夢島学園高校、一点先取。
これは夢島メンバーに歓喜を、そして帝仁メンバーに衝撃を与えていた。ただ、双方の首脳を除いては。
「おいおい何やってんだよ……。しっかりしてくれよ帝仁……」
こんなことをベンチ──それもチームのではなく、純然たる休憩用の──に腰掛けて零すのは、夢島顧問の南雲だった。勝敗など決まりきっているはずの試合で初っ端躓いているのだ、さっさと帝仁に勝ってもらってこの面倒な仕事を終わらせたい、今の彼にはそれしかなかった。
一方の帝仁トップは、焦るでも怒るでもなく冷静な眼差しをグラウンドに向けていた。
(やはり侮れんな……。ま、来年に向けていい薬になったろ)
実力は相応にあるし練習量もこなしている帝仁ナインだが、投手の葦原を筆頭に格下を侮りがちな傾向にある。野球に限らずジャイアントキリングは往々にして起こりうるものだ。巨人が慢心していれば、その可能性はより大きなものとなる。
「っ、くそ!!」
「落ち着け葦原!……予想外だったけどまだ一点だ。あのピッチャー、かなりできる。ほかはなんとしても抑えよう」
「……当たり前だ!」
肩をポンポンと叩かれ、葦原は深く息を吐き出した。最高に屈辱的だが、だからこそこれ以上相手のいいようにはさせられない。
『7番セカンド、児玉くん』
「児玉、つづけーっ!!」
吾郎が発破をかける。それに対して何も返さず、児玉は打席に立った。
──結果は、
「ストライク、バッターアウト!スリーアウトチェンジ!!」
「っ、」
立て直した葦原の隙のないピッチングを前に、児玉はなすすべなく打ち取られてしまった。
「あー、ええ感じやったのにのぉ」
「し、仕方ないよ!それよりこのリード、絶対に守り抜こう!」
初回での得点というだけで誇るべき成果なのだ。吾郎と他のメンバーで実力が隔絶している、ならば彼を最大限活かすために全力を尽くさなければ。
揚々と守備につく夢島ナイン──ある一部を除いて。
*
そこからはまさしく投手戦の様相を呈することとなった。2回はどちらも得点はおろか走者も出せぬまま終わり、3回表。
『──4番ピッチャー、本田くん』
ツーアウトランナーなしで打席に立った吾郎。途端、葦原の表情が険しくなる。先ほどの借りを、今ここで返す──これまでのどんな敗戦より、彼は雪辱に燃えていた。
(落ち着けよ葦原。最悪こいつを塁に出しても、次で打ち取れば)
一球外すようサインを送る柿本。頷いた葦原がワインドアップの態勢から初球を投げ込んだ。
「ボール!」
「………」
バットを振るそぶりもない。ボールを投げ返しつつ、柿本は思う。
(あからさまなボール球には反応しないか……)
試しにもう一球、ボール。今度はやや際どいところを攻めたつもりだったが、やはり吾郎は完全に見送った。
さすが剛腕投手なだけあって、選球眼も抜群のようだ。柿本はもう吾郎をただの同好会のなんちゃって投手とは思っていなかった。あるいは葦原以上の逸材かもしれない、と。
(でも……オレと組んでる限り、最強は葦原だ)
葦原に来夏こそは、甲子園で投げさせてやる。そんな決意とともに、柿本は決め球を要求した。一瞬目を見開いたあと、葦原は小さく頷く。
そして、大きく振りかぶった。
放られる白球。そのスピードは高校球児としてはなかなかのものであり、打者は全力ストレートが来るものだと思うだろう、普通なら。
(このスピードの乗ったスライダーが、葦原の真の決め球だ!)
ストレートと思って打者がど真ん中にミートさせようとした時点で、すべてが決まる。柿本は勝利を確信していた。
──甘いぜ。
「……!?」
不意にそんな声が、聞こえた気がした。
むろん、打者がボールを前にして無駄口を叩くはずがない。空耳したのだ──バットがボールに直撃する、あの美しくも残酷な音を。
「な……!?」
「あ……」
一瞬、時が止まったようだった。ただ走り出した吾郎と、外野陣を除いては。
どこまでも飛んでいく白球は──遂に、
「──ほ、ホームラン!」
審判の上ずった声が球場に響き渡り、ふたたび時が動き出した。
「2点目……!」
「ぼ、僕らがあの帝仁相手に……」
「やった、やったでぇ!!」
ダイヤモンドを一周する吾郎が、彼らに向けてガッツポーズをとる。そしてベンチに戻ってきたところで、皆に揉みくちゃにされた。
「やるやんけ風雲児!」
「へへ、まぁスライダーは見慣れてるからな。ってかフーウンジって何?」
そんなやりとりをしている塊を傍観しつつ、寿也はふぅと息を吐いていた。彼がどんどん得点を積み重ねていくことに、心のどこかで安堵を感じている自分がいる。彼があの頃と変らず野球において才覚を発揮していることに──同時に、あの頃と違って仲間に囲まれつつあることに。
(僕は……何を考えてるんだ)
彼のあんな姿を何度でも見てみたいと、そう思ってしまう。祖父母に引き取られることになる前だって、そんなことはなかったのに。
そうこうしているうちに5番の寺門がアウトになり、ふたたび攻守交代となる。寿也は黙ってグローブを填めると、仲間たちに続いてグラウンドへと飛び出した。
*
3回裏、横浜帝仁側の攻撃。既に上位打線からクリーンナップまでことごとくノーノーに抑えてきた吾郎である。この局面は何事もなく進むだろうと誰もが思っていた。
実際7番の柳田と8番の柿本は手も足も出ず三振にとられた。吾郎の投球は至って順調そのもの、スピードもコントロールもまったく申し分ない。
「これ、ワイら守備じゃ出番ないんちゃうか?」
(いいトコないな、俺……)
今のところ攻守ともに活躍のない泉は、内心三宅の言葉に首肯しつつ落胆していた。むろんそれだけ吾郎の投球が凄まじいということでもあるし、この場はそれで勝てるならよしとするほかない。
『9番ピッチャー、葦原くん』
相手投手の葦原が初打席に立つ。吾郎に本塁打を喰らった直後は動揺していたようだが、女房役からの言葉で少なくとも表面上は落ち着いているようだった。
「………」
先ほどとは攻守を入れ替えた形での、投手同士の睨み合い。それでも吾郎が彼を打ち取るであろうことを誰もが確信していた。帝仁側ですらそうだ。葦原は投手としては優秀だが、打撃にはそれほど軸足は置いていない。彼には守備の要としての役割が期待されているのだ。
しかし今、自分はそれを果たせていない──少なくとも葦原自身はそう思っていた。攻撃でも手も足も出ないのであれば、ただの役立たずだ。
(なんとか、ここで……!)
同じ投手である以上、葦原の考えなどお見通しだろう吾郎が一球目を投じる。際どいところだったが、判定はボール。
(次はきっちり納めてやるぜ……!)
振りかぶって、もう一球。やや高め内角に放られた白球、葦原は思いきりバットを振った。
──しかし、
「ッ!?」
バットにはなんの感触もなかった。白球がミットに納められ、主審がストライクを宣告する。
「っし……!」
吾郎が喜び、葦原が歯噛みする。これまでの1〜8番と結局は変わらないのか──そう思われた矢先、異変が起こった。
「うッ……あ゛、あ゛ぁっ!?」
突然、うめき声をあげて蹲る国分。「君、どうした!?」と主審が声をかけるが、彼はまともに応えることすらできない。吾郎が慌ててタイムを要求し、内野手たちが国分のもとに集まった。
「国分、どうした!?」
「ッ、う、うぅ……っ」
浅い呼吸を繰り返しながらどうにか返事をしようとする国分に引導を渡したのは、吾郎に次いで駆けつけた児玉だった。
「グローブ外せ、国分」
「え──」
国分は左手首を抱えるように抑えている。その意味は明らかだった。もはや誤魔化しはきかないと悟り、彼は児玉の言に従った。
「う、わ……」
三宅が血の気の引いた声を発する。それも無理はなかった。──国分の左手首が、赤黒く腫れ上がっていたのだ。
「じ、ジブンいつの間にこんな……。うまいこと隠しとったんか?」
「馬鹿、そんなこと今はどうでもいいだろ」ぴしゃりと言う泉。「とにかく冷やさないと……。──すみません、少し時間をいただきたいんですが」
泉の言葉に主審は頷き、帝仁ベンチへと走っていく。練習試合ということで、その辺りの融通は利くのが不幸中の幸いだった。
事情を聞いた若松からはすぐ了解が得られ、試合は一時中断となる。しかしそれが再開に至る保証など、もはやどこにもなかった。