【完結】夢島ナイン   作:たあたん

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降り出した雨

 

 4回裏──夢島ナイン、1番から始まる好打順。

 1点返されたとはいえ、未だ5点ビハインド──焦ることはない局面だが、1点取り返すにはこれ以上ない巡り合わせだ。

 

 草野がバントでボールを転がし、脚を恃んで出塁する。ある意味力技だが、それゆえ防げないときはどうあっても防げない。

 尤もそれは、小森たちも織り込み済みのことだった。同じような1番打者を擁している以上は。

 

『2番、ショート泉くん』

 

 続く泉。長打を除けば何でもこなせるアベレージヒッター、前打席では犠打でうまく草野を三塁まで進めてみせた。今回どう出てくるかは、彼が市原をどう評価しているかにもよるが、果たして。

 

──泉が選んだのは、後者だった。

 

 既に二盗を決めていた草野が、打者の犠牲と引き換えに三塁へ進む。泉自身もあわよくば出塁(セーフティ)を狙っていたのだが、厚木ナインもそこまで甘くはなかった。

 

「ふぅ……」

「ナイバン、泉!」

 

 心の底から、賛辞を述べる我らが主将。バッティングには一家言ある以上、泉とて本音では打ちたいに決まっている。そこで不平も洩らさずきっちりバントを決めてくれるのだから、彼は貴重な2番打者だった。

 

「……やっぱ警戒しすぎなんじゃねーか?阿久津と違って、ここまでそんなとんでもねー球投げてるわけじゃねーじゃん、あの市原って子」

 

 口を挟む南雲──名目上は指揮官なので当然のことではあるのだが──。素人目に見れば、それは無理もない感想だった。阿久津や眉村のような、容易に触れることのできないような魔球を、彼は持っているわけではない。それは確かな事実だった。

 

「……草野が三塁まで進んで、こちらは高確率で追加点が入れられる状況です」バットを手に、寿也。「ここからは、バントだって容易じゃないかもしれない」

 

 寿也の呟きは、まるで言霊のように的中してしまった。スクイズを指示され、疑問を抱きつつも従った三宅だったが、あえなく打ち上げてしまったのだ。

 

「か〜っ……」

 

 悔しがりながら去っていく三宅を横目で見送りつつ、小森は考える。

 

(泉くんも三宅くん()も、慎重策で来た……。少なくとも夢島(向こう)のブレーンは、市原くんのタイプをきちんと理解してるってことだ)

 

 市原を侮り、余勢をかって攻めかかってくれるのがいちばんではあった。相手が打てる打てると思っているうちにじわじわと点差を詰めていく──それが巧く填まれば、ある意味眉村以上に強力な手札(カード)になるのが市原という投手なのだ。

 

『4番、キャッチャー佐藤くん。背番号、2』

 

 さて、ここが正念場だと小森は思った。ツーアウト三塁──犠牲フライは封じたが、夢島では吾郎に次ぐ実力者となった佐藤寿也はそれだけで安心できる相手ではない。ヒット性の当たりを打たれたら、ここまで躍起になって阻止してきた1点を挙げられてしまう。

 

(頼むよ、市原くん)

 

 女房役の指示(サイン)に、力強く頷く市原。小森と組んで、ここまで力を活かしてやれてきたという自負が彼にはある。眉村という圧倒的な怪物には及ばずとも──この一戦は、自らの手で抑えきってみせる、と。

 

「──!」

「ストライィク!!」

 

 初球、勢いのあるストレートが小森のキャッチャーミットに吸い込まれた。バットを振る素振りも見せず、それを見送る寿也。

 

「な、何で振らねーんだアイツ!?」

佐藤(あいつ)なら、打てないストレートじゃないだろうに……」

 

 続く2球目。今度はチェンジアップだったが、これも寿也は見送った。ストライク、ツー。

 

「ああ、追い込まれちゃった……」

「だぁあ、振らんかい佐藤!振らな当たらんで!!」

「………」

 

 皆が騒ぐのもわかる。しかし迂闊に手を出せば不本意な結果になりかねないことを、寿也は承知しているのだ。草野を還すため、今はその球筋を慎重に見極めようとしている──

 

「ボール!」

「………」

 

 ウエストを挟み、4球目。

 

(ここは、決めに来る……!)

 

 問題は、それが如何ような球種で、コースで襲ってくるのか。阿久津と異なり、それを先読みするのが困難な相手だった。

 であればそのパターンを掴むまで、粘るしかない。ここまでの見送った3球はその第一段階。──ここからが、第二段階だ。

 

「っ!」

 

 続く落差のあるフォークに、寿也は手を出した。吾郎のようにジャイロ回転はかかっていないし、球速もその比ではないが──

 

「ファール!」

 

 大きく逸れて観客席に入った打球。背後のベンチからは「かぁ〜惜しい!」と声が聞こえてくる。

 惜しいことなど何もない。狙い通りだ──ファールにするという1点においては。

 

(何とかカットできた……。迂闊に引っ張ったら、捉まってたな)

 

 打たせて、とる──市原という投手を、象徴するような言葉だ。バットには当たる。しかし思い通りには打たせず、フライやゴロで仲間に処理させる。相手がその単純なからくりに気づいたときには、もう手遅れという寸法だ。

 

(このテの投手は、ランナーを出すことを厭わない。それが、得点に繋がらない限りは)

 

 逆説的に、寿也のことは何としてでも打ち取ろうとしてくる。勝利の糸口を見い出せるとしたら、そこしかない。

 ゆえに寿也は、それから徹底的に粘った。カット、カット、またカット──10球近くが投げ込まれてもなお、決着の見通しは立たない。

 

「……アイツ、カット打ちの才能もあったんか?」

 

 三宅が思わずそう呟くほどには、寿也はボールを巧く扱っているように見える。これならヒット性の当たりだって出せるのではないか。

 しかし寿也とて、好んでカット打ちに励んでいるわけではない。カットまではできても、確実に草野を還せるようなヒットが打てる球はまだ来ていなかった。

 

(もうすぐ10球か。ペース配分を考えても、そろそろ決着をつけたいところだけど……)

 

 正直、この打者(佐藤寿也)を相手には手詰まりかもしれない。勝っているときなら、1点を献上してでもさっさとケリをつけるという手もあるが。今この状況でそれは許されないから、市原に長期戦を強いているのだ。

 いずれにせよ、打ち勝たれればここまでの10球弱が無駄になる。敬遠も視野に入れるべきかと考えはじめた矢先、ぽたりと濡れたものが頬を滑り落ちた。

 

「!」

 

 思わず顔を上げれば、もうひと粒──

 

 

「やだ、もう降ってきちゃった。予報じゃお昼過ぎからって言ってたのに〜」

 

 もう、と口を尖らせながら、傘を差す桃子。スポーツバッグの他には手ぶらの涼子に予備の折り畳み傘を差し出そうとするが、

 

Don't worry(お気遣いなく)、"これ"がありますから」

 

 そう言って、鞄からカッパを取り出す涼子。色は案の定鮮やかな緋色である。この徹底ぶりは大したものだと、桃子は感心すら覚えた。

 

「私たちはいいけど……選手の皆は大変よね、カッパ着て試合するわけにもいかないんだから」

「えぇ。まあ、ピッチャーは出塁してるとき限定で、ウィンドブレーカーは着られますけどね」

 

 とはいえ、問題は選手の心身のことにとどまらない。雨粒が落ちるのは彼らの足元──フィールドもまた、同じだからだ。

 その影響が、如何様に現れるか。場合によってはこの5点のアドバンテージが失われることだってあるかもしれないと、涼子は手のひらに力を込めた。

 

 

 *

 

 

 

「──ファール!」

 

 雨が強まる中で、なおも粘り続ける寿也。──まだ試合も半ば、これ以上は市原を追い詰めかねないと小森は判断した。

 

(この一球でだめなら、敬遠だ)

 

 最後の一球の指示を出し、ミットを構える。──全力投球。市原はやや驚くそぶりを見せたが、ストレートにだって自信がないわけではない。その緩急によって、自分は数多の強打者を打ち取ってきたのだ。

 

(速球には慣れてるんだろうが……せいぜい気持ちよく、でかいの飛ばしてくれよ!)

 

 振りかぶって──投げる!

 その、これまでにない速度でまっすぐに迫る球に、寿也は目を見開いていた。

 

(ストレート!?これなら……!)

 

 打てる!そう確信して、寿也はフルスイングを仕掛けようとした。

 しかし──ここで雨粒たちが、悪意なき悪戯を彼に仕掛けた。濡れたバットが、寿也の手のひらとの間でつるりと滑ったのだ。

 

「ッ!?」

 

 咄嗟に手からすり抜けるのを耐え、振り切る。しかしそれが、狙い通りのバッティングにならなかったことは確かだった。

 高く打ち上がったボールはそのまま、左翼手の射程圏内に落下した。

 

 

 *

 

 

 

『5回の表、厚木学園高校の攻撃は──1番、ライト矢尾板くん』

 

 中盤戦、先の夢島ナインと同じくトップバッターからの好打順である。アナウンスされた矢尾板が打席に入るものの、外野──比喩的な意味での──の第一の関心は、空模様のことに移ろっていた。

 

「だいぶ降ってきちゃったわね……。これ、中止とかにならないの?」

 

 尤もな疑問だとは思いつつ、涼子は小さくかぶりを振った。

 

「これくらいなら。余程土砂降りになれば、分からないですけどね」

「そう……。サンフランシスコにいたときは雨なんてめったに降らなかったから、新鮮よね、こういうの」

「そこです、問題は」

「?」

 

 野球人生の大半をサンフランシスコで過ごしてきた吾郎は、雨の中の実戦に慣れていない。ぬかるんだフィールド、滑るボール──冷えていく身体。そのすべてが、大いなるデバフとして襲いかかるだろう。

 

「ストライィク、バッターアウト!」

 

 それでも矢尾板のことは、ジャイロフォークを駆使することでふたたび三振に抑えた。続く小柄なバント職人・渡嘉敷。

 

(矢尾板を出さなかったのは大きい。ここは直球勝負で決めよう)

(ったく慎重だな、トシ……。ま、逆らわねーけど、よっ!)

 

 もとより直球勝負主義を貫いてきたのだ。それを曲げて習得した魔球、使わずに済むならそれに越したことはない。

 

「っ!」

「ストライィク!」

 

(ちぃっ……まだ速くなるのかよ)

 

 内心、悪態をつく渡嘉敷。初回よりさらに球威が増している──同じ投手経験者としては面白くないが、ここで自分まで凡退したら、唯一吾郎に打ち勝てるクリーンナップの面々を殺してしまうことになる。

 速すぎて、触れるのも苦しい直球──厚木マニュアルとしては、このような場合にどうするか。

 

 二球目。渡嘉敷は躊躇なく、バントの構えをとった。ぎょっとする吾郎だが、バットの下をすり抜けたボールは無事にキャッチャーミットへ納まった。

 

「ストライクツー!」

「………」

 

 目を眇めながらも、無言でバットの握りを整え直す渡嘉敷。バントさえ空振り、ツーナッシング。ここは外さず、一挙に決着を。

 

「──らぁっ!!」

 

 力いっぱい、揚々と投じられた一球。それに対する渡嘉敷は──ふたたび、バットを水平に下ろした。

 

(スリーバント!?)

 

 これは寿也も驚いたが、予想外ではあれ成功するとは思えなかった。空振り、補邪飛、ファール──仮にそれらをくぐり抜けたとしても、こちらの打球処理がもたつかなければアウトをとられて終わりだ。それでもなお、何かが起きるのを渡嘉敷は狙っているのか。

 果たして彼は、その第一関門をくぐり抜けた。ボールを当てることに、成功したのだ。

 

(っ、くそ、跳ね返しすぎた!)

 

 速球の勢いが強すぎて、三塁寄りのプッシュバントになってしまった。歯噛みしながらも全力で駆け抜ける渡嘉敷。そんな彼を打ち取るべく、三宅が打球を拾いにかかろうとするが、

 

「んなっ!?」

 

 地面に叩きつけられたボールがバウンドせず、そのまま沈むように地面にめり込んだのだ。一瞬の硬直。はっとした三宅が慌てて屈み込み、送球に及ぶが、渡嘉敷は寸分の差で一塁に滑り込んでいた。

 

「せ、セーフ!セーフっ!!」

 

 塁審の声が、雨の中に響き渡る。それは厚木ナインにとって福音であり、夢島ナインにとっては大いなる凶報であった。

 

 

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