【完結】夢島ナイン   作:たあたん

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おほも


約束

 

「……じゃあ解散、気ぃつけて帰れよ……」

 

 ひとり葬式ムードを醸したままそう言うと、南雲は車に乗り込もうとする。そんな彼に追い打ちをかけるように、吾郎が言った。

 

「センセー、わかってるよな?勝ったんだから約束通り──」

「……本田、もうやめてやれ」

 

 流石に教師である。約束を反故にはしない。ただ感情面では受け入れがたいのだろう、そのまま去っていく南雲だった。

 

「しかしこれで、ほんまのほんまに本格始動っちゅーわけかぁ。帝仁に勝ったことといい、実感湧かんのぉ」

「今までみたいにイージーミス連発できなくなっちゃったね、三宅」

「んなっ……」

「と、とにかくっ!みんな今日は疲れただろうし、早く帰ってゆっくり休んでよ」

「……俺らはまず病院だな」

 

 多少ましにはなったが、手首の腫れは未だ引いていない。骨にまで異常がなければいいけれど、とまで考えたところで、そういえばと国分は思った。

 

「佐藤は手、大丈夫だった?」

「……ああ、まあ。少し痺れてはいるけどね」

「さっすが寿クン!おまえがキャッチャーやってくれりゃ、俺も気兼ねなく投げられるってもんだぜ」

「………」

「……あ、あれ?」

 

「……悪いけど、僕がきみの球を捕るのは今日で最後だ」

「えっ……」

「言っただろ。僕はきみたちと一緒に、甲子園を目指すことはできないって」

 

 皆が言葉を失う中──寿也は、彼らに背を向けて歩き出す。表情を見せぬように。決して、彼らの顔を見ぬように。

 

「トシっ!!」

 

 それでも吾郎の声は、寿也の心の芯までもを揺さぶった。

 

「俺、今日……おまえが受けてくれて、本当に嬉しかったんだ!日本に帰ってきて良かったって、心の底からそう思った!!だって、約束だっただろ!!バッテリー組もうって……そう言ってくれたのは、お前だったじゃねえか!!」

「……っ」

アメリカ(向こう)にいる間も、俺は片時だって忘れたことはなかった!おまえはそうじゃねえのかよ、寿也──!!」

 

 その叫びにも寿也は、足を止めることはなかった。ただ……決して見せないように俯けられた端正な顔立ちは、今にも泣き出しそうなほどに歪められていて。

 

「……僕だって……片時も忘れたことなんかなかったよ……」

 

 

「でも……子供の約束なんかよりずっと、優先しなきゃならないものがこの世にはあるんだ……」

 

 

 願わくば、あの無邪気な約束を果たせるような人生を送りたかった。けれど人生はある日突然ひっくり返る、決して儘ならないものなのだ。齢11で、寿也はそう思い知った。

 

 

 *

 

 

 

 ガタガタと時折振動する車内は、勝利の高揚感が嘘のように静まり返っていた。とりわけその立役者は、乗車前から沈黙を続けていて。

 

「……せっかく部になれる思たんに、また8人に戻ってまうんかのぉ」

 

 流石に堪えきれなくなってか、ぽつりと三宅が呟く。寿也がそうであるように、自宅の位置の関係上このバスに乗り込んでいない者もいる。計4人の車内では、余計に空々しく響いた。

 

「なんとか説得して、籍だけは置いといてもらうって手もあるよ」泉の発言。「部員は……下級生でも誰でも、改めて勧誘してみるとかね」

「……四月にそれやって駄目だったんじゃねえか」

「本田の球を見てネガティブに捉えた人がいたように、ポジティブに捉える人もいるかもしれない。……どっちみち8人じゃ、人を借りなきゃ試合もできないんだ」

「………」

 

「……トシの母ちゃん、すげぇ教育ママでさ。初めて会ったときも、あいつ勉強勉強で、野球に興味示してくれるまでに時間もかかったんだ」

 

 不意に溢れた独り言に、皆の視線が集中する。

 

「10年以上も離れてたから、また同じ状態になっちまうのもしょうがねぇ……一緒に野球やればあの頃みたいに戻れる、そう思ってた。でも……そんなわけねえんだよな。5歳のチビと今の俺たちじゃ、環境も考えてることも、何もかも違うに決まってんのに」

「……環境、か」

「……泉?」

 

 猫のような目を細めて、泉が続ける。

 

「佐藤はお祖父さんお祖母さんと一緒に暮らしてるって、何かのときに聞いたことがある。詳しい事情は知らないけど……小さい頃は普通に両親と生活してたっていうなら、間違いなく何かあったんだろうね」

「………」

 

 その"何か"が寿也の過去に、そして未来に昏い影を落としている。ならば自分は、彼のために何ができる?ただ昔、一緒にキャッチボールをして遊んだことがあるというだけの自分に。

 

 

 *

 

 

 

 祖父母と囲む食卓。寿也にとっては、もうすっかり慣れ親しんだ日常の光景だった。

 

「寿也、美味しい?」

「あ……うん。美味しいよ、おばあちゃん」

「そう、よかった。きょうは試合だったんでしょう、たくさん食べなさいね」

「……うん」

 

 そう言われても、あまり食欲はないのだが。しかし正直に伝えれば無用な心配を掛けてしまうことになりかねない。少しでも多く食べられるよう、寿也は殆ど噛まずに白飯を掻き込んだ。

 

「試合のほうは、どうだったんだ?勝てたのか?」

 

 祖母とは対照的に、静かに食事を続けていた祖父がぽつりと尋ねる。口に詰め込んだ料理を慌てて飲み込んで、寿也は答えた。

 

「うん、勝ったよ。なんとかね」

「まぁ、すごいじゃない。相手はベスト4?なんでしょう?」

 

 「野球のことはよくわからないけれど」と、祖母。寿也は曖昧に微笑んで首肯した。……それ以上、この話題を続けさせたくない。そうであるべきだと、思っているはずなのに。

 

「……久しぶりに、キャッチャーをやったよ」

「!」

 

 そんな呟きを洩らしてしまう自分を、寿也は止めることができなかった。

 

「そうか。この間試合を観に行ったときは、キャッチャーをやっていたものな」

「この間っておじいちゃん、僕がキャッチャーやってたのはリトル……小学生のときだよ」

「年をとると五、六年は"この間"になるのよ」夫を揶揄うふりをしつつ、「これからもやるの?キャッチャー」

「………」

 

 一瞬の逡巡のあと──「いや、」と、寿也は続けた。

 

「野球は、今日で最後にするつもりだよ」

「えっ……」

「……どういうことだ?」

 

 祖父母が箸を止めてこちらを見ている。余計なことを言ってしまったと思いつつも、もう止められなかった。

 

「すごいピッチャーが入ってさ。その人が、甲子園を目指すんだって……皆も乗り気になってる。でも僕にとって野球はもう、勉強の息抜きでしかないから。勉強の邪魔になるなら、続けられないよ」

「寿也……」

「……ごちそうさま。今日はお風呂、先に貰うね」

 

 そう言って寿也は、食卓を立った。

 

 

 *

 

 

 

 ちゃぽんと、撥ねる水音だけが耳に響く。

 静かな浴室で独り湯に浸かりながら、寿也は今日のことを思い返していた。

 しかし──次第に記憶は、さらなる過去へと誘われていく。

 

 修学旅行から帰ったあの日、家族は寿也ひとりを置き去りに何処かへ消えてしまった。──捨てられたのだ、自分は。独りで生きていけるほど大人ではなかったけれど、さりとてそんなこともわからないほど子供でもなくて。

 深い絶望に囚われた寿也を引き取り、育ててくれたのが祖父母だった。彼らは寿也を養うため、とうに閉めていた弁当屋を再開し、年老いた身で懸命に働いてくれている。

 

 そんな彼らに少しでも恩返しをするために、寿也は勉学で身を立てることを決めた。心労からやめてしまった野球をもう一度始め、プロになる……そんな選択も脳裏をよぎったけれど、あまりにも確実性に欠けると頭の中のゴミ箱に捨ててしまった。幼い日の、吾郎との約束とともに。

 

 でも、結局は野球への未練を完全に消し去ることはできなくて……息抜き程度ならと誘われるまま同好会に入って、こんなことになってしまった。想い出の中の友人ではなく、現実の存在として目の前に現れた吾郎はあの頃と変わらない、他者の人生をも左右する力をもっている。既に自分以外の同好会の面々が彼の目標に前向きに同道しようとしているように、いつしか自分も巻き込まれてしまうだろう。

 

 だからそうなる前に、きっぱりと野球への想いを捨て去らなければならない。吾郎との約束も。

 

(吾郎くん……。やっぱり、僕は……)

 

 そのとき、不意に浴室の戸が開く音がした。我に返った寿也が顔を上げると、そこにはタオル一枚の祖父の姿があって。

 

「お、おじいちゃん!?ど、どうしたの……」

「たまには一緒にどうかと思ってな。駄目か?」

「いや別に、駄目じゃないけど……」

 

 この家に引き取られて以来、祖父と一緒に入浴なんて初めてのことだった。むろん物心つかない幼少期はその限りではないけれど。

 とはいえ祖父母には強く出られない性質ゆえ、寿也は押し入ってくる祖父を受け入れざるをえなかった。

 

 

 *

 

 

 

 せっかくだから、という祖父の曖昧な提案により、寿也は彼の背中を流してやることになった。

 

「どう、おじいちゃん?」

「あぁ、いい塩梅だ。もう少し強くてもいいぞ」

 

 ご要望に応えて、もう少し力を込めてみる。この状況が嫌かといえば、決してそんなことはない。祖父が喜んでくれるなら寿也も嬉しいのだ、ただ面映ゆいだけで。

 

「……でかくなったな、寿也」

「えっ?」

「いつの間にか背丈も越えられてしまったし、力も強くなった。取っ組み合ったりしたら、もう勝てないだろうな」

「何言ってるの……僕がおじいちゃんと喧嘩なんてするわけないだろ?」

 

 くく、と祖父が喉を鳴らした。

 

「そうだな……。おまえはうちに来てからこっち、手が出るどころかメシに文句のひとつも言ったことがなかったな」

「………」

「……でもな寿也。おまえを引き取るとき、ばあさんとふたりで心に決めてたんだ。もしおまえが不良になるようなことがあっても、わしらだけは最後までおまえに向き合おうってな」

「不良にって、そんな……」

「そうなっても仕方ないような思いを、おまえはしたんだ。なのに実際のおまえはわしら思いの優しい孫のままで、むしろ今日まで助けられることばかりだった」

 

「でもな、寿也」

 

「おまえがこんなにも出来た孫であることを……わしらは誇らしく思うと同時に、少しだけ寂しいとも思うんだ」

「えっ……?」

 

 背中を洗う手が思わず止まると同時に、祖父がやおら振り向く。叱られた記憶などない寿也はただの一度も見たことのない、厳しい表情だった。

 

「わしらのために、自分を抑える必要なんてない。もっとわがままを言っていいんだ。──本当は野球をやりたいんだろう?やるからには甲子園を目指してみたいと、そう思ってるんじゃないのか?」

「お、じいちゃん……僕は、そんな……」

「寿也!」

 

 祖父の真剣な瞳に射抜かれ、思わず言葉を失う。

 

「何よりわしらは、おまえに笑顔でいてほしい……。ただ、それだけなんだ」

「……おじいちゃん……」

 

 祖父の言葉が、深々と突き刺さる。ちゃぷんと音をたてる湯よりずっと、寿也の心は深く揺さぶられた。

 

 

 *

 

 

 

 翌日。電子音を鳴らす体温計を見下ろして、寿也は深くため息をついた。

 

(勉強に集中したいとか言っておいてこれか……。笑えないな……)

 

 入学してから皆勤の寿也だったが、流石に発熱している状態では休まざるをえない。こうなったらとにかく寝て早く治すしかないと、寿也はベッドに潜り込んだ。

 

──俺……おまえが受けてくれて、本当に嬉しかったんだ!

 

──わしらは、おまえに笑顔でいてほしい……。ただ、それだけなんだ。

 

「………」

 

 熱に浮かされているせいか、吾郎と祖父、ふたりの顔と声が交互に浮かんでは消え、また浮かぶ。寿也は目をきつく閉じ、微睡みが訪れるのをひたすらに待った。

 

 

 そんなことを繰り返しながら、やがて眠気が完全に過ぎ去った頃には夕方になっていた。

 

(少し楽になったかな……)

 

 祖父母もそろそろ仕事を終えて帰ってくる頃合いだろう。心配をかけないようにしないと……などと考えて、思わず自嘲する。そういう考え方がよくないのだと、ゆうべ祖父に指摘されたばかりだというのに。

 でも、人間なんてそう簡単には変わらない。……変わらなさすぎる人間が目の前に現れてしまったから、余計にそう思う。

 

 とりあえずトイレに行こうと起き上がり、部屋を出る。──と、それとほぼ同時に呼び鈴が鳴った。

 なんとも間の悪い来客だと思いつつ、良くも悪くも真面目な寿也には居留守という発想がなかった。ふらつきながらも一歩一歩階段を下り、玄関に向かう。はい、とかすれた声で応えながら古びた戸を開けると、そこに立っていたのは予想だにしない人物だった。

 

「よぉ、トシ」

「えっ……ご、吾郎くん!?」

 

 玄関先に立っていたのは他でもない、きょう一日さんざん頭の中を掻き回した幼馴染だった。反射的に扉を閉めようとすると、慌てて押さえつけられる。

 

「ちょぉっ、なんで閉めるんだよ!?いくらなんでもひでーぞ!!」

「い、いやその……風邪うつすとよくないから……」

「センセーに頼まれてプリント持ってきただけだから!ミッションはクリアさせてくれよ、な?」

「………」

 

 必死な吾郎に圧され、渋々扉を開ける。果たして吾郎は「ほらよ」と紙の束を手渡すと、小さく息をついた。

 

「……じゃ、そーゆーことだから」

「え、あっ……吾郎くん……」

 

 そのまま踵を返そうとする吾郎を、思わず呼び止めてしまう。

 

「……どしたィ?」

「あ、いや……本当に、そのためだけに来たの?」

「そりゃあ……クラスメイトだからな」

 

 ふ、と笑って吾郎はそう言った。突き放すような雰囲気は微塵もない。ただ寿也の気持ちを汲み取っているかのような振る舞い。

 なおさら、寿也の心は揺れる。

 

「……俺がいねえ間に、おまえにもできちまったんだろ。野球を捨ててでも守りたいもんが」

「!………」

「悪かったよ、俺ばっか浮かれてて。……でもやっぱり、俺はおまえに受けてほしかった」

 

 そう言って再び立ち去ろうとする吾郎を、寿也はもう一度留めた。今度は、明確な意志をもって。

 

「ちょっと待ってて」

 

 そう言っていったん家の中に戻り、二階へ駆け上っていく。熱の後遺症か足に力が入らないのも、今だけは気にならなかった。

 

──程なく玄関先に戻ってきた寿也は、古びたグローブを懐に抱えていた。

 

「!、トシ……おまえそれ……」

「……そう、きみがくれたグローブ。不思議だよね……ここに引っ越してくるとき殆ど私物は処分したのに、これだけは捨てられなかった」

 

 本当はまた、野球がやりたかった。──吾郎の球を捕ることを夢見ながら、かなうわけがないと思っていた。でも現実に、吾郎は今目の前にいる。

 

「……本当のことを言うよ、吾郎くん。きみの球をまた受けられて、僕、すごく嬉しかったんだ……!また本気で野球やりたいって、心の底からそう思った……っ」

「……!」

「でも僕、こわいんだ……!人の気持ちなんて簡単に変わる……!きみも皆も、おじいちゃんたちも……僕自身でさえも、本当に信じていいのかわからない……っ、わからないんだ……!」

「トシ……」

「きみとの約束を、信じたいよ……。でも、心のどこかで信じられない僕がいるんだ……っ」

 

 祖父母に期待はずれだったと失望される、野球への熱意を失ってしまう、吾郎がまた自分の前からいなくなる──あらゆる可能性が、寿也には恐ろしい。ならば今のままでいい、永遠に続く凪のような人生のままで──

 

「……だったら!」

 

 吾郎が、かすれた大声をあげた。

 

「だったらもう一度、おまえに約束する!おまえを必ず甲子園に連れていくって……!おまえを、日本一のキャッチャーにしてやるって!」

「吾郎、くん……」

「俺を信じろ、寿也!!」

 

 吾郎の真剣な瞳が、寿也を射抜く。──昨日の祖父と同じ。ただひとつ異なることがあるとすれば、

 

(ずっと離れていても、きみは何も変わっちゃいない)

 

「……やくそく、だよ。吾郎くん……」

「ッ、ああ!」

「破ったら、絶対に許さないからね……!」

「ああ……!」

 

 それからはふたりして幼子のように泣きながら、手を取りあって笑いあった。間もなく帰宅した祖父母には何事かと驚かれてしまうのだけれど、それはまた別の話。

 

 

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