、雑に話を繰り広げながら駅の構内から出て、何処へ行くともなく歩き始める。

 

旧多(ふるた)、あれ見てみろよ」

 

 一緒に歩く相方の頬を撫でるかのように伸ばした指。それをやけに目立つ電光掲示板に向ける。

 いつもは3Dの犬やら、有名人の企画でしか使われていないそれが、珍しく商品の宣伝をしていた。

 

「へぇ。LSFの新作じゃないか」

 

 有名な音楽会社が新しく出すヘッドホン。音響機器の出来には定評がある会社だけに、きっとあれも素晴らしいものなのだろう。

 

 値段は……5万。

 とても、今の俺じゃ手が出ないような額だ。

 そっとかぶりを振る。

 

「お前は興味があるんじゃないか? 中学の頃から音にはやけにこだわってたじゃん」

 

 ちらとこっちを見た旧多も、合わせるように頭を振った。

 

「いいや。新作は音の残りを重視してるらしくてさ。どうにも好みじゃないよ」

 

 確かにそうだった。昔からこいつは音のクオリティを重視する割に、その余韻を楽しまないのだ。

 その点に関してはずっと俺と意見が違っていた。

 

 コンサートどころか、そこら辺のネットの音楽でも。

 音には余韻が必要で、それは最も重要なものだと考えていた。

 

 あの一瞬にも近い時間にすべてが詰まってるのだと、白熱して言葉を交わしていた時を思いだす。

 

 これまでの音の全てを踏まえた上での、最後の響き。ずっとその先へ、存在しない理想へと繋がっているようだと思うのだ。

 

 横にいる男に視線を向ける。

 

 こいつは、それをずっと理解してくれなかったのだが。

 音の残りは所詮残りでしかなく、浅ましくも過去にしがみ付いているようだと。

 ずっと、嫌っていた。

 

 あぁ、その時の響きを何と呼んでいたっけ。確か──―

 

「おい。……大丈夫か?」

 

 街中だぞ。そう、旧多が言っているように見えた。

 いつもこいつの眼は怖く思えてしまう。

 

 そう、そう。俺は物事をどんなときでも深く考えすぎてしまうきらいがあって、こいつにずっと注意されていた。

 

「あぁ、悪い。行こうぜ」

 

 また、何処へともなく歩き出す。

 ついでに、横を向いて気になっていたことを一個聞いた。

 

「そういえば、仕事。お前何やってるんだっけ?」

 

 旧多は両手を頭の後ろで組んで、お気楽そうな声で言う。

 

「普通のサラリーマンだよ。しょーもない会社の」

 

「そっか」

 

 視線を前に戻す。手はポケットの中にいれて、下を向く。

 隣をただ歩いているだけの旧友が、何処か、遠い存在のような思いがあった。

 

「お前は? ……仕事。何やってんの?」

 

「うん、仕事……仕事ね。バイトしてる。掛け持ちで」

 

 へぇ。

 

 そんな軽い返事。

 こいつにとっては、これは特に気にするようなことでもなく、世間話の一つとして聞き返して来ただけなのだろう。

 

 唇の内側を、無意識に噛んでいた。

 

 

「腹、減ったな」

 

 旧多の声で、自分が感じていた空腹感を自覚する。

 得も言われぬ不快感の根源を突き止めたことで僅かなりとも機嫌が回復したようで、しかめ面をやめ、飯屋が近くにないかを探すことにした。

 

 時刻はちょうど真昼、13時頃。どこも混みあっていて、簡単に入れそうな場所は見つからない。

 

「参ったな、こりゃ……どこも一杯だよ」

 

 うーん。そうぼやきながら旧多が頭を搔く。

 自慢だった髪も、学生の頃と比べると些か薄くなってきているように思える。

 

「うっし、仕方ないな……行きつけの店があるんだ、そこに行こう」

 

 

 ごう。

 

 

 頭上を電車が通過して、空気をひどく震わせる音がする。

 

 高架下のこの店は、この昼時だというのに店員のほかには俺たちと数人がいるのみだった。

 メニュー表を見ると、食事処には似つかわしくない内容ばかりが並んでいて、むしろ居酒屋に近い。

 

「いくら他の店が混んでるからってもさ、ここはいくらなんでもじゃないか? アフター5にでも来るような場所だよ、ここ」

 

「ま、いいじゃないか。ここ、料理も頼めば出してくれるんだよ」

 

 雑っぽくていいだろ? なんて。

 

「嫌いじゃないけどね、確かにそういうのも」

 

 実際問題、お昼事情は簡単に解決することができたのだからここは素直に感謝しておこう。

 

 テーブルの上に組んだ手に顎を乗せ、一息つく。

 注文した料理が到着するまで、暫く。そうして、ただ視線を揺蕩わせていた。

 

 

 

 フォークに刺した一口大のハンバーグをペレットに押し圧て、口へと運ぶ。

 噛むたびに舌から得も言われぬ旨味が伝わってくる。

 

 そういえば、肉を食べたのはいつぶりだっただろうか。

 

 日頃忙しくて食に頓着も出来ず、コンビニで適当に食事を用意して食べるだけの生活。

 こうやって外食をするのも久しぶりだ。

 

 少しの間、ただ食器の触れる音だけが耳を揺らす。

 独特の空気が漂う空間の中、先に静寂の帳を破ったのは、俺だった。

 

「あのさ、昔にしてた夢の話、覚えてるか?」

 

 それを口にした理由は、その空気に耐え切れず何か会話をしたかっただけだったはず。

 理由など、もうどうだっていいことだけれども。

 

「夢? ……そんなのいちいち言われたってなぁ、なんだ? 象がキリンとプロレスを取ってたってやつか?」

 

 あれを3か月ぐらい擦り倒しやがって、俺たちは1週間もすれば飽きてたっていうのによ。

 

 そんな風に笑う姿を見て、何故か苛立ちを感じてしまう。

 別に、話のネタになればいいな、程度で話しただけだったはずなのに。

 

「いや、将来の夢のほうだよ。学校とかでしてた、なりたい職業の話」

 

 若干ぶっきらぼうな言い方で訂正をする。

 

「悪い悪い、そんなに怒らないでくれよ、馬鹿にするつもりはなかったんだ」

 

 にへらと笑う顔が気に入らない。

 昔からどことなく腹が立っていた、人を小馬鹿にする様に笑うその顔。

 

 それでも、こいつぐらいしか話を聞いてくれる人はいないのだ。

 

「あの、さ。俺、昔話してた、学者を、目指してみようと思うんだ」

 

 どうにも恥ずかしくなって、フォークを置いて自分の手を触ってしまう。

 視線が机を向く。木机の波紋を見ながら、続きを話す。

 

「今はバイトしてるんだけどさ、頑張って学費を貯めて、大学に進学して。それで、何かの学者になりたいんだ」

 

 僅かにたまっていた鬱憤が、自分の本心を吐露するたびに消えていくような気がしていく。

 気休めでもいいから、その感覚にすがるように言葉を繋げた。

 

「まだ、こんな現状なんだけどさ。ちゃんと頑張ろうと思って。それで、さ」

 

「もういいよ」

 

 脳に冷や水をかけられたように、旧多の声がクリアに聞こえた。

 

「……え?」

 

「もういいって、だから」

 

 旧多の声が脳に伝わっているのに、ニューロンがまるで動いてくれなかった。

 

「あのさ、学者になるって言ったって、何を研究する? バイトしてるって言ったって、毎月いくら貯金できてるんだ?」

 

「いや、それは……」

 

 図星だった。

 学者になりたかった。その一心で、別に何を研究したいというわけでもなかった。

 バイトもしているけど、ヘッドセットも買えないくらいで碌に貯金なんてできないし、生活するだけで精いっぱいだった。

 

「現実を見ろよ。学生気分でいつまでいるんだ? お前は夢を見ているだけで生活なんてできないんだよ」

 

「もっと真面目に生きろよ。いろんな人から言われてるだろ、これで何回目だ?」

 

 いいよ、ここはとりあえず払っておくからさ、いったん頭冷やせよ。ちゃんとした相談なら乗ってやるから。

 

 そう言われて、何もできずにただ俺は下を向いていた。

 恥ずかしかったし、何より、情けなくて。ただ、苦しかった。

 

 旧多が店を出た後も、ずっと小声で、誰に聞かせるでもなく、言い訳を連ねていた。

 

 だって、ちがう、俺は、ほんとは。

 ずっと、自分を見つめてくる木の目に呟いていた。

 

 

 

 

 ガタン、ゴトン。

 

 目の前を通る電車の音で、はっと気が付いた。

 毎日、ただこうやって、あの日のことを思い返している。

 

 高架下で、緑のコートを羽織って、毎日ぼーっとただ暮らしている。

 過去への執着で針が止まってしまった腕時計を付けている。

 

 でも、今ようやく気付いた。

 ここで言い訳をして、悔しがっていても何も変わらないんだ。

 

 初めて、腕時計の針の音が聞こえた。

 

 一歩、一歩と前に歩いた。

 裸の足で、鉄の冷たい感覚を味わっている。

 

 そう、俺はこれまでずっと何かに囚われてきてしまっていた。

 これで、ようやくそれから脱却することが出来る。

 

 電車の音よりも先に、踏切の閉まる音が聞こえる。

 想えば、こんな音も久しぶりに聞いた。

 

 囚われてきてしまったもの。

 目を瞑って、それに思考を没入させる。

 

 一時の胡蝶の夢。

 きっと、それは──―

 

 残響。


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