涼子の"ツテ"は、想定以上に早く利用することができた。
何せ皆にその話が伝達された次の日には、実際に臨時コーチ──立場は涼子も同じだが──が夢島学園高校を訪れることになったのだから。
「……というわけで、1年生にして明煌大学野球部のエースを務めてらっしゃる榎本さんよ」
「榎本直樹です。短い間だけど、きみたちが厚木に少しでも喰らいつけるようお力添えできればと思ってますんで、ヨロシク」
飄々とした物腰でそう挨拶する榎本なる青年を、夢島ナインの面々は散発的な拍手で迎えた。皆、総じてやや戸惑いぎみである。
「なんや掴みどころのない人やのぉ」
「……ああ。ていうか──」
泉が言いしれぬ既視感の正体を探ろうとしたときだった。
「あ、あのっ!榎本さんはひょっとして、昨年厚木学園でエースピッチャーだった──」
上ずった声に、皆の視線が国分に集中する。"厚木学園でエースピッチャーだった、榎本直樹"──その称号について、榎本は何を憚ることもなく頷いた。
「おっ、流石に知ってくれてるヤツがいたか。これでも全国制覇を成し遂げた背番号1、誰にも気づかれないってのはあまりに寂しいからなぁ」
「厚木の、エース……」
想像だにしない助っ人だった。涼子のツテは果たして偶然の産物なのか、どうか。そもそもなぜ彼の母校と真っ向からぶつかる自分たちに、手を貸してくれようというのか。
尽きぬ疑問を皆が口々に発すると、榎本ははははっとわざとらしい笑い声を発してそれを抑えるような仕草をした。
「質問は大歓迎!……だけど、きみらには悠長なことをやってる時間はないんじゃないか?決勝戦はあっという間にやってくるぜ」
「榎本さんの言うとおりよ」涼子も同調する。「彼の武器である多彩な変化球……そのひとつにナックルもあるわ。ここにいるゴロー以外全員が彼のナックルを安定して打てるようになること、それが到達目標よ」
「ぜ、全員が……」
「安定して、か……厳しいな」
全員、めきめきと実力をつけているのは言うまでもない事実だ。しかし上位打線・クリーンナップ組と下位打線組では未だ大きな差があることもまた、現実。昨年の全国No.1投手の球を、そう短期間で打てるようになるものだろうか。
「言っとくけど、阿久津は
「………」
飄々と、それでいてきっぱりと断言する榎本。ただ皆がしんと静まり返った途端、ぱっと笑みを浮かべて、「ま、オレのナックルも大したもんだけどな」と自画自賛してみせる。とことん掴みどころのない男だと誰しもが思った。
「──よーするに、あんたのナックル程度を打てないで阿久津は攻略できねーって話だろ。わかりやすくていいぜ」
「!吾郎くん……」
吾郎と榎本の視線が交錯する。──投手同士、燃え上がるものがあるように寿也には思われた。
「……ゴロー、聞いてなかった?私はあなた以外って言ったのよ」
「っ、聞いてたよ!聞いてたけど……オレが打たねーでどうすんだよ!!」
「本田!……しょうがないだろ、おまえ、手首ケガしてるんだから」
そう咎められても、吾郎には到底承服できるものではなかった。吾郎は投打ともに全力を尽くして戦いたいし、そのための努力は惜しまない。大体、ケガと言ったってちょっと捻った程度なのだ。厚木戦までにはほぼ快癒する。それで事実上打撃では何もするななんて、吾郎に耐えられるはずがなかった。
「吾郎くん、無理は禁物だよ」涼子と国分に同調する寿也。「その結果、投球にまで悪影響が出たらどうするんだ。きみのピッチングは、僕らの生命線なんだぞ」
「う……そりゃ、そうだけどよ……」
「それに甲子園のことだってある。決勝は乗り切れても、その後に影響が残ったら僕らの目標はどうなるの?」
全国制覇──厚木との一戦も、そのための通過点にすぎない。吾郎の常に全力で戦う姿勢は間違いなく美徳なのだが、だからこそ自分が歯止めをかけなければと寿也は意気込んでいた。
「阿久津は必ず僕らが攻略する。だから信じて、任せてほしい」
「………」
それでも全面的に承服はしがたい様子の吾郎であったが、ややあって唇を尖らせながらも小さく頷いた。寿也や上位打線組ばかりか、打撃においては末席の児玉も「やってやるぜー!」と拳を握りしめている。その言動の信憑性はともかく、意気は買うべきだろう。自分ひとりで野球をやっているわけではないのだと、あの女監督に証明してやらねばならないのだから。
「じゃ、ゴローちゃんはおとなしく審判でもしてますかね。──よろしくっす、榎本センパイ」
「お任せあれ、本田くん」
ふたりの間の空気がいくらか緩和されたのを見届けて、彼らはさっそく特訓を始める運びとなった。
*
軽くアップを済ませた榎本がマウンドに上がる。彼の指名で、マスクは寿也が付けた。無論彼がバッターボックスに入る際は国分に交代する予定なのだが。
「いいねぇ、夢島の彗星ちゃんの片割れに捕ってもらえるなんて光栄だよ」
「す、彗星ちゃん……ですか?」
「そ。今まで影も形もなかったのに、いきなり上から降ってきたような連中だからね、きみら」
それは……否定できない。ずっとアメリカにいた吾郎はともかく、寿也は横浜リトルで4番捕手を務めてはいた。しかし小学生の名声など所詮プロに知られるものではないし、五年の歳月は当時小学生の名選手など忘れ去られるのに十分すぎた。
「……彗星みたいに、焼け落ちて終わるつもりはありませんよ」
「おー、カッコいいじゃん。──で、トップバッターは誰がやる?」
「じゃあ、俺が」
そう応じて出てきたのはやはりと言うべきか、我らが内野のリーダー・泉祐一だった。実に自然かつ躊躇のない一歩、皆も驚きもなく当然のことと捉えている。
(僕がやろうと思ったのに……なんて、言えないよなぁ)
驚きはしないが、国分は内心臍を噛んでいた。ここはやはり、主将である自分が先陣を切りたかったところ。ただ泉のほうが、皆の模範となりうるバッティングを見せてくれるというのも主将として受入れねばならない事実である。頼られたければ、それ相応の実力を見せるよりほかにない。
さて、泉と対峙する榎本。彼は不敵な笑みを浮かべたまま、両腕を大きく振り上げた。
(いく、ぜ──っ!)
そして白球が、その手から離れる。ナックルが来ることはわかっている。猫のような大きな吊り目を細め、球筋を見極めようとする泉だったが。
「っ!?」
球速はさほどのものではない。ストレートなら余裕で捉えられる速度だ。問題は、その変化の仕方だった。特定の方向に曲がるのではなく、不規則に左右にブレる白球。そういう変化をすること自体はあらかじめ分かっていても、問題は最終的な帰着点がまったく読めないことだった。
「く……っ!」
特訓において見逃しなど論外とばかり、それでも果敢にスイングを仕掛ける泉だったが、ボールはあえなくキャッチャーミットに納まっていた。
「ストライク!」
「………」
(これがナックル……。動画で見るのとはやっぱりワケが違う)
ボールが最終的にどこに行き着くか、それを看破しなければ当てたところで詰まらされて終わりだ。──しかも阿久津のナックルは、今見たそれを凌駕するものだという。
気を取り直した泉だったが、二球目をかろうじてバットに当ててファールにしたものの三球目を外してしまい、あえなく三振となった。
「くっそー……」
「……泉先輩が三振なんて、僕らに打てるんすか?」
こういうとき、はっきりとその疑問を口にできる大河は皆にとってむしろ心強いと言えるかもしれない存在だった。誰もが一瞬考えながら、なかなか口にしがたいことなのだ。
「っ、僕が行く!」
今度こそはという思いで、国分が二番手に名乗り出た。いちおう事前情報は涼子から仕入れている榎本は、ふぅんと鼻を鳴らして笑う。
(血気盛んなおチビちゃんたちだぜ。ま、キャプテンならそれくらいは当然か)
だからといって容赦はしない。これが彼らのための特訓である以上は、当然の思考だった。
ただそこから、とことん虐めてやろうというところにまで発展するのが彼の悪癖であったが。
「っ、ああっ!」
「ストライク!」
泉以上に果敢に挑んだ国分だったが、泉よりも大振りな彼はあえなく三球三振となった。
(まったく捉えられる気がしなかった……っ)
大河の言うことには一理どころか百理まである。泉と自分がこの体たらくでは、涼子の掲げた目標(全員の安打)達成は極めて困難と言わざるをえない。
しかし無理でも突き通さなければ、あの厚木学園相手には防戦すら成立しないのだ。次こそはと国分は、審判役の吾郎に視線を送った。
(おまえが信じて託してくれたんだ。……へこたれないぞ!)
──しかし榎本、そして榎本の投げるナックルは、相当難儀な代物であって。
「っ!」
「くうっ!」
「うわあっ!?」
「でぇぇっ!」
草野、寺門、丸山、三宅──次々にあえなく打ち取られていく。皆、吾郎の速球を見慣れているせいもあって、"球速は遅いが""変幻自在の極みのような動きをする"球にはかえって苦戦を強いられているのだった。
「こりゃ、本田が来る前のほうがかえって打てたかもしらんでぇ……」
「型にはまらない変化球だからな……」
「……とりあえずオレ、行きます」
どこか諦めた目をした大河が打席に出ようとするが、それを呼び止める者があった。
「待てよ大河!オレが先だ!!」
逸りぎみにそう迫ったのは、すっかり"
「……別にいいっすけど、先輩に打てるんすか?現状、誰にも打ててないのに」
「んなっ……じゃあてめぇは打てるってのか!?」
「さあ……。でも正直、無理があると思いますよ。この短期間で、全員が安定してヒット打てるようになるなんて。……今さらこんなこと言うのもと思って黙ってましたけど、付け焼き刃でナックルにヤマ張るよりいつも通りに練習したほうが良いんじゃないっすか?」
「………」
大河の言葉は一面では正論といえた。あるいは練習すればなんとかなりそうな面々はナックル対策に集中して、児玉のような下位打線組は引き続き基礎練習に注力する──そういう選択肢もあるはずだ。
しかし、
「だから阿久津相手にはおとなしく三振とられろってか?」
「!」
「オレはヤダね。最初っからムリだって決めつけながら打席に入るなんざ」
「男ならやるかやらないかしかねえ」──そう断言して、児玉は打席へと向かっていく。その背中はまるで、彼の跡目を当然のごとく継いだ大エースのようで。
(こ、児玉……)
(か……カッコいい!)
(……あれで実力が伴ってればな)
それでも児玉がそういう志をもって打撃にあたっていると知れたのは、皆にとって大きな収穫だった。