『4番、サード薬師寺くん。背番号、5』
1点リードされたところで、夢島ナインにとってはさらなる危機。ツーアウト三塁という状況下、単打でも許せばさらなる追加点を献上する結果になるのだ。今の吾郎に、それを防ぐ手立ては残されてはいない──
「〜〜っ!」
歯を食いしばりながら、吾郎は一球を投じる。また初球は見逃してくれるかと思ったが、薬師寺は躊躇なくスイングを仕掛けてきた。
「ストライィク!」
「!………」
微妙にタイミングがずれたことで、空振りをとることはできた。とはいえそれは、今の吾郎が最高速度を出せていないことと同義でもあって。
(それならそれで、調整するまでだ)
むしろ打ちやすくなったのだ。小森と同様──棒球を待つまでもなく、本塁打にするつもりで薬師寺は構えた。
(くっそ……。そう簡単に、打たせて、堪るかぁ──ッ!!)
二球目も、全力投球。球速の代わりに、コントロールが多少なりとも甘くなっていることは否めない。いずれも兼ね備えていた普段の吾郎のそれは、ある意味奇跡の産物だったのだ。
薬師寺は容赦なく、その弱点ともいえないような弱点を突いた。
──かあぁんっ!!
「ッ!?」
吾郎が思わず肩を揺らしてしまうほど、鋭い一発だった。打球はスタンドを大きく飛び越え、場外に消えていく。
「……ファール!」
結果はその通りだったが──首の皮一枚繋がったとさえ、安易には口にできないような状況だった。
(微妙に軌道がずれたのが僥倖だったんだ。でも、もう次はない……!)
高確率で、本塁打を打たれる。そうなればもう2点が追加され、3点差だ。──眉村を相手に、1回で3点以上を返すのは……余程の奇跡でも起きない限り、不可能。
だからこそ、ここで打たせてやればという思いが未だ頭をよぎる。決定的な差がつけば、吾郎を降ろすなりそういう判断もできるだろう、と。
未だ揺れ続けながら、それでもサインを出す寿也。無論、今の時点での最善ではあるつもりだった。
しかし吾郎は、それらに対してことごとく首を振った。元々ないカードが、一瞬にして燃え滓のごとく消えていく。いったい吾郎は、何を求めている?
(敬遠?……いや違う!まさか──)
──ジャイロフォークだ。吾郎は、ジャイロフォークを投げたいと主張している。
(なに考えてるんだ吾郎くん……!本当に肘を壊すつもりなのか!?だいたい、さっきはもうまともに投げられなかったじゃないか……!)
平凡なフォークボールなら、投げるだけ骨折り損だ。そんな多重のリスクを、捕手として許容できるはずがない。
しかし吾郎の力強い瞳を目の当たりにした途端、そのような常識的な感情は霧散してしまった。
(一度だけでいい……。俺を信じてくれ、寿也!)
声に出さずとも伝わってくるその言葉に、寿也は震えた。
(っ、……わかったよ、吾郎くん。一球だけだ。一球、きみの全力を叩き込んでくれ!)
グッとミットを突き出す寿也。その行為ひとつで吾郎もまた、寿也の声なき返答を受け止めた。
(いくぜ──!)
肘にずきりと痛みが走る。それすらも糧にして、吾郎は最後のジャイロフォークを投じた。白球がジャイロ回転しながら、直線上を駆け抜けていく。
(ド真ん中……!今度こそ!)
もはやジャイロフォークを警戒対象から外していた薬師寺は、そうと信じ込んでバットを振るった。これが本塁打になると、確信をもって。
だから次の瞬間、ぐわんと落下した球には対応することができなかったのだ。
「ッ!?」
「────、」
「──ストライィク、バッターアウト!スリーアウトチェンジ!!」
薬師寺が呆然とする中で、厚木ナイン十度目の攻撃の終了が宣告される。吾郎は崩れ落ちそうになる身体を自らの体幹ひとつで支えながら、「へっ、ざまーみろ……」と笑うのだった。
*
意表を突いたジャイロフォークにより4番・薬師寺を打ち取れたことは、夢島ナインを少なからず高揚を与えた。ここで一気に2点入れて、今度こそサヨナラだ、と。
しかしそれが如何に困難なことであるか、皆、心のどこかでは理解している。サヨナラどころか──仮に1点も入れることができなければ、その時点で敗けるのだ。
しかもこの回、打順も問題だった。
『9番、ピッチャー本田くん。背番号、1』
「………」
コールされ、一歩一歩を踏みしめるようにして打席に入る。その背中を目の当たりにして、一度は盛り上がったベンチも一瞬静まり返るほどだった。
「だ、大丈夫かいな、本田のやつ……」
「……点は、俺たちで取ればいい。攻撃でくらい、休ませてやらないと」
それは確かに一理あるが──吾郎が、そのために手を抜くはずもないことは明らかで。
「っ!」
「ストライィク!!」
眉村のジャイロボールを捉える体力は、もう残されていない。にもかかわらず吾郎は、懸命にバットを振るった。その努力の甲斐あってと言ってよいのか、捕手後方への命中をひとつとることはできた。
「ファール!」
「っ、く……」
(……すごいよ、本田くん。その身体で、そんなにも粘るなんて)
投球はおろかバッティングにおいても全力を振り絞ろうとするその姿に、小森は純粋な崇敬の念を抱いた。もしも、もっと早く彼に出逢うことができていたら──
ふと浮かんだそんな考えを、小森は振り払った。それは自分を見出してくれた眉村という相棒にも、これまで組んできた投手たちにも失礼だ。
今はただ全力で、彼を打ち取るのみ。
「……っ!」
くわっと目を見開き、眉村は速球を投じた。ただのストレートではない──吾郎にもひけをとらない、ジャイロボールだ。
同じジャイロボール使いとして、吾郎にはそれがよくわかる。わかっていてなお、果敢に手を出した。──打たねば、終わるのだから。
「ぉおおおおお──ッ!!」
雄叫びとともに、バットを振り抜く。果たして吾郎の意志が天に通じたのか、その一発はボールに命中した。
──かぁんっ!
「!!」
鋭い当たりだ。ボールの球威に押されて、長打にはならなかったことも幸いした。左中間と遊撃手による三角地帯の、ちょうど中心点に落下したのだから。
「お、落ちたぁ!!」
「やった……!」
走る吾郎。しかし肘の痛みに体力を奪われ、その足取りは普段が比較にならないほど重い。そうこうしているうちに、中堅手がボールを拾い上げていて──
「まずい、あれじゃ刺される!」
「本田、走れ──っ!!」
吾郎が苦しいのは誰の目にも明らかだったが、それでもそう叫ばずにはいられなかった。ここで出塁できなければ──ここまでの吾郎の努力が、水泡に帰してしまうかもしれないのだ。
「センター急いで、刺せる!」
「──っ!」
小森の催促を受け、原田が一塁めがけて送球する。速度を出そうにも出せない以上、吾郎に手立てはひとつしかない。それが如何にさらなるリスクを誘発するものであろうとも、もはや後先など考えてはいられなくて。
「〜〜っ、ぉおおおおおっ!!」
刹那──雄叫びをあげて、吾郎は飛んだ。大柄な身体が宙を舞い……そのまま叩きつけられるように、落着する。
「っ!」
「せ……セーフ!」
塁審が思わず声を上ずらせるほどの薄氷の到達。その光景に動揺したのは、夢島ナインばかりではなくて。
「ご、吾郎……!」
「……っ、」
思わず口元を抑える桃子と、その隣で握り拳を震わせる涼子。女性、という意味では、彼女らも。
「なんて無茶するの、あの子……」
「……っ」
よろよろと起き上がる吾郎の姿に、ふたたび十五年前の兄が重なる。今の厚木学園だったらば絶対に、あんな無茶なプレーはさせない。それ以前に、あのような状態になるまで投げさせるということもありえない。兄の悲劇を、繰り返さないために。
「……彼、言ってたわ。武士兄さんは、自分の一球一球を後悔なんてしてないって」
「!」
「あの子がああして限界まで戦い続けることが本当に正しいのか、あたしにもわからない。でも……あの子にはあたしたち厚木学園が失ってしまった、兄さんの血潮が流れている──それだけは、確かなんじゃないかしら」
兄のその言葉に──静香は、反駁の声を発することはできなかった。
*
続く草野がバントを決めるものの打球を御しきれずアウトをとられ、吾郎がかろうじて二塁へ進む。その足取りの重さゆえ、あやうくゲッツーをとられるところだった。
(っ、俺の役割は送ることじゃないのに……!)
自らも生き残らねば、役割を果たしたとは到底言えない。あるいは、これが最後の打席になるかもしれないというのに……。
続く2番・ショート、泉。彼にとってもまた、この局面は正念場だった。
(眉村から得点するチャンスなんて、早々巡ってこない……。ここで俺が打たねえと、もう後がない……!)
普段は冷静な猫目に、気合を込める泉。しかし彼が夢島ナインの中でも警戒を要する人物であることは、とうに小森たちも理解している。
「──ッ!」
かっと眼を見開いた眉村が、全力の剛速球を投じる。トップスピードこそ吾郎には劣るが、球威もコントロールもひけをとらない。それを捉えるのは、たとえかつての横須賀シニアの1番打者であっても容易ではない。
「ストライィク!」
「……っ、」
懸命のスイングも、まったくタイミングを同期できなかった。まだワンナッシング……それでも"三振"という可能性が脳裏をよぎる。
(っ、ここはいちかばちかを狙うっきゃない……!)
追い込まれる、前に。続く2球目──雨によるミスの誘発を狙って、泉はバントを仕掛けた。
──コンッ、
(当たった……!でも、強い!)
投手前に転がるボール。雨でボールの動きが阻害されているおかげで、多少は距離が開けられている。──それでも、自分か吾郎かの二者択一だ。眉村がフィルダースチョイスをすることはありえない。
「っ!」
今度は吾郎ももたつくことなく走ったおかげで、眉村が選んだのは前者だった。──果たして、ツーアウト三塁。
(これが、オレの限界ってか)
進塁打……今の状況では到底、十分な成果とはいえない。吾郎が来るまではチームで一番野球ができると──寿也の前歴を知らなかったとはいえ──自負していた自分が、このざまか。
「……三宅、」
「!……お、おぅ」
すれ違いざま名を呼べば、三宅が上ずった声で応じる。典型的な関西人らしい楽天家の彼だが、流石に今の状況は認識しているらしい。
「こんなこと、言えた義理じゃないけど……。もうおまえしかいないんだ、頼む」
「泉……──っあぁ!」
己を奮い立たせるかのような返事だった。