2回からツーベースヒットを放たれた夢島ナイン。彼らが放ったそれとは同じようで、その意味はまったく異なる。吾郎が打ち崩されるというのは、彼らにとって黄信号が灯ったも同然なのだから。
薬師寺を塁に出してしまった以上、もうヒットを出させるわけにはいかない。吾郎のなりふり構わぬ全力投球は、果たしてその点について
「セーフ!」
「……っ!」
厚木チーム、1点先取。当然という言葉すら生ぬるい、世の摂理そのものたる結果だった。
*
「──ぉおおおおっ!!」
「っ!」
「ストライク、バッターアウト!スリーアウトチェンジ!」
「──トシ、次はお前からだろ。頼んだぜ」
「あ……吾郎くん、」
何事もなかったように声をかけてくれる吾郎だが、それに乗っかってけろっとしていられる寿也ではなかった。
「……ごめん、皆。僕の判断ミスだ。あそこはフォアボールにしてでも、慎重に運ぶべきだった」
「………」
皆の視線が集中する。そこに彼を責めるいろはない。それができるほど、皆、何かを為してはいないのだから。
唯一、その資格があるとすれば。
「そうだな、おまえの責任だ」
「!」
冷たくも聞こえる吾郎の声に、皆が唖然とする。「本田!」と国分が咎めようとするが、彼の言葉には続きがあった。
「でも、おまえの判断に乗った俺の責任でもある」
「!………」
「試合はまだ始まったばかりだ。一個一個のミス引きずってたら、できることもできなくなっちまうぜ」
そう言って不敵に笑うと、吾郎はバットを差し出してきた。寿也はそれを受け取り、静かに頷いた。
『5番キャッチャー、佐藤くん』
打席に立つ寿也。先ほどとは逆の立場で、ふたたび米倉が表向き友好な声をかける。
「さっきは残念でしたね。ま、ドンマイです」
「……どうも。でも気にしないでいられるほど、僕は図太くないので」
「ははっ、図太くなきゃキャッチャーは務まりませんよ」
どこまでも口の滑らかに回る男だと、内心寿也は思った。だがそのおかげで、かえって余計な憂鬱も紛れるというものだ。
「そうですね。僕はまだ、キャッチャーとしては未熟だ」
リトルでは評価されていたけれど、自分はそこで一度終わってしまった人間だ。高校まで努力してきただろう彼らとは、五年もの埋めがたい差がある。
(だけど……だからって、吾郎くんに甘えてばかりはいられない……!)
自らの失点は、自らの手で贖うしかない。寿也はバットを構え、マウンドを見据えた。
プレーの号令がかかり、渡嘉敷が初球を放る。寿也はそれがゾーン内にくると見るや、躊躇なくバットを振った。
叩きつけられた白球がフェンスを直撃する。……とはいえ、ファウルゾーンの範疇だが。
「い、いきなり初球から……」
「やけくそになってないか、佐藤……?」
皆が縋るように吾郎と涼子を見るが、彼らは表情を変えぬまま寿也を見守っている。彼は二球目もバットを振り、ファウルボールにした。
(ちっ、一応一球外すか)
米倉のサインに頷くと──つまらなそうな顔でだが──、渡嘉敷は三球目を投げた。明らかにボールだとわかる軌道。しかし寿也はやはりバットを振った。
「ファール!」
「なっ……何しとんのや佐藤!今の明らかにボールやろ、見てかんかい!」
「……コーチ。佐藤、あのままにしておくのはまずいんじゃ?」
草野が訊くが、涼子は「いいから」と取り合わない。吾郎も普段の饒舌さが嘘のように言葉を発しなかった。ふたりの投手経験者の気持ちが理解できぬまま、彼らは寿也の打席を見守ることしかできない。
一方の厚木バッテリーも、寿也が自棄になってバットを振っているだけだと判断していた。ほくそ笑む米倉のサインに、渡嘉敷もようやく笑って頷く。
そして四球目。完全に打ち取るつもりで放たれたスライダーを前に、寿也は全力でバットを振り抜いた。
──グラウンドに、ひときわ大きい金属音が響く。
「え──」
「な……!?」
渡嘉敷と米倉……否、厚木ナイン全員が、その光景を呆然と見つめていた。──ボールがフェンスを越え、外のくさむらに姿を消すのを。
「……やるじゃん、トシ」
皆が歓声をあげる中で、吾郎は不敵な笑みを浮かべ、涼子と顔を見合わせていたのだった。
*
弱小校の打者相手に、本塁打を打たれた。その事実は渡嘉敷を少なからず動揺させた。6番の三宅を四球で出塁させてしまったのを皮切りに、7番寺門に二安を放たれ、ノーアウト一・二塁。さらに8番丸山が送りバントを成功させ、走者ふたりに進塁を許してしまう。
そして、
『9番ライト、児玉くん』
「頼むぜ最終兵器〜!!」
「ランナー返せ〜!!」
皆の声援を背中に浴び、揚々と打席に参じる児玉。吾郎が来る前はエースで4番を自任していたこともあって、今のポジションも打順も最初から納得して受け入れていたわけではない。──そこで彼に与えられた称号が、"夢島の
そんな彼の、この試合における初打席の結果は。
「どりゃあぁぁ!!」
力まかせのフルスイングで命中させたボールは、一塁方向に転がっていった。大場はあっさりそれを捕球して児玉をアウトにすると米倉に送球、逸って三塁を出発してしまっていた三宅をタッチアウトにしてしまったのだった。
「えぇ……」
「うわぁ……」
言葉もないベンチ待機組。チェンジが宣告され、とぼとぼと戻ってくる走者組──寺門は除く──への皆の視線は厳しいものがあった。
「なんであそこで走るかな……」
「す、スマン。最終兵器がまさか凡打かますとは思わんくて……」
「あ゛ぁ!?俺のせいかよ!!」
「なんや文句あるんか!」
「なんだこの野郎!」
「やめろよみっともない!」
「……
主将の一喝と呆れきったコーチャーの言葉に、しゅんと項垂れる6・9番なのだった。
「……春来たり 最終兵器 花と散る……ってとこかねぇ」
「一首詠まないでください先生」
一方、揃って引き揚げていく厚木ナイン。
「渡嘉敷からホームラン打ったかと思えばあんな初歩的なゲッツーやらかすなんて、どういうチームなんだあいつらは」
「偏差値格差が著しいんだろ。あのキャッチャーと二遊間あたりは馬鹿じゃなさそうだ」
「………」
偏差値の話をされると耳の痛い渡嘉敷だったが、今となってはそれ以上に深刻な問題が発生している。
それを裏付けるように、放送席から猫なで声がかかった。
「渡嘉敷くん」
「げっ、監督……」
「げ、って何かしら?……まぁいいわ。次あんな醜態を晒したら……わかってるわね」
「!!」
静香はただの現場監督ではない。彼女の父親──早乙女義治は厚木学園高校の代表監督であり、事実上の理事長ともいえるだけの権力をほしいままにしている。その威光を背にした彼女なら、いち部員の処遇などチェスの駒を動かすように容易く玩ぶことができるのだ。渡嘉敷は冷や汗を流しながら、ぶんぶんと頷くしかなかった。
*
3回は両チームとも無得点に終わり、続く4回表。2番関と3番米倉をなんとか抑えた吾郎だったが、ここでふたたびあの男が打席に立つ。
『4番サード、薬師寺くん』
つい先ほどの苦い記憶が甦る。とりわけ寿也には、捕手としての実力不足を知らしめられた相手でもある。
(今度こそ……!)
サインを出す。吾郎が頷く。投げる──先ほどと同じ、際どいコース。
薬師寺はつまらなさそうに鼻を鳴らすと、それを打った。打球がファウルゾーンの外側へと飛んでいく。
「ファール!」
「………」
(さっきまでと同じか?だとしたら、馬鹿のひとつ覚えだな)
(……油断しないで、薬師寺くん。彼ら、きっと何か仕掛けてくる)
まるでテレパシーで通じ合っているかのように、厚木ベンチの小森が心の中で呟く。
(……あるいは、小細工かもしれないけど)
ストライクゾーンに入る球をことごとくカットし続ける薬師寺。そうこうしているうちにボール球も重なり、スリーボールまでカウントが埋められる。──守備側が、追い込まれた形だ。
(さあどうする?またど真ん中に来るか?)
そうしたら、今度こそホームランにしてやる──先ほどそうできなかったことは、薬師寺にとっても心残りだった。
一方の吾郎は──寿也からのサインを受け取って、遂にこのときが来たかと思った。だが、やるしかない。
(いくぜトシ……。ちゃんと、受け止めろよっ!!)
大きく腕を振りかぶって手から離れたボールは、今までより随分と遅く、軽く見えた。
(!、すっぽ抜けたのか?)
いずれにせよ、この好機を逃す手はない。本塁打を確信しながら、薬師寺はバットを振り抜こうとする。
しかし、それこそが夢島バッテリーの狙いだった。バットに命中する直前、ボールは弧を描くようにして沈んだのだ。
「!?」
驚きながらも咄嗟に軌道修正し、薬師寺はかろうじてバットに命中させた。しかし力なく飛翔したボールは一・二塁間に向かっていく。「任せろ!」と飛び出した国分がそれを捕球し、アウトが宣告された。
「な……!?」
「あのピッチャー、変化球持ってたのかよ!?」
厚木ベンチが驚愕する中、小森はじっと冷静な瞳をマウンドに向けていた。
(なるほどね、そう来たか)
時を遡って、4回表に入る直前。ベンチから出ようとする吾郎に"それ"を提案したのは、寿也だった。
「……俺に、変化球を使えってのか?」
「薬師寺を打ち取るには、それしかない」
「そう思うか?」
「………」
吾郎の澄んだ瞳が、真っ直ぐに寿也を射抜く。一瞬、言葉に詰まった。躊躇いが生まれた。いっそ不快感を露にしてくれたなら、真っ向から反駁することができたのに。
「……わかった。おまえがそうしたいってんなら、そうするよ」
そう言って、吾郎は了承してくれたのだけど。
結果として、薬師寺は文字通り手玉にとった。しかしこの手が何度も通じるはずがないことは明らかで。
つまるところ彼らは未だ、一歩たりとも勝利に近づけてはいないのだった。