──神奈川県大会 決勝戦当日
「なっ、なんだよこりゃあ!?」
本田家の入居するマンションのダイニングに、長男・吾郎の叫びが響き渡っていた。
彼の視線の先には、ほかほかと湯気を立てるどんぶりがドドンと存在感を主張している。衣がサクサクになるまで揚げられた豚肉が、ふわふわの半熟卵に絡め取られていて──
「朝っぱらからカツ丼かよ!?いくら食べざかりのゴロちゃんとはいえ、これはハードだぜ……」
「なに言ってんの、相手は天下の厚木学園様なのよ!?験担ぎくらいしなきゃ、勝てっこないでしょ!」
十年アメリカで暮らしたとは思えぬ、典型的日本人的発想を披瀝する桃子。これには開いた口の塞がらない吾郎であるが、出されたものを食べないという選択肢もない。ガツガツと搔き込んでいると、母とは反対方向から声がかかった。
「吾郎。今日の試合、
「ん、そーだぜ」
「──おと……父さん」
新聞を読んでいた父──茂治が、苦笑とともに顔を上げる。
「いよいよおとさんも卒業か……。仕方ないとはいえ、可愛げがまたひとつ消えちまったなぁ」
「あ、あのなぁ……うっかり後輩の前でおとさんって言っちまったせいで、笑われちまったんだぞ。流石に直しどきだっての」
「まあ、そりゃそうか」
それでも、まだ完全に定着していないのが可愛げといえば可愛げか。今から12年前、ちょうど横浜スタジアムでの試合を観に来ていた幼い吾郎の姿が、茂治の脳裏に浮かぶ。
「……勝ってこいよ吾郎、あのときみたいに」
「ん……もちろんだぜ」
早くもカツ丼を食べ終わり、立ち上がる。そして吾郎は、背後の棚に立て掛けられた写真に目を向けた。そこに写っているのは桃子……否、彼女によく似た女性だった。
「行ってくるぜ……おかさん」
*
「寿也、今日午後から雨になるって。試合、大丈夫かしら?」
祖母の言葉に、歯磨きをちょうど終えた寿也はいつもと変わらぬ調子で応じる。
「そうみたいだね。でも決勝は10時からだし、甲子園まで日もないから大雨にならない限りはやると思うよ」
「そうなの……。せっかく交通の便も良いし、応援行こうかと思ってたんだけどねぇ」
「はは……気持ちは嬉しいけど、今日はいいよ。その代わり、甲子園には学校が招待してくれるって」
「まぁ、そうなの」
昨日、南雲が話していた。もしも甲子園出場が叶えば生徒、そして野球部メンバーの家族の旅行費用を学校で負担してくれる──部が発足したときには歯牙にもかけなかっただろう大人たちも皆、今では自分たちに多大な期待をかけているのだ。
「寿也、頑張ってな」
「ありがとう、おじいちゃん。──じゃあ、行ってきます!」
*
予報通り、横浜スタジアム上空はどんよりとした雲に覆われていた。試合開始までまだ時間はあるものの、既に観客席はぽつぽつと埋まりはじめている。
その渦中に、夢島ナインはいた。
「これがハマスタか……」
「フェンス高っけぇ……」
その光景に気圧される者がいる一方で、
「予報じゃ午後からってなってましたけど、これだといつ降ってくるかわかんないっすね……」
「ちぇっ、再試合になんかなって水差されたらたまったもんじゃねーぜ」
「おっ、雨だけにか?」
「面白くないぞ関西」
「っ、せめて"人"つけろやおチビ!」
いつもの軽口の叩き合いも、互い、ひいては皆の緊張を解きほぐそうとしているようにも感じられる。
「──夢島学園高校、シートノック始めてください!」
「!よし、行こう!」
国分の号令に応とこたえ、一斉に飛び出していく一同。数少ない南雲が直接バットとボールを持つ機会である。試合前のこれだけはやってもらいたいと皆で説得し、なんとか習得してもらったのだ。最終的には彼が懸想している桃子の名まで出す羽目になったが。
ともあれ行う側も受ける側も、7度目ともなれば慣れたものである。スパッと放たれた鋭い打球を受け止め、渡すべき相手へ流していく野手たち。
(良かった。皆、緊張が動きにまで影響してない……。
感心していたらば、あやうく自分のところに来たボールを取り落とすところだった。「ボサっとするなキャプテン!」と泉に叱られ、反省する国分。
彼ら野手勢に限らず、我らがエースもまた調子は上々だった。
「ッ!」
投じられたストレートを受け止め、思わず喉を鳴らす寿也。すかさず「ナイスボール!球走ってるよ!」と声をかける。これならたとえ厚木学園の強打者たちが相手といえども、十分に通用するはずだ。
(吾郎くんの球で抑えて、僕らが打つ。それだけだ)
それだけで、勝てる──自らに言い聞かせるように、寿也は心のうちで繰り返した。
不意に、厚木市側スタンドが騒がしくなった。練習の手を止めて相手ベンチを見れば、
(来たか……!厚木!)
好敵手と見定めた一流の高校球児たちが、じっとこちらを見つめている。その瞳はひとりを除いてまるで精密機械のように冷たく無機質だ。
彼らが中心に戴く"女帝"もまた、その例外ではない。彼女との相剋を思い起こし、吾郎は眉を顰めた。
「いよいよだね、吾郎くん」
「……ああ」
もはや、言葉は要らない。全国の舞台に駆け上がるのは、厚木か夢島か。
決着をつける、ただそれだけだ。
*
厚木学園側のシートノックも終わり、いよいよ試合開始も目前。
「選手、整列!」
「っしゃあ、いくぞ!」
真っ先に切り込んでいく吾郎。彼を追って、仲間たちも走り出す。合計10人──厚木学園の層の厚さとは比較にならないが、であるからこそ夢島ナインはその予定調和の快進撃を阻むダークホースとしての期待を一心に受けていた。
「っしゃぁーッス!!」
負けてたまるかとばかり声を張り上げる夢島ナインに対し、厚木の面々は儀礼的にしっかりとした声を発しているだけで、極めて冷静そのもの。よく躾けられた連中だ、と吾郎は改めて思った。本当は
ともあれ、こちらも切り替えなければ。──先攻は相手方がとった。吾郎のピッチング、その如何で試合の主導権が決まる。
*
『1回表。厚木学園高校の攻撃は、1番ライト、矢尾板くん──』
アナウンスのあと、厚木側のブラスバンドが演奏を始める。それを右から左に聞き流しながら、公的には夢島のいちサポーターでしかない川瀬涼子はベンチで黙考していた。
(予想通り、打順も変更なしね。一巡目は完全に抑えてほしいところだけど……)
対するこちらは、殆どの試合で
その分、残る面々にはいつも以上に打ってもらわねば困る。特に、吾郎に代わって主軸たりうる"彼"には。
「──あっ、いたいた。涼子ちゃーん!」
「!」
思考をとりやめた涼子が振り向くと、人波をかき分けるようにして子連れの女性が近づいてきた。片割れが幼児でもまったく違和感のない風体──彼女が出場選手の母親だと言われて、一体どれだけの人間が納得するだろうか。
「モモコさん!心配しましたよ、なかなか来ないからどうしたのかと」
「ごめんねー、ちはるがぐずっちゃって」
「涼子ちゃん、ちわーす!」
「ふふ。こんにちは、真吾くん」
「こら真吾!こんにちは、でしょ?お兄ちゃんの悪いところばっかり真似するんだからもう……」ため息をつきつつ、「試合、まだ始まったばかりよね?」
「ええ、ちょうど──」
ちょうどそのとき、フィールドから「バッターアウト!」と声が響いた。吾郎がみごと1番打者を打ち取ったのだ。
「うわあ、にいちゃん凄い!エクセレントゥ!」
「ほ、ホントにねぇ……。久しぶりに生で見たけど、あんなに速くなってるなんて……」
涼子が南雲を通して学校に取り置きしてもらった特等席である。桃子、そして父と兄に倣って野球を始めたばかりの真吾には、とりわけこの一戦を目に焼きつけてもらいたかった。
「っ!」
「ストライィク、バッターアウト!」
矢尾板に続き、吾郎はみごと渡嘉敷をも三振に打ち取った。「っしゃあ、ツーアウトー!!」と声を張り上げる。仲間たちもそれに応えた。
一方で──してやられた側の厚木学園は、未だ冷静そのものだった。吾郎の直球が眉村を凌駕する球速である以上、予想しえた展開ではあったのだ。
だが……このままやられっぱなしでいるつもりも毛頭ない。
「お疲れ様。──どうだった?」
「チッ……どうもこうも、ことごとくオレの予想外してきやがった。マジムカつく」
無論、ぼやくばかりでは厚木のプレイヤーは務まらない。
「やっぱり、コースの指定は100パー捕手だな。矢尾板のときもそうだったけど、こっちの得意不得意、きっちり把握してやがる」
「確かに、アウトローに寄せてきてる風だったね」
「そゆこと。じゃ、あとヨロシク〜」
悔しがっていたかと思えば、飄々とした態度でベンチに戻っていく。その切り替えの速さが渡嘉敷の良いところでもある。とはいえ苦笑を堪えつつ、彼は打席に向かった。
『3番──キャッチャー、小森くん。背番号、2』
(来たな……小森!)
厚木学園のクリーンナップの先鋒を任された、最も小さき少年。然してその実力は、高校野球に関わる者なら誰もが知っている。
ツーアウトとて油断はならない、ここが正念場なのだ。吾郎は内心の緊張を覆い隠すように、鋭い笑みを浮かべて彼を迎えた。