『4番、サード薬師寺くん。背番号、5』
もはや何度目かもわからぬアナウンス。それでも召喚された当人はこの連戦に飽くどころか、ここまでで最も闘志を剥き出しにした表情を浮かべていた。
(……見事だよ、本田吾郎。その身体で、
神奈川どころか、全国どこをとってもお目にかかれないような強敵──それは認める。だからこそこの打席で、完膚なきまでに叩き潰す。それが4番たる己の使命だと、薬師寺は確かに燃えていた。
それをたがえず受け取りながら……吾郎は半ば本能に突き動かされるように、投球に及んだ。
「!」
「ストライィク!」
ほぅ、と感嘆の声が洩れる。もう立っているのもやっとの状態だろうに、これほどの球を投げてみせるとは。
(だが……俺らを抑えきれる球じゃ、ねえっ!)
二球目──果たして薬師寺のスイングは、ふたたび吾郎を捉えた。
「!!」
勢いよく翔んでいく打球に、肝を冷やす。球場内に流れる、『ファールボールにご注意ください』のアナウンスで、ようやくそれが"未遂"であることを理解した。
(今のは……吾郎くんの全力だ。少なくとも棒球じゃない)
棒球ではなくとも、確実に衰えている。これでは、もう──
(敬遠は、なしだ。吾郎くんのポリシー以前に、その後で切れるって保証もない)
未だ冷静に勝利の糸口をさがし続ける寿也。──しかし彼が心を持ち直したところで……シーソーゲームのように、揺らぐ男がいる。
「っ!」
「ボール!」
外れた。それだけならば、今の吾郎の状態を考えれば仕方がないとも言える。しかし寿也は違和感を抱いた。──吾郎の表情から、強情ともいえる闘志が薄らいだように見えたのだ。
続く2球目、3球目。いずれも大きく外れ、あえなくボール。
(フルカウントだぞ、吾郎くん……)
薬師寺を打ち取るための選択肢は、もはや殆どない。それでも"詰み"ではないと信じて、寿也はサインを絞り出した。
しかし、
「……っ」
「!」
首を振る吾郎。彼が寿也の指示に頷かないのは、ただでさえ珍しいことで。
ならばと次善のサイン──しかし吾郎は、それにも首を振る。そこで寿也は、彼の目が尋常でないことに気がついた。
──吾郎の心は、闇の中に彷徨い込んでいた。
(ダメだ。どこに投げても、打たれる)
おそらく、本塁打を。その先にはもう、敗北しかない。蜘蛛の巣に絡め取られた蝶のように、もがけばもがくほど、彼は深みに嵌っていく。
いや……逃れる方法は、ひとつだけある。このままボール球をもうひとつ投げて、薬師寺を塁に出してしまえばいい。薬師寺以外なら、まだ、打ち取れる可能性はほんのわずか残されているかもしれない。
(ほんの、わずか)
そう──薬師寺のあとに続く者たちも、今の自分の球を脅威とは思わないだろう。このままずるずると打たれ続け、最後の最後に大量得点を許してこの試合は終わる。
(何が、責任だ。このままじゃオレは、何も……)
何ひとつ、残せない。吾郎の心が、いよいよ暗礁に沈みかけたときだった。
「打たせてけ、本田!!」
「!」
背後から響く独特の甲高い声に、吾郎の意識は現実に引き戻された。
弾かれたように振り向く。高校球児にしては小柄で顔立ちも幼い我らが
それを皮切りに、
「おっしゃー!!サード来いやぁぁ!!」
三宅が、
「バック百パー守ってやる!」
泉が、
「ツーアウト!!」「外野任せろ!」「ば、ばっちこぉい!!」
寺門が、草野が、丸山が。
そして、
「ビビるなんててめぇらしくねえぞ、本田ぁ!!」
「後のことなんざ考えねーで、てめぇの一番いい球投げろ!!それならどうなっても文句はねえからよ!!」
児玉が──背後にいる皆の言葉が、吾郎の眼前をあかるく照らし出した。
(……そうだ。何をひとりで迷ってたんだ、オレは)
この試合、自分ひとりで突き進んできたのではなかった。打たれたぶんだけ、皆が打ってくれた。その結果が双方二桁に届かんという乱打戦の様相だ。
思えば夢島野球部が同好会であったころ、初めての試合からしてそうだった。自分が打たれたぶんを、彼らが取り返してくれる。攻撃でも守備でも。そうしてかつての父と同じ、この舞台に立つことができた。
(責任とか……そんなんじゃねえんだ、本当は)
(オレはこいつらと、テッペンに行きてえんだ──!!)
そのために白球を投げ込むべき場所は、ただひとつ。──力強く構えられた、相棒の掌。最初から、それしかなかったのだ。
「ぉおおおおおお────ッ!!!」
だから吾郎は──これが最後になっても構わないとばかりに、精魂振り絞った一球を投じた。ただミットめがけて、旋回しながら吶喊してゆく。これには薬師寺も目を見開いていた。
(まだこんな球を!?──だがっ!!)
怯んでいる場合ではないと、薬師寺はフルスイングを敢行した。いかに気迫に溢れていようと、打てない球では決してないのだ。
果たして闘志と闘志のぶつかり合いを制したのは、薬師寺だった。金属の塊に押し切られたゴムとコルクの繭が、空高く弾き飛ばされる。
「!!」
──打たれた。振り向く吾郎と、マスクを脱いで立ち上がる寿也。軌道は……まずい、本塁打もありうるコースだ。
敗けたのか。そう思いかけた矢先……ボールを追って、力いっぱい飛び上がった男がいた。
「────、」
閃光のように、響く雄叫び。そして彼の身体は、スタジアムの壁に叩きつけられた。
「──児玉っ!!」
仲間の呼び声と同時に、児玉は力なく地面に倒れ落ちる。否……その左手にだけは、しっかりと力がこもっていた。
気遣いではなく己の職責を果たすために駆け寄った審判が、その手元を覗き込む。そして、
「──アウト!アウトォ!!」
その結果を明確に知らしめるべく、声高に叫ぶ。唖然とする薬師寺を置き去りに、厚木ナインのおそらく最後となるだろう攻撃が、これで終わった。
「へ、へへ……っ。見たかよ、ライパチの底力……ぅあ゛っ」
不敵な笑みとともに──現エースを彷彿とさせる──立ち上がろうとする児玉だったが、右肩を抑えて蹲ってしまう。壁との衝突によって痛めてしまったことは明らかで……試合はふたたび、一時中断となった。
*
「折れてるな、こりゃ」
南雲の言葉が、ベンチにむなしく響く。無茶なプレーの代償が、骨折。野球に限らず、競技においては幾らでもありうることだった。
「な、なんちゅームチャすんねや、オノレは……」
「骨折なんてしたら、勝てたって甲子園には……」
大河の言葉に被せるように、「わーってるっつの」と、児玉。激痛のせいで顔が青ざめてはいるが、口元に浮かべた笑みだけは絶やしていない。
「オレ
「児玉、先輩……」
「それに……先代エースとしちゃ、現役エース様の足引っ張ってばっかいられねえからな……」
そう──大河や美穂は伝聞でしか知らないが、吾郎が入る前は、彼が押しも押されぬエースで4番だったのだ。勝ち負けの次元でやっていない同好会だったから、という事情はもちろんあるけれど。
「……ああ。流石は元エース、カッコよかったぜ……!」
それでも傷だらけの現エースは、彼の奮闘をたたえた。
「な……キャプテン?」
「!うん……足引っ張るどころじゃない、おまえがこの試合のMVPだよ、児玉!」
グランドスラムにスーパープレー、まぐれなどではない。エースから末席と同義の立場に追いやられても、決してくさらず、努力を続けてきたからこその結果だ。もちろんそれで怠けるような男なら、一年生とはいえ才能のある大河と躊躇なく交代していただろう。全国制覇をめざすチームにするというのは、そういうことなのだから。
とはいえ児玉は負傷した身である。ならばその大河に、あとを託すしかない。
「大河、予定とは違うけど……代打、いけるよな」
「……ま、どのみち出る予定ではありましたし」
トップバッターになるからと、いたずらに緊張するつもりもない。やるべきことはひとつしかないのだ。それがあまりに険しい道であることもわかっている。
ならば──大河は既に、肚を括っていた。
*
『8番、ライト児玉くんに代わりまして──代打、清水くん。バッターは清水くん、背番号10』
満を持してのコールとともに、児玉とは対照的な小柄で整った容姿の少年が打席に入る。彼がただの控え選手でないことは、これまでの夢島ナインをウォッチしてきた者ならよく知っている。無論、相対した者たちも。
「あ……あのピッチャーやってた子、出てきた」
テレビ越しに試合を見守る元・鎌実ナインのエース──北条兄弟の片割れ。いつものことながら、いまいち感情の読めない彼に対し、まったく同じ顔をした双子の兄は手に汗握っていた。
「ピッチングはセンス感じたけど……バッティングの方はなぁ、素人あがりの1年に両方こなせってほうがムリあるけど」
「でも、オレよりは巧かったと思う」
「おまえな……まぁ、今さらいいけど」
既に引退した身──第三者として見守るほかない彼らだが、やはりあの頑張りは報われてほしいと思う。
そして大河が天涯孤独の身でない以上、世界中の誰よりも固唾を呑む一家がいる。
「!お父さん、大河出てきたわよ、ほら!」
「お、おぉ……やっとか」
大河の家族。つい数ヶ月前まで、生意気だが甘ったれな長男がまさか高校球児として横浜スタジアムに立つことになろうとは、想像もしていなかった。延長12回でようやく、ということで、ここまでの経過における温度差はあるのだが。
とはいえ弟だけでなく、夢島ナインの主役ともいえる吾郎とも顔見知りとなった姉は、一歩も動かずに戦況を見守り続けていた。
(大河……頑張れよ……!)
──皆の寄せる希望と期待とは裏腹に、現実は非情とも言えるものだった。
「っ!」
「ストライィク!!」
初球から果敢にスイングを行う大河だったが、まったくタイミングが合わず空振ってしまう。眉村も小森も、彼を侮っていない。たとえ野球歴四ヶ月弱の一年生であっても、吾郎の球を間近で見てきた彼の側近的存在なのだ。
(でも……きみを第三の
(……わかってんだよ、オレはヒーローなんて柄じゃない)
当然、小森の思考を読み取ったわけではない。ただ、行き着く先は同じというだけだ。吾郎と同じ"怪物"を相手に、自分ごときが真っ向から対抗できるなどとは思わない。
だからといって……ただ粉々に打ち砕かれるために出てきたわけでも、ない。
ツーストライクまで追い込まれたところで、三球目。……これでアウトコース一杯に入れてこられたら、大河の作戦ともいえない奇策は水泡に帰することになる。
──果たして眉村の速球は、インハイに抉るように入ってきた。ストライクかボールか、かなり微妙なコースだ。
(……来た!)
怖い、と思う。もとより硬球であるし、それが車などよりよほど速いスピードで迫ってくるのだ。しかしここを逃したらもう、チャンスはない──!
「──ッ!」
覚悟を決めた大河は、ボールの軌道へと身を乗り出した──