吾郎からの"報告"は、夕餉の席に激震をもたらした。
「あ、厚木高校のキャッチャーに会った……!?」
「しかも、厚木高校と練習試合ができるかもしれへんやてぇ!?」
驚愕の言葉に、吾郎は得意げに鼻を鳴らした。「まだ決まりじゃねえけどな」と付け加えるのも忘れない。
「あいつ、俺の球見て感激してたし……きっと上手くいくさ」
「それは……そうだろうけど……」
「……なんだよお前ら、もっと喜べよ。せっかく神奈川イチの名門とやれるかもしれないんだぜ?」
思ったより皆の反応が芳しくない。というか、戸惑いが戸惑いのまま広がってしまっているような雰囲気だった。
噛んで含めるように、寿也が口を開く。
「唐突すぎるんだよ吾郎くんは……。相手は神奈川どころか日本一の名門なんだ、すぐには心の準備ができないよ」
「唐突なのはしょうがねえだろ……俺だってまさか、こんなとこで連中の顔拝めるなんて思ってなかったんだから」
「──でも、良い機会なのは確かよ」
「!」
そう言いながら食堂に入ってきたのは、彼らより二歳年長の女性コーチだった。
「あなたたちの真の実力が、ようやく発揮できる。もちろんそれで勝てるかどうかは別問題だけどね」
「………」
実際、チームの総合力は比べるのも烏滸がましいだろう。唯一彼らに匹敵する実力をもつのは現状吾郎ひとり──つまり投手力で、彼らをも上回ることができるかどうか。
「……どうせやるなら、勝ちに行こうよ」
意を決したように言ったのは、我らが主将だった。
「実力は圧倒的に向こうのほうが上かもしれない。練習の質も量も、まだ及んじゃいないんだから……でも、僕らだってこの半年近く、本田と一緒に一生懸命やってきたんだ!」
「国分……」
「何より、最初から負ける気で試合するなんて、相手に失礼だ」
国分の声、そして表情には、彼本来の熱血がありありと現れた。──中学の時と違うのは、その意気の強さが絶対的エースによって導かれたものであるということ。そして……他のチームメイト達も皆、彼についてきてくれるということ。
「ああ、やろう!」
「俺らがただの弱小チームじゃねえってとこ、見せてやろうぜ!」
気炎を上げるナインは、紛れもない本物の高校球児になりつつあった。その姿を見て、涼子は微かに笑う。精神論ぶるつもりは毛頭ないが、野球に限らず競技では勝利への意志をもたざる者に未来はない。いくら吾郎が強力でも、彼とともに練習を重ねても、ここで尻込みするようなら全国制覇など夢のまた夢だからだ。
「……つーわけだからいいよな、南雲センセー?」
思い出したように訊いてくる吾郎に、名目上は野球部の代表者たる男は盛大に溜息をついた。
「ハアァ……俺の立場がねーよ全く……」
「そ、ソーリー……」
「つーかまだ決まりでもなんでもないんだろ?その小森って子にどんだけ発言権があるってんだ。ああいう名門は基本部員なんて駒だぞ駒〜」
「えらい偏見……」
「それ外で絶対言わないでくださいね……」
生徒にそう注意される教師というのもなかなかのものである。せっかくの盛り上がりに水を差された状態なのは確かだが、実際、試合が実現するかどうかはまだ決まっていないのは事実だ。
「吾郎くん、いつ頃連絡がくる予定なの?」
「いやまぁ、今晩中くらいには来るんじゃねーかなぁ……?」
「………」
これでやはりダメでしたとなったら、それこそ針の筵である。「小森ぃ〜!」と内心祈っていると、まるでそれが神に通じたかのように懐の携帯が鳴動した。
「おっ、噂をすればだぜ!」
なかなかの勢いで端末を取り出し、通話を受ける。スピーカーから聞こえてきたのは言うまでもなく、あの印象的な柔らかい声だった。
『もしもし、本田くん?小森です』
『いきなり電話でごめん、早く伝えたくて。監督に相談したんだけど──………』
「おう……おう、そうか。ありがとな……ああ、じゃあ──」
通話自体は用件を伝えるだけに終わった。ふぅ、と息をつく吾郎に、皆がやきもきする。
「どうだったの、ゴロー?」
「……へへっ」
振り向いた吾郎は、満面の笑みとともに親指を立ててみせたのだった。
*
「ふぅ……」
入浴を終えた寿也は、大部屋に直帰せずなんとなく館内をぶらついていた。身体だけでなく、心のほうまで相当に熱をもってしまっている──吾郎が齎した、何度目かもわからない嵐によって。
無論、それが嫌なわけではない。ただ少し独りになって、熱を冷ましたかったのだ。捕手は常に冷静な視点を持ち、チームをリードすることが求められる。特にいちばん深い関係となる投手は、言うまでもなく先へ先へ行ってしまいがちな少年なので。
ただ彼とは少し異なる理由で、同じ行動をとっている者が他にもいた。
(……泉くん?)
デッキに浮かぶ小柄な背中。彼とは何かと波長が合うと感じている寿也は、思い切って自らもそこに出ていった。気配に気づいた彼が、猫のような目を瞬かせながら振り返る。
「……佐藤、」
「どうしたの?あまり夜風に当たりすぎると風邪ひくよ」
「あぁごめん。ちょっと……センチになってた」
「きみが?……珍しいね」
思わずそうこぼしてしまった寿也である。泉はその風貌に反してと言うべきか、現実主義的で物事をドライに見ている傾向にある。だからといって決して後ろ向きではないところが、彼が皆、とりわけ三宅や国分に好かれ頼られる理由なのだろうが。
「笑わないで聞いてほしいんだけど……俺、これでもシニアじゃ出世株扱いされててさ。お前なら厚木高校にスカウトもされるんじゃないかなんておだてられて、その気になってたんだ」
「!凄いじゃないか……いや、そう言われてたって不思議じゃないよ。実際きみはそれだけ上手なんだから」
「ありがと。まぁどのみち、昔の話だよ」
ただ"家庭の事情"がなければ、泉は本当に厚木高校に行っていたのではないだろうか。そして今ごろはスタメンの遊撃手として、華々しい活躍を繰り広げていたかもしれない。むろん順風満帆に進学できていたとしても、そこまで上り詰めるのは容易ではなかっただろうけれど。
「わかるよ、その気持ち。僕も……リトルまでで野球をやめたりしていなければ、厚木高校を目指していたかもしれない」
「………」
「でも僕は、何より吾郎くんの球をいつか受けたいと思って野球をしてたから。紆余曲折はありすぎるくらいあったけど、結果的に今ここでこうしてることに不満はない……かな」
「……そっか。強いな、佐藤は」
未練がないかと言えば、嘘になる。ずっと心の奥底に燻っていた感情が、自分がいたかもしれない場所を現実に占める者たちと対峙して、一挙に膨れ上がってしまったのかもしれない。
「その気持ちを無理に押し込める必要は、ないんじゃないかな」
「え……」
「だって泉くんも、このチームが大好きじゃないか。見てればわかるよ。だったらそれは自然と、負けたくないとか、頑張ろうって気持ちに変わっていくんじゃないかって思うんだ」
「………」
「まずは明日、全力で、僕ら落ちこぼれの意地を見せてやろう!」
その言葉に、泉は目を丸くしたまま固まった。寿也なりに最大限の激励のつもりだったが、言葉選びを間違えてしまったか。なにせこういうことを自発的に言うのは本当に久しぶりなのだ。
しかし、その心配は杞憂だったらしい。次の瞬間ぷっと噴き出したかと思うと、泉は堰を切ったように笑い始めた。
「あ、ははははっ!ははははは……!」
「な、なんだよ?」
「いやだって、落ちこぼれって……!優等生の佐藤の口からそんな言葉が出るとは思わなくて……はははっ」
「いやまあ、学業ではそうかもしれないけど……」
「ま、まあ言いたいことはわかるけどさ……あー、おかしい」
ひとしきり笑うと、泉は溜飲を下げたようだった。どこかすっきりした表情で、寿也の顔を見上げる。
「そろそろ戻るよ。これ以上部屋空けてると三宅が騒ぎ出すし」
「あ……そうだね、そのほうがいいかも」
踵を返して立ち去ろうとして──「あ、」と立ち止まる泉。
「佐藤さ、そろそろ呼び捨てでもいいんじゃない?皆のこと」
「えっ……」
「だってまごつくでしょ、試合のときとか」
いつものクールな口調でそう言うと、泉は颯爽と去っていった。
*
真冬の長い熱帯夜が終わり、翌日。既に太陽が西へ回った午後一時が、厚木側の指定した時刻だった。
その時間ぴったりに、夢島チームは彼らの借りているグラウンドへ足を踏み入れる。──そこで待っていたのは、彼らの予想だにしない人物で。
「お待ちしてました、夢島学園高校の皆さん♪」
「……?」
朗らかな笑みと媚びるような猫なで声。年の頃は二十代半ばくらいだろうか。艷やかな黒髪の美女という点はこちらのコーチャーと共通しているが、自身も野球選手である涼子に比べると細身の、モデルのようなプロポーションをしている。色々とお盛んな男子高生たちの中には、見とれてしまう者もいないではなかった。……いや男子高生でない南雲が、その筆頭なのだが。
とはいえ彼も社会人なので、表向きの態度は取り繕って前に進み出た。
「こちらこそお待たせしてすみません、夢島高校野球部顧問の南雲と申します。あの、そちらの監督さんはどちらに?」
「私です」
「はぇ?」
「私が厚木学園高校野球部、
「──!?」
呆気にとられる一同。その反応を予期していたかのように、早乙女は悪戯っぽく笑った。
「あら、毎年甲子園優勝してるようなチームの監督が女だっていうのがそんなに不思議?」
「あ、いやそういうわけでは……」
実際まったく図星だった。こちらも事実上の監督は女性なのだが、彼らとは状況も何もかも異なるのだから。
「構いませんよ、そういう反応には慣れてますので。本日はどうぞよろしくお願いします」
「よ、よろしくお願いします……」
すっかり出鼻を挫かれてしまった夢島一同である。しかしそんな些末なことにかかずらっていられるのも、グラウンドのベンチに複数の人影が現れるまでだった。
「──!」
シンプルな白に縦縞の入ったユニフォームを纏った球児たち。──何者かなど窺うまでもない、厚木高校の面々だ。先入観もあるのかもしれないが、醸し出すものが他とは……帝仁高校の面々とさえ、明らかに異なる。
一方その厚木チームの構成者たちは、つまらなそうに夢島ナインを眺めていた。
「あいつら、どこ高校っつったか」
「夢の島がどうこうとか言ってなかった?」
巨躯のスキンヘッドの少年と八重歯の特徴的な小柄な少年が、底意地の悪い声でそんなやりとりをかわす。一方で、
「で、おまえが見初めたピッチャーってのはどれだ、小森?」
「ちょうど今手を振ってる人だよ、薬師寺くん」
ぶんぶんと手を振ってくる吾郎に、小森も控えめに応じた。尤もこちらのスタメンを知ったら、彼は肩透かしを食らうかもしれないが。
「チームの総合力は未知数だけど、少なくとも彼の球だけは一見の価値があると思う」
「ふん……まあ、おまえがそこまで言うなら」
皆、唐突に組まれたこの試合に納得しているわけではない。規定ぎりぎりの人数しかいない新興の弱小チームなど相手取るくらいなら、延々シートノックでもしていたほうがましだとさえ考える者ばかりだろう。
それは客観的にみても間違ってはいないかもしれない。けれど思い上がり、驕りにつながる考え方であるのも事実だ。しかし吾郎の球を見れば皆、少なからず考えを改めることだろう。
(ごめん本田くん、きみを利用させてもらうよ)
チームのために。この未知との遭遇が大きな意味をもつと、小森は確信していた。