「アメリカに、戻ろうと思う」
吾郎の言葉に、寿也は悪夢を見せられているのだと思った。それも高熱に魘されているときのような、度し難い悪夢を。
「だからさトシ、おまえも──」
「……なんだよそれ……」
「へ?」
「なんだよそれっ!!」
ここが相手の家であることも忘れて、寿也は吾郎に掴みかかっていた。
「日本一の名門校に負けたから、自分より凄いかもしれないピッチャーがいたからって、僕らのことを見捨ててアメリカに逃げ帰るの!?このチームで日本一になるんだって言って、ただ野球を楽しんでただけの僕らにまで火を付けたくせに!!」
「と、トシ、何言って……」
「約束したじゃないかっ!!」
必ず甲子園に連れていくと──寿也を、日本一の捕手にするのだと。
「それなのに、練習試合で一回敗けただけで僕を……僕らを見捨てるの!?吾郎くんにとって、約束ってそんなに軽いものだったのかよ……っ!」
最後のほうは殆ど涙声になっていた。目尻の裏から熱いものが溢れて止まらない。もはやそれ以上は言葉にならず、ぐすぐすと鼻を啜るばかりになった寿也のまだ細い肩に、吾郎はそっと手を置いた。
「……悪ィトシ、俺の言い方が悪かった。おまえに誤解させちまった」
「……誤解……?」
「アメリカに戻るのは少しの間だけだよ。ま、シュギョーのし直しってヤツだな」
「あ……」
吾郎の言葉をよくよく噛み砕いて──寿也は、かああっと赤面した。アメリカに戻るのひと言だけで、完全に曲解してしまった。それで年甲斐もなく取り乱してしまったのだから、もうまともに吾郎と視線を合わせられなかった。
「俺がいなくなるのが泣くほどイヤだったのか?ははっ、so cuteだネーマイワイフ」
「や、やめろよ……!僕は……本当に……」
「あー、悪かったって。……で、こっからが本題なんだが」
「……?」
「おまえも来ねえか、トシ」
「!え……」
一瞬、二の句が継げなくなる寿也。そういう反応は予想できたのか、吾郎は彼の反応を窺うように続ける。
「つーか、来い。あっちには俺の知る限り最強のバッターがいる。バッティングもそれに対抗するキャッチングも、勉強になると思うぜ」
「それは……」
行きたい。まずその思いが先行したのは間違いなかった。しかしそういう欲求が芽を出すたびに、瞬時にそれを抑えつけてきたのが彼を取り巻く環境だった。
「……アメリカには、どれくらいの間いるつもりなの?」
「
「………」
寿也の脳裏に浮かぶ懸念は、やはり金銭的なことだった。春休みの約二週間、それだけ滞在するとなれば費用もかかる。生活のために老後の楽しみらしいこともなく、日夜働いている祖父母に対し、それを工面してくれとは言い出せそうもなかった。
「カネのことなら心配しなくていいぜ。ギブソンのセカンドハウスを使わせてもらうつもりだからな」
「ギブソンって……ジョー・ギブソンの?」
「そ。まあ聞いてみねえことにはだけど、実際何度か使わせてもらってるからな。ベースボールのムシャシュギョーだって言えば喜んで貸してくれると思うぜ」
「……ほんとに、家族ぐるみの付き合いなんだね」
自分の知らない十年分の吾郎を、彼らは知っている。それだけのことも、羨ましく思える。
ただ今は、そんな嫉妬など些末なことだった。
「皆は、誘わないの?」
「それは……正直、迷ってんだ。国分あたりは喜んで来るかもしれねえけど、あいつらも事情があるわけだし……色々すっ飛ばしてアメリカっつーのもな」
「色々すっ飛ばして、人数も足りない同好会を日本一のチームにするって言い出した人が、それ言う?」
「……えへへっ」
笑って誤魔化そうとしても、ごつい男である。かわいくはない。
(なんだかんだ皆には気を遣ってる吾郎くんが、僕には迷わず声をかけてくれたんだ)
バッテリーだから、幼馴染だから、"約束"があるから──いや、理由はなんだっていい。その事実が、今は嬉しかった。
「……わかった。僕も行くよ、武者修行」
「本当か!?」
「うん。でも、皆にもちゃんと話したほうがいいよ。……何も知らされずに置いていかれるのは、きっと、辛いから」
「トシ……」
普段は決して見せない寿也の心の傷が垣間見えた気がして、吾郎は唇を引き結んだ。──それは、野球で埋められるものなのだろうか。
「誘ってくれてありがとう、吾郎くん」
でも今は、そう言って笑う寿也がまぶしかった。
*
進級できなければアメリカどころではないと、吾郎は試験勉強も頑張った。というか、寿也の指導のもと頑張らされた。こと学業となると、恋人に別離を告げられた乙女のようにみっともなく泣いていたのが嘘のように冷徹な鬼監督と化す寿也は、吾郎にとって両親以上に恐るべき存在となったのだ。
というわけで、学年末テスト当日……というか、三日目。如何せん教科数が多いうえ、実技科目の筆記もあるから四日に跨って試験が行われるのだ。学生たちにとって幸いなのは、昼で放課となることくらいなものだった。
「はあぁ、ようやっと三日目終了や〜……」
机ですっかりだらけている三宅を見下ろしながら、泉はため息をつき、寺門は苦笑いを浮かべていた。
「まだ明日があるんだぞ、三宅ー」
「わーっとるっちゅーねん!あぁ、家帰っても勉強なんてイヤやぁ……」
「いやそれはしろよ。というか、赤点は逃れられそうなのか?」
「た、多分……本田はどうやねん?」
帰ろうとしていた吾郎に声をかける。「ン〜?」と振り返った顔は、どういうわけか少女漫画のヒーローのような妙にキラキラを纏ったもので。
「フッ……愚問だね。ボクに解けない問題はないのサ☆」
「……誰やこいつ?」
「ついに頭おかしくなっちゃった?」
泉のかわいそうな人を見る目が痛々しい。フォローするように、横から寿也が言った。
「一応、僕がつきっきりで勉強教えたからね。赤点はないはずだよ」
「うわ……さっすが女房役やのぉ」
「しかし人につきっきりで教えていて、自分の勉強は大丈夫なのか?」
「うん。人に教えるって、自分の頭の整理になるからね。ひとりで勉強してるより効率がいい場合もあるんだよ」
「秀才極めた発言だなぁ……」
そんなやりとりをしつつ五人仲良く教室を出、昇降口へ向かう。彼らB組はいいとして、A組の四人はどうだろう。国分と丸山は成績上位組なので問題なかろうが、心配なのは児玉である。一応は進学校である夢島学園によく入れたなと言いたくなるくらい、見事なレッドポイントが並んでいる。
「あれは酷いもんやったでぇ……」
「誰が言ってんだよ」
「児玉はわかったけど、草野はどうなんだよ。あいつ掛け持ちしてるし、勉強してるイメージねえんだけど」
「してないことはないと思うけど……。確かに草野くんの成績、聞いたことないな」
「草野は自分のこと、あまり話さないからな。まあ、相応に努力はしているんじゃないか」
「そうだね、陸上も頑張ってるし」
「せやからな……あいつ、顔の割にモテるんやでぇ」
秘密を打ち明ける子供のような浮ついた声で三宅が囁く。ついでに「佐藤ほどやないけどな」と付け加えるのも忘れない。寿也は「え、僕?」ときょとんとしているが。
「おまえ他人のこと言える顔じゃないだろ」
「そこはええねん!草野が実はモテるっちゅーハナシや!やっぱ足速いのがええんかなぁ、ワイかて速いっちゅーんに……」
「小学生かよ」
「おまえそういうとこだぞ……あ、」
噂をすればと言うべきか。階段を降りきったところで、ちょうど草野が靴を履いているのを見かけたのだ。
「あ、おーい、草野──」
真っ先に呼びかける声の大きい吾郎だが、どういうわけか草野はまったく反応を示さなかった。そのまま足早に去っていってしまう。
「す、スルーされた……!?」
「いや……そもそも聞こえてない感じだったよ」
それに、遠目だったから確信はもてなかったけれど、一瞬伺えた表情はどこか思い詰めているようにも寿也には見えた。
「テスト、よっぽどあかんかったんちゃうかぁ〜?」
「だとしてもおまえよりは上だろうけどね」
「なっ!?なんの根拠があって言うとんねんあいつだって実は赤点組かもしれへんやんけ〜!!」
「それはないな」
「ないね」
「ねーな」
「ない……だろうね」
「なっなんやねんオノレらぁ〜!!」
「佐藤までぇー!」と悲歎の声をあげる三宅。男子高校生らしい話題の移ろいで、やがて草野のことは忘れられていった。彼らが薄情なのではない。試験期間中という特異な状況が、彼らの目を曇らせていたのだ。
──同じA組の面々にも気取られることのないまま、草野は"それ"を成し遂げようとしていた。
(これで良かったんだ、)
(これで、野球に集中できる)
鞄に大切に仕舞われた、一枚の紙切れ。心に決めた選択でありながらも、彼の足取りはただただ重かった。