空が橙に染まり始める頃になって、
「じゃ、皆の衆今日はここまで。かいさーん」
相変わらず気の抜けた挨拶をする顧問である。まあ否が応でも吾郎が先導するチームにおいて、彼がこういう性格なのはチームのバランスとして良かったのかもしれない。今ではそう思えるようにすらなっていた。
「ふぁあー……泳いだ泳いだ。フツーに試合やってるより疲れたかもしんねぇ」
「あはは……結局、決着つかなかったね」
帰途にて、先ほどの水泳対決を振り返るバッテリーコンビ。──2勝2敗1分、50mに限らず距離を変えてもこの結果なのだから、紛うことなきイーブンと言うほかなかった。
「あれなら、水泳選手ってのもアリだったかもな」
「え、ど、どうかな……考えたことなかったけど。ていうか、それを言うなら吾郎くんだって」
「俺、そーだなー……」少し考え込むようなしぐさのあと、「ねぇな。泳ぐのも楽しーけど、野球やってない自分は想像できねえ」
それは寿也も同感だった。何せ彼は初めて出逢ったそのときから、野球一筋で生きている少年だったのだ。そんな彼の初めての野球友だちが自分だというのも、未だ不思議な感覚である。
「それが、まさか野球部のない
「うっ……いいだろ、結果オーライだよ。なんだかんだ、泉筆頭にデキる連中が揃ってたんだから」
「まぁ、そうだね。……ねぇ吾郎くん、」
「んー?」
「本当に、偶然だったの?僕がいる高校に来たの──」
ずっと気になっていた。いくら同じ神奈川といえど、高校の数など無数にある。夢島の偏差値だって、吾郎の学力を考えればギリギリだ。それをらしくない猛勉強をしてまで編入してきたのは、自分がいると知っていたからではないのか。
そんな疑問を呈された吾郎はというと、思いっきり目を丸くし──そして、笑っていた。
「ぶっ……は、ははは、はははは!おもしれーこと考えるな、トシくぅ〜ん」
「っ、だって!やっぱり、あまりにも出来すぎというか……」
「んなこと言ったって、元々家族ぐるみで付き合ってたわけでもねーし、どうやって野球やめてたおまえのことを見つけ出すっつーんだよ」
まあ、それは確かにその通りなのだ。吾郎にいち男子高生の消息を掴む情報網があるはずもなし……そもそも最初の野球友だちというだけの自分を、躍起になって探し出すほどの執着があったとも思えない。偶然があってこその、今の関係だ。
「……でも、何か感じるもんはあったんだよな。この
「野生の勘……ってこと?」
「そーそー、そんな感じ!って、野生はねーだろ!こちとら温室育ちだっつの!」戯けつつ、「……それに従って猛勉強して、編入してさ。そしたら
「それは……ごめん」
「いーって。結局おまえは
フッと微笑みを浮かべる吾郎。それはシュガーレスのチョコレートのような、どこか寂寥感すら感じさせる大人の笑みだった。──1年前、ちょうど吾郎が転校してきたときにも感じた、見違えるように大人になったな、という感覚。あのときは10年ぶりの再会で、疑問にも思わなかったけれど……それをさらに、何倍にも膨らませたような。
(なんだろう。吾郎くんが、また遠くへ行ってしまうような)
そんなはずはないと思いつつ、一度生まれてしまった不安は己の中では消化しきれない。
堪らず寿也は、一歩先を行く吾郎の手を掴んだ。
「……トシ?」
「……僕も、楽しいよ」
「だから……このまま、最後まで行こう」
最後──甲子園、決勝まで。
当初はやや圧されている様子の吾郎だったが、ややあって「当たり前だろ」と応じた。夏はまだ、道半ばだ。
「──お、見ろよトシ。あそこ」
「え?」
「ほら……あいつら」
吾郎が指差した先には数少ない、後輩ふたりの姿があって。
「楽しかったね、プール」
「んー?あぁ、まあ……レースじゃドベだったけどな、俺」
自信のある組に入ってしまったのが運の尽き、丸山にすら──水泳経験者なので、この表現は妥当ではないかもしれないが──及ばず五番手につけてしまった。なんとも悔しい……なんて、以前の自分なら考えもしなかっただろうけど。
「ふふ、気にしてるの?」
「……悪いかよ」
「ううん。でも清水くん、カッコよかったよ?」
「!……どーも」
頬を赤らめる大河。夕暮れのおかげで美穂には勘づかれていないだろう。それだけが幸いだった。
「明日、勝てるといいね」
「まぁ、なんとかなるっしょ。俺に出番あるかはわかんねーけど」
「あるよきっと。清水くん、ナックルだって打てるようになったんだもん」
「なーんか、お似合いって感じじゃねえ?」
「はは……そうだね」
「いいのかよ。……大河、おまえの
「流石に気が早いよ……」苦笑しつつ、「……今さら僕がどうこう言える話じゃないよ。それに大河なら、良いんじゃないかな」
この三ヶ月余、大河もよく頑張った。斜に構えた態度など、問題にならない程度には。ならば兄とはいえ、五年も離れていた自分にできるのは、ただ見守ることだけだと寿也は思っていた。
「まあ、吾郎くんはそうもいかないんだろうけどね」
「は?俺?」
「ちはるちゃんがボーイフレンド連れてきたら、絶対邪魔しようとするでしょ」
「ぎくぎくっ!!ち、ちちちちちはるはまだベイビーだぞ気が早ぇよ!!」
その狼狽自体、寿也の言葉が図星だと言っているようなものだった。
*
一方、妹ではなく弟だけれども、歳が離れているだけにそれと同じくらい愛情を注いでいる兄もいる。
「あ、にいちゃん!」
学童保育所の敷地に入った途端、壁当てをしていた少年がボールを放り出して駆け寄ってくる。飛び込んでくるちいさな身体を、泉は抱き上げるようにして受け止めた。
「ただいま、陸兎。ちゃんと良い子してたか?」
「うん!宿題もやって、いま野球のれんしゅうしてた!おれも4年生になったら、にいちゃんと同じチームにはいるんだ!」
ニコニコと嬉しそうに語る弟が堪らなく愛おしい。これが歳の近い兄弟だったら、痴話喧嘩ばかりしていたのだろうか。どういうわけか某関西人の姿が思い浮かんで、泉は苦笑した。
ふと、弟がしゅんと俯く。
「……どうした?」
「でも……リトルってお金、かかるんだよね」
「!」
4年前……両親がおよそ合意とはいえない形で離別したとき、弟はまだ物心つかない歳だった。泉が横須賀シニアを辞めた事実は当然知っているにしても、それが経済的事情によるものだったとまでは教えていない。いやでも、直接ではないにせよ一度それを聞く機会はあったのだ。1年前、吾郎がうちを訪ねてきたとき。
──中2のとき、親父がどっかの女と駆け落ちしてさ。それから一気に生活が苦しくなって、野球どころじゃなくなった。普通の部活動ならまだしも、シニアって結構かかるからね、お金。
(余計なこと、言っちゃったかな)
「おまえはそんな心配、しなくていいんだよ」
「でも……」
そう、本当に心配しなくていいのだ。──己の夢を叶えながら、家族を幸せにする道を、自分は選べるかもしれないのだから。
「いいんだ、本当に。──兄ちゃん、プロになるから」
「プロ!?にいちゃん、プロ野球せんしゅになるの!?」
「甲子園、行ったらな」
これでも吾郎と寿也に次ぐチームの要として、存在感を示してきたつもりだ。明日の決勝、甲子園──全国区でその地位を保つことができれば、プロの指名も受けられる。泉はそう信じていた。
「じゃあおれも、プロめざす!」
「おっ、言ったな?きつい練習もしなきゃだぞ」
「がんばるもん、おれ!」
「ふふ……そうだな、頑張ろうな」
弟の頭をくしゃりと撫でて、泉は笑った。
*
我らが主将もまた、まっすぐに帰途についていた。通い慣れた通学路に、自分と同じ学生服姿は極めて少ない。そういえば今は夏休み真っ只中だったんだと、改めて思い至った。
(明日、勝てば甲子園……。甲子園、か)
対するは全国トップの名門・厚木学園だ。しかしそれを相手取ってなお、甲子園出場を現実の可能性として捉えられるところまで来た。
憧れだった甲子園。毎夏、試合中継を見ては胸を熱くしていたものだ──中学2年までは。
でも中学の、軟式野球部で、国分の情熱に同調してくれる者はひとりとしていなかった。あの頃の自分は、主将失格だったと思う。
今でも、ふと思う。そんな自分に、甲子園出場校の主将という栄誉を背負う資格はあるのだろうかと。たまたま今の場所で、仲間に恵まれただけの自分が──
「──国分?」
不意の呼び声に、国分の意識は現実に引き戻された。半ば反射的に振り向くと、果たしてそこに立っていたのは懐かしくも心苦しい姿かたちで。
「城島、松岡……」
「よ、よぉ」
「中学ぶりだ……な」
どこかぎこちない会釈をする、私服姿のふたりの少年。──果たして彼らは、中学の頃のチームメイトだった。国分のやり方についていけず、部を去った複数人のうちの、ふたり。
思い起こしていた過去を改めて突きつけられたように思いながらも、国分は努めて笑顔をつくった。
「そう、だね……久しぶり。何してるの?」
「あー……模試の帰り」
「模試終わって勉強する気になんなくて、これからゲーセン寄って帰るとこ」
どこか気だるげに答えるふたり。変わってないなと思いつつ、そうかと得心もする。世の一般的な高校3年生は、もう受験モードなのだ。野球部のなかった夢島学園に入学した時点では、自分もその団塊に組み込まれる予定だったのだが。
「おまえは練習だろ。──見てたよ、試合。テレビでだけど」
「え……」
「楽しくやってるみたいじゃん。あんな凄いエースまでいてさ」
「………」
「──ごめん、」
気づけば、謝罪の言葉が溢れていた。ふたりの顔に揃って困惑が浮かぶ。
「ごめん、って……何が?」
「中学のとき……僕があんなふうに暴走しなければ、皆がやめたりすることもなかった。それなのにまた、僕はまた懲りずに主将をやって、野球を楽しんでて──」
今さら謝罪などして、何にもならないのはわかっている。たとえば彼らに「じゃあ野球やめろ」と言われても、従うことはできないのだから。
それでも、決勝前日のこの邂逅は運命だと思った。過去に決着をつけ、未来に進むための──
「……謝るのは、俺らのほうだよ」
「え……」
顔を上げた国分が見たのは、どこか寂しそうな笑みを浮かべたかつての友人たちの顔だった。そこに怒りの色は欠片もない。
「おまえが真剣に頑張って、練習メニュー考えたり、自分も努力してるの見てたのにさ……俺たち、なんの助けもせずに文句垂れてただけだった」
「そ、それは!僕が、皆の気持ちも考えないでやってたことで……」
「いや……実はちょっと、クラっと来てたんだ。俺らだけじゃなく、皆も」
「えっ……」
国分の方針に従うかどうか、皆、揺れていた。当初は国分といちばん親しかった彼らが決心すれば、きっと野球部は結束できた。
それなのに結局、楽なほうに逃げてしまった。甲子園出場やプロになれるわけでもないのにと言い訳をして、国分を否定した。
「俺らがあのとき、一歩踏み出してれば……おまえがあんな思いすることもなかった」
「だから……本当にごめん」
「………」
言葉を失い、ただ彼らを見つめることしかできない国分。それでも彼らは、3年分の空白を埋めるように言葉を紡いだ。
「今さら謝ったってなんの償いもできねーけど……でも、国分が今頑張ってるのは、本当に嬉しいから」
「明日、あの厚木学園と決勝なんだろ。──勝てよ。そしたら俺ら、甲子園まで応援に行くからさ!」
「塾サボってな」
「そこはなんとかする!」
「────、」
「ありがとう……ふたりとも」──ただそれだけを返すのが、今の国分には精一杯だった。万感の想いは、到底そのひと言だけでは表しきれない。
でも、悔いることはない。彼らとはこれからまた、幾度でも言葉をかわす機会があるのだから。
──それぞれの想い交錯する決戦前夜が、涼やかな風とともに過ぎていく。
そして、朝が来る。