長期休暇明け特有の教師側生徒側ともにやや身の入らない初回授業も終わり、放課後を迎えた午後四時。
波が引くように生徒たちが去っていく中で、転入二日目の男も鞄を後ろ手にひっさげるという往年のスタイルで教室から出ていこうとしていた。
その後姿を密かに眺めるのは、昨日色々と"面倒"を起こされた野球同好会の面々だった。
「本田、今日は何も言ってこなかったね」
泉の呟きに、寺門が「そうだな」と首肯する。彼らとしては、国分から入会を拒否された吾郎が、次善策として自分たちになんらかのアプローチを試みてくるのではないかと予想していたのだ。しかし今日はすっかり借りてきた猫のようにおとなしかったというか、野球のやの字すら口には出さなかった。
(吾郎くんが、あれであきらめるとは思えないけど)
自身も荷物を整えつつ、寿也は思う。齢5歳にしてなかなかの強かさを見せて自分を引っ張り出した少年である。あるいはまだ、何か──
「……フフン」
そんな彼らは、三宅陽介が密かにほくそ笑んでいることに気づいていないのだった。
*
帰宅の途についたのは、野球同好会
ただ、道草をせずまっすぐに帰宅するかといえばそうではない。彼が向かったのは、学校から徒歩15分ほどの立地にあるバッティングセンターだった。既に顔馴染みとなっている店主が立ち上がって出迎えてくれる。
「おう国分くん、いらっしゃい。今日も精が出るねぇ」
「お世話になります。いちばん奥のマシーン、空いてますか?」
「もちろん空けてあるとも。──そうそう、その隣になんかお友だちが来てるよ」
友だち?国分は首を傾げた。児玉たちならついさっきまで一緒にいたし、B組の誰かだろうか。尤も泉と寿也は彼らの家庭事情からいって考えにくいので、そうなると寺門か三宅の二択しかないのだが。
国分はこのとき、第三の可能性について想像すらしていなかった。そしてそれを現実に突きつけられ、瞠目する羽目になる。
「ほ、本田っ!?」
「ん?──おー、誰かと思えば国分くんじゃ〜ん。こういうの日本語でなんつーんだっけ……キグウ?」
そんなことをのたまいつつ、鋭くバットを振るう吾郎。マシーンから飛んできた球は見事に捉えられ、次の瞬間には標的に叩きつけられていた。
「お〜、見ろよホームラン!あそこ当てるとなんか景品貰えんだってな!」
「………」
むやみに明るい吾郎の声を無視して、国分は隣のケージに入った。何度か素振りをしてから、硬貨を投入する。
「……おいおい、無視するこたぁねーんじゃねーの?スポーツマンとしてどうかと思うぜ、そういう態度」
「ッ、」
そう言われると頑なではいられない国分である。太眉の間に皺を寄せて、友人から揶揄されがちなどんぐり眼で精一杯吾郎を睨みつけた。
「うるさいな……!そっちこそ僕の友だち騙ったりして、どういうつもりだ、よっ!」
飛んできたボールめがけて、力いっぱいバットを振る。小気味よい音とともに白球が打ち上げられ、的に叩きつけられる。少し余計な力が入ってしまったかと、国分は歯噛みした。
「別に騙っちゃいねーよ。あのおっちゃん、制服見て俺が夢島のスチューデントだってわかったみたいで、国分のこと知ってっか聞かれたから知ってますって答えただけだよ」
「………」
吾郎がふたたび一打。このバッティングセンターにおける最大速度、140キロで打っているようだ。にもかかわらず軽々とミートし、ホームランの枠に命中させている。
「聞いたぜ。おまえ、毎日のようにここ通ってんだってな」
「……だからなんだよ」
負けじと140キロにセットする国分。昨日見た吾郎の球よりは圧倒的に遅いし、球威だってない。にもかかわらず、初撃は空振りに終わってしまった。
「いや……ただのんびり楽しみたいだけにしちゃ、随分頑張るじゃんって思っただけ、さっ!」
軽く流して、また一発。体格ではもちろんのこと、技術においても自分はこの男に圧倒的に劣っている。悔しい……けれど、相手は本場のシニアでエースを務めた男だ。彼がそうして少年野球の頂点に駆け登っていた頃、自分はどうしていたか。
「おまえに関係、ないっ!」
二撃目。今度はかろうじて冷静さを取り戻せたおかげか、バットに当てることはできた。尤もグラウンドなら平凡なフライに終わっていただろうが。
「関係ない、か。確かにそうかもな」
吾郎のほうは、安定した打撃ぶりが続いている。エースで四番──同好会どころか中堅、強豪クラスのチームであっても、今からその座をほしいままにできるだろうに。
「ならハッキリ言うぜ。──ほんとはおまえ、"勝つ野球"がやりてーんだろ?」
「……!」
国分は思わず吾郎の顔を見た。その深い琥珀色の瞳が、じっとこちらを見下ろしている。軽蔑でも苛立ちでもない、冷静に観察するような視線に、寒くもないのにぞくりと身体が震える。
「だけど周りに遠慮して、ほんとの気持ちを殺してる。違うか?」
「ッ、」
「──中学のとき、何があった?」
その言葉に国分が目を見開くのを認めて、三宅の話は少なくとも眉唾ではないのだと吾郎は知った。
『国分な、中坊のときは地元中学の主将だったらしいんや。でもあいつが主将になった年、大量に退部者が出て、地区大会一回戦でボロ負けやったらしいで』
『……なんか事件でも起こしたのか?』
『そんなら大会どころやないやろし、部内でなんかあったんちゃうかって。隣町の中学出身のヤツからの又聞きやけど、国分と他の部員連中が対立しとったんやて』
『対立って、なんで?』
『さぁそこまでは……。まぁ少なくとも、今の国分じゃありえへん話なんは確かやな』
「………」
国分が不意にバットを置いた。そのまま踵を返し、ケージから出ていく。一気に突きつけすぎたかと、吾郎は内心しまったと思ったのだが。
「……おまえの言うとおりだよ」
「!」
「僕は中学まで、真剣に野球やってた。……勝ちたい。全国に行きたいって、そう思って三年間頑張っていたんだ」
その努力とひたむきな性格が認められて、中学二年生の夏、国分は主将に抜擢された。万年地区大会止まりのチームを少しでも強くしようと、できることはなんでもやった。部員たちを叱咤激励し、盛り上げ、うまくやっているつもりだった。
なのに、
『……もういい加減にしてくれよ、国分』
『俺ら、おまえみたいに野球に全振りしてねーんだよ』
同志だと思っていたチームメイトの白けきった言葉と視線が、今この瞬間の現実であるかのように思い起こされる。
『おまえと野球するの……息苦しいよ』
突き刺さったその言葉は、まだ未熟な国分の心に癒えぬ傷痕を残していた。思い出すたび、じくじくと膿んで痛みを呼び起こす。
当時の国分には、だったらどうすればいいのか見当もつかなかった。──だから苦楽をともにしてきたと思っていたチームメイトの多くは彼を見限り、退部していった。残った部員たちも、誰ひとりとして国分に賛同してはくれなかった。
「その結果が、一回戦ボロ負け。僕があんな独り相撲をしていなければ、もう少しまともな結果になっただろう。退部していった皆とだって……悔しさとか、後々になれば、懐かしさを共有できたかもしれない。でも僕が、分不相応な欲を出したがために……中学野球の三年間を、嫌な思い出にさせてしまった……」
「……けどおまえは建て直したんだろ、うちのチームを」
「ッ、それは!!……それでもやりたかったんだよ、野球を……」
国分たちが入学した頃、野球同好会の命は風前の灯火だった。会員は当時の三年生五人しかおらず、まともに試合もできない状態だったのだ。中学で主将をやっていたとどこかで聞きつけた彼らに誘われる形で、国分はそこに仲間入りした。もう野球なんてやめようと思って部のない高校に入ったのだけれど、長らくグローブから離れた左手は寂しかった。結局国分は、どうしようもなく野球が好きだったのだ。
「……野球は9人いなきゃできない。先輩たちがいるうちは友だちなり相手チームなり助っ人を借りて試合もできるけど、僕ひとりじゃ到底手が足りない。だから必死に勧誘して、なんとか8人まで揃えて……」
「……そういや寿クンも言ってたな、そんなこと。でもおまえ、随分慕われてるみてーじゃん。昨日の練習、みんなすげぇ楽しそうにやってた」
「それは僕が、みんなの意見を尊重してやってきたからだよ……!おまえが言うように甲子園を目指すとなったら、そんなことは言ってられなくなる!僕はもう、チームがあんなふうに壊れるのは見たくないんだ……!」
「………」
「だから、おまえの夢に僕は付き合えない。付き合っちゃいけないんだ……」
「ごめん、本田」──訣別の言葉を告げて、国分は立ち去ろうとする。ほんの少しの、未練を断ち切るように。
しかし、
「壊さねえよ」
水を打ったような言葉が、国分の足をそこに縫い留めた。
「あいつらが望まねえことを、俺は絶対にしねえ」
弾かれたように振り向く。困惑と憤懣と……それらとは様相を異にする感情が、その瞳に宿っていて。
「ッ、いい加減にしろよ!まだそんなこと……!皆が望まないことはしないって、自分ひとりの力で甲子園に行くつもりか!?日本の野球を舐めるなよ!!」
「舐めちゃいねえし、自分ひとりの力でなんて思い上がったことを言うつもりもねえよ」
「だったら──」
「要するに、俺が全員をその気にさせりゃいいんだろ。……やってやるさ!ナインの気持ちを揃えらんねえようじゃ、エースピッチャーは務まりゃしねえんだからな」
吾郎の目に力が漲る。……同じだ、あのときと。この男が100マイルの弾丸をその手から放った瞬間、キャッチャーミット越しに確かに見たのだ。
その闘志に、ただただ国分は圧倒された。そして後悔の奥に押し込めていたはずの感情が、ふつふつと湧き上がってくるのを感じる。
「国分!おまえが創ったチームで、今度こそ夢かなえようぜ!!」
「──、」
肩を掴まれ、まっすぐに見つめられ。燃えさかる琥珀色の瞳が、国分の心を射抜いた。……そうだ、僕は。自分は、こういう男に出逢いたかったんだ。
国分は視線を落とした。肩に乗せられた手を受け入れたまま、ぽつりと呟く。
「……本当に皆を、説得できる?」
「!」
顔を上げた国分。その大きな瞳に浮かび出たものを認めて、吾郎は笑った。
「ああ……約束するよ」
「っ、言ったな!もう……後戻りできないんだからなっ!」
「へっ、俺はいつだって前にしか進まねーんだよ!」
夢島ナイン揃って、甲子園へ行く。その光景はもう、吾郎の頭の中に鮮明に描かれていて。
この日この瞬間、彼らは夢の舞台へのスタートラインに立ったのだ。