午前六時きっかりにセットした目覚まし時計が、規則的な音をかき鳴らす。耳慣れたそれに揺り起こされるようにして、少年はのそりとベッドから身を起こした。アラームを止め、ぐうっと伸びをする。
(なんだか、懐かしい夢を見ていた気がする)
それがいったいどんなものだったか、目が覚めたばかりだというのに思い出せない。気にならないといえば嘘になるが、所詮夢は夢だ。それが過去の追体験であったとしても、現実にはなんの関わりもない。
制服に着替えて一階へ降りる。古びた木造のきざはしが、彼の体重に耐えかねたかのようにぎしぎしと音をたてた。
台所から、ひょこりと皺の刻まれた顔が覗く。
「あら、おはよう寿也。夏休み明けなのに、早起きできて偉いわね」
「おはよう、おばあちゃん」
もう子供じゃないんだからと内心苦笑しつつ、寿也はそう応じた。二世代も離れた彼女からすると、どんなに上背が大きくなろうと孫は孫でしかないのだ。それは決して不快なことではないが、もどかしくもある。
「朝ごはんできてるから、先におじいちゃんと一緒に食べててちょうだい」
「わかったよ」
いただきます、と手を合わせ、箸をとる。正面に座る祖父は気もそぞろに新聞を眺めていて、祖母に行儀が悪いと注意されていた。
「──寿也、今日は始業式だろ。昼は家で食べるのか?」
話を逸らすような質問だったが、寿也はまじめに答えた。
「いや、自習室で勉強してくるつもりだから大丈夫。部活で残る人がいるから、学食も開いてるしね」
「あらまぁ……初日くらい、ゆっくりしたらいいのに」
「そういうわけにはいかないよ」
苦しい経済状況の中で、絶対に大学まで出すと言ってくれている祖父母である。もとより頭脳には秀でている寿也だが、だからこそ常に最大限のパフォーマンスを保てるように努力を続けなければならなかった。
「勉強も大事だが……そのぅ、部活動のほうはどうなんだ?」
「部活じゃなくて同好会だよ、おじいちゃん。……そうだね、そっちの練習にも少し顔出そうかな」
ちょうどそこで食事を終え、寿也は「ごちそうさま」と立ち上がった。
*
佐藤寿也の通う私立夢島学園高校は、地元ではそれなりに名の知れた進学校であった。もっとも彼の学力ならさらに上位の名門校に入学することも可能だったのだが、自宅からの通学の利便性、入学試験における上位10名への学費免除などの条件を考慮してこの学校を選んだ。授業内容自体はもちろんのこと、自学自習に対しても手厚いサポートが行われていて、学習塾に通う必要がないというのも経済的に厳しい身としては有り難い。
同時に、こういった上の下クラスの進学校にはありがちなことだが、部活動にも力を入れていた。サッカーにバレーボール、剣道など、全国区とはいかないまでもそれなりの成績を残している部がたくさんある。しかし──
とりとめもなくそんなことを考えながら教室に入った寿也に、クラスメイトの少年が挨拶もなしに取りすがってきた。
「佐藤ぉ、助けてくれぇ〜」
「み、三宅くん?どうしたのいきなり……」
独特の大阪訛りと対人距離の狭さ。自分から他人にべたべたすることのない寿也とはまったく異なるタイプの少年である。強引に引き剥がすわけにもいかずおろおろしていると、彼の背後から別の少年たちが歩み寄ってきた。
「おはよ、佐藤」
「終わってない課題があるんだとさ」
「あぁ……泉くん、寺門くん」
寿也より頭ひとつぶんも小柄で、猫のようなつり目が特徴的な泉。一方の寺門はクラス一の長身で、お調子者の三宅などからは「おっさん」と揶揄されるいかつい容姿をしている。対照的なふたりのどちらに視点の重心を置くかは地味ながら無視しがたい命題なのだが、そんな寿也の心情など知るよしもなく三宅が引っ付いてくる。
「終わってないとちゃうねん、完っ全にアタマからすっぽ抜けてたんやぁ……!頼む佐藤ぉ、写させてくれぇ!!」
「えぇ……いったい、何を忘れてたの?」
「英語の……なんやようわからん物語読むやつ……」
「ああ……それなら提出は最初の授業のときだし、今日中にやれば大丈夫だよ。写すのは駄目だけど、僕も手伝うから。放課後自習室で一緒にやろ?」
「お、お、恩に着ますわ神様仏様佐藤様ぁ……!」
感涙にむせびながら、結局引っ付いてくる。苦しい。
「はは……あ、そうだ。今日って練習あるのかな?少し顔出そうかなって思ってるんだけど」
「ほんと?うちの
「だーれーが幼稚園児やねん!……それより佐藤、お礼代わりにええこと教えたろか?」
「いいこと?」
さも重大な秘密を暴露するかのように、耳元に顔を寄せてくる。
「……実はな、うちのクラスに転入生が来るらしいねん」
「え、転入生?2年生のこの時期に……」
「なー!なんでもアメリカ帰りの帰国子女らしいで。はぁ、ブロンドのセクスィー美女だとええなぁ……」
「……帰国子女なら普通に日本人でしょ」
まったく、と呆れ顔の泉。そもそも女子かどうかもわからないのだ。寺門みたいのが来たらどうするの、と続けられ、三宅は「そんなんイヤや〜!」と喚いている。思わぬ飛び火にも顔を顰めるだけの寺門は、外見に違わず大人だと寿也は思った。
*
「ほら、席につけ。朝礼すんぞー」
いまいちやる気のない担任の南雲の宣言とともに、正式に二学期が開幕した。夏休み気分の抜けない生徒が大勢を占める中、しかし何処か好奇心めいた感情も垣間見えた。
「もうウワサが出回ってるみたいだから知ってるやつもいるだろうが、このクラスに転入生が来ることになった。さ、入って──」
きなさい、と言い切らないうちに、がらっと戸が開かれた。真新しい白い上履きが、教室内で無遠慮な音をたてる。
現れたのは果たして、整った顔立ちに不敵な表情をのせた体格の良い少年だった。白いワイシャツに包まれた胴体は寺門にもひけをとらないほど分厚いが、そこに無駄な贅肉は見受けられない。その優れたルックスに、女子生徒たちは早くも色めき立っているようだった。一方で三宅などは「なんや男子かいな」とがっかりしているようだったが。
しかし寿也の反応は後者でも、もちろん前者でもなかった。その姿かたちに、そこはかとない既視感を覚えたのだ。アメリカからの帰国子女と会ったことなどあるはずがないのだが。
(……アメリカ?)
何か、大事なことを忘れているような気がする。
寿也が考え込んでいる間に、転入生は自らチョークをとっていた。さらさらとローマ字が書き込まれてゆく。
──Goro Honda
「本田吾郎っす。ナイストゥーミーチュー」
(本田……吾郎……?)
その瞬間、寿也の脳裏に、過去の記憶が怒涛のごとく流れ込んできた。
──ぼくと、野球やろーよ!
「……吾郎くん!?」
がたんと音をたてて、寿也は立ち上がっていた。皆の視線が集中する──当然、吾郎のそれも。ただ彼のほうは、寿也が何者かわかっていない様子だったが。
「僕だよ、佐藤寿也だよ!5歳のとき、きみに野球を教えてもらった──」
「とし、や……──あっ、寿、くん!?」
思いもかけぬ再会に、ふたりの時が止まった。
彼らの出逢いは寿也が言った通り、5歳の頃のこと。当時、私立小学校受験のために自宅に缶詰めにされていた寿也が、たまたま吾郎を見かけたのが始まりだった。部屋から見ている寿也に気づいた吾郎が彼をキャッチボールに誘い、紆余曲折ありながらも友情を深めた。……たった一年にも満たない期間だったけれど。
『……寿くん。ぼくね、アメリカにいくことになったんだ』
『えっ……?どうして──』
『おとさんが、メジャーにいくんだって。だから、ずっとそっちでくらすことになるって』
『そう、なんだ……。吾郎くんと、もっと野球したかったな……』
『ぼくも……』
親の仕事の都合での、遠方への引っ越し。それが海外というのは珍しいにしても、庇護される子供の立場ではどうにもならないことには変わりなかった。
ならば悲しみばかりを露わにしても吾郎を苦しめるだけだと、まだ幼くも聡い寿也は努めて笑顔を浮かべた。
『吾郎くんは、アメリカでも野球するんだよね?』
『え?……うん!もちろん!』
『じゃあ、こんど帰ってきたら、ぼくとバッテリー組もうよ!』
『バッテリー?』
『うん。ピッチャーとキャッチャーのこと、そう言うんだよね?』
吾郎はアメリカで、自分は日本で野球を続ける。だからまた、一緒に──
『……わかった。やくそくだよ、寿くん!』
そしてふたりは、指切りをした。
「………」
もうとっくに忘れかけていた、無邪気な子供のころの思い出。立ち尽くしたままそれに浸っていた寿也は、目の前いっぱいに広がる影を認めて我に返った。
「とぉしク〜〜〜〜ン!!」
「わっ!?」
ずしりとした衝撃とともに、背骨をきつく締めつけられる。抱擁されている、というのはすぐにわかった。
「ひっさしぶりじゃ〜ん!でかくなったなぁ!!」
「いや、ちょ、きみほどじゃ……。ていうか苦しいんだけど……」
それより何より、公衆の面前である。振り払いたいが、体格差もあってびくともしない。
困り果てていると、ようやく南雲が助け舟を出した。
「おーい、ここはアメリカじゃないぞ〜」
そのひと言で、ようやく解放される。もっとも吾郎には悪びれる様子もなかったが。
「お前ら、知り合いなのか?」
「え、ええ……。小さいころに少し」
「なんだそうなのか。ならちょうどいいや、積もる話もあるだろうし、始業式のあと学校の中案内してやってくれ」
「え、ぁ、はい……」
「えーーーっ!!?」
寿也の返事に被せるように声をあげたのは、お調子者の関西人だった。
「なんだ三宅、不満か?」
「いやだって佐藤に宿だ……ゴホ、オホん!佐藤クンと野球やる約束しとるんですわ」
「今日、同好会の練習やる日なので」
泉が補足する。「ナイスフォロー泉!」と三宅は心の中で親指を立てた。尤も泉としても、事実上試合要員の寿也が練習に参加してくれる機会を逃したくはなかっただけなのだが。
しかし自分の仕事を押しつけられる一世一代のチャンスを逃す気は、南雲にはなかった。
「そんな何時間もかかるような話じゃないんだし、のんびり昼飯食って待ってりゃいいだろ?つーわけで佐藤、よろしくな」
「ヨロシクネ、寿クン!」
片言の挨拶とともに肩を組まれ、引きつった笑みを浮かべる寿也だった。