12年前──夢島にて再会するまで、寿也が最初で最後、吾郎とともに過ごした暑い夏。
『うわぁ、すごいや……』
テレビの前に座り、食い入るように液晶を見つめる幼い寿也。彼がそれほど画面の向こうの出来事に熱中するのは、めったにないことだった。
『そぉ?おとさんはもっとすごいよ』
隣で唇を尖らせながら呟く友人に、思わず苦笑する。彼は野球選手としての父を、誰よりも絶対的に尊敬しているのだ。
『それはそうだよ。吾郎くんのおとうさん、プロだもん』
『そうだけどさー』
『……それに、プロって自分でチーム、選べるわけじゃないんでしょ?』
『?うん。しばらくプロでがんばったあとならえらべるらしいけど……最初は"しめい"なんだって』
候補者たる青少年の側に選択の自由が殆どないというのは、日本のプロ野球において長らく議論の的になっているところだが、幼い彼らは無論そんなことまでは知らなかった。
『じゃあぼく達、プロでいっしょにプレーできるかわからないね……』
『あ……そうかも』
そこまでは考えが及んでいなかった吾郎である。もっとも5歳の子どもである以上致し方ないことではある、寿也が年齢不相応に聡明なのだ。
『でも、コーコーセイならだいじょうぶだよ!いっしょのコーコーにいけば、いっしょにプレーできるよ!』
一緒の高校で、一緒に日本一を目指す。──吾郎のアメリカ行きが決まるずっと前から、それはひそかなふたりの約束だった。
──12年が経った今、その約束を果たすべきときが訪れた。
『4番、キャッチャー佐藤くん。背番号、2』
吾郎に代わって攻撃の中心をも任された、夢島ナインの司令塔──しかしこの試合、その役割を十全に果たしているとは言いがたい。
(僕はずっと、迷ってた。苦しむ吾郎くんを目の当たりにして……吾郎くんが、僕との約束を果たすために頑張ってくれているのに)
眉村の剛速球は、3イニングに及んでますますその球威を増しているようにみえる。そんな中、先頭の大河の故意──打者側の──死球を筆頭に、奇策や環境条件によって何とか満塁にまで漕ぎつけた。
しかしツーアウトまで追い込まれていることもまた事実。ここから3点……いや4点を返すには、真正面から眉村を撃ち破るしかない。
(でも……あの約束はもう、僕らふたりだけのものじゃないんだ)
幼い日の約束──そして、一年前の約束。それらはいつしか皆の目標となり、夢となった。
「っ!」
「ファール!」
二球目も速球。かろうじてスイングが掠り、三塁方向にゾーンを越える形で転がった。やはり完全に捉えきれねば、勝利へつなげる一撃とはなりえない。
「当たる……!当たるで、佐藤ー!!」
「おまえなら打てる、佐藤!!」
皆が必死に声援を飛ばす。塁にいる3人も、期待と信頼をこめた瞳で寿也を見ている。
「っ!」
剛速球、剛速球、と思えば鋭い変化球。一球も逃すまいと、寿也は必死にバットを振るった。ファール、ファール、ファール──もはやその言葉が聴覚的にゲシュタルト崩壊を起こすくらいに、同じ言葉が主審の口から飛び出す。
「すごい……。トシくん、あんな球を全部捌いてるなんて」
桃子の言葉に首肯しつつも、「それだけじゃありません」と涼子は続けた。
「彼、確実に照準を合わせてます……あの球に」
「あ、じゃあ──」
「……ええ。勝てるかもしれません、
いや、勝ってくれ──必ず。
「ふぁ、ファール!」
いよいよスタンドまで届く打球を飛ばしながら、寿也は懸命に呼吸を整えた。流れ出す汗が、雨に混じってグラウンドに滴り落ちる。
マウンドでも、同じことが起こっていた。表情こそ変えない眉村。しかし息は上がっているし、さかんに汗を拭っている。
(眉村も、疲れてる。無駄じゃなかったんだ……皆で、喰らいついてきたことは)
すぅ、はぁ、と、深呼吸を繰り返す。打つ──打ってみせる、必ず。
一方で、
(打たせて、堪るか)
誰よりも……あるいは眉村以上に、その想いを強くする小森。怪物と呼ばれ、歴代厚木のエースの中でも最高の逸材と言われる眉村を、こんなところで終わらせるなどありえない。──このチームで必ず、優勝旗を持ち帰る。
(そのために……頼む、)
──きみの最高を、見せてくれ。
刹那、小森は見た。眉村が静かに、それでいて明確に頷いたのを。
そして彼は、両腕をおおきく振りかぶった。
「!!」
(ワインドアップ!?)
満塁とはいえ──いや、余計なことは考えない。これが決着と心得て、寿也はただそのときを待った。
そして、
「──!!」
双眸をくわっと見開き、眉村はついに一球を投じた。小森の要求したコースと寸分の狂いなく、弾丸のごとく翔んでいく。100マイル──吾郎のジャイロボールに、匹敵する速度に及んでいた。
(それでも、)
(かなえたい夢が、あるんだ──!!)
皆と、一緒に。
ただその一心で、寿也は力いっぱいバットを振るい──
──当たった。
「……ッ!」
その球はあまりにも重く、たった1年で拵えた両腕には痛烈だった。身体ごと、吹っ飛ばされてしまいそうな。
「ぐ、うう……ッ!」
結果がどちらに転ぼうと、刹那にすぎない攻防。その刹那を、誰もが固唾を呑んで見守っている。仲間たちも……世話になった人たちも──ずっと見守り育ててくれた祖父母も。
だから、
(敗け、る、かあぁぁぁぁッ!!)
そして寿也は、バットを振り抜いた。飛翔するボール。走り出す塁上の走者たち。打球を追う、野手たち。
でも、あのコースは。
「────、」
響き渡る、ひどく澄んだ音。会場が一瞬静寂に包まれる中で、その正体に最初に気づいたのは寿也自身だった。
──割れている。電光掲示板の一部……ちょうど、厚木学園のチーム名のド真ん中が。
無論、自然現象でそんなことはありえない。──ボールだ。打球が、電光掲示板を穿いた。
それが何を意味するか、この場にわからない者はいない。
静寂の中で、12回──夢島ナインの空白に、数字が躍る、"4"と。
直後、どこからともなく大きな歓声が沸き起こる。伝播してゆくそれらはすべて、グランドスラムを成し遂げた寿也へと向けられていた。
一方で……マスクを外して、小森は立ち尽くしていた。
(打たれちゃった、か)
最高の球だった……間違いなく。それを真正面から打ち破られた。今はその事実を、噛みしめるほかない。
マウンドの上の眉村は、とうにそれができている。強い
塁を回り終えた走者たちは、待ち受けていた仲間たちに揉みくちゃにされている。あれが、勝者の光景。羨ましいなどとは、思わない。
それでも──
(はは……何で今、晴れてくるんだよ)
いつの間にか雨は上がり、雲間から陽光が挿し込んでいる。夢島ナインの勝利を祝福するかのような光景。それでも涙が溢れるのは、眩さのせいだと己に言い訳をした。
*
「13vs12、夢島学園高校!」
──勝利、
「ありがとうございました──っ!!」
最後の最後まで張り合うかのように、大声で礼をする両チーム。ずらりと20人が並ぶ厚木高校に対し、夢島は半分の10人しかいない。皆が皆……それこそ文字通りのラスト・リゾートとなった大河に至るまで、死力を尽くした戦いだった。
ともあれ、この礼をもって試合は名実ともに終了である。互いがいかな状態であれ、甲子園出場の権利を獲得したのは夢島ナインだ。互いに背を向けグラウンドを立ち去ろうとするのは、権利以前に当然の義務というか、なりゆきであった。
「待て!」
いや……背を向けていたのは、一方だけだった。夢島ナインが振り向くと……
「本田吾郎……12点だ。オレ達はてめぇから、12点とった」
「……なんだよ、負け惜しみか?」
相手が相手……そして後半のコンディションの問題もあるとはいえ、その事実は吾郎の心に大いなる影を落としていた。
チームとしての勝利は純粋に嬉しい。が、個人の戦果としては足りない。野球はチームでするものなのだから、後者にこだわる必要などないのはわかっているけれど、まったく無視できるものではないのだ、当然。
──しかし……このような惨憺たる結果であろうとも、確かに勝利をもぎ取ることはできた。事実を告げる薬師寺が重視したのも、そこだった。
「それでも、13点取られた。敗因は挙げりゃきりがねえ……完敗だ」
「薬師寺……」
完敗──そう、日本一と言われた優秀な彼らがそれを証明する舞台に立つことは永遠になく、この日この瞬間をもって、彼らの高校野球は終わったのだ。もう二度と、戻ってくることのない日々。
その事実に思い至って、厚木ナインはみな顔をゆがめていた。中には渡嘉敷を始め、人目を憚らず嗚咽を洩らしている者もいる。それを諌めることは、薬師寺であれ主将の小森であれ今はできなかった。
「もう偉そうなこと言えた義理じゃねえが……神奈川代表は、お前らに託す」
「薬師寺……」
「情けねえ戦いしたら、承知しねえからな」
最後の言葉は、笑みとともに発せられて……それでいて、少し震えていた。
「……ああ!」
言われるまでもないこと。この肘の故障だって……甲子園大会開始までには、なんとかしてみせる。
しかしそれらを言葉にすることなく、吾郎はただ首肯してみせたのだった。
「……甲子園、連れていってあげられなかったわね。最高傑作ともいえる、あの子たちを」
「責任は……取るわ」
この場合の責任の取り方というのはひとつしかないことを、泰造とて承知している。そしてそれを、彼、もとい彼女も否定はしない。
ただ、
「先のことを決める前に、やることがあるんじゃなくて?」
「……やること?」
「まぁ、色々……たとえばそうね──」
「──兄さんの、墓参りとかね」
今ならば、兄の人生に向き合うことができるかもしれない。自分も、妹も……そして、父も。
兄の遺志を継いだ投手は、満身創痍、仲間たちに支えられながらも確かに、その双眸に光を宿しているのだから。
*
帰りの道中、すっかり慣れた南雲運転のマイクロバス。今日ばかりは皆、勝利の余韻に浸っていた。
「本当に……勝ったんだよな、僕ら」
「ああ……勝っちゃったな、厚木に」
余韻……そう、車内は静かなものだった。刹那の歓喜を過ぎれば、襲いくるのは神奈川代表を背負うという重圧、責任感。そしてこの結末のために払った犠牲。
「児玉先輩は言わずもがな、本田先輩だって出られるかわかんないでしょう。……どうすんすか?」
骨折した児玉を抜いて、ちょうど9人……吾郎も駄目なら、チームとして成立しない。出場は、不可能になる。
「……大丈夫だよ、吾郎くんは」
「何を根拠に……」
大河の疑問を尤もだと受け止めながら、寿也は笑った。
「吾郎くんは、約束を破らない人だから。だから──大丈夫」
甲子園大会開会まで──あと、2週間。
次回、エピローグ