薬師寺の3ランホームランが、夢島側に大きく傾いていた大いなる流れを厚木へと引き戻した。
歓声が響き渡る中、ベンチへ戻る立役者を仲間たちが迎え入れる。如何に冷静で機械的な厚木ナインといえども、これには称賛の嵐を飛ばした。
「よくやった、薬師寺!」
「さすが、ウチの4番だな」
「まぁ、ド真ん中に入れてきたからな」
とはいえ、技量だけであれを完璧に捉えきることはかなわなかっただろう。無論、運ではない。運などというものを、名門厚木のプレイヤーは恃まない。
しかし運でないならば、精神論で説明するほかないとも思った。心で勝ったからこそ、打ち勝った。両腕に色濃く残る痺れが、それを証明している。
一方の早乙女兄妹は、薬師寺を評価しながらも冷静だった。
「ようやく崩せたわね。この分だと、市原くんに任せられるかしら」
「……まだ2点ビハインド、油断はできないわ。それに──」
「それに?」
「………」一瞬の沈黙のあと、「何でもないわ」
そう……本当に何でもない。マウンドに立ち尽くす吾郎の姿に一瞬、亡き兄が重なって見えたなど、あるはずがないのだ。
*
無情にも時は流れ、打席は次々に回っていく。続く大場は粘り打ちの末に直球を捉えてこの試合初安打を遂げ、続く石松も四球を選んで出塁。7番・関にはバントでふたたび得点圏に走者を送られてしまうものの、なんとか原田を打ち取りそれ以上の得点はなくこの回を終えた。
「あ、危なかったなー……逆転されるか思たでぇ」
「……おい、」
三宅の軽薄な言葉を、すかさず咎める泉。その責任を誰が一番感じているか、言うまでもないことなのだ。むろん三宅とてそんなことはわかっていて、少しでも場を和ませようというつもりだったのだが。
「ごめん本田、佐藤……僕が小森の打った球捕れてれば、あそこで悪い流れを切れた」
「それは、国分のせいじゃ……」
「わかってる。手柄も失敗も、ひとりが背負うべきものじゃない」
プレーの結果は、皆で背負うべきもの。これまで何度も繰り返し言ってきたことだ。
「だから本田も、堂々としてろよ!」
「!……あぁ、そうだな。サンキューな、キャプテン」
フッと笑う吾郎。──彼の心は、強い。鋼のようだ。そんなことは誰もが知っていた。
しかし雨の中の苦しい投球は、確実に彼を蝕んでいた。
*
埋められた点差は、ふたたび拡げるしかない。そんな思いから気合を入れて打席に入り、みごとに安打を放った国分。さらに彼が二盗を決め、丸山の送りバントが成功したことで、いったん沈みかけた夢島ナインはふたたび湧いた。
「おっしゃ、1点いけるでぇー!」
「寺門、犠牲フライでいい!決めろ!」
皆に煽られ、気合を入れて打席に臨む寺門。──しかしパワーヒッターとしてはそれなりの実力を秘めている彼に対し、市原は真っ向からぶつかるようなことはしなかった。
「っ!」
果たして寺門は打球を外野に飛ばしたものの、思いのほか浅く終わってしまい、国分にタッチアップを敢行させるには至らなかった。
(っ、上手いこと手玉に取られてんな……。佐藤先輩の言う通り、いちばん難しい相手かもしんねえ)
次は児玉だ。先ほどのようなラッキーヒットを期待するしかないが、あれは完全な運というわけではなく、デタラメな阿久津のナックルが相手だったからこそできたことだ。──そこまで織り込み済みで、相手は国分の出塁と二盗、そして丸山の犠打までを許したのだろう。生還さえさせなければ、こちらの攻勢に意味はないのだから。
「っしゃあ、もう一発かましたらぁーっ!!」
そんなこととはつゆ知らず、意気揚々と出陣した児玉であったが、
──パシッ、
「アウト!」
「うえぇっ……」
中途半端に当ててしまった球は粛々と
*
そこからは膠着状態が続いた。互いに所々の出塁は許すものの、新たな得点は許さぬまま6回、7回と試合は進んでいく。
「ストライィク、バッターアウト!」
「っ、くそ……!」
9番ながらいつも通り意気軒昂に打席に立った吾郎だが、スイングが噛み合わずあえなく三振にとられてしまう。
「かあぁーっ、本田でもあかんのかいな……!」
「……本田、やっぱりまだ手首の調子悪いのかな?」
「どうしてそう思うんだ?」
「いや……何かスイングがあいつらしくないというか、乱暴な気がして」
市原が難しい球を次々投げ込んでくるのは間違いないが、いつもの吾郎のスイングなら当てるくらいはできるはずだ。それが手も足も出ずに三振というのは、どうにも解せないものがあった。
「……それなら、まだ良いけど」
「佐藤?」
寿也は何か、別のことを心配しているようだった。果たしてそれが何なのか、彼は口にしようとしない。
続く草野がツーアウトながらもバントを成功させて出塁し、2番・泉に期待がかかる局面。
(俺が単打で出ても、こいつらは三宅を確実に落としに来る……。信じてやりたいけど……)
ちら、と後方を見遣る。泉の思いなどつゆ知らずと言うべきか、サークルに入った三宅はワーワーと誰よりも大きい声を張り上げている。
(……やっぱ、俺が草野を還せるような一発、打つしかないか)
ため息混じりにそう決心し、バットを握り直す。──しかしそのわずかな仕草を、既に何打席も見てきた捕手はじっくり観察していた。
「──っ!」
そして市原の投げた球を、泉は思いきり引っ張って打った。ファールラインぎりぎりの打球。切れるな、切れるな──
「フェア!」
やった!走り出す泉、それと同時にわぁ、と歓声が上がりかかる。確実にヒット……いや草野の足ならホームまで帰れると、誰もが思った。
彼ら、以外は。
「──!」
ライン上を転がったボールに、すかさず矢尾板が飛びつくまでは。
皆が息を呑む中、彼は当然のようにそれを拾い上げ、一塁めがけて送球する。慌てて飛び込む泉だったが、
「………」
「アウト、アウトォ!!」
先ほどの何倍もの歓声が、厚木側から響き渡る。──この結果に、夢島ナインはただただ唖然とするほかなかった。
「う、嘘だろ……?」
「ライトゴロ、って……」
打った泉には当然、何の瑕疵もない。持ち前の韋駄天ぶり……そして打球に対する予測の正確さによって、矢尾板は高校野球では極めて珍しい成果を挙げたのだ。
「……しゃーねえ、チェンジだ。このまま逃げ切ろうぜ」
「!あ、ああ……」
淡々とグラブを手にし、ベンチから出ていこうとする吾郎。9回に及んでリードを持っている投手として、その態度に不審なものはない。
ただ皆、吾郎の様子に言い知れぬ違和感を覚えたのも事実だった。"逃げ切る"なんて言葉、普段の彼なら使わないはずだが。
それでも彼の言う通り、このリードを守ったまま決着をつけることが一番なのだ。そのためには、彼に投げぬいてもらうよりほかになかった。
一方で、
「米倉、受けてくれ」
「!……何?」
最後となりうる攻撃が始まるというところでの、眉村からの思いもよらぬ依頼。思わず目を剥く米倉だったが、次の瞬間には失笑めいた笑みを浮かべていた。
「冗談だろ、9回だぞ?市原は今んとこ無失点に抑えてるし、表で逆転して裏で終わりにできるだろ。どっちみちおまえまで出る必要は──」
「もういい。西城、頼む」
「なっ!?」
これには米倉も慌てた。眉村の目は本気だったのだ。困った彼は助けを求めるように女監督を見たが、
「……好きになさい。米倉くんの言う通り、あなたの出番はないでしょうけど」
「………」
義務的に一礼すると、眉村は米倉を率いてブルペンへと向かっていく。──このエースの真意を理解しているとすれば、彼の女房役しかいなかった。
*
9回表──延長戦の可能性を除けば、勝つも負けるも最後となる攻撃。
その
(またあのえげつないフォーク来んのかな……。でもここで打てないと、立場がないどころの騒ぎじゃねーよな)
2点ビハインド──ワンナウトからでは、如何に小森と薬師寺に出番が回ると言っても返しきれるかどうか。この試合に敗けたら、厚木学園はおよそ十年ぶりに甲子園出場を果たせなかったことになる。それはここにいる皆の、将来にかかわる。
(っつっても、打つ手がねー……。雨で多少コントロール乱れてるみたいだし、四球狙うか?)
初球、いきなりボール球が入ったのを見ながら、考える渡嘉敷。どのみち二塁打以上は望めないのだから、それが一番確実な方法ではある。
そんなことを考えていると、二球目が来た。
「!」
咄嗟に手を出す。準備不足もあってファールになってしまったが、渡嘉敷は(お、)と思った。
(今の、まぁまぁ
これなら捉えられる、そう思った。雨のせいでコントロールに苦心しているから、いつもの投球ができていないのだろう。その推測は実に一般的なものだったけれど、かのエースと相対し続ける女房役の見立ては異なっていた。
(やっぱり吾郎くん、変だ。雨や疲れのせいだけじゃない……!)
とりわけそれが顕著に現れるのは、投球の直後だ。一瞬歯を食いしばったかと思うと、ふうっと大きな呼吸をする。まるで、痛みを堪えているかのような──
確証はない。それゆえ寿也は、吾郎の不調を指摘すべきかどうか悩んだ。仮にそうだとして、あと3アウトとればこの試合を勝利で終えられるのだ。吾郎に何らかの故障が発生しているとして、ここでマウンドから降ろす選択肢があるものか。吾郎とて、それを認めるはずがない。
(ここで終わらせるしか、ない)
そのためにもと、寿也はジャイロフォークを要求した。吾郎もまた、躊躇いなく頷いてみせる。バッテリーの思いは一致しているのだ、間違いなく。
問題はただひとつ、至ってシンプル。──精神と肉体は、まったく別物であるということ。とりわけ吾郎のような、鋼のこころを持つような者は。
「っ!」
顔を歪めながら、一球を投じる吾郎。今さらだがジャイロフォークの強みは、通常のフォークにはないジャイロ回転による球速球威の維持と、打者の手元に来るまで殆どストレートと見分けのつかない軌道を走ることだ。
しかし今、吾郎の異変によりそのふたつの強みは失われてしまっている。
──果たしてそれは、誰の目にも明らかなフォークだったのだ。
「な……っ!?」
「──!」
(いける!)
球速のないフォークなら、どうということはないとばかり。コンパクトにバットを振った渡嘉敷は、みごとボールを左中間に落としてみせた。
「うわぁ、先頭出ちまった……」
「………」
『3番、キャッチャー小森くん。背番号、2』
この局面で、クリーンナップ。正直、情勢はかなり厳しいと言うほかなかった。万全のジャイロフォークですら、彼はなんとか喰らいついてみせたのだ。
(ただのフォークじゃ、下手すると場外に叩き込まれかねない……。それならまだ、ストレートのほうが望みはある)
その考え自体は間違いではない。ジャイロフォークを除く吾郎の変化球は、並とは言わないまでも決して一流とはいえないもの。ならば球威は落ちていても、勢いのあるストレートで押したほうがいい。
しかし間違いではないからこそ、その思考は同じ捕手である小森に読まれていた。
(今の本田くんにはもう、特筆すべきものはない。……この試合、貰ったよ)
傍から見れば、相変わらずの速さを誇る一球。瞬きの間に大きく距離を詰めてくるそれを、
──小森は、容赦なくスタンドに叩きつけた。
「な……」
「あ……」
同点打。
逃げ道は、なくなった。