榎本直樹による"出血大サービス"(本人談)、2日間にわたる対ナックル訓練。その最終打席を飾るのは、捕手役も務めた佐藤寿也であった。
「いくぜ、ラストボール」
「お願いします!」
最後の一球。ふわふわと迫るそれは、当初なかなかに夢島ナインを苦しめてくれた。阿久津のナックルはさらに変幻自在だというのだから、如何なるものか想像もつかない──ビデオでは確認しているから、生では、という話である──。
しかし捕手として榎本のナックルを幾度となく受け止めていた寿也は、既にその球筋を完全に見切っていた。
「ふ──っ!」
溜めに溜めた空気を一気に吐き出しながら、力いっぱいバットを振る。果たして右に左にふらふらと舞っていた白球は、その鼻っ柱に鉄芯を叩きつけられたのだった。
*
「皆、2日間おつかれさん。ま、一番お疲れなのは俺だけど」
どこまでが本心なのか掴みづらい榎本の言葉に、各所から散発的な失笑が洩れた。まあ実際、大袈裟でもなんでもなく彼の献身は相当なものだ。彼にも
「釈迦に説法だとは思うけど、厚木は一か所を崩したところで全部が倒壊するような砂上の楼閣じゃあない。むしろ、阿久津を倒してからが本番だ」
「言われなくてもわかってるっつの。で、サジョーのローカクって何?」
「それはわかってるとは言わないよ、本田……」
「……阿久津に続く2人も打てなきゃ勝てないし、打てても守れなきゃ敗ける。そういうことですよね」
厚木学園の層の厚さ、こればかりは差を埋めようがない。──相手が眉村を繰り出してくる前に、事実上決着をつける。それが夢島ナインに残された、数少ない勝ち筋だ。
「ま、わかってんならいい。せいぜい俺の協力を無にしないでくれよ、皆の衆?」
「楽しみにしてるぜ」──自らが挑戦を受ける立場であるかのような笑みとともに、榎本は夢島を去った。
*
決勝戦、前日。
いよいよ気合の入る夢島ナインはとりわけの酷暑の中、これが最後の練習と心得てフィールドを駆けずり回った──午前中は。
連日、日がとっぷり暮れるまでそんなことを繰り返し、合間合間に計6つもの実戦を勝ち抜いてきた彼ら。如何に高揚していると言っても……否、しているからこそ、心身の摩耗に鈍感になっている部分もあった。
そこで休憩を挟んだ午後、彼らには思いもよらぬサプライズが用意されたのだ。
「──ひゅぅううううううっ!!」
ひときわ甲高い歓声とともに、水面に飛び込むお調子者たち。ばしゃあ、と散る水飛沫が陽光を反射してプリズムとなる。
「最高やぁーっ」
「ホンマやでぇーっ」
「Excellentでまんがなでんがな!」
えせ関西弁まで飛び交う始末。言うまでもないが、本物の関西人はこの中にひとりしかいない。
「こらっ、飛び込むなって言っただろ!!」
「かてーこと言うなよキャプテン!せっかくのプールだぜ!」
吾郎の言葉通り、彼らには学校のプールが開放されていた。無論、貸切である。水泳部が遠征で不在にしていることもあって、南雲が使用許可をもぎとってくれたのだった。
「なんでいつもああなんスかね、あの人たち」
「バカは死ななきゃ治らない、ってね。反面教師にしたらいいよ」
コースロープに凭れかかるというアンニュイなしぐさで毒を吐く、遊撃手(志望)師弟。ふたりとも小柄だが可愛らしい容姿をしているというだけあって、それなりにサマにはなっていた。彼らの"イイ性格"ぶりを知らなければ、異性はもちろんのこと陽炎にあてられた同性でさえも惹かれるものがあったかもしれない。
とはいえその前提条件に当てはまらないチームメイト、とりわけ片割れとは入学当初からの腐れ縁に近い某関西人にしてみれば、その姿はただただ腹立たしいわけで。
「ッ!?」
びゅっと勢いよく飛んできた水鉄砲は、まさしく不意打ちだった。盛大に顔面に直撃し、泉の平均より大きな猫目は大量の水分子を心より歓迎してしまう。無論、
「フン!この程度もかわせんようでは、内野のリーダーも底が見えよるわ。がっはっは!」
呵々大笑する三宅に対し、自慢の視力に甚大な影響を受けた泉がぼそりとひと言。
「……最近調子こいてるよな、おまえ……」
「あっ」
キレてる──大河は思わず顔を引き攣らせた。そして程なく全面戦争が始まるわけだが、これはもう既定路線としか言いようのないものであった。
「まったく……なんであいつらはいつもああなんだ」
「まあ、アレで泉にとっては気晴らしになってるんだろうさ」
「だいぶ、周りの被害が大きい気がするけど……」
丸山の指摘した通り、吾郎たち先行組が巻き込まれてえらい目に遭っている。彼らに対しては気兼ねが必要ないというのも、ふたりの
とはいえ
「
「!」
滑らかな英語による叱責に顔を上げれば、果たしてそこには後光を纏った女神の姿が。
「ケガでもしたら台無しなんだから、羽目を外しすぎないでちょうだい。──和香ちゃん、早くいらっしゃい」
「は、はい……」
涼子の背中に隠れるようにやってくる和香、もとい美穂。レーシングバックの、露出は少ないが目に痛いくらいの赤い水着を纏う前者に対し、彼女は学校指定の地味なスクール水着である。しかしそれが鮮烈なコントラストを生み出し、彼女らのしなやかな肢体をくっきり際立たせているのだった。
「ワオ……」
「なんや本田ぁ、惚れ直してもうたんか?」
「う、うるせーよ関西人!」
「大河くん的にはどーよ、あのふたり」
「!……まぁいいんじゃないすか、客観的には」
さも自分は興味ありませんとでも言うような態度の大河。実際、数ヶ月前までの彼ならどうとも思わなかっただろう。何しろ守備範囲は年少者──無論、幼すぎる相手は論外だが──だと公言して憚らなかったのだから。
しかしそんな彼は今、ちらちらと美穂を窺っていた。唯一の同級生として濃密な時間をともに過ごし、ごく短い間ではあったが秘密を共有した関係だ。──すでに漠然とした好みの範疇では、語れない存在となりつつあるということだった。
「ゴホ、オホン!……でもよー、ガキじゃねーんだからプカプカ浮いて楽しい〜なんて言ってらんねーぜ?」
「……まぁ、それもそうね」
吾郎の言い分もわかる。彼らはとりわけエネルギーに満ち溢れた高校球児たちなのだから、そのいちばんの発散方法はなにがしかの闘争しかない。
ならば下手に
「ならここはひとつ、50m自由形でどうかしら?」
「えっ……」
──つまるところ、"
*
レーンは5つ。2チームに分かれて開催されることとなったレース、当然吾郎は先組に立候補したので、それに合わせて泳ぎに自信のある面子が並ぶ。寿也、泉、大河──ここまではイメージそのままとして、残るひとり。
「にしても意外っすね、丸山先輩が泳ぎ得意なんて」
後輩の言葉に、丸山は「えへへ」と鼻頭を掻く。
「僕、小学校の間ずっとスイミング習ってたから……。大会にも出たことあるんだよ」
「へぇ、凄いじゃん」
「それでいくと、カナヅチ組にいるのは意外だよなぁ〜、なあ国分、草野?」
呼びかけられたふたりが、揃って苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。
「じゃんけん運がなかっただけだよ!……僕っていつもそうなんだけど……」
「陸とは勝手が違うんだ……。というか、僕だってカナヅチじゃない」
それぞれに言い分はある。尤も名指しすらしてもらえない3人は、さらに不愉快だったのだが。
「くっそー、ワイかて泉をけちょんけちょんにしてやりたかったんに……!」
「もう諦めろ……」
(……言えねえ、マジでカナヅチなんて)
言わずともどのみちバレるのだが、それはまた別の話。
「さあ、
「オーケーオーケー、いつでもいいぜ!」
「そう。じゃあ和香ちゃん、お願い」
「は、はい。位置について、用意……」
五人が台の上で背を曲げ、真剣な表情で前方を見据える。刹那であるからこそ、永遠のものにしたくなる美しい光景。
そして当人らがそのことに思いを致す前に、ホイッスルの音が鳴り響いた。五人が一斉に飛び込み、思い思いの泳法で泳ぎだす。
「っ、やっぱり皆、速いな……」
「おっ、ええやんけ泉〜!そのまま1位になったれー!!」
「おまえは泉をやり込めたいのか応援したいのか、どっちなんだ」
抜きつ抜かれつ、激しい争いが繰り広げられる。しかし文字通りのターニングポイントになると、壁面に手を突いて方向転換する関係上、上背のあるものが優位に立つ。泉と大河、そして実は部員で4番目に小柄な丸山は、事実上このタイミングで首位争いから脱落した。
そうなると、あとはバッテリーの争いである。わずかに先攻する吾郎だが、寿也も必死に喰らいつく。息継ぎでしか垣間見えないふたりの表情は、それでも闘志に満ち溢れているのが傍目にもわかった。
(吾郎くん、泳ぎもやっぱり速い……!でも、なんとなく……なんとなくだけど……)
(敗けたく、ない!)
皆の声援が響く中、ふたりはひたすらにブルーラインの上を跳ねた。とりわけ耳に残るは、数少ない女性陣の声。ゴローとなんら憚ることなく呼ぶコーチと、お兄ちゃんと呼ぶに呼べず控えめに"佐藤先輩"へとエールを贈るマネージャーの声とが、真夏の空の下で絶妙なハーモニーを奏でている。
当人らにとっては悠久ともいえる50m水泳は、スタートから1分と経たずに終わりを迎えようとしていた。わずかに遅れていた寿也が終盤追い上げ、今では吾郎と寸分たがわぬ位置にまで並んでいる。見守る者たちは皆、賭けをしているわけでもないのに手に汗握り、固唾を呑んでいた。
そして、ホイッスルの音が響いた。