『4番、サード薬師寺くん。背番号、5』
9回表、走者なし。──未だ、ノーアウト。
今の吾郎がこの状況から、彼を筆頭とする厚木打線を無得点に抑えきれる可能性など、皆無に等しい。
「……っ!」
それでも闘志を漲らせ、懸命に一球を投じる吾郎。凡百の投手に比べれば、十分な速球ではある。
ただ──トップスピードさえも捉えた薬師寺には、つまらない棒球としか思えなかった。
「ふん──っ!」
鋭いスイング一発で、吾郎の速球はあっさりと弾き飛ばされた。
「!!」
すわ本塁打かと、誰もが思った。実際、薬師寺の腕ならばそれも十分に可能だっただろう。
しかし降り続く雨粒のかすかな重みは、打球の軌道をわずかに狂わせた。
(……落ちる!)
果たしてボールは、壁面に命中してフィールドの内側に落下する。それを拾い上げた丸山が、強肩でもって一気に三塁まで送球した。
「っ!」
本塁打にできないならせめてと三塁をうかがっていた薬師寺だったが、その光景を前に不承不承二塁で足を止めた。無理をしてアウトをとられたら、元も子もない。
とはいえ、理屈と感情は別物である。
「ちっ……こっちがラクにしてやろうってのに、運が良いんだか悪いんだかわかんねえな」
「!………」
薬師寺としては独り言のつもりだったのだろうが、その言葉はいちばん近くにいた泉の心に深く突き刺さった。
(本当に良いのか、これで?)
傷つきながらも吾郎は、己の信念を曲げることなく全力投球に臨んでいる。それに比べて、自分たちはどうか。──もうバックを守れないなどと言っておきながら……ただ、なんの役にも立てていないだけではないか。
(何がプロになるだ。こんなんじゃ甲子園に行けたって、何も誇れねえ)
(こんな姿、陸兎に見せられねえ……!)
泉の想いを他所に──続く大場が単打を放ち、石松がスクイズを成功させてしまう。
「うきょーっ、勝ち越しだァ──!」
「きみ、急に大声を出すんじゃない!」
「……すんましぇん」
審判に叱られた石松は置いておくとして……この試合、ついに勝ち越されてしまった。これが裏だったら、試合終了だ。
さらに、続く関。ワンナウト二塁の状況──定石ならヒッティングだが、彼は送りバントを為した。
「っ、寺門!」
「くっ……!」
寺門が拾いに行き──カバーに入ろうとする吾郎を制して、国分が一塁を踏む。
「アウト!」
「……!」
呆気にとられる吾郎に対し、国分が叫ぶ。
「本田!カバーは僕がするから、投球に集中して!」
(本田をこのまま投げさせていいのか、僕にはわからない……。でも今、そうやってできることをするしかないじゃないか……!)
守備についた野手にできるのは、来た打球を処理することしかないのだから。
『8番、センター原田くん。背番号、8』
8番・原田。率直に言って、厚木のスタメンの中では最も影の薄い存在である。吾郎を相手にしては、一度も安打を放てていない。
だからこそここが好機だと、彼は意気軒昂だった。逆に、今の吾郎からさえ打てないのなら、自分にはスタメンの資格がないと。
(……あと1点とられたら、この試合、もう終わりだ)
裏は三宅──クリーンナップからのスタートではある。しかし市原のピッチングを前に、出塁はできても1点を挙げるに至っていない自分たち。それを裏で2点以上とれる保証など、まったく、どこにもない。
(このまま、終われば……)
そんなことを思いかけて……はっとする。自分は今、何を考えていた?
(吾郎くんは全力を尽くしてる……。でも、僕は──)
彼を降ろすなら降ろすと決断できるなら、こんな出口のない懊悩を続けることもない。それすら決められず、ずるずるサインを出し続けている自分。
──だってまだ、責任を果たしてねえ。
(これがきみの責任の取り方だっていうなら、僕は……僕の責任の取り方は──)
「っ!」
そうしている間にも、試合は進む。吾郎の直球を原田が捉え、叩きつけるようにして転がすことに成功した。
(まずい、抜け──っ)
4点目がいよいよ現実になるかと思われたそのとき、
「──ぉおおおおおおっ!!」
雄叫びとともに飛びつく小柄な影。彼はボールをしかと握りしめたまま、三塁方向へ自らも転がった。
「い、泉っ!?」
「三宅っ、四つ!!まだ間に合うっ!!」
「!」
戸惑いながらも、三宅は泉の思いを白球とともに受け取った。本塁めがけて駆け込まんとする大場。
「還して、堪るかいィ──っ!!」
吾郎の、泉の──望みをかける皆の想いに、応えるためにも!
三宅の投じたボールを、寿也はしかと受け止めた。たとえ吹っ切れていないと言っても、ここで失態を犯すなどありえない。それでもほぼ同時に、大場がスライディングを仕掛けてきて──
「………、」
判定は、果たして。
「──アウトォっ!!」
首の皮一枚、繋がった。
*
9回裏──2点入れれば勝利、1点で延長戦へ。無得点ならば……敗北。
命運分かれる最終局面。その口火を切る三宅の手は、震えていた。
「三宅、出ろ!!」
「サヨナラのチャンス作ってくれ、トリプルスリー!!」
(わ、わーっとる……。わーっとるけど……!)
「っ!」
焦る三宅は初球から手を出してしまい、あえなく凡打に終わる。完全なる空回りと言うほかない。
そしてそれは、続く寿也も同じだった。
「ストライィク、バッターアウト!」
「っ、………」
三振。この結果には、夢島ベンチもざわめいた。
「おいおい、佐藤が三振って……」
「手玉にとられるのは、わからなくもないが……」
「………」
(トシ……)
『5番、セカンド国分くん。背番号、4』
ツーアウト、走者なし。1点入れるにももはや絶望的なこの状況で、我らが主将は闘志を込めた瞳でマウンドを睨みつけた。
(僕が打てなきゃ終わる……。いや、打てたとしても──)
もう、無理なのか。そう零す弱気な自分が、心の奥底にもたげる。──思えば3年前もそうだった。自分の無理のために空中分解し、形ばかりとなったチーム。終始相手の良いようにされる中で、国分も最後にはもう無理だとあきらめた。
「ストライィク!!」
「っ、」
あのときもこんなふうに、バットを振ることさえできなくて。
(でも……でも、今は──)
「国分、打てぇ──!!」
「野球はツーアウトからだぞ、キャプテン!!」
今は皆が……仲間たちが、後ろから発破をかけてくれる。
「くっ!」
「ファール!」
危うくゴロを転がしてしまうところだったが、かろうじてラインを越えた。追い詰められたが……まだ、終わっていない。
「国分……頼む──!」
「……!」
(そうだ、)
(もう一度僕に、本当の野球をやらせてくれた本田のためにも──!)
こんなところで、終われない!!
──かあぁぁぁんっ!!
刹那、響き渡ったひときわ激しい打突音。スイングに力が入りすぎていたためか、バランスを崩した国分はその場に尻もちをついた。
「や、やば……っ!」
当てたはいいとして、転けてしまうなんて。ジャストミートした感触があったというのに、これではせっかくのチャンスをフイにしてしまう──
慌てて顔を上げ、打球を探す国分。しかしそこで、彼は異変に気づいた。──無いのだ、ボールが。
「えっ、だ、打球は!?」
打球は果たしてどこに消えたのか、その答えはすぐに出た。「ここだー!」と、誰かの声が響いたのだ。
声はスタンドからだった。白球を掲げる、観客の姿。ファール?いや──
「国分、塁まわれ!」
「!」
「わかんねーのか、ホームランだよホームラン!!」
「いやオマエも見失っとったやんけ」
ホームラン……ホームラン。何度も口の中で繰り返して、ようやくその意味を理解する。それが単に1点追加したというだけにとどまらない、この試合の敗北を遠のかせる一発だということも。
立ち上がると同時に、国分は吼えていた。あらゆる懊悩も、この瞬間だけは歓喜に塗りつぶされる。それは彼ひとりに限った話ではなかった。
「よくやったキャプテン!」
「さっすが、オレらのキャプテンだぜ!!」
皆にもみくちゃにされる国分。本当なら喜びあまった吾郎あたりに関節技をキメられてもおかしくなかったが、今の彼にそこまでの元気はなくて。
だからこそ彼は、自ら吾郎に歩み寄った。
「本田……。"責任"って、言ったね」
「!……ああ」
「それなら、僕にもあるよ」
主将として、皆を野球という競技に巻き込んだ責任。そしてかなうはずもないと思っていた自分のひそかな夢を、本田吾郎という幸運に流星に託した責任が。
「だからおまえひとりを、ヒーローにはしない」