『4回の表、厚木学園高校の攻撃は──6番、レフト石松くん』
6点ビハインドという、前代未聞の事態の渦中にいる厚木ナイン。2巡目も半ばを過ぎてようやく1点などという野球は、彼らの流儀にはまったく反する。たとえ下位打線といえども、ここで打たねば明日はないという思いだった。
(初球はストレートでいこう、)
ジャイロフォークを濫用すると、後が続かない──寿也の方針を少しばかり慎重すぎると思う吾郎だったが、渋ることなく頷いた。振り逃げという形ではあったが、小森などは初っ端からただの空振りでは終わらせなかったのだ。
(元々オレは直球に命預けてきたんだ──下位打線くらい、打ち取ってみせるぜっ!)
鋭い直球が放たれる。もとより100マイルオーバーの痛烈な
「っ!」
「ストライィク!!」
それでも果敢にスイングを仕掛ける石松だったが、初球は盛大に空振ってしまう。「ナイスボール!」という声かけとともにボールが返されるのを認めて、石松は小さく舌打ちした。
(うきょー……やっぱ速ぇ。ムカつくけど、イイ球投げるのは間違いねぇぞぉ)
認めよう、こいつは難敵だ。その一方で1点や2点のビハインドでない以上、上位打線とクリーンナップの面々に任せきりというわけにはいかない。
思考回路の量りづらい魚類のような顔立ちに、確かな闘志が滲み出す中──2球目。
「うきょぉっ!」
「!」
奇声とともに放たれたスイングが、ボールの側面を掠める。捉えきれずストライク判定になるかと思われた矢先、石松は強引な手管でボールを前方に転がしてしまった。
「っ!?」
投補の中間地点……やや捕手寄りか。その絶妙な位置が、即断即決の権化ともいえる吾郎にすらほんの一瞬の躊躇を与えた。
その隙に、石松は一気に一塁まで駆け抜ける。次の瞬間には寿也を制して自ら打球処理にかかった吾郎だったが、
「……セーフ!セーフ!!」
すんでのところで滑り込み、石松は厚木打線の命脈を繋いだ。尤もベンチから称賛の声がかかることもない──当事者さえもそれを当然としている、
「ようやく、ノーアウトのランナーが出たわね」
「ここからよ」
早乙女兄(姉)妹のやりとりと同時に、次の打者がコールされる。──7番ショート、関。
その特徴は明らかだった。
(前の練習試合のときから、この人は繋ぎ役に徹してる。打順は下がったけど、あのときよりさらに技術に磨きがかかってると見ていい)
確実に送ってくる──野手たちがぐっと包囲網を狭めたところで、プレイ。
と、ここで予想だにしないことが起こった。俊足を売りにしているわけでもない石松が、堂々と二盗を仕掛けてきたのだ。
(んなっ……)
バント警戒で低めにボールを入れているとはいえ、捉えきれない速さではない。捕球と同時にすかさず腰を浮かせ、寿也は遊撃手に送球した。
(よし刺せる!)
捕球と同時に素早くタッチしようとした泉であったが……どういうわけかその手は、完全に空を切った。
「うきょ〜っ!」
「えっ……」
塁線上に目を向ければそこには、
(い、いつの間に戻ったんだよ……!?)
今のプレイに関わっていない者たちから見ても、そのUターンは異常だった。猛ダッシュから速度を殆ど緩めないまま身体を捻って方向転換し、跳ぶようにして逆方向へ。
(っ、揺さぶってきただけ……本当に盗む気はなかったんだ。ここは、バッター勝負──)
サインに頷きつつも、
(わかってんよトシ……。わかってっけど……)
左手側から規則正しく響く、「ギョ、ギョッ、ギョギョッ」という掛け声。わざとなのか無意識なのかは本人のみぞ知るところだが、リードに動くたびにこんな声を出されてはたまらない。バッターへの集中も削がれるというものだ。
「っ!」
「ボール!」
結果、寿也が指示したコースよりわずかに逸れてしまった。しっかり入ればぎりぎりストライクをとれるゾーンだったのだ。思わず、舌打ちが洩れそうになる。
「ギョギョ、ギョ、ギョ……」
(くっそ鬱陶しい……。このまま集中できねーでフォアボールなんてなったら、こいつらの思う壺だ)
吾郎の苛立ちを、寿也もまざまざと感じ取っていた。
(振り回さちゃダメだ吾郎くん……。最悪バントを決められても、それで二塁なら何とか……ん?)
そこで不意に気づく。吾郎がやたら一塁に
(まさか、)
刹那、吾郎はボールを投じた──寺門めがけて。
「ッ!?」
咄嗟にその球を受け止める寺門。と同時に、石松も塁に飛び込んでくる。「セーフ!」と、塁審の声が響いた。
(本田が、牽制球を……)
明らかに盗塁してきそうな相手でも、殆ど牽制を仕掛けることをしないのが吾郎のやり方だった。自慢の速球で打者を打ち取れば良いと。刺すかどうかの判断は、捕手にゆだねている。
それをしないのは、吾郎が
しつこく牽制を入れつつ、もう一球。今度はバントの構えをとってきた関だったが、ボールの軌道を見るや素早くバットを引っ込める。
「ボールスリー!」
「んなっ……」
(今のはスイングとれるだろ!!)──思わずそう抗議の声をあげかけたが、すんでのところで呑み込んだ。バントを仕掛けて、ボール球だったとき……どこで引っ込めればストライク判定を取られないか、関は熟知している。伊達にバント職人を自称してはいないのだ。
続く5球目──今度こそストライクを取れるかバントを決められるか、あるいは四球を出してしまうか……。神経を使う局面で、なおも石松の存在が視界の端をちらつく。それと同時に、そのリードがもはやリードと呼べないほどに拡大していることに吾郎は気づいた。気づいてしまった。
(今なら刺せる……!刺せりゃバントも、関係ねえ──!)
その誘惑に一度取り憑かれてしまえば、もはや牽制ではなくアウトをとるための送球に心が切り替わってしまう。──結果、吾郎は一塁めがけて速球を放ったのだ。無論、100マイルそのままを投げるほどに愚かではないが。
「!?」
しかし言うまでもなく捕手の経験がない寺門にとり、それは脅威と感じるに十分すぎる速さだった。無論、野手としての神経が身体を捕球へと駆り立てる。しかしそれ以上に、ボールが速すぎたのだ。
その結果。寺門のグラブは、むなしく空を切ったのだった。
「……!」
しまった──そう思ったのもつかの間、待ってましたとばかりに石松が二塁へと走る。ボールデッドにはならなかったものの、慌てて児玉が拾いに走った頃にはもう手遅れだったのだから、結果は同じだ。
「っ、すまん本田!」
「!いや……オレのほうこそ」
今のは名実ともに自分のミスだ。牽制で暴投などという、初歩的な失敗──相手の策によるものとはいえ、まんまと嵌められた自分に腹が立つ。
「ドンマイ本田、寺門も!バッター集中!」
背後から我らが主将の声がかかる。こういうとき、よく通る独特の甲高い声は便利だ。フィールド全体に響き、当事者以外の鼓舞にも繋がる。
(仕方ない……下位打線相手には温存したかったけど)
ここは確実に打ち取るしかないと、寿也はジャイロフォークの指示を出した。たしかにここは、出し渋りをしている局面ではない。6点先行しているとはいえ、1点でも差を縮められるのは後が怖い。
(せいぜい空振れ、バント名人!)
ふたたびバントの構えをとる関だが、ジャイロフォークの急落下には対応しきれず空振りをとられてしまう。
(これでフルカウント……。もうバントはないか?いや、相手は名手だ。ツーストライクでも仕掛けてくるかもしれない)
(──もう一球、フォークで決めよう)
二・三塁間で、なおも奇声を洩らしながらリードを続けている石松。苛立たないといえば嘘になるが、先ほどよりは視界に入りづらいこともあって、吾郎は前方にのみ集中しようと心に決めた。ここで反省もなくかき乱されるようでは、エース失格だ。
果たして気を鎮めた吾郎の放つジャイロフォークは、サイン通りの軌道から落下に入った。打ち取れる──そう確信したところで、
バントの構えを行っていた関が、バットの先端を大きく下にずらした。
「!!」
落下したボールが先端を掠め、そのまま三塁側にころんと転がる。大きくリードしていた石松は既に三塁へ飛び込もうとしている──阻止できるかはわからない。この状況で、フィルダースチョイスだけは避けなければ。
「っ!」
ボールを拾い上げた寿也は躊躇なく一塁へ送り、関をアウトにする。ようやく獲ったワンナウト──とはいえそれは、相手からしても織り込み済みの結果だったが。
「ふぅ、」
ひと息つきつつベンチに戻ってくる関に、小森など一部のメンバーが労いの言葉をかける。彼らも少年なので、仲間に対してその程度の情はあった。
とはいえ関はそれには適当に応じただけだった。眼鏡の奥に得意げな光を称えながら、渡嘉敷を見下ろした。
「……なんだよ?」
「いや、別に」
言葉とは裏腹に、フンと鼻を鳴らしつつ関は指定席に腰を下ろした。──渡嘉敷が2番で、自分は7番。同じバントを得意とする者として、前者が格上と評価されているのは誰の目にも明らかで。
しかしその渡嘉敷より先に、
そして続く8番・原田も、厚木スタメンの面目躍如とばかりにストレートを捉えて外野へ飛ばす。駆け込んだ草野によって捕球はされてしまったものの、その隙を突いて石松がいよいよ生還に成功した。
(っ、1点返された……。でもツーアウトだ、ここを抑えて乗り切るしかない)
続く9番は投手、市原。厚木は分業制をとっており、投手に打力は期待されていない。その例外として存在する、"怪物"──眉村健というエースもいるが。
とはいえ市原も、リトル・シニア時代はエースと打線の中軸を兼ねていたのだ。吾郎の速球にしつこく喰らいついてカットし続け、ジャイロフォークを引き出すところまでは成功した。
「ストライク、バッターアウト!」
「っ、」
流石にあの落差を捉えきることはできなかった。しかし市原はしてやったりの表情を浮かべ、彼を打ち取ったはずの吾郎は苦々しい表情を浮かべていた。
「お疲れ本田、よく1点で抑えたよ!」
「俺らでもっと取ってやるから、裏はベンチでのんびりしてて」
「!……ああ」
わかっている──もう序盤ではないのだ。いよいよアクセルを全開にしてくるであろう厚木ナインを、どこまで抑えきれるか。ジャイロフォークとて、全知全能ではないのだ。
不意に走った右肘への違和感すらも、その想いに呑み込まれていった。