夏大三回戦がいよいよ翌日に迫っている。夢島野球部の次なる相手は古豪・鎌倉実業──通年の評価は二回戦の明煌大附属と同等かやや下、決して弱小ではないが優勝候補にはなりえない……と言ったところだが、今年はどうも様相が異なる。サインを必要としないくらい息の合った双子のバッテリー・北条兄弟を中心に、実力のあるメンバーが揃っている。加えて伝統的に情報を重視するチームだから、こちらのことは既に研究が進められているだろう。吾郎の速球も、思わぬ攻略の隙を見出されているかもしれない──などというのはやや悲観的な憶測だったが、それを抜きにしても1点勝負に持ち込まれるのは危うい。二回戦同様しっかり打って、またコールドゲームに持ち込むつもりでいなければ──ということで、徹底的なバッティング、走塁練習に時間を費やしているのが試合前最終日の現況であった。
集中しなければいけない。そんな小学生に行って聞かせるようなことは、大河にだってわかっていた。ただその"当たり前"に対して、あまりにも大きな気がかりができてしまったのだ。小野寺の……マネージャーのクラスを訪ねた、あの瞬間から。
──その子って、小野寺じゃなくて佐藤だよ?
(佐藤……)
かの女子生徒に確認した限り、小野寺和香と佐藤なる女子生徒が同一人物であることに間違いはない。ならばどちらかが偽りの名前だということもまた、覆しようのない事実で。
どちらが偽りかも、考えるまでもない。教室で偽名などが通用するはずもないからだ。小野寺が偽名で、佐藤が本名。
(佐藤先輩と、関係があるのか?)
勘繰ってしまうのはそこだった。佐藤といえば日本一多い名字である──大河のクラスにだって二名も佐藤姓の生徒がいるくらいだ──、偶然の一致といえばそれまでかもしれない。
だが言われてみれば、ふたりは何処となく顔立ちが似ているのだ。そして、和香が時折垣間見せる、寿也に対する焦がれるような視線。皆それは恋愛感情によるものだと思っているし、大河もそうだった。でも……そうでないとしたら?
「おい、大河」
「!」
ぶっきらぼうに呼びかけられてはっと我に返る。余分な思考に囚われていたにしては素早い反応だと自画自賛したいところだったが、勉学は不得意な割に色々と敏い剛腕投手には通用しなかったようだ。
「ボーっとしてんなよ。明日はオマエ控えだけど、代打なり守備交代なりで出番はあるんだからな」
「……わーってますよ」
「何か悩みでもあるのかい?」
吾郎とは対照的に、穏やかな声音で尋ねてくる寿也。「そんなんじゃないっす」と濁しつつ、さりげなく観察する。
──やはり、似ている。
ひとりで悩んでいたって、解決するような問題ではない。芽生えた疑念はその根から断ち切るしかないのだ。大河はそれを決心した。
事情を知っていそうな大人がすぐ傍にいる。ここでその事実に思い至らないところが、彼がまだまだ子どもでしかないことを証明していた。
*
練習後、話がある。
大河はそう言って、和香を薄暗い教室へと伴った。とうに生徒らの姿はなく、長く伸びた影が時間の経過とともに闇へ溶け込んでゆく。白昼の賑わいが性質の悪い夢だったかのような、逢魔が刻の象徴のような光景。和香が身を竦め、警戒するようなそぶりを見せるのも無理からぬことだろう──そう思った。
「言っとくけど、告白とかじゃないから」
先んじてそう告げると、肩の力がわずかに抜けたようだった。安堵にも落胆にも感じられる反応。健全な高校生男子としてはやきもきするところだったが、今はそれどころでない。
「昨日さ、おまえのクラスに行ったんだ」
「!」
そのひと言だけで、ふたたび和香は身を硬くしたようだった。
「小野寺いるかっておまえのクラスメイトに聞いたら、そんな人は知らないって言われた。野球部のマネージャーだって伝えたら、こう言われたよ。"それ、佐藤さんだよ"──って」
「……!」
「あんた、ホントは佐藤美穂って言うんだってな。……佐藤先輩と、どういう関係?」
無関係であるはずがない。大河の疑念は既に確信へと変わりつつあった。──寿也は今、なんらかの事情で祖父母と暮らしている。いつか聞いた事実を思い出したことも、それを後押ししていた。
「私……わたし、は」
「………」
和香……いや、美穂はいっこうに続きを言おうとしない。薄暗い床の木目に同化しつつある影を見下ろしながら、大河は無意識に貧乏ゆすりを繰り返していた。呼び出しておいて何だと自分でも思うが、明日は控えとはいえ公式戦なのだ。早く家に帰って風呂に入って、一秒でも長く睡眠をとりたい。でもそのためには偶然知ってしまった真実が障害となっていて、だから全てを暴いてしまいたくて──
──ぽた、ぽたり。
「……!?」
その影の上に零れる水滴。ぎょっと顔を上げると、予感の通りそれは美穂の眦から流れ出しているもので。
「……っ、ぅ……う……っ」
「な、なんだよ。泣くなよ、おい……!」
女性の涙というのは、作為的であろうとなかろうと最大の武器になりうる。忽ち守勢に追い込まれた大河は、彼女を泣き止ませるべく右往左往する羽目になった。
*
「……落ち着いた?」
「う、うん……」
結局、少女の涙が引っ込むまでには十分以上もの時間を要した。練習以上に気力と体力をもっていかれてしまったと、内心辟易する。こんなことなら彼女のクラスを訪ねるべきではなかった。あるいはもっと早く、夏大より前に知っておくべきだったかもしれない。そうすればもっと心の余裕をもって行動できた……だろうか?それさえも自信がなくなってきた。
「ごめんね……動揺しちゃって……」
「……まあ、詰めすぎたのはオレも悪かったけど」一応謝り返しつつ、「おまえ……佐藤先輩の妹ってことで、いいの?」
「………」
沈黙……しかしその頸が、ほんのわずか縦に振られたのがわかった。あぁやっぱりと、大河は天を仰ぐ。尤もそこには装飾のひとつもない無機質な蛍光灯が列をなしているだけだが。
「急にね、引っ越すことになったの」
その言葉自体、あまりに性急な響きをもつもので。ただここまでの経緯、それに美穂自身の口ぶりからして、それが過去を語るものであることはすぐにわかった。
「その前から、お母さんとお父さんが夜中に喧嘩してるのには気づいてた。私、子どもだったから、理由は全然わからなくて……ただ気づかないフリしてて、そうしたら、お兄ちゃんが修学旅行で留守にしてる間に、突然──」
──ねえパパ、ママ!引っ越しってどういうこと!?お兄ちゃんどうするの?それに
幼いなりの不審と焦燥で、当時9歳だった美穂は懸命に抵抗した。しかし見たことのないような両親の酷薄な言動と表情を前に、世の中の昏い部分など何も知らない少女に彼らを翻意させる力などなくて。
──お別れよ。お友だちとも……お兄ちゃんとも。
母の機械のような、冷たく無機質な返答が今でも耳に残っている。
それが父の経営していた会社が破綻したことによる債権者からの逃亡──いわゆる夜逃げと言うものだったと知るのは、ずっと後のことになる。
「私、ずっと後悔してた。あの日、どうしてお兄ちゃんを置いていってしまったんだろう。なんで私だけでも、お兄ちゃんを待っていてあげなかったんだろう……って」
「そんなの、」
そんなの、仕方ないことじゃないか。自分ごとと仮想してみても、9歳では両親の言うがままに従うしかなかっただろう。尤も気の強い姉と生意気な弟という平穏無事に暮らせるはずのない姉弟だったから、その時点ではいなくなって清々するくらいに捉えたかもしれないが。
いずれにせよ大河は、それ以上を続けられなかった。おまえに罪はない、今さら赤の他人がそう言い募ったところで、彼女の6年間の苦しみを和らげることなどできはしないのだ。
「……夢島に来たのは?偶然じゃ、ないよな」
「……お母さんがお父さんと離婚して、去年、こっちに戻ってきたの。お母さん、おじいちゃん達と連絡とってたから、それで、お兄ちゃんのことも……」
「……そう」
兄にもう一度会いたいと、ただそれだけを願った。けれど自分から名乗りを上げる勇気などなくて、だから同じ高校に入って、偽名を使ってまで兄に近づいた。もしかしたら向こうから気づいてくれるかもしれないなどという、虫の良い期待を胸に抱いて。
けれど野球部のマネージャーという近しい位置まで手に入れて三ヶ月余、兄は怪しむそぶりさえ見せてくれない。6年という歳月は、まだ幼かった兄妹にとってあまりに大きな隔たりだったのだ。
「清水くん、お願い!」
「!?」
いきなり縋りつかれて困惑する。しかし続いて彼女が発した言葉には、さらに唖然とさせられた。
「私のこと、お兄ちゃんには黙っててほしいの……!」
「な……!?」
「お兄ちゃん、私のことなんか思い出したくもないのかもしれない……!私が美穂だって知ったら、なんて言われるか……だから……!」
「っ、……だったらおまえ、一生そうやって佐藤先輩に会わないつもりか?」
「!それは……でも……」
目を潤ませながら、美穂は震えている。兄に拒絶されることも、さりとてこのまま知られずにいることも……辛いに決まっているじゃないか、そんなの。
「オレ、ふつーに親も姉貴もいるし、おまえの気持ちわかるなんて言えねーけどさ……。でも、お前ら兄妹に何の罪もないのに引き離されて、名乗り出ることもできずに一生そのままなんて、あっていいわけねーだろ!……おかしいだろ、そんなの、絶対……」
「──言っちゃえよ」
「え……」
「言っちゃえよ、先輩に。"わたしは美穂だ"って……明日にでも」
「明日って……試合だよ?」
「そうやって理由付けて先延ばしにしてたら、あっという間に引退しちまうぞ、先輩」
引退しても半年は同じ校舎にはいる。いるけれど、フロアが異なる以上ふつうに生活していたら顔を見る機会さえめったにない。……毎日部活で行動をともにしている間にできなかったことが、そうなってからできるわけがないではないか。
「オレ……そうなってからおまえが後悔すんの、見たくないよ」
「清水、くん……」
──どうしてそんな、優しくしてくれるの?
そう問いかけようとしたときだった。
「あれ、まだ誰か残ってるの?」
「!!」
ふたりだけの教室に、唐突に響く聞き慣れた声。
「佐藤、先輩……」
(お兄ちゃん……)
決断の