教室と廊下の、ちょうど境界線。──暗闇を背に、美穂の生き別れの兄が立っていた。
「佐藤、先輩……なんで……」
帰ったはずじゃ?そう尋ねようとするより先に、戸の隙間からもうひとつ顔が覗いた。
「トシ、一年の教室なんて覗いてどうし……って、大河と小野寺?」
「本田先輩……」
「吾郎くん、日誌は出してきたの?」
「おぅよパーフェクツ!サンキューなぁトシク〜ン」
「あはは……そろそろ一人で書けるようになろうね」
ふたりのやりとりを聞いて、大河たちも合点が行った。きょうは吾郎が部の日誌を書く当番だった。そういうペンを動かす作業全般がとことん苦手な吾郎が、毎度のごとく寿也に手伝わせたというところか。そしてそれを職員室まで持ってきたところで、大河たちに気づいた──
「つーかこんな誰もいねえ教室で何し……!ははーんそういうことか……」
「?吾郎くん?」
首を傾げる寿也に対して、吾郎はニヤニヤしながら「ばっかオメー、男女が人気のない教室ですることなんざひとつしかねーだろ?察してやれよ」などと嘯いている。その辺りは日米問わず変わらない常識なのか。それはなんでもいいが、面倒なことになったと大河は内心舌打ちしたくなった。
「……そんなんじゃねーって……」
「隠さなくてもいいっつの!あ、それとももうフラれちま──むぐっ」
「デリカシーないにも程があるよ吾郎くん……。ご、ごめんねふたりとも。僕ら、先帰るから!」
吾郎の口を押さえつけたまま、引きずるように連れ出そうとする寿也。筋肉量ではまだ水をあけられているはずなのだが、あれだけ本塁打を打っているポイントゲッターなだけはある。
それはともかくと、大河はちらりと美穂に目配せをした。今だ、言ってしまえと。未だためらいの残る彼女の、背中を押すように。
──美穂自身、もう限界だった。三ヶ月、毎日のように傍でその姿を見続けてきた。真剣に練習や試合に取り組む姿も。仲間と楽しそうに談笑する姿も。その笑顔が自分に向けられるたびに朧げな希望が生まれるけれども、その口からは「小野寺さん」と。希望と渇望は似て非なるものだった。
「……ぃ、ちゃん……」
か細い声。しかしそれでは、こちらに背を向けている寿也には到底届かない。いかないで、いかないで──お兄ちゃん。
お兄ちゃん。
「──お兄、ちゃん!!」
廊下にまで響き渡る声に、吾郎も寿也も足を止めた。──言った、言ってしまった。もう止まれない、戻れない。
「お、オニイチャン?」
振り返った吾郎の表情は困惑に染まっていた。無理もない。しかし今は、大河も美穂も彼に構っている精神的余裕はなかった。
「寿也お兄ちゃん……わた、私、美穂です!和香じゃなくて……っ。こんなときにごめんなさい……!でも、でも、ずっと言いたくて……っ」
調った言葉など発せようはずもなく、ただ必死に訴えかける。寿也は……どうしてか、振り返らない。それがますます、彼女の焦燥を加速させる。
「お、おいどーいうことだよ?美穂って、まさか……」
「……妹っす、佐藤先輩の。幼なじみなら、先輩も知ってんでしょ」
「妹いるっつーのは知ってたけど……小野寺が?」
小野寺和香が、佐藤美穂。いきなりで受け入れがたいのは当然だろう。大河だって、昨日はまったく同じ気持ちだったのだから。
では当事者の一方たる、寿也はどうか。彼は振り返ることもしないまま、そこに立ち尽くしている。隠されたその端正な顔立ちには、いったいどんな表情が浮かんでいるのか。時間とともに、不安ばかりが膨らんでいく。
「……お兄、ちゃん?」
沈黙に耐えきれなくなった美穂がもう一度そう呼びかけた、次の瞬間だった。
「……はは、ははは……」
突然の笑い声。か細く機械的な寿也のそれに、三人とも困惑するしかない。
「……妹?」
笑い声を収めた寿也が呟いたのは、今さらとも言えるような単語で。その意味をようやく、認識したかのようで。
壊れたブリキ人形のように、寿也は首だけをこちらに傾けた。──暗闇の中に、彼の翠がかった瞳が爛々と輝いている。それは、尋常な光ではなかった。
「悪い冗談は、やめてくれないかな」
「……!」
「じょ、冗談なんかじゃ……」
妹だと信じてもらえなかったのだと思い、美穂はそう反駁しようとする。
しかし次に最愛の兄から発せられたのは、おおよそ信じがたい言葉だった。
「僕には、妹なんていないんだけど」
「え──」
「!?」
あまりにも昏く冷たい言葉、瞳。それらは美穂に向けられているようで、あらぬ方向へ投げかけられていて。しかしこのときは誰も、その事実に気づくことはなかった。
そのまま立ち去ろうと踏み出す女房役を、「おいトシ!」と声をあげる吾郎。いくらなんでもその言い方はないだろう、と。
しかしそれを押しのけるようにして、大河が彼に掴みかかった。
「あんたそりゃねーだろ!おのでっ……あんたの妹はずっとあんたに会いたがってたんだぞ!!あんたも辛かったのはわかるけど、だからってそんな、そんなの……!」
震える手のひら。……誰かのためにこれほどまでに怒りを表したのは、16年間の人生でも初めてのことで。
(大河……)
(清水くん……)
吾郎も美穂も、寿也が発した言葉と同じくらいその姿に衝撃を受けていた。あの皮肉屋の大河が、こんなにも。
しかし状況は激しく変転する。ひとつの物事への感傷を、一瞬たりとも許さないほどに。
「……ぁ、は、は、……!」
「……!?」
途切れ途切れに発せられる、笑い声。それが少しずつ苦しげな喘ぎへと変わっていく。
──そして寿也は、胸を押さえてその場に膝をついた。
「先輩!?」
「寿也っ!?」
呼びかけに返事はなかった。見開かれたその目から光が消えていく。尋常ならざる兄の姿に、美穂はただ立ち尽くすことしかできなかった。
*
卒倒した寿也は近くの総合病院へと運び込まれた。吾郎と大河、教師として通報した南雲が付き添う。美穂は……その混乱の中、いつの間にか姿を消していた。自らのカミングアウトがおよそ最悪の結果を齎してしまった現実は、到底堪えられるものではなかったのだろう。無理もない。
念のため検査も行われたが、肉体に異常はみられないというのが主治医の診断だった。精神に突発的かつ過大な負担がかかったことで、一時的な過呼吸と意識喪失を引き起こしたのだろう、と。
それを聞く以外に、吾郎たちにできることは何もない。寿也の祖父母の到着を待たず、南雲が珍しくしっかりとした口調で「今日はもう帰れ」と命じてきた。寿也は心配だが、明日のこともある。今宵のことが影響して敗北、などということがあったら、彼は永遠に気に病むだろう。おそらく、美穂も。
──寿也は、明日の試合には出場できない。
それはもはや確定事項として、夢島ナインに突きつけられていた。
*
帰れ、と命じられた高校球児たちだが、寿也というチームの支柱のひとつを失った以上は額面通りに帰宅するわけにはいかない。国分と涼子、ふたりに連絡して事情を話し、適当なファミレスで合流する。当然彼らも、揃って信じられないと言いたげな表情を浮かべていた。
「本当なの?小野寺さんが、佐藤の妹だなんて……」
「俺だってまだ飲み込めてねぇよ……。でも、トシに妹がいるのは事実だから」
尤も一緒にキャッチボールをして遊んでいた頃、そう聞いたことがあるというだけのことで。その頃顔を合わせていたら、気づくことができただろうか──そんなふうに一瞬考えて、吾郎は自嘲した。実兄である寿也に悟れなかったものを、どうして赤の他人にできようか。
「それで、和香ちゃ……美穂ちゃんは?」
「……今んとこ、電話しても繋がんねえ。ちゃんと帰ってりゃいいけど」
「ショック、だったんだろうな……当たり前だけど」
国分にも兄がいる。男同士なのでお互いべたべたする仲ではないが、それでも物心ついた頃から一緒に育ってきたことによる親愛の情、そして絆と呼べるものがあると信じている。美穂と同じ立場になったら、やはり立ち直れはしないだろう。
「……すいませんでした、オレ……」
皆の視線が、大河に集中する。膝の上に置かれたままの拳が、ひどく震えていた。
「オレがあいつを焚きつけたりしなけりゃ、こんなことには……」
「……大河、」
「………」
確かに、重要な試合の前日に──という思いが、涼子の中にはあった。だが、誰がそれを責められようか。兄と引き裂かれた妹の告白に、選ぶべき時など存在するはずがない。
「おまえは間違ってねーよ、大河」
そう言って吾郎は、大河の頭をわしゃわしゃと撫でた。
「っ、ちょ……」
「おまえが何も言わなかったら、まじで名乗り出ないまま終わってたかもしんねーからな。いいことしたんだよ、おまえ」
「っ、でも先輩、あんなこと言って……」
「いきなりでびっくりしただけさ。妹のことまで忌み嫌うような奴じゃねーよ、寿也は」
「………」
寿也の人柄はわかっている。でもそうと断言できるほどの自信は、大河にはなくて──彼は吾郎のこの性格に、改めて尊敬と羨望を覚えた。
「あいつらのためにもまず考えなきゃなんねーのは、明日のことだ」
「!」
そのために、主将とコーチャーにはわざわざ集まってもらったのだ。
「佐藤くんが抜けた穴は、はっきり言って埋めようがないわ」
「!」
容赦なく真実を突きつける涼子の言葉に、せっかく浮き上がりかけた大河の心はふたたび奈落へと突き落とされる。
「埋めようがないって……じゃあ、どうするんすか……?」
「……ピッチャーを代えるしかないよ」口惜しげに、国分。「僕じゃ、本田の球は受け止めきれないから……」
捕れない、わけではない。しかしそれで一度手首を負傷しているのだ。今度また試合中に同じことがあったら、棄権せざるをえなくなる。──夏が、終る。
「……児玉か……」
まずその名が挙がるのは当然のことだった。彼は
それと同時に、四人が四人とも渋い表情を浮かべるのも無理からぬことだった。児玉も決して
「実力は置いておくにしても……児玉くんを登板させるのはリスクが大きすぎるわ。鎌倉実業なら、一回戦のデータを入手していてもおかしくないもの」
「確かに……。研究されてるのは覚悟の上だけど──」
研究されていない──相手にとっての隠し玉。吾郎が登板できない今、そんな存在になりえるとしたら。
す、と、大河が遠慮がちに手を挙げた。
「……オレ、やります」
「!……本当に?」
大河、という選択肢は確かにあった。児玉がダメとなると残るは寺門だが、彼の一塁手としての手堅い守備は貴重だ。そこを動かすとなると、野手陣を玉突きで入れ替えることになってしまう──それは避けたかった。
「実力は児玉先輩とどっこいですけど、タイプは全然違いますし、序盤やり過ごすくらいならなんとか。……それに、やっぱりオレにも責任がありますから」
「責任、ね。投げるだけじゃそれは果たせねえのは、わかってんな?」
「……っす」
か細い声だったけれど……大河は、はっきりと頷いた。悲愴感はある。しかしそれ以上に、戦う男の表情だ。任せても良い──吾郎が目配せすると、国分も涼子も頷いた。どのみち登板経験があるのは、リトルの一時期という遠い過去の泉を除けば彼しかいないのだ。
ただ、
「っし。なら、俺がおまえの球を捕ってやる」
「えっ?」
「本田、それって……」
「キャッチャー、俺がやるって言ってんだ」
そう告げて、吾郎は不敵に笑った。