吾郎が"それ"を発表したのは、草野との一件があったその日の部活動の最後だった。
「あ、アメリカに武者修行!?」
「そ。この前の合宿の……バージョンアップ、みたいな感じ?」
「厚木並に強い連中とも戦りまくれるぜ」と吾郎。やりまくる、という動詞に反応する一部の猿人たちは置いておくとして、
「どうすかね、センセー?」
「……向こうでその、メルギブソン一家が引き受けしてくれるってんなら、まぁ」
「ジョー・ギブソンな。俺にハリウッドスターの知り合いはいねえから」突っ込みつつ、「トシと草野はOKしてくれてる。他にも行ってくれるヤツ、いるか?」
あえて抑制ぎみな聞き方をする吾郎。アメリカに半月などというのは、如何に滞在費用がほとんどかからないと言っても高校生には容易いことではないのだ。本人の意志は当然として、保護者の承諾を得られるかどうか。
「い、行くよ!もちろん行く!」
そう真っ先に声をあげたのは、やはり主将・国分篤だった。次いで三宅と児玉も、
「ワイも行くで。おもろそうやん、アメリカ。パツキンのチャンネーも拝み放題やし……なぁ児玉?」
「パツキン……うへへ」
「……物見遊山に行くんじゃないんだぞ」いつもながら大人な寺門である。
この四人はよしとして──必ずしも積極的な反応を示さなかったのが、二名。
「……泉は、どうだ?」
「俺は……少し、考えさせてほしいんだけど」
「そう……だよな。丸山、おまえは?」
「あ……僕は、その……親に相談してみないと」そう言って、自嘲ぎみに笑う。「うちの親、僕が野球やるのあんまりよく思ってなくて……。この前の合宿も、やっと説得できたところだったから……」
丸山の両親はよく言えば教育熱心、有り体に言えば勉強偏重主義で、丸山は高校に入って初めて運動部に入ることができたのだ。それも活動の限定されている同好会だったから大目に見てもらっていたけれど、今となっては全国制覇をめざす本格的なチームである。成績を保つことでなんとか参加を許されているが、父母がよく思っているはずもなかった。
「……丸山。色々付き合わせちまってんだし、俺にできることがあったら言ってくれよ。頭下げるくらいならいくらでもしてやるからさ!」
ついさっきだって、草野と一緒に陸上部の顧問に頭を下げてきたところなのだ。ボールを握る手はひとつしかないが、下げる頭ならいくらでもある。冗談めかしてそう告げると、丸山はくすっと笑った。
「ありがとう……でも、親くらい自分で説得するよ。付き合わされてるんじゃない、好きで野球やってるんだから」
「!丸山ぁ……!」
感涙に咽ぶ吾郎は、そのままがばっと丸山に抱きついた。
「わわっ……」
「合宿んときも思ったけど、おまえ根性あるヤツだなァ。見直したぜ!!」
「あ、ありがとぅ……ムキムキ……」
吾郎の気持ちは嬉しいが、そういう趣味はない丸山としては女子にやってもらいたかったというのが正直なところだった。
「本田、その辺で……」
「っとと。つーわけで頼むな、皆。じゃ、解散!」
「いやなんでおまえが仕切ってんの」
南雲に突っ込み返される吾郎であった。
*
丸山がアメリカ行きの件を両親に切り出したのは、その日の晩だった。
「アメリカだと?そんなこと認められるわけがないだろう」
冷静だが、厳格な父親の言葉。母もそれに同調する。
「智、パパとママは野球やるのだっていいとは思ってないのよ。もうすぐ受験生なんだから、本当だったら部活なんてしてないで毎日塾に行かないと……。第一、子どもだけで海外なんて危なすぎるわ」
「こ、子どもだけじゃないよ……。向こうにはジョー・ギブソンっていう、本田くんの知り合いのメジャーリーガーがいるんだ。その人が泊まるところも貸してくれるって──」
「とにかく、駄目なものは駄目だ。春休みの間くらい、勉強に集中しろ」
いつもなら、ここで引き下がってしまう丸山である。野球部をやめろとまで言われれば流石に反抗するだろうが、"春休みの間くらい"という親なりの譲歩があるのだから。
でも、今回は。今回ばかりは、そうはいかないのだ。
「──!」
彼は椅子を引き、猛然と立ち上がった。おとなしい一人息子の今までに見たことがない荒々しい振る舞いに両親は瞠目するが、続く行動にはさらに驚かされた。
丸山はその場に膝をつき、額を床に擦りつけるようにして頭を垂れたのだ。
「な、何してるの智!?」
「──悔しかったんだ、僕」
「!?」
何が、と問う暇もなく、丸山は言葉を紡いでいく。
「厚木高校に負けて、悔しかった。相手は日本一のすごいところだってわかってても、自分が情けなくて、もっと巧くなりたいって、そう思った……!そんなふうに思えるくらい、野球が、みんなとする野球が、大好きになっちゃったんだよ……!」
勉強だって、これまで通り頑張る。でもそれと同じだけ、野球を頑張らせてほしい。全身全霊を込めさせてほしい──今まで両親の言うことに唯々諾々と従ってきた智少年が今、初めて自分の意志でそう懇願している。
ややあって機先を制したのは、智少年を険しい顔立ちにしたような父だった。
「……学年末試験の結果が出るのは、来週だったな」
「!う、うん……」
「それで成績が下がっていなければ、好きにしなさい」
「!!」
思わず顔を上げる丸山。母が「ちょっとお父さん!」と咎めるが、彼の意思は固まっているらしかった。
「……俺も子どもの頃、よく野球をして遊んでいた。成長するにつれて離れちまったが、甲子園で頑張ってる高校球児たちを見るたび、他人事だと思いながらも心のどこかで羨ましいと思っていたよ」
「!………」
「本当に好きなら、今できることを全力で頑張れ、智」
今できることを、全力で──吾郎や涼子も口にしていた言葉。それは野球だけではない、すべてにおいて言えることなのだ。
「うん……!勉強も野球も頑張るよ、僕!」
*
一方で──泉祐一は二日が経っても、家族にそれを伝えられずにいた。丸山とは違い、反対を恐れているのではない。ただ……自分の中で結論を出すのに、それだけの時間を要したということだ。
「母さん、来週はどんな感じ?」
「んー……そうねぇ、月水は早く帰ってこれると思う。木曜が……微妙かなぁ」
「わかった、火金は俺がメシ作るから。木曜も遅くなりそうなら早めに連絡して」
「うん。ありがとね、いつも」
「ありがとねー、いつも!」
復唱する陸兎。くすりと笑みがこぼれる。父が家族の前から姿を消してから、三人で身を寄せ合うようにして生きてきた。欠けてしまったものを補い合うように。
でも……今自分がしようとしているのは、そこからひとり逸脱する行為かもしれない。精一杯明るく生きている母と弟を、苦しめることになるかもしれない。それを思うと、なかなか切り出せずにいた。
「……にいちゃん、どうかした?」
と──内心が表情に出てしまっていたのか、陸兎が気遣わしげに問いかけてくる。しまったと思ったけれど、もう後の祭りだ。ここでなんでもないと誤魔化せば、かえってふたりを心配させてしまう。
告げるなら、今しかないのだ。泉は箸を止めて、ふたりに向き直った。
「春休みの、ことなんだけどさ」
「うん」
「野球部でまた、合宿しようってなってて──」
「あらいいじゃない、行ってきなよ」
合宿、というワードだけなら、母はこういう反応になる。彼女は息子が野球をやることには諸手を挙げて賛成で、家庭の事情のためにシニアをやめさせてしまったことを未だ負い目に感じている。
「普通の合宿じゃ、ないんだ。……前に話したろ、本田ってアメリカ帰りの転入生のこと」
「まえにうちにきてくれたひとだよね!」
陸兎が口を挟む。それに頷きつつ、泉は続けた。
「その本田が、春休みの間一緒にアメリカに来ないかって。家族ぐるみの付き合いのメジャーリーガーが協力してくれるから、滞在費用はかからないらしいけど……」
「!そう……なの」
母が複雑な表情をするのは、何も金銭面での懸念だけではないだろう。まだ高校生の長男をひとりで異国へ送り出すこと、幼い次男を家でひとりぼっちにさせてしまうこと──いずれも劣らず心配になるのは、母親として当然のことだと思う。
「行ってきなよ、にいちゃん!」
無邪気さと健気さで、陸兎が真っ先にそう言った。
「アメリカ行けば、もっと野球じょうずになれるんでしょ?おれ、にいちゃんが甲子園いくの見たいもん!」
「陸兎……」
「──祐一、あんたはどうしたいの?」
「……俺は、」
正直に答えれば、もう後戻りはできなくなる。母は自分の気持ちを尊重してくれるだろうから。
それでも祐一少年は、自らが仲間の前で放った言葉に嘘はつけなかった。
「俺……行きたい。アメリカに行って、もっと力をつけたい」
皆と一緒に、甲子園へ行くために。日本一になるために。
「……わかった」
母は大きく息を吐きながら頷いた。
「行ってきな。その代わり、甲子園に応援行くの楽しみにしてるから」
「おれも!」
「母さん、陸兎……」
自分は仲間にも、家族にも支えられている。改めてそのことを自覚して、泉は万感の想いをこめて「ありがとう」と伝えたのだった。