伸びててありがてぇ…ありがてぇよ……
初回、夢島学園高校──先制。
その結果は、常勝無敗を誇る厚木ナインにとって久方ぶりの辛酸だった。
「──してやられたわね、静香」
「………」
マネージャー兼トレーナーの早乙女泰造の言葉に、現場(傍点)監督・早乙女静香は眉を顰めた。妹の表情の変化に気づいていながら、泰造はなおも続ける。流石に声は潜めて、だが。
「阿久津くんを
「……言いたいことはそれだけかしら、
あらゆる感情を押し殺した結果の、きわめて冷淡な声だった。
「オーダーについては総監督にも事前に提出し、承認を受けています。あなたに口を挟む余地はありません」
「……そう、そうね。失礼しました、
実の兄を沈黙させた静香だったが、その心は空模様よろしく曇りに曇っていた。まったく予想できなかったことでないとはいえ、阿久津がこうもしてやられるとは。頼みのナックルが通用しないのでは、如何に小森のリードがあってもフォローしきれまい。
「──市原くん、ブルペンに入りなさい。米倉くんは受けてあげて」
「えっ……は、はい」
阿久津とは二番手を争う関係ゆえ、この状況も内心おもしろがっていた市原だったが、こうも早く出番が回ってくる──まだ"可能性"の段階だが──のは流石に予想外だった。とはいえ拒否する理由もないため、米倉ともども即座に立ち上がったのだが。
「………」
とりわけ大柄なふたりが去ったことで、空間の拡がったようにも錯覚される厚木ベンチ。その中心にあって、眉村はじっとフィールドを観察していた。その鋭い瞳には未だ、如何なる感情も浮かんではいない。
*
『5番、セカンド国分くん。背番号、4』
鎌実戦以来、久方ぶりにクリーンナップの一角に戻った我らが
(とはいえ、ツーアウトか……)
(ナックルはそう何十球も投げられる球じゃない。できるだけ投げさせて、粘ろう。それで目を慣らせれば、一石二鳥だ)
無論、ここと思えば積極的に打ちにいく。諦めない姿勢こそ、自分の何よりの長所なのだから。
(……って、この人は考えてるんだろうな)
国分のその思考は、小森には完全に読み取られていた。もとより似たタイプということもあり、自らに仮託して考えやすいのだ。
その結果として小森がとった手段は、誰もが予想だにしないもので。
「えっ!?」
「な……!」
「た、」
「立ったぁ!!?」
堂々たる敬遠。阿久津は流石に渋る様子を見せたものの、捕手に立たれてしまえば従わざるをえない。国分は唖然としたまま、頭の横を流れていく棒球を見送るしかなかった。
「ど、どういうつもりやねんアイツ!?」
「佐藤を敬遠するならわかるが……まさか1点とられて怖気づいたのか?」
「──そんなタマじゃねーよ、
敵同士という立場もあり、じっくり交流はできていない吾郎だが、それは確信をもって言えた。
と、吾郎に続いて小森の真意を読みとったのは、思わぬ人物で。
「へぇ。見かけによらず存外に大人だねぇ、小森くんは」
「!」
「どういうことです、先生?」
皆の視線が集中する中で、南雲は訳知り顔で答えた。
「天下の厚木学園様が打たれるのが怖くて敬遠っつーわけにはいかないだろ。でも粘られて体力を削られるのを避けて……ってんなら、一応言い訳は立つ。オトナの面子ってのをよく分かってるよ」
「……なるほど……」
名門に限らず、多くの関係者によって支えられている野球部。であればこそ球児たちの意志だけでフィールドは動かせない。よく言えば自主的、悪く言えば放任状態で動いてきた夢島ナインには、頭では理解できても受け入れがたい現実であった。
「ボール!フォア!」
「………」
如何なる事情であれ、結果は行為の延長線上に自動的に生まれ出るものでしかない。国分が一塁に送られ、出番は次の打者に移る。
『6番、レフト丸山くん。背番号、7』
彼がネクストバッターだから──それも敬遠理由のひとつだった。ツーアウトである以上、バントで走者を進めることはできないと。
要するに、丸山では
「丸山ぁ、打てるぞー!!」
「練習思い出せー!!」
皆が声援を贈り、丸山もそれに応えようと必死にバットを振る。しかし泉と寿也がなんとか捉えた魔球を、丸山が初回から打てるものではない。現実は、非情であった。
「ストライク、バッターアウト!スリーアウトチェンジ!」
「っ、」
3つ目のアウトをとられ、丸山ばかりか一・二塁のふたりも強制的に撤収させられる。攻守交代──先制点という果実を得たからこそ、ここはなおさら難しい。追うより追われる立場のほうが、プレッシャーはかかるものなのだ。
ただその要となるエースはというと、ようやく出番だとばかりに揚々と飛び出していくのだった。
*
とはいえ2回表は、なんの波風も立たずに吾郎が三者凡退で終わらせた。下位打線が相手では、ジャイロフォークを使うまでもない。
「っしゃあ、順調順調!」
ひゅう、と口笛すら洩れる。吾郎の調子が良いのを嬉しく思いながらも、寿也は表向き皆の油断を戒めた。リードはまだ1点──何らかの不測の事態により、引っくり返されることもあるかもしれない。
できれば、さらに差を拡げたいところではあるが。
『7番、ファースト寺門くん。背番号、3』
(7番か……)
すっかり定着してしまった打順である──吾郎が4番にいる、という前提があればの話だが。
吾郎が動いた分、彼より後を打っていた面々はひとつずつ位が上がるはずだったのだ。しかし5番になった国分を"第二の1番打者"と定義付けたがために、送りバントを得意とする丸山が続く6番に抜擢された。事実上、下から二人目にまで押しやられてしまったというわけだ。
見た目通り、寺門は大人である。大人だが、仕方ないと笑って済ませられるほどくたびれてもいない。ここは「当たれば飛ぶ」と形容される持ち前のパワーを活かして、成果を出す──!
しかしそう上手く事が運ぶほど、阿久津・小森バッテリーは易しい相手ではなかった。
「っ!」
かろうじて命中をとったものの、打球がふらふらっと高く上がる。
「──アウト!」
「くっ……」
平凡なフライボールでは、容易く捉えられてしまう。──相手は才能も経験も格の違う、選びに選び抜かれた精鋭たちなのだ。
『8番、ライト児玉くん。背番号、9』
「っしゃあ!」
一方、児玉は良くも悪くも何も考えていない様子で意気揚々と打席に入ってきた。皆に「頑張れライパチー!」「練習思い出せライパチー!」と声援を贈られると、流石に眉を顰めていたが。
(ちっ、うっせーな。だからせめて寺門よりオレを先にしろっつったんだろーが!)
対ナックルなら、自分には実績がある。榎本のそれを本塁打にしたという実績が。本音ではクリーンナップに入りたかったが、流石に寿也や国分の領域は侵せない。ここはしっかり打って、
「うらあぁっ!」
──ぶんっ、
「──ストライク、バッターアウト!」
「あ、あるぇ〜?」
考えずに打つべしとぶん回した結果、あっさり三球三振にとられてしまうのだった。
「……まぁ、アレで初っ端から打てるほど甘かないよな」
泉の呟きに、皆がうんうんと頷く。我らが主将などは頭を抱えていた。勝ち負けを度外視していた同好会時代は、あれで"エースで4番"だったのだ。いやその頃に比べたら、彼も随分上手くなってはいるのだが。
そこへいくと、真なる"エースで4番"はどうか。
「っ!」
「ストライク!」
手首の軽い故障により、彼はきょう事実上打者としては開店休業状態にある。ちっ、と舌打ちをこぼしつつ、軽く汗を拭った。
(あの本田くんが9番なんて、妙だと思ったけど……。やっぱり、万全の状態ではないみたいだね)
それでも、この男からは何が飛び出すかわからない。慎重に、それでいて大胆に──必ず打ち取って、この大戦を仕切り直す。
ツーストライクまで追い込み、3球目。ナックルをアウトロー、最終的にボールになるコース。やや難しい要求だったが、阿久津は自信満々に頷いた。これしきのことを成し遂げられないようでは、厚木学園の投手は務まらない。
そして、際どいところめがけて投じられたナックル。ただでさえ無軌道な球だ、ツーナッシングで見送りという選択はできまい。しかし手を出した時点で、吾郎の敗けだ。
果たして吾郎は、なんの躊躇もなくスイングを仕掛けようとしている。(しめた、)──小森はそう思った。
しかし、
──かぁんっ!
「っ!?」
小森も阿久津も、揃って目を見開いた。空振りをとれないにしても凡打になることは間違いないと思っていたのが、痛烈な当たりを見せたのだ。あわや場外かと思われたものの、
「ふぁ……ファール!」
惜しい。それが衆目の一致するところだった。彼を9番に置いた夢島の面々は、なおさら驚くばかりだったけれど。
「な、なんちゅー当たりや……」
「手ぇ抜く気ゼロだな……わかっちゃいたけど」
まだ送りバントやスクイズの指示なら、不承不承従わせることもできただろう。しかしあの吾郎が、いかに手首を労るよう言っても、何もせずただ三振を待つなどありえないのだ。
「いいのか佐藤、アレ?」
「……仕方ありません、今は」
複雑な表情で、そう呟くしかない寿也。こうして彼らが見守っている間にも、吾郎は半ば綱渡りのようにナックルをカットしていく。
「ファール!」
「……っ、」
ふぅ、と息を吐きながら、バットを構え直す吾郎。その口元が不敵に歪むのを見て、阿久津は思わず唸らされた。
(こ、このヤロー……!9番にまで打たれて堪るかよ……!)
既に1点、先制されてしまった。
一方の小森はそんな静香の非情さに思うところありながらも、阿久津を可能な限り永らえさせるための方策を考慮していた。
(これ以上粘られたら、降ろされる前にどのみちバテてしまう。……皆を信じて、ここは切ろう)
そうして、新たなサインを出す。驚いた阿久津は咄嗟に首を振ろうとしたが、彼の真意をすぐに理解した。彼はチームと同じくらい、自分を含めたひとりひとりのことを考えてくれている。
(打たれたら一緒に責任取ってくれよ、こもりんっ!)
そして──投球。心身ともナックルに備えていた吾郎は、思わず目を剥いた。
(スライダーだぁ!?でも香取のに比べたら、どうってこと……ないぜっ!)
──かあぁんっ!
鋭いスイングが、湾曲する白球を捉えた。小森がマスクを外して立ち上がる。
(センターオーバー!原田くん……いや、)
「──矢尾板くん!!」
既に矢尾板は走り出していた。持ち前の俊足で、韋駄天のごとくフィールドを疾走する。なおも飛翔するボールめがけて、
彼は、高く跳躍した。
「!!」
そのグラブが、みごと白球を手中に迎え入れる。確信とともに走り出していた吾郎は、ただその光景を呆然と見つめることしかできなかった。