──眉村のひと振りが、ボールに叩きつけられた。
「!!」
果たして球威に圧されてか、弾道は低い。しかし一塁線を勢いよく抜けるボールを寺門は捉えきれず、外野へ抜けてしまう。
「っ、児玉、三つだ!」
寿也の叫び。それを承けた児玉が三塁めがけて送球し、それを受け取った三宅が塁を踏みに戻る。しかし走者をアウトにできたわけではない。
ノーアウト一・二塁──バントを想定していた以上、夢島ナインにとって完膚なきまでの敗北と言うほかない結果だった。
それでも厚木ベンチには、えも言われぬような空気が漂っていた。
「……監督、バスターの指示なんか出してたか?」
「いや……」
実際、それは静香の反応を見れば明らかだった。指示を公然と無視されたことに対して、怒りとも当惑ともつかぬ表情を浮かべている。
そして彼の女房役もまた、眉村の判断に驚いていた。
(眉村くん、きみが監督の指示に逆らうなんて……)
そのときだった。壁側に座る米倉から、「おい、誰か眉村にウィンドブレーカーを持っていってやれ」とのお達しが飛ぶ。普段なら「いやおまえが行けよ」という突っ込みが方々から飛ぶところではあるが、今は空気が空気だった。
「……僕が行くよ」
名乗り出たのは、何もお人好しからくるものではなかった。
「──眉村くん、これ。肩冷やしすぎるといけないから」
「ああ、すまんな」
相変わらず感情のうかがえない表情のまま、ウィンドブレーカーを受け取る眉村。普段ならともかく、小森にしても今はその真意を読めなかった。
「……どうして、監督の指示を無視したの?」
わからなければ、訊けばいい。この3年で築き上げた関係が、小森にそうさせた。
対する眉村もまた、誰より相棒に対しては誠実だった。
「あの程度の球なら、犠打になりかねないバントの意義はない」
「そうだけど……」
「本田を痛めつけたいなら、もっと早くからやっておくべきだったな。稚拙で、ただ悪評を振り撒く行為に加担するために俺たちは戦っているんじゃない。──おまえもそうだろう、小森」
「!………」
眉村の言葉に、つぶらな瞳を見開く小森。審判に注意され、会話はそこで終わった。──考える時間を、与えられたともいえる。
*
眉村のように割り切った判断を、皆ができるわけではない。続く1番・矢尾板、2番・渡嘉敷と連続でバントを仕掛けていく。しかし眉村の思わぬヒッティングで引っ掻き回されてなお、夢島ナイン……というか寿也の方針は揺るがなかった。そのために前者はやや打ち上げぎみになった球を飛び込んできた三宅によって強引にアウトにされ、続く渡嘉敷はいちおう成功させたものの送りバントに終わってしまう。
「やった……!ツーアウトにできましたね」
雨の中でも、ベンチに華やぎを与える美穂の声。とはいえ守備の最中である以上、ベンチには顧問の三十路男と控えの同級生一名しかいないのだが。
「……っつっても、二・三塁は埋まっちまってる。おっさんが小森……さんを抑えなきゃ、1点は返されちまう」
「その後は4番だしなぁ」
薄氷の戦いが続くことには、変わりない。それももう終わりが見えつつあることは間違いないが、どちらに勝利の女神が微笑むかは別物にして。
ともあれ打席に入った小森。やはり、静香の指示はバントである。スクイズはできない以上、その指示に合理的な部分はひとつしかない。
吾郎に処理させて、ミスを誘発させろ──と。
(眉村くんの言う通りだ、そんなやり方に意義はない。……監督はもう、意地になってるだけだ)
吾郎の心を折ることが、目的になってしまっている。それに自分たちが従わねばならない理由があるとすれば、総監督の娘という彼女のバックボーンそのものだ。たとえ理不尽な命令と思っても、彼女がそれを許さない限り意見もできない。たとえ主将の、自分であっても。
(僕は、眉村くんとは違う。努力して、やっと掴んだ今の立場を、そう簡単にはなげうてない……)
「ボール!」
「………」
バントの構えを警戒してか、吾郎の球は微妙に外れて入ってくる。このまま四球を狙う──それが無難な落とし所であるように思われた。揺さぶるだけなら、吾郎を痛めつけるのに加担したとはならない。不可抗力の結果なのだから、静香に対して反逆したことにもならないだろう。
(でも、それでいいのか?)
対峙する吾郎は、こんな名門のプライドも何もない戦い方をする自分たちを責めることもせず、ただ残る力を振り絞って戦い続けている。──同じ投手であり……"怪物"である眉村は、その魂に敬意を表してみせた。ならば彼らと友誼を結んだ自分は……。
「っ!」
「ファール!」
ボール球ふたつのあと、今度はストライクが来た。咄嗟にバントしてしまった小森だが、それはあらぬ方向へと
思わず、ほっと胸を撫でおろす自分がいることに気がついた。やはり自分は、こんな形での勝利は望んでいない。
(やっぱり僕は、皆と勝利の喜びを分かち合いたい。それが甘い夢でしかないとわかっていても……そのために、ここまで頑張ってきたんだ)
ならば──この戦いの勝利に胸を張るために、すべきことは。
刹那、戦場にどよめきが起きた。打者がおもむろに、バットをスイングの態勢に持ち替えたのだ。
「!小森……!」
「……っ」
(小森くん……あなたもなの?)
チームの要ふたりが公然と反旗を翻した。──相手のように人手不足でない以上、代打を送るという選択肢はある。実際、そうしようともした。
しかしベンチを出ようとした静香の肩を、他でもない彼女の次兄が掴んだ。似ても似つかぬその顔が一瞬、亡き長兄と重なる。
「……静香、もう十分でしょう。ここで小森くんが打てないなら、どのみちあたし達に勝利の芽はないわ」
「兄さん……でも、」
「何より……こんなことをしても、誰よりつらいのはあなたなのよ」
いつになく優しい声とともに、そっとハンカチを差し出す泰造。その意味を量りかねた静香だったが……程なく、己の頬が濡れていることに気がついた。
*
「ファール!」
「……っ」
吾郎の直球を大きく飛ばし、フェンスに叩きつける小森。ほぼ完全に捉えられているにもかかわらず、吾郎は思わず笑みを浮かべていた。
(うれしいぜ、小森……。おまえも、ちゃんと勝負してくれるんだな)
勝っても敗けても──全身全霊の戦いの結果とあらば、後悔はない。むろん、敗けを許すつもりは微塵もないけれど。
「オレも……最後まで、全っ力でいくぜ……!」
「……ああ、」
「──来い!」
夢島も厚木も、過去も未来も関係ない。今この瞬間だけは、ひとりの投手と打者として──男と男として、彼らは対峙していた。
走者をも意識の外に追いやり、両腕を振りかぶる吾郎。痛みに晒された肘は既に、痺れとともに感覚を失いつつある。それでも彼の頭脳は、限界の果てまで電気信号を送り続けた。
そして、
「──ぉおおおおおおおッッ!!」
雄叫びとともに、投じられる一球。球速も球威も、万全のそれには及んでいない。しかし棒球ではない。吾郎の闘志と誠意とを乗せた球であることに、疑いはなかった。
(ありがとう、本田くん……!僕は──僕はきみに、応えてみせる!!)
そして小森は、全身全霊のスイングを決めた──
──かあぁぁんっ!!
「あ──」
刹那……打球が、フィールドから消えた。同じ光景を既に二度、誰もが見てきている。ゆえにその意味は、否が応でも理解せざるをえなかった。
「………」
程なく主審からの指示を受け、ダイヤモンドを走り出す小森。──この3ランが事実上試合の趨勢を決したと、このとき、誰もがそう思った。
*
「よくやった、小森」
本塁に帰ったところで、待ち受けていた眉村が放ったのはそんな言葉だった。彼からの信頼はこれまでも感じてきたが、直接的な称賛や労いが発せられたのはこれが初めてかもしれなかった。
「……ありがとう。でも──」
このことで、監督の逆鱗に触れてしまったかもしれない。指示に従えない選手は、いかに優秀であっても必要ない──それが厚木学園の掟なのだから。
「これで降ろされるなら、それまでのものだったということだ。俺たちも……このチームもな」
果たしてベンチに戻ると、冷たい表情の静香が待ち受けていて。その手に握られたハンカチは、視界に入っても季節柄違和感のあるものではなかった。
「よく帰ってこられたものね、指示を無視しておいて」
「……言い訳はしません、ホームランも結果論なのはわかっていますから」
「そう──」
「──なら、いいわ」
続いた言葉は、小森にとってあまりに意外なものだった。思わず「えっ」と声が洩れてしまうほどには。
それきり沈黙した静香に代わって、彼女の自称・姉が小森の肩を叩いた。
「ほら、ツーアウトよ。防具の準備なさい」
「は……はい」