夢島学園高校 第×回修了式。最上級生たちを送り出し、残された生徒たちが一年間の旅路にひとつのピリオドを打つ大事な日である──
「かあぁ……ぐおぉぉぉ……」
──などとは、センチメンタルとは無縁なこの少年には思いもつかないことのようであった。
「ご、吾郎くん……起きて……!」
「本田……!」
前の寿也と隣の列の国分が小声で呼びかけたり、揺すったりして起こそうと試みるが、吾郎はぴくりともしない。教室で椅子に座っているならまだわかる。しかしここは体育館で、整列している真っ最中なのである。立ったまま爆睡するとはやはり凄まじい体幹、などと感心している場合ではなかった。
「だーれーだー、式の最中にイビキかいて寝てんのは……?」
ゆらりと迫る南雲。普段はちゃらんぽらんな印象のある彼だが、こういうときはやはり男性教師だ……などと、こちらも感心している場合ではなくて。
「ったく、緊張感のねえヤローだぜ」
「きみが言えた義理はないと思うけど……まあ同感だな」
最近、わりと気が合う草野と児玉なのだった。
*
型通りの儀式に、通知表の受け渡し──幸い、野球部に落第者は出なかった──。何の変哲もない一連の流れが終わり放課となって、昼食を挟んでいつも通りの部活。皆、何気ない日常としてそれをこなしていく。──明日からの"非日常"に、思いを馳せつつ。
それを踏まえ、練習は日没前には終了となった。最後に、顧問である南雲が皆の前に立つ。
「オホン、えー……明日からお前ら全員遠い異国の地へ旅立つわけだが、くれぐれもトラブルに巻き込まれないように。大人の言うことはきちんと聞いて行動するように。マジでごめんだからな、トラブル対応のためにアメリカ行きなんて」
「は、はは……」
「……相変わらず、赤裸々というかなんというか……」
そういう顧問の態度にも、すっかり慣れてしまった部員たちである。当初は野球部もとい同好会を潰してしまおうと考えていたくらいだから、それでも十分な進歩なのだ。なんだかんだ今は、練習試合を積極的に組んでくれるなどよく協力してくれていると思う。
「まー長々しゃべってもしょうがないし、俺からはこんなとこで。──涼子ちゃん、なんかある?」
「あ、はい」
赤いジャンパーがトレードマークの若き女性コーチャー・川瀬涼子が、化粧っ気のない大きな瞳をゆっくりと瞬かせた。
「……あなたたちが向こうで出逢うプレイヤーたちは皆、メジャーリーガーになるのが既定路線の凄腕ばかりよ。もしかすると厚木ハイスクール以上に、実力差を感じさせられるかもしれない」
「………」
いきなり突き刺さるような言葉を放つ涼子。ただ、南雲と同様彼女のそういう性格を彼らは既に受け入れつつある。しぐさこそ女性らしく優美だけれども、その気質は吾郎以上に峻烈。それが長らくアメリカの体格も気性も激しい野球少年たちに混じって戦い抜き、彼女を"
「でも恐れることはない。あなたたちはもう、その悔しさをバネにして前へ進む方法を知っているはずだもの。──頑張ってきて」
彼女にしては珍しい、抑制ぎみな言葉だった。大学入学の手続きが続く関係上、同行できないことを気にしているのだろうか。
だが心情はどうであれ、その言葉にはたしかな励ましが滲んでいた。素直にそれを受け止め、皆、頷いたのだった。
「そんなとこか?──始業式には全員揃って元気に登校してこいよ。以上、解散!」
*
「ゴロー、ちょっといい?」
制服に着替えての帰り際、吾郎にそう声をかけたのは他でもない涼子だった。何か話でもあるのかと立ち止まれば、「ちょっと遠回りして帰らない?」と誘われる。
「なんや下校デートかいな!?羨ましいやっちゃなー!」
大声で揶揄う三宅だが、涼子に「ええそうよ」とにっこり微笑まれると──当然のごとく目は笑っていない──、すごすごと引き下がるしかない。
「じゃあ吾郎くん、僕たち先に帰るけど……」
「お、おぉ。また明日な、寝坊だけには気をつけろよー!」
「誰が言ってんだ……」
帰っていくチームメイトたちを大手を振って見送ったあと──改めて、年上のガールフレンドに向き直る。
「お邪魔虫連中は行ったみたいだし、俺らも行くか?」
「
*
とっぷりと日の暮れた道を、並んで歩く。人通りはないではないがまばらで、彼らの行く手を阻むものもない。時折点滅する古びた電灯が、コンクリートの鈍色を遠慮がちに照らし出していた。
「戻ってきてみると、ニホンって小ぢんまりしてんなーなんて思ってたけどさ、」
「!ええ……」
「案外、あっという間に慣れちまうもんだよな。涼子ちゃん的にはどうよ?」
「そうね……私も慣れたかな。ストリートにも、ニホンのベースボールにも」
アメリカとは何もかも違うようで……少なくともひとつ、共通することはある。白球を追いかける少年たちの、きらきらとした真剣な瞳。それは日本であれアメリカであれ、いかな人種であれ、決して異なるものではない。
「ねえ、ゴロー」
「ンー?」
「向こうの仲間と、こっちの仲間──あなたは、どちらが大事?」
「な、なんだよ藪から棒に」
困り顔を浮かべる吾郎。もっと幼い頃は年上であることを悪用して、よく意地悪な質問をしてはこんな表情をさせたものだ。
暫し考え込む様子を見せた吾郎は、彼らしからぬ心細げな表情でぽつりと言った。
「……選べねえよ、そんなの……。あっちの連中だってずっと一緒にやってきた仲間だ。トシたちは……出会ってから一緒にいた時間は短ぇけど、俺のムチャな夢を、今じゃ一緒んなって追いかけてくれてる」
「じゃあ、アメリカに戻ってこいって言われたら?」
「………」
一瞬戸惑う様子を見せた吾郎だったが……ややあって、きっぱりと言った。
「戻らねえ。俺はもう決めてんだ、あいつらと一緒に日本一をめざすって」
それは夢島の皆と……誰よりも寿也と、約束をしたことだった。ひと月前の練習試合で、その道が果てしなく険しいことは思い知らされたけれども、気持ちは微塵も変わらない。
「……そう……。ほんと、一度決めたら絶対に曲げないんだから」
「まぁな。でも案外楽しいもんだぜ、あいつらにああだこうだ教えたり、くだらないハナシして駄弁ったり……。涼子ちゃんだって、そうだろ?」
「……うん」
不意に涼子が立ち止まった。
「さっきはあえて言わなかったけどね、」
「うん」
「……I'm sorry、一緒にアメリカへ行けなくて」
「涼子ちゃん……」
涼子のどこか言葉を選んでいるような、彼女らしからぬ物言いはやはりこれが原因だったか。合点が行った吾郎は、フッと笑みを浮かべた。
「そんなの、しょうがねーよ。涼子ちゃん大学のことで忙しいんだろ」
「……あなたたちが帰ってきてからも、今までみたいに毎日のようにコーチをすることはできないかも」
「それもしょうがねえって。……俺たち、アメリカでもっと強くなって帰ってくるから。お互い自分の場所で、自分が納得いくまでとことん頑張ろうぜ」
「ゴロー……」
街が完全に夜の装いとなった頃に、ふたりは駅までたどり着いた。吾郎は徒歩でこのまま帰るので、涼子とはここでお別れである。
「グッバイ涼子ちゃん。また四月に会おうぜ」
「……ゴロー、」
「ん?」
不意に涼子の形の良い唇が、吾郎の耳元に押し付けられた。
「うち……くる?」
「んな……っ」
涼子は今、独り暮らしだ。ボーイフレンドの身で夜に訪ねるのがどういう意味をもつかわからぬほど、吾郎は子どもではない。
しどろもどろになっていると、涼子がくすっと噴き出した。
「I'm joking(冗談よ)!……シーユー、ゴロー」
「あ、ああ……」
踵を返し、颯爽と去っていく後ろ姿。雌豹の通り名にふさわしい身のこなしを呆然と眺めながら、吾郎はぽつりと呟いた。
「トシゴロの男子相手にそりゃないぜ、涼子ちゃん……」
*
翌朝。まだ空が白みはじめて間もない午前五時。
「寿也、パスポートは持った?着替えは足りてる?皆とはぐれないようにね」
「大丈夫だよ、おばあちゃん」
「──寿也だってもうすぐ高校三年生なんだ、心配するのも程々にしときなさい」
と言いつつ、まだ朝方にもなっていない時間に目が覚めてしまい、夜空のもと庭いじりをしていた祖父である。寿也が半月も家を空けるなどというのは、引き取ってから初めてのことなのだ。
「おじいちゃん、おばあちゃん。僕、頑張ってくるよ」
「……ああ。しっかりやってこい!」
「気をつけるのよ」
そう言って送り出してくれる祖父母の存在が、心の底から有り難い。今は彼らが何より、大切な家族なのだ。
それでもチームメイトたち、唯一無二の相棒たる投手の比重が、寿也の中で大きくなりつつあるのも事実だった。
「──じゃあ、行ってきます!」
だからこそ、寿也には新たな夢ができた。彼らを甲子園に招待するという、ささやかながら壮大な夢が。
*
自宅から近いこともあって、寿也が学校にたどり着くまでには徒歩でも二十分とかからない。まだ薄暗く、人気のない集合場所のグラウンド。当然、自分が一番乗りかと思っていたのだが──
「あ、おはよう佐藤!」
早朝でも元気よく迎えてくれたのは、我らが主将だった。まだ冬の気配が色濃く残る寒空の下、ひとりで皆を待ち続ける心細さは想像するに余りある。寿也はあわてて彼のもとに駆け寄った。
「お、おはよう!早いね……国分くん電車だろ?始発動いてたの?」
「ゆうべ8時に寝たら、夜中に目が覚めちゃってさ。駅で始発を待って、それで来たんだ」
8時とは、なんとも気合が入っている。さすがは主将だと寿也は思った。
「不安もあるけど、すごく楽しみでさ。本田の前のチームメイト……アメリカの、すごいプレイヤーと戦える!僕ら、もっと強くなれるんだ」
ちいさな子どものように目を輝かせる国分。元々目が大きいので、余計に幼く見えてしまう。ただその純粋さが、同好会だった頃からチームを引っ張ってきたのだ。
それから程なくして、皆がひとり、またひとりと集まってくる。8人までが揃ったところで、約束の刻限が訪れたのだが──
「で、肝心の言い出しっぺが来ないと」
呆れ果てた様子で毒づく泉。皆の間に失笑が洩れるのはもう、当然としか言いようがなかった。
「こんな日まで寝坊しとんのかいな、エースは」
「フン、この調子ならオレが4番奪還する日も近そうだぜ!」
「それはないな……ん、噂をすれば」
全速力でグラウンドに駆け込んでくる人影。ちょうど昇ってきた朝日が挿し込んで、それが我らが大エースであることが明確になった。
「わ、悪ぃ悪ぃ!待たせたな皆の衆!」
「遅いよ、本田!」
「ゆうべ涼子ちゃんと一緒に帰ってから何しとったんや、ン〜?」
三宅の揶揄うような問いに、吾郎は思わず目を泳がせた。
「な、ななななんもしてねーよ……!え、えええ駅で別れたっつーの……!」
「えらい動揺してんじゃん」
「うわぁ……不純」
「い、いーんだよ俺のことは!それより急ごうぜ、のんびりしてっと飛行機乗り遅れちまう」
「誰が言ってんだ」
皆に呆れられつつも、彼には仲間を惹きつけ、引っ張っていく不思議な力があることは言うまでもない。だからこそ今回のアメリカ行きも、元はと言えば同好会で全国制覇をめざすことになったのも、皆が一致団結して受け入れているのだ。
「そうだね。──行こう!」
寿也が、国分が、先陣を切って走り出す。残る仲間たちも皆。
目的地は既に定まっている。海を渡るに等しい長く険しい隘路を、一心不乱に駆け抜けていくだけだ。
そんな彼らを励ますように、あたたかな朝日が地平を照らし出していた。