清水さん、ごめん
12月。枯れ葉舞い散る曇り空の下で、夢島高校新生野球部の熱のこもった練習は続いていた。
「っしゃあいくぜ泉ぃ!!」
「……来い!」
バットを構える泉祐一に対し、弾丸のごとき速球を投げ込む吾郎。泉はすかさずバットを水平に構えると、彼から見て左手──つまり三塁方向にボールを転がした。そのままバットを捨てて一塁へ走る。──これは試合ではないので、一塁手はいない。そのまま彼はダイヤモンドを踏み、立ち止まってひと息ついた。
「これがバント。今の泉みたいに出塁できればセーフティー、だめでも進塁打になれば送りバント。三塁にいる走者をホームに還すためのバントをスクイズと呼びます。それくらいは皆も知ってるだろうけど、一応改めて教えておくね」
「お、おぅ……」
「なるほど……。あれなら本田のような球でも、ヒットにできるというわけか」
「っし、早速やってやるぜ!」
バット片手に意気揚々に打席へ入る児玉。「お〜来た来た」と挑発めいた笑みを浮かべつつ、吾郎はふたたび投球動作に入った。
「オラァ来いやぁ!!」
「言われなくても投げるってーのっ!!」
全力……ではないにしても、それに近い投球。普通なら手も足も出ない児玉だが、今日は得意満面でバントの構えをとってみせた。
刹那──コン、と音をたてて、ボールが
「あ、」
「………」
立ち上がった寿也がボールの落下点に移動する。そのまま落ちてきた白球は、果たしてミットに納まっていた。
「………」
「……打ち上げたらアウト。スクイズの場合、三塁走者もアウトでダブルプレーになるリスクもあるから、気をつけて」
「なるほど、勉強になった」
*
「あれから何回か練習試合もしたわけやけど、本田の球に慣れてもうたせいかどのピッチャーの球も遅く見えてしゃあないのぉ」
ごくごくとジュースを飲み干しつつ、ごちる三宅。実際練習がてらバッティングセンターに行っても、すっかり物足りなくなっている彼らだった。むろんそれはチームにとって悪いことではないのだが、別の問題も浮き彫りになりつつあって。
「俺たちはいいけど、本田はバッティング練習どうしてるんだろうね」
「そういえば、あいつは練習中ほとんどバットに触れてもいないな……」
自分自身の投球練習もするが、それより皆にあれこれ指南したり、今のように打撃練習の投手役を務めたりと、吾郎は実に忙しく動き回っている。アメリカで質の高い練習をしていただろう彼には、物足りない状況が続いているのではないだろうか。彼はそんなこと、おくびにも出しはしないが──
「そろそろ監督が来てくれるといいんだけど。そのへん南雲先生は何か言ってる、主将?」
「探してはくれてるみたいだけど、こればかりはなかなかね……」
監督はただいれば良いというものではない。特に
「うち女子マネもおらんし、華がないからなぁ〜……おっぱいのでかい美人女監督でも落ちてへんかなぁ〜」
「……ま〜た始まった」
まあ、彼らが至って女っ気のない青春を送っているのは事実なのだが。
*
女っ気がないのは部員ばかりでなく、部長……つまり顧問も同じだった。尤も彼の場合、久々にこれはと思った女性がよりによって受け持ち生徒の母親だったという悲哀を現在進行形で経験しているところなのだが。
「はあぁ、ガキどものお守りも楽じゃねーや……。応援にでも来てくんねーかなぁ、桃子さん……」
そんなことを独りごちながら、校門への途を歩く南雲。熱心に練習試合を組んでいるのは、実のところその呟きのとおりのことが目的でもあった。保護者相手に本気でアプローチを試みるほど怖いものしらずではないが、ひと目逢いたいという気持ちは拭えない。三十路を過ぎてそれは健気というか、哀れというか。
ともあれ憧れの桃子さんに嫌われないため、今日も今日とて顧問の仕事をこなそうと意気込んでいると、校外に出たところで声をかけてくる者があった。
「Excuse me.──こちらは、ユメシマハイスクールで間違いないですか?」
「!」
南雲が一瞬、桃子のことを忘れてしまうほどの美貌の持ち主だった。惜しげもなく垂らした艷やかな黒髪、ぱっちりとした二重は二次元の世界から飛び出してきたかのように美しい。小麦色の肌と程よい肉付きを感じさせる体躯は、健康的な魅力を醸し出していた。
ぽーっと見蕩れてしまう南雲だったが、桃子と異なり相手は高く見積もっても彼よりひと回りは若い青少年である。ゴホンと咳払いをして、表情を引き締めたうえで歩み寄った。
「え、えぇ、そうですよ。何か御用ですか?」
「ハイ。私、会いにきたんです」
「会いにきた?誰に?」
尋ねながら南雲には引っかかる部分があった。ところどころイントネーションがおかしいのと、時折混じる流暢な英語。そう、まるで南雲もよく知る誰かのような──
女はにこりと微笑み、こう応えた。
「ゴローに、です!」
*
「ごめん国分。今日弟の迎えあるから、そろそろ帰らないと」
「あぁ……もうそんな時間か。ちょっと早いけどキリもいいし、そろそろ終わりにしようか」
「せやなぁ、腹ぺっこぺこやわ」
「しかし良いのか?南雲先生がまだ来ていないが……」
南雲は日によって最初からいたり遅れて来たりなので、いようといまいと活動は始めてしまうのだが、いちおう毎日顔は出してくれている。同好会時代を考えれば信じがたい進歩である。
「どのみち学校に戻るんだし、ひと言挨拶していけば大丈夫だよ」
「ちぇっ、せっかくあったまってきたのによー。まあ家で投げ込みすっからいいけど」
「オーバーワークにならないようにね、吾郎くん」
「わーってるっての。母ちゃんかよ」
そんなやりとりを聞きながら、微笑ましく思う一同。寿也もすっかり、彼の女房役である──
と、皆が引き揚げようとしたところで、折り悪く南雲がやって来た。
「うーっす、すまん遅くなった……って、練習終わりか?」
「え、えぇ、まぁ」
「そりゃラッキ……じゃない、残念だがしょうがないな。うん」
「………」
なかなかの失言を洩らす南雲であったが、皆の意識は彼の背後にのみ向けられていた。
「あの、先生……そちらの方は?」
南雲の背後に立つ黒髪の女性。既に陽が落ちている中であるため、その顔は皆にはよく見えない。──しかしぼんやりとした風貌を目の当たりにした途端、少し離れたところで水分補給をしていた吾郎が盛大に飛沫を噴き出した。
「うわっ、吾郎くん!?」
「ちょっ……ななな、なん、なんで!?」
狼狽する吾郎。その姿を認めた女は──他には目もくれず彼に駆け寄り、
なんの躊躇もなく、抱きついていた。
「
「!?」
「ちょっ……涼子ちゃん、ここ日本だから!」
「!!??」
唖然とする一同。突然現れた美女が吾郎に抱きついたのもそうだが、何かとかっこつけがちな高校生男子とは思えないほど普段は異性に淡白な──そのくせ猥談にはしっかり参加するのだが──吾郎が顔を赤らめ、右往左往しているのはなかなかに衝撃的な光景であった。
それにそれに、"涼子ちゃん"という呼称。
「吾郎くん、その人は……」
「お、おぅ、紹介……紹介するから離れて涼子ちゃん!Let me go,OK?」
「Oh……」
肩をすくめて渋々身体を離す"涼子ちゃん"。皆の刺さるような視線を一身に受けながら、吾郎は彼にしては小さな声で口を開いた。
「……彼女は川瀬涼子、ちゃん。俺の
「トモダチ?」涼子が目を細める。「How rude!……ガールフレンド、でしょ?ゴロー」
そう言ってふたたび吾郎に引っ付く涼子。肯定も否定もなくしどろもどろになる吾郎に、泉がずばりと訊いた。
「……で?どっちが本当なの、本田?」
「い、いやそれはまぁ、毛も生えてねー頃からの至って健全な関係なわけで……」
「つまりガールフレンドやっちゅーんは認めるんやな?」
「……まぁ、」
「裏切者ォ!」と詰め寄ろうとする三宅と児玉を、皆が慌てて押し留める一幕もありつつ。改めて吾郎は、押しかけガールフレンドに向き直った。
「つーか、なんで涼子ちゃんが日本に……?」
「なんでって、そんなの決まってるじゃない。ゴローが久しぶりの日本でムチャするんじゃないかって心配で、居ても立ってもいられなくなったの」
「なんだそりゃ……涼子ちゃんだってヒマじゃねーだろうに……」
「私のことはいいの。──この子たちが、今のチームメイトよね?」
「おう。そういやこっちの紹介はまだだったよな」
仲間たちを紹介しようとする吾郎を手で制し、涼子は笑みを浮かべた。傍目には魅惑的に映る表情だったが、彼女と十年近い付き合いの吾郎は知っている。彼女がこのような顔をするのは、何かを企んでいるときだということを。
「良いわ。プロフィールより、今は知りたいことがあるもの」
「知りたいこと?」
「──皆の実力、かな?」
そう言って、涼子はウインクしてみせた。