4回裏、帝仁の逆転3ランホームラン。
序盤のファインプレーによる喜びはどこへやら、全員がグラウンドに立つ夢島チームには焦燥が漂っていた。
「ど、どうなっとんねん……。急にあんな打たれまくるなんて……」
三宅の言葉は初心者組の総意だった。吾郎の速球は一ヶ月以上見てきている自分たちでも触れることすら困難なのだ。地力が違うとはいえ、2打席目でここまで。
「……打たれるのも当然だよ」
「……泉?」
険しい表情で、泉はその"事実"を告げた。──「本田は、ど真ん中にしか投げてない」と。
時を戻そう。自身の球を捕れなかった児玉を呼び寄せ、吾郎は耳打ちしたのだ。
『児玉、ミットをど真ん中に構えとけ。コースは考えなくていい』
『は!?でもそれじゃ……』
『取られたらそのぶん打って取り返しゃいい。……頼むぜ、恋女房』
*
ホームランを打たれてなお、吾郎の調子は揺らがなかった。5番打者にはシングルヒットを打たれてしまったが、その後は三者凡退に打ち取り攻守交替。打席に立ったのは寿也だった。
「寿クン、頼む……!」
「佐藤……!」
「………」
期待をかけられている。この感覚は久しぶりのものだった。ただ勝ちたいという、純な願い。
(やめてくれ……。僕は、もう)
あの頃と変わらない吾郎の瞳と、交錯する。長い人生のうちたった数ヶ月、たったそれだけで、僕は──
「──ストライィク!!」
「ッ、」
しかし今の寿也の力では、葦原の球には触れるのも厳しい。際どいコースの球も積極的に振ってゆくが、空振りに終わってしまう。
(僕は……っ)
あっという間にツーストライクまで追い込まれ、三球目。特に見るべきもののない9番バッターという意識があってか、葦原の制球がわずかに乱れた。尤も女房役の柿本にしかわからない、ほんの些細なブレでしかなかったのだけれど。
しかしその瞬間、寿也の目が変わった。腕に力を込め、全身全霊で振りかざす──!
「!!」
ボールが、高く打ち上げられる。葦原はぎょっとした様子でそれを目で追っていた。
「オ〜ライオ〜ライ!」
中堅手の柳田が後方に下がっていく。パシン、という小気味良い音とともに、ボールは容易に捕られてしまった。
「アウト!」
「……っ、」
夢島ベンチに落胆が広がる。「ええ当たりやったんに……」という三宅の声がすべてを象徴していた。
尤もそれが寿也を咎めることとイコールにはならない。口惜しそうな表情で戻ってきた彼を真っ先に迎え入れたのは、彼の幼なじみだった。
「ナイスバッティング、やるじゃん寿クン!」
「……どうも」
「あ、あれっ?」
事務的極まりない反応に唖然とする吾郎。流石に皆が同情したが……それゆえ寿也の表情に浮かぶ揺らぎには、到底気づくことはできないのだった。
*
その後の試合展開は、夢島ナインにとって現実の厳しさを思い知らせるものとなった。
彼らの側にも吾郎や泉などを中心に散発的なヒットはあったものの、それがことごとく得点には繋がらないまま終わってしまう。
一方の帝仁側は、櫻内のホームランのような華々しい成果はないものの、着実なヒットを繰り返すことで得点を重ねていた。
中盤6回裏が終了した時点で、5vs2──夢島、3点ビハインドであった。
そしてここで、さらなる災厄が降りかかる。
「ッ、うぅ……」
「大丈夫か、児玉!?」
赤く腫れ上がった手首を押さえ、呻く児玉。吾郎の全力投球を短時間で受け続けたという意味では、国分とまったく同じなのだ。体格には勝るとはいえ、技術では劣る。ここまでよく保ったほうだといえるかもしれない。
「9回までは、保たなかったか……」
「ッ、大したことねぇよ、これくらい……!」
強がりを言う児玉だが、捕手を続けられる状態でないのは明らかだった。
「駄目だよ児玉、これ以上おまえに無茶はさせられない!……おまえだけじゃない、皆にも……」
「ほんなら、どうすんねんな……」
「………」
誰も口には出さないが、誰しもの脳裏に浮かんでいた。──"棄権"の二文字。
「……まだ手はある」
「!」
そう告げたのは他でもない、捕手をふたりもこのような状態に追い込んだ投手だった。
「手って……」
「簡単な話さ。キャッチャーがいねえなら、俺がキャッチャーになる」
「な!?」
「何言うとんねん!?分身でもする気かいな……」
こんなときでも冗談を言ってしまうのが大阪人の性なのだろうか。何かとジョークを飛ばす米国人を思い起こして懐かしい気持ちになりながら、吾郎は首を振った。
「──泉。おまえ、ピッチャーやったことは?」
「えっ?」目を丸くする泉。「リトルの時とかに多少はあるけど……。──まさか、俺にピッチャーやらせようって?」
「本田……!いくらなんでも本職じゃない泉の球じゃ──」
通用、するわけがない。そんなことは吾郎も百も承知だった。ど真ん中に投げ続けているとはいえ、吾郎の100マイルストレートを打ち込むような相手なのだから。それに泉が抜けたあとの遊撃手を務められる人間だってここにはいない。
それでも、
「……このままあきらめるのは嫌なんだ、俺は」
「!」
伏せられた吾郎の瞳には、しかし決して燻ることのない闘志の焔が燃え続けている。それを目の当たりにして、皆、息を呑んだ。
「どのみち勝てる確率なんて1パーセントもないかもしれねえ。でも……それでも足掻きてぇんだ。このまま終わっちまうならせめて、一秒でも長くお前らと野球やりてぇ!!」
「──!!」
言葉を失う一同。吾郎に好意的な者も、必ずしもそうとは言い切れない者も皆、吾郎の心意気に圧倒されていた。……いや、ただ圧倒されるばかりではない。沸き上がる想いは、きっと──
「……悪ぃな、皆。元はといえば全部俺のわがままだ。付き合いきれねえって思われてもしょうがねえ、でも──」
「──本田、」
吾郎が言い切らないうちに、その名を呼んだのは泉だった。ヘルメットを被りながら、彼は続ける。
「次の打席のあと、投球練習の時間を貰えるように向こうの監督に掛け合っておいて」
「!、泉……」
泉だけではない。国分も寺門も丸山も、そして。
「てめぇひとりで野球やってると思ってんじゃねえ。素人同好会にだって意地があるんだってとこ、見せつけてやる……!」
「児玉……!」
そうだ。もう自分の独り相撲ではない──吾郎は改めてそのことを思い知った。このチームで一秒でも長く野球をやっていたい、そう思わせてくれた仲間たち。
そんな彼らに、勝利の女神は顔を覗かせようとしていた。
「──その必要はないよ」
「!」
表向き冷然とした言葉でそう割り込んだのは他でもない、世界で初めて吾郎とともに野球をした少年だった。
「寿……クン。打席は──」
「また凡退だったよ、残念ながらね」
「それよりどういうことやねん佐藤、その必要はないって……」
最悪の想像が脳裏をよぎる。寿也は打席に立っていたから、今のやりとりに混ざっていない。彼ひとりでも試合を放棄すれば、どのみち人数不足で棄権するしかなくなるのだ。
しかし凡退に終わってベンチに戻ってくる最中、確かに寿也は聞いたのだ。吾郎の、想いの吐露を。
「キャッチャーならここにいる」
「!?」
「え──」
何を言っているのか、と言いたげな視線が注がれる。当然だろう。誰もが皆、寿也のことをただ多少センスが良いだけの素人だと思っているだろうから。
「大丈夫、僕は本職……だったから」
「本職って……佐藤、キャッチャーの経験があるの?」
尋ねる国分に、寿也ははっきりと頷く。
「──"横浜リトル"。国分くんと泉くんなら、知ってるよね」
「!、そ、そりゃあ……」
「……神奈川一の名門だからね、シニアも含めて」
唐突にその名が出されたということは、つまり。
「横浜リトル、4番キャッチャー。きみの球を受けるには、十分な肩書だろう?」
それが、打ち捨てられた栄光の滓でしかなかったとしても。